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第一話・焔 第五章・3


 春樹は学習机と鞄、引き出しをくまなく見て、長いため息をついた。昨日持ち帰った学習塾のプリントに、卒業した分数問題が載っている。
 塾は平屋の民家を改装したところだ。ひとりの講師が生徒全員を受け持つシステムになっている。夏休み終盤である昨日は、塾に出入りする生徒が多かった。
 宿題を急ピッチで仕上げる者のそばでは、宿題が出ない学校の生徒が問題集に悪戦苦闘し、長い休みで生活態度が悪くなった者は、講師から叱られていた。靴箱と玄関に収まらない靴が廊下にあふれるくらいだった。
 講師か浪人生がコピーしてくれるプリント教材も自分で用意しなくてはならず、後ろにつかえる生徒からせっつかれて焦った春樹は、間違ったものをコピーしてしまったのだ。
「困ったな……どうしよう」
 学校の宿題は数日前に終えていた。授業やテストの復習も済んでいる。テレビは極力避けていた。西の顔が出ないかと思い、見始めると消せなくなるからだ。かといって、何もしないのは時間がよどむようで耐え難かった。
 まだ午後になっていない。今から塾に行ってプリントを作りなおそう。
 春樹は私服に着替え、三十度を超す夏の戸外へ踏み出した。








 塾は今日もごった返していたが、一浪中の生徒が手伝ってくれたので、的を絞ったプリントを用意できた。
 バスに乗って間もなく携帯電話が短く震えた。新田からのメールだった。

 『お前がくれた定期入れ、使いやすくてきれいだ。ありがとう。』

 補習が終わって塾か予備校に向かっているのだろう。移動のあいだにくれるメールを押し迫る愛情だとは思わない。ありがとう、の部分をそっと撫でる。
 誰かが降車ボタンを押し、軽い音色がした。前方に矢田がいる総合病院が見える。
 電話機を閉じる前に着信履歴を確かめた。矢田に携帯番号を教えてから、頻繁に履歴を見ている。どこから電話してきてもいいように、公衆電話からの電話でもつながるよう、設定しなおしていた。今回も知っている番号しかない。
 矢田の経済状態が気になる。矢田は病室で自力で歩いていた。顔をしかめてもどこにもつかまらず、ソファに移動していた。見えないところはわからないけれど、二週間経ったのだ。見舞ったときより傷が悪化しているとは考えにくい。

 『うるせえな! 社に誠意やら同情やらがあるなら、もっと』

 もっと欲しいもの。解雇が近い男娼に不可欠なものは手当、金銭だ。
 バスが病院の前で停まった。空にはぎらつく太陽があり、下からは靴底が焼けそうなアスファルトの熱が襲う。
 あまりの暑さにたじろいだ春樹は、同じバス停で降りたひとりの男に気づかないまま、病院に向かった。








「いない? 東病棟……号室の、矢田健介さんですよ?」
「ええ、いらっしゃらないですね。もう一度問い合わせましょうか」
 入院病棟の一階には夜間通用口を兼ねた受付がある。面会できる時間帯であっても、見舞いにきたら受付で台帳に記入して、面会証を受け取る決まりになっていた。警備会社の制服を着た初老の男が眼鏡のブリッジを上げる。
「問い合わせますか?」
「い、いえ。いいです」
 退院したのかと訊けば波風が立ちそうだ。春樹は通用口に向かった。
 深入りをよく思わない社が、矢田が退院しても春樹に知らせないようにしたのかもしれない。第一、矢田が春樹の携帯電話の番号を捨てないという保証はどこにもないのだ。
 通用口の自動ドアが開く。考え事をしていた春樹は、ドアの向こうにいた男とぶつかりそうになった。逆光で顔がよくわからない。謝ろうとする春樹を男が制する。
「丹羽春樹くん、だよね。……校の」
 廊下の奥から子どもの声がした。兄弟と思しき男の子がふたり、競って駆け抜けていく。
 ひとりの子どもの肘が春樹の腕に当たりそうになる。よけそこなった春樹は、逆光の男に抱きとめられた。
「ごめんなさ──」
 男がジャケットの内から出したスナップ写真を見て、春樹の言葉が途切れた。
 居酒屋や小料理屋が連なる路地に、ひとりの青年がいる。横顔に近い、斜め向きの顔だ。
 茶色の短髪に痩せた顔、感情のない目。

 写真に写っている青年は井ノ上だった。

「見覚えあり、か。つけてきた甲斐があった」
 沈黙を後悔しても遅い。春樹は取り繕うより、逃げる道を選んだ。
「すみません。通してください」
 聞こえないはずがないのに、男は一歩も下がらない。子どもを追う母親がいぶかる顔をしても、どこうとしない。
 行く手を阻む男に、春樹のなかで警鐘が鳴った。
「ぶつかったことは謝ります。ごめんなさい。急いでますから」
「新田修一、といったかな」
 男を押しのけて外に出た春樹が立ちどまる。
「模範的な生徒だそうで。きみとはずいぶん、仲がいいようだね」
 睨まないよう注意して男を見た。今は自分が太陽を背にしているので逆光ではなくなり、男の容姿がわかる。
 凡庸な外見だ。大多数の会社員が着るようなスーツを着ている。三十……違う、四十歳前後だろうか。中肉中背で、顔にもこれといった特徴はない。三白眼気味の目も眼光鋭くはなく、教師か役所で働く人に多そうなタイプだった。
「立ち話もなんだ。移ろうか」
 男は春樹がついてくるか確認もせず歩いていく。
 逃げようと思えば逃げられる。しかし、男は春樹をつけてきたと言っていた。春樹が通う学校も、新田も知られている。出方を誤ればよくないことが起こるのは想像に難くない。
 春樹は押し黙り、男の短い影から目を離さないようにして続いた。


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