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第一話・焔 第五章・3


 病院と同じ通りにあるファミリーレストランに入った。
 男は喫煙席を希望した。ケチャップを付けたフライドポテトをむしゃむしゃ食べ、炭酸飲料を飲んで、げっぷをした。
「食べないの? あ、飯がいいなら遠慮しないで」
 言い終えないうちに煙草を咥えて火をつける。鼻からも煙を吐きながら、フライドポテトに手を伸ばす。
 いつもこんな食べ方をしているのだろうか。これで食欲をわかせろというのが無理な話だ。
「お腹減ってませんから。お話があるんじゃないですか」
 男がケチャップと油で汚れた指を舐める。耳障りな音をたてるうえに、喫煙をやめない。隣席の男女も眉をひそめる。
 紙のおしぼりで指を拭いた男は、もう一度げっぷをし、微笑を浮かべた。
「自己紹介、しないとね」
 札入れに似たものが縦に開かれる。警察手帳だった。
「警視庁……署の小谷(こたに)です」
 手帳の上半分には、目の前の男が制服を着た写真がある。写真の下には巡査部長とあり、小谷政巳というフルネームが見えた。ほかにも文字列があるが、人目があるため吟味などできない。下の部分にはまるバッジも、テレビドラマで見るものより、輝きが鈍いという程度だ。手帳が閉じられる。
「お疑いなら問い合わせてもらってかまわない。名刺を渡そうか」
「結構です」
「そう? じゃあ、本題」
 微笑みを崩さない小谷が、春樹の前に井ノ上の写真を置いた。
「八月、五日。さっきの病院で、きみは、この人物と、会っていたよね」
 相手は警察だ。変な嘘をつけば火種が増える。新田に関係すること以外、素直に答えるほうが得策に思えた。
「会ったっていうか、この人のオートバイと接触したんです。暑くてぼうっとしてた僕がいきなり車の出入り口の前に出てしまって。向こうは手で押してただけだし、痛くなかったからどこにも届けてません」
 短くなった煙草が揉み消される。執拗に押し付けるうちに、小谷の三白眼が尋常でない光を帯びてきた。
「そりゃあ届けられんよなあ。ウリがバレちまう」
 心臓が全身に冷水を送る。小谷は二本目の煙草に火をつけた。深く吸い、白い煙を吹きかけてくる。
(仕事のことは考えるな。しくじるな)
 春樹は咳き込み、身近に喫煙者がいない純朴な高校生を装った。小谷が軽く頭を下げる。
「失敬。そっち方面は畑違いだからご心配なく。ところで新田くんのことだけど」
 小谷が煙草を灰皿に置き、コップの氷を口に入れた。噛み砕く音に苛立ちを覚え、間を置かれて不安が募った。隣の客が席を離れるところでなければ、声を荒げてしまったかもしれない。小谷は氷を飲み、困ったように笑った。
「いや、わかるよ。普通は異性が相手だけど、年ごろだ。好きになってホテルに行きたくなる気持ち。で、きみはともかく新田くんは緊張してたわけだ。そんなときに……こんな人相のやつと揉めたら、嫌だよねえ」
 井ノ上の横に置かれた写真を見て、春樹は怯えた表情をしてみせた。
 同じ路地で撮ったのだろう、井ノ上の写真にもある居酒屋の看板がぼやけて見える。
 ごみごみした通りをバックに、開襟シャツ姿で肩をいからせているのは、もうこの世にいない西勝成だった。
「この男が死んだことは知ってるかな」
「……ニュースで見ました」
 動悸は病的なまでに激しくなるものの、頭の芯は醒めていく。しくじるなという命令だけに従った。
「虫けらの糞みたいなやつでも、死ねば仏さんだ。かわいそうになあ」
 小谷の口調からは哀悼が感じられない。公僕がもつべき公正さも伝わってこない。
 何というか、社会の大枠から外れている。
「新田くんの喧嘩については、俺じゃない連中が行くかな。きみのとこにもお邪魔すると思うけど、口裏を合わせとけば大丈夫」
 小谷はフライドポテトを頬張り、井ノ上の写真をつまみ上げた。
 咀嚼した食べものが喉を通る様が、蛇の腹を思わせる。
「こいつは井ノ上直也といってね。生きていてはいけないやつの、忠犬なんだよ」
 喉の動きを凝視していた春樹が居住まいを正すと、小谷と目が合った。
 三白眼が据わっている。じっと春樹を見ながら、写真の上端を両手で持った。
「俺はこいつらがこうなるまで──あきらめるつもりはない」
 恐ろしく低い、抑揚のない声がした。写真が真っ二つに破られる。
「急いでるのにすまなかったね。それじゃ」
 煙草を消してレシートを持った小谷が立ち上がる。小谷が見えなくなってから、春樹は西と井ノ上の写真をハンカチで包んだ。ウエイトレスの目を盗んで鞄に入れる。
 人々を滅入らせる太陽の下に出ても、冷たい汗しか流れなかった。


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