Cufflinks
第一話・焔 第五章・3
陽射しから逃れるため、線路の高架下に駆け込んだ。電車の警笛と走行音がむき出しのコンクリートに反響し、春樹は耳をふさいだ。錆が流れた赤茶色の跡が何本も残る、湿った壁にもたれる。嘘のようにひんやりしていた。
汗で貼り付いていたシャツが冷えていく。動悸はおさまりそうになかった。ファミリーレストランを出てから三十分以上歩いたので無理もない。
「ここ……どこなんだろ……」
小谷は西の死を問題視していなさそうだった。春樹の売春に関しては、端から興味がないといった様子だった。捜査に使うものだろうに写真を持ち帰らず、井ノ上の写真に至っては、破り捨てるという暴挙に出た。
何より新田への聴取を思うと、春樹は何も考えられなくなり、バス停を通り過ぎてしまった。引き返したらバスが走り去ったあとで、じっとしているのも嫌だから無計画に歩き始めたのだ。結果、知らない土地に出た。
線路沿いに行けば在来線の駅に着くはずだ。とりあえず高架下から出ようと壁から離れる。
あと一歩で歩道というところで、違和感を覚えた。
背後から靴の音が聞こえる。
邪魔になると思い、コンクリート側に身を寄せた。簡単に追い抜かれると考えた。しかし靴音はスピードを上げない。
春樹が履くスニーカーと違い、背後から聞こえるのは革靴の音だ。
小谷はたしか、革靴を履いていた。
速く歩いてみる。自分ではない足音も速くなる。急にとまると後ろもとまる。
高架から出ると人混みに紛れて極端に遅く歩いてみた。雑多な音のなかで、ある音だけが春樹のペースを真似ていた。
『万が一つけられたら、大きな声で歌でも歌えばいい』
銀座で塔崎に跡をつけられた際、高岡から教わった。春樹は両手を握りしめて深呼吸した。
腹を決め、往来のまんなかでコマーシャルソングを歌った。
歌っているのか叫んでいるのか微妙だが、今はそれどころではない。すれ違う人が目を丸くしていく。買い物袋を持つ主婦や、夏休みを満喫する子どもたちの視線が突き刺さる。
もっと人目のあるところに行かなくては。より多く衆目を集めれば、追われにくくなるはずだ。
サビを繰り返し、別の曲を歌った。さらに違う歌に移ったと同時に、無遠慮な笑い声がした。
振り返った先にいたのは、ルックス抜群な長身の男だった。
「高岡さん……!」
ポロシャツが覆う腹を片手で押さえている。もう一方の手はガードレールについていた。大声で歌っていた少年と腹を抱えてげらげら笑う男の周りを、人々が避けて通る。高岡の肩越しに見ても、小谷らしき人影はない。
膝が脱力した。二の腕を高岡につかまれ、街路樹に寄りかからされた。オー何とかがほのかに香り、春樹は一瞬目を閉じる。めまいでも起こしたと思ったのか、高岡が笑みの消えない顔で春樹のひたいに触れる。
「熱唱していたな。音楽の宿題でも出たのか」
「しゅ、宿題じゃありません」
「それもそうか。最初の曲から流行りのものだったからな」
高岡は春樹から手を離し、横を向いて笑った。最初の歌から聞いていたのなら、小谷がつけてきた可能性は低くなる。小谷がいたとしても、高岡もそばにいたわけだ。張り詰めていた糸が切れた。
「刑事さんじゃ……なかった」
喉の奥で笑っていた高岡が、真顔で春樹を見る。
「刑事と言ったか。どういうことだ」
「な、なんとなく、そんな気がしただけです。高岡さん、お仕事なんじゃ」
言ったそばからしまったと思う。高岡はネイビーのポロシャツとチノパンという服装だ。キザな調教師が通勤する格好には見えない。
辺りをうかがう高岡が尻ポケットに手を入れる。取り出したコインケースを放ってキャッチすると、片方の眉を上げた。
「残念ながらオフだ。ひとつ用がある。付き合え」
次のページへ