Cufflinks
第一話・焔 第五章・3
どうして断らなかったのか後悔する気力は、到着した場所を見て消え去った。
高岡が連れてきたところは、春樹が以前住んでいたマンションだった。高岡は鍵を開け、春樹にドアストッパーをかませるよう命じてリビングに入っていく。玄関ドアの内側には鈴が付いていた。ストッパーで固定したドアに何者かが触れても、鈴の音で気づくようにしてあるのだろう。
春樹は車に乗る前に買い与えられた缶飲料を下駄箱の上に置いた。窓という窓を開ける高岡に訊く。
「用ってなんですか」
「風を入れにきた」
春樹が十六年間暮らしていたこの部屋は、現在、高岡が借りている。鍵だけ新しいものにして誰にも貸していないと、成瀬が言っていた。
ダイニングテーブルにもテレビにもソファにも、埃避けの白い大きな布がかけられている。引越しの際に家具の大半を置いていけと言われたため、新居に持ち込んだ学習机以外は処分されたと思っていた。
事実は優しいノーを告げていた。寝室も、浴室もトイレも、引っ越す前と何ら変わっていない。
ベランダの窓から外を見ていた高岡が振り返った。和室に入り、腰を下ろす。
「座れ。車で話したこと以外で忘れていることはないか」
尾行する存在を刑事だと思った理由を説明するため、高岡の車内で何点か打ち明けていた。
テレビのニュースで西の死を知ったこと、殺人事件なら新田が疑われるのではないかと思ったこと。小谷という刑事が現れ、井ノ上との面識と、西の死を知っているか問われたこと、それに対する返答。ホテル前の喧嘩については改めて訊かれるだろうと言われたこと、だ。
散々迷った末、小谷は春樹の仕事を知っているようだとも言った。だが、高岡は少しも反応しなかった。
小谷が井ノ上の写真を破ったことと、笙子の夢が偶然にしても西の死を連想させることは、どうしても言えなかった。
「忘れていることはありません。さっきので全部です。質問してもいいですか?」
切れ長の目が鈍く光った。怒りは感じられないのでひるまずに見返すと、高岡が人差し指で畳を指す。
「質問の前に座れ。不服だろうが、俺はまだ社と契約中だ。命令には従え」
「はい」
和室の入り口に座ろうとしたら、あごをしゃくって奥に行けと示された。指示どおり床の間のそばで正座する。
「質問を」
「はい。なんであの辺を? この部屋とも距離があるし、都心とは逆方向だと思います」
そんなことか、という顔をした高岡が、ふすまの端に背をあずけた。
「ここに来る途中で喉が渇いた。喫茶店を探して徐行運転していたら、しかめっ面の仔犬ちゃんを見かけた。面白半分につけてみたら仔犬が突然歌い出した。ほかに質問は?」
「……ないです」
埃っぽい風が吹き抜けていく。畳の香りも押入れのふすまに貼ったシールもそのままだ。
春樹と竹下、遺影の母の思い出が残されている。狼の目をした男が残してくれた。
高岡を見た春樹がびくついた。いつから見ていたのか、高岡もこちらを見ていたからだ。絡み合うことを避けるように、ふたり同時に視線を外す。
「刑事の助言どおり新田と口裏を合わせておけ。防犯ブザーを鳴らした件も話していい」
「防犯ブザー?」
「俺の記憶違いでなければ、ブザーの音を聞いて須堂が来たと思うが」
「あ……!」
高岡の言うとおりだ。西が新田にナイフで襲いかかったため、壬(みずのえ)にもらったブザーを春樹が鳴らした。耳をつんざく音を聞きつけた須堂が助けてくれたのだと、高岡には以前、話してある。
「あの界隈は須堂が属していた組織が牛耳っている。お前たちがトラブルを起こした夜に須堂の姿を見た者がいたとしても、まず警察には言わないから安心しろ」
唇の内側を噛む。須堂にかける迷惑まで注意が及ばなかった。かすり傷の手当てをしてくれたスナックも。
春樹は畳に手をついて高岡を仰ぐ。
「ホテルの近くにあるスナックのこと、どう言えばいいですか。スナックにいた女の人、須堂さんとお知り合いでした。め、迷惑、かけたら」
高岡の目が残酷に光る。唇の端も冷ややかに上がった。
「人様に迷惑をかけず生きる自信があったとは。俺は夢をみているのか?」
返す言葉がない。泣くわけにもいかず、畳の目を見ることしかできなかった。
「暴漢との諍いは不可抗力だとして、又貸し事故の被害者をお前が見舞う必要はない。病院の周辺をうろつかなければ井ノ上とも出会わずに済んだ。親切があだとなることを肝に銘じておけ」
「──はい」
「スナックは気にするな。訊かれたら正直に。店は警察への対応に慣れているし、警察も暇ではない。須堂の過去を蒸し返しはしないだろう。ましてや動機が薄いお前たちを真剣に調べはしない。お前にも新田にも補導歴はないから、型どおりの聴取で終わる。新田とふたり、力を合わせて乗り切れ」
新田とふたり、と聞いて胸と胃のあいだが痛くなる。風が強くなった。近くにある神社から緑のにおいがする。
梅雨時や夏になると嗅げる、蒸れたような香りが好きで、よくベランダに出たものだ。肌が焦げそうなほど暑い日にそうしていると、竹下が冷たい飲みものを用意してくれた──
「お前が会った刑事はどこの署の何という者かわかるか」
「……署だって言ってました。小谷政巳という人です」
高岡は窓の外を一瞥し、立ち上がった。開けていた窓を閉めていく。
「そろそろ出るぞ」
この男は商品に警察が接触したと聞いても平然としている。十六歳の売春行為が知られているふしがあるというのに、気にもかけていない。
玄関に行く高岡を追った春樹は、突如あらぬ考えにとらわれ、素っ頓狂な声をあげた。
「何かするんですか?! あの刑事さんに!」
高岡が靴を履いて振り返った。危ないと思った次の瞬間には、頭を拳骨で殴られていた。下駄箱に置いておいた飲料の缶を押し付けられる。
「俺は一介の自営業者だ、無茶を言うな。それ以前に大声を出すな」
「……ごめんなさい」
さっさと出ろと言われる前に靴を履いた。視線を感じて上を見る。薄暗い玄関で高岡の目が光っていた。
見なれた眼光が、かすかに揺れた気がした。
「ひとりで警察と対面しても取り乱さなかったことは褒めてやる。出ろ」
「は、はいっ」
頬が火照り、マンションの廊下に飛び出した。部屋を一歩引いて見てみる。どうしてだろう。胸がちくりともしない。
帰りたいと思っていた空間が目の前にある。生まれてからずっと過ごした場との再開に、感極まらないのはなぜだろう。
ここが高岡の部屋であるかぎり、誰にも貸し出されることはないからか。
以前はこんなふうに思えなかった。気まぐれ男のすることがわからず、常に怯えて反感を抱いていた。今までの春樹なら、ある日突然、高岡がここを手放してしまうかもしれないと思ったに違いない。
お節介な調教師を──理屈抜きに信じ始めている。
信じても心を寄せてはならない男がエレベーターに向かう。道を照らしてくれる男から遅れないよう、足早に歩いた。
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