こういうとき、酒が飲めない体質が嫌になる。
剃刀を見た。ホルダー部分に、尋志と名入れがしてある。二つ折りの西洋剃刀が放つ光は、弘田にはいつも柔らかく見えた。
弘田がこの剃刀を確認したときの、耕二の顔────
出会いは駅前のスーパーだった。ひとつだけ残った惣菜に、同時に手を伸ばしたのだ。この部屋に引っ越し、サロンを開いたばかりのころだった。
耕二は新しい部署の立ち上げと同時の転勤で、精力的に働いた。仕事への誇り、失敗談、故郷のことを話すうち、自然と唇が触れていた。
初めて同じ朝を迎えたとき、耕二は弘田の傷に口づけをしたのだ。
荒々しく求めるようになったのは、耕二に目をかけていた上司が転職してからだ。弘田はベッドに引っ張り込まれることだけを恐れ、深く話を訊かなかった。当たり障りのない話題を選んだ。耕二はサインを送っていたのに。
耕二の残したカレー弁当を手つかずの分と一緒にゴミ箱に捨てる。自分の愚かさも一緒に捨ててしまいたかった。
玄関のチャイムが鳴った。
(耕二)
何も確かめずにドアを開けていた。
「不用心だな」
「たか……彰」
「一昼夜、仕事でホテルに缶詰だった。ひげをあたってほしい」
今、あの剃刀を使うのか。
「ごめんなさい。今夜は……」
「無理とは言わせない」
高岡が弘田の頬を撫でる。
狼の目で見つめられると、身がすくむのに心はざわめく。
「お前はプロだ。金はいくらでも出す」
「サロンでの仕事は、勉強にもなるから実費しかいただきません。予約もなしで来られても困ります」
「誰か来るのか」
弘田は首を横に振った。
「それならやってみろ。無心になれるぞ」
何を言っているのだろう。
切れ長の目が、逃げるのかと言っているようだった。
「わかりました。サロンの暖房は今から入れるから少し寒いけど、いいですか」
「構わん」
弘田は高岡をサロンへ通した。
高岡は腰を下ろすとすぐに目を閉じた。
ひげがうっすら生えている。それ以外は少しの疲れも感じさせない。
高岡の顔を蒸らす。剃刀をエタノール消毒器から取り出し、熱湯に浸す。シェービングソープを泡立てる。
弘田の手に馴染んだ剃刀が、いつものように軽やかに動き出す。
この剃刀で自分のひげを剃ることはほとんどなかった。
友人、知人、客、そして恋人。耕二のひげもこれで剃った。
胸の奥がずきりとする。
十六で無理に体を開かれ、理容師の祖父を頼って家を出た。泣き腫らした母が迎えに来ても、首を横に振り続けた。弘田の身に何があったのか、母も祖父も気付いていたと思う。
恋を失っても祖父が他界しても、名入りの剃刀だけはいつも一緒だった。
弘田の手は別の生き物のように動き続けた。耕二の安全よりも気にかけた剃刀が、迷いなく高岡の肌を滑る。暖房の音も聞こえない。ホルダーに添えた指が汗ばむこともない。剃刀を置き、高岡の顔を拭きあげた。
「やはり上手いな」
開かれた高岡の目は怖くなかった。
理容椅子のロックを外した。静かに椅子を回転させ、向かい合わせになる。高岡の頬に自分の頬を重ねた。
「どうして無心になれると言ったの?」
高岡の耳に口を近づけ、再度尋ねる。
「僕に、何かあったと思ったの……?」
高岡が弘田の髪を軽くつかむ。キスの合図だと悟る。
深いキスだった。ベッドの上でしたときと同じ、煙草の香りがする。舌が滑らかに絡み、離れ、唇ごと吸われ、また絡み合う。
高岡とのキスは、わけもなく弘田の目の奥を熱くさせた。今までの恋をすべて奪い、過ちを残さず飲み干すような、そんなキスだった。
どちらの舌かわからなくなり、体が次の行為を求めた。唇を重ねたまま、高岡の胸板に指を這わせる。シャツのボタンをひとつだけ外すと、高岡が弘田の髪を放した。腰から脇腹、肩甲骨にかけて撫で上げられる。弘田の吐息と共に唇が離れた。
「仕事をしていないときのお前は、感情がそのまま表に出る。赤ん坊でも見抜くぞ」
顔が熱くなるのがわかった。鏡を見る。
「今日はシャワーが必要か?」
鏡の中の弘田は、みるみる赤くなった。
「必要です」
「そうか。俺もだ」
高岡が目を細める。もう一度舌を絡ませ、サロンの中扉を開けた。
「恥ずかしい……」
充分にほぐれた入り口を、高岡の指が何度もいたわる。
「触れられるのは嫌か……?」
高岡の声は体に沁みていくような響きがあった。耳もとでささやく声がもっと欲しくて、高岡の髪に指を差し入れた。少しだけ引き寄せる。
何が欲しいのかわかるのだろう。高岡が弘田の耳に口を近づけた。
「尋志。答えろ」
「嫌なときと、そうじゃないときがある」
「今は?」
「嫌じゃない……彰、つけようか?」
「好きにしろ」
高岡の中心に手を添えた。コンドームの輪を解いて男の部分を覆っていく。猛々しさを確かめるように高岡のそこをたどると、弘田の吐息が熱くなった。
硬く雄々しいものを持ったまま、高岡を見つめる。
「……もう、欲しい」
弘田の声に高岡が応えた。隆起のある入り口から、ゆっくりと探るように割られた。
「彰……!」
「つらくなったらすぐに言え」
大丈夫、という意味で高岡の背に手を回す。
水槽を見る。竜はいない。
「あ……! いっ……」
弘田が夢中になるところは、すぐに探り当てられた。
ここか、と言う代わりのように、耳の下にキスをされる。そのまま首を舐められ、肩を優しく吸われた。
服で隠れるところを次々に吸われていく。弘田を追い上げる動作は静かで、想像とは遠く違った。
「彰、そこ。そこ……もっと……!」
久しぶりに欲求を口にできた。望みどおり駆られて、吐息に混じる声が断続的になる。高岡のオードトワレに雄の匂いが混じり、弘田は激しく息を乱した。
ベッドの端を手でつかむ。声を抑えることができない。限界が近かった。
「あきら……ッ」
水槽の光と闇との境界線に、高岡の双眸があった。底光りをたたえた目は、共に高みを目指すだろうか。視線が絡まり、頭の奥まで熱くなる。互いの唇を求め合う。
切羽詰まった弘田の声は、高岡の口の中に消えていった。
弘田の横で高岡が水槽を眺めている。
自分が耕二にした仕打ちも、魚が竜を連想させることも、すべて高岡に話した。
「何故水槽を置く?」
「忘れないため、かな」
「いい心がけだ」
水槽の灯りを浴びたまま、高岡が目を閉じた。
今夜は色とりどりの魚達がいつもより愛らしい。
荒い息と共にうねっていた竜は、どう足掻いても忘れられない。高岡を最初に見たとき、この男なら忘れろと言わない気がした。
「ねえ彰……彰? 寝たの……?」
高岡が寝息をたてている。ホテルに詰めていたとはいえ、呆れる寝付きだ。
(名刺、渡してよかった)
起きたら最初にそう言おうと決め、毛布を引き上げる。
高岡の背中に口を寄せた。眠っていても張り詰めたような空気が高岡を包む。
広い背中に身をゆだねて、弘田も目を閉じた。
< 了 >
会員制BLサークル・黒猫まんぼ様の会報掲載作です。大幅に加筆修正しました。会報のテーマは『ラヴ・アイテム』で、私のアイテムは剃刀でした。ヒゲを「あたる」ってお爺さんみたいですね。
この「予約のない客」には 続編 があります。続編には暴力表現・暴力的な性描写があります。