サロンスペースから居住スペースまで暖まったころ、玄関のチャイムが鳴った。
 ドアを開ける直前に確認した弘田の顔は、ほんのり染まっていた。
「お待ちしておりました」
 高岡を玄関脇にある中扉からサロンへと案内する。
 居住スペースと違い、サロンはコンクリートの打ちっぱなしである。一度にひとりの客しか入れない。最小限の広さで理容台も一台だけだ。
 十代のころから金を貯め、古い物件だが手に入れた。終業後のここでの作業を、苦だと思ったことはない。
「立派なものだな」
 腰かけた高岡が言った。見れば見るほど人目を引く外見だと思う。
 カットをして間がないのに、ここに来た。髪も乱れていない。スタイリングが目的なのではないことぐらい、弘田にもわかる。
 預かった上着からは、最初に会った日と同じ香りがした。煙草とアルコールと埃と、ディオールのオーソヴァージュ。
 オードトワレを愛用する男と付き合ったことはあるが、これほど似合ってはいなかった。
「リノベーション物件です。友人や、話の合うお客様に来ていただいています。狭いのはご容赦ください」
「話が合う? 俺は当てはまるのか」
 高岡が微笑んだ。笑うと二十代に見えなくもない。
「……高岡様には見とれてしまって、言葉が出てこないんです。この髪質、素晴らしいです。どんなスタイルでも決まると……」
 高岡の髪に触れた手をとられた。鏡の中で目が合う。
「誘うような眼差しだな」
 弘田の鼓動が高まる。
「そう言われないか」
「たまに……言われます」
 たまに、ではない。事実、弘田は誘っていた。女よりも男が好きなのだと、子どものころからわかっていた。
 鏡を通して高岡の目を見る。瞳の色が薄い。日本人離れした透明感だ。精悍さのある切れ長の目を、長く濃い睫毛が縁取っている。
「あなたの目……」弘田の言葉が、熱を帯び始めた。
「狼に、似てますね」
「そうか……?」
 はいと言う代わりに、とられた手の力を抜いた。
 高岡は弘田の手を自分の髪に差し入れさせ、顔まで滑らせた。弘田の指で高岡の黒髪が乱れる。
 自分の顔を撫でさせていた高岡が、弘田の手を強く握った。
「気が変わった。髪は後にする」
「高岡さ……」
「彰でいい。玄関の奥はお前の部屋か?」
「はい」
「俺を連れていけ」








 居住スペースに入るなり、ふたりでベッドに倒れ込んだ。
 一部をサロンに割いたとはいえ、改装でそれなりの広さはあった。食器棚を兼ねたカウンターキッチンで台所とリビングを区切り、リビングの端にある大きな水槽がベッドを隠している。
 高岡に口を吸われる。煙草の香りで頭が痺れた。深く、慣れた行為に体が強張る。
「あの、シャワーを」
 高岡の唇は弘田の頬、首筋、胸もとへと下りていく。
「あき、彰。シャワーを浴びさせて」
「済ませたのではないのか」
 顔が熱くなった。確かに済ませてある。だが、耕二の感触が残る。
 水槽を見ないようにしていたが、十六年前の竜が動き出すような気がした。
「あき……ら」
 高岡の手がジーンズと下着の間に入った。
 前を触った手が後ろに伸びた瞬間、弘田はきつく目をとじた。
 高岡の意外と太い指が、下着の上から穴に触れた。迷いのない動きがとまる。
 変形して盛り上がっているところから、指が離れた。
「十六のとき、母の内縁の夫に……背中に絵のある人で。病院、行かなかったから」
「怖かっただろう」
 目を開ける。
 高岡の、狼に似た目にとらえられた。途端に高岡の顔が揺れた。
「ごめんなさ……」
 弘田の唇をふさいだのは、高岡の親指だった。唇から離れた指が、弘田の頬を伝う液体を拭う。
「俺は気が変わりやすい。今日は帰る」
 高岡が身を起こす。ベッドから下りるとき、手の甲で弘田の頬を撫でた。
「ま、待って。もう大丈夫だから」
「気にするな。俺は執念深い」
 サロンへの中扉が開く音がした。高岡の上着はサロンにある。
 見送ろう。そう思ったときに、玄関の壁に高岡がもたれた。煙草に火をつける。
 強く光る目で見られて、弘田は身動きできなくなった。
「ひとつ言っておく。怖いなら怖いと言え。プライベートで無理強いをする趣味はない」
「もう会えないの……?」
 声の震えに自分でも驚いた。
「聞いていなかったのか」高岡が玄関のドアを開ける。
「俺は執念深い」
 玄関にひと筋の煙が残った。








 今日は空が高い。一週間以上続いた曇天は、どこにいったのだろう。
 駅前にある二十四時間営業のスーパーから、自宅までの道を歩く。
 ガードレール沿いに、イチョウがまばらに植えられている。弘田の店の前のイチョウ並木とは違い、ここの街路樹はすべて葉が落ちていた。
 はっきりしないといけない。曖昧でいることは許されない。
 葉のない姿を晒す、イチョウのようにならなければ。
(耕二、終わりにしよう)
 上手くなくてもいい。ちゃんと伝えることだけを考えてドアを開けた。
「お帰り。カレー買ってあるから後で食おうぜ」
 耕二の声だ。明るい声。
 今夜この時間に来ることは、メールで了承していた。
「あ、ああ」
 弘田はぎこちなく答えた。耕二は鼻唄を歌いながらテレビをいじっている。
 カウンターキッチンの端にショルダーバッグを置いた。筑前煮とブリの照り焼きを、スーパーのレジ袋のまま冷蔵庫に入れる。これにサラダを足せば、不規則な仕事で野菜不足の耕二にもいいと思ったのだ。
 今さら何を、と思うが、三年の月日は耕二をしっかりと植え付けていた。
「耕二、何して……何だよ、これ」
 テレビにつながれた新品のゲーム機を見て、弘田は声を荒げた。
「人の家のテレビにつなぐなよ。僕がゲーム嫌いだって知ってるだろ。買ったのか?」
「買った。こないだ悪かったし。ヒロはさ、食わず嫌いなんだよ。格闘物は嫌とか、音がうるさいとか。易しめのソフトも買ったから、一緒にやろうぜ」
「……嫌だ」
 耕二が弘田を見る。口がぽかんと開いていた。
「耕二がいいと思ってしてくれるのはよくわかる。でも」
「あーわかったよ。しまえばいいんだろ」
 言うなり、耕二はつないだばかりの線を引き抜いた。舌打ちしながらゲーム機を箱にねじ込む。コントローラーは二台あった。
「耕二、話を聞いてほしい」
「さっさと言えよ」
「嫌だったのはこの間だけじゃない。耕二いつの間にか、入れる前に指でしてくれなくなったじゃないか。しんどくなっても休ませてくれない。一番悲しいのは……嫌だと言っても、やめてくれないことだよ」
 耕二はゲームを片付けると、ソファの前に腰を下ろした。ローテーブルの上でカレー弁当を開ける。
「あんなふうにされると……つらいんだ」
「おれが自分勝手みたいな言い方だな。乱暴だっていうのかよ」
「このところ、そうだった」
「あーもう! わかったよ!」
 耕二が立ち上がる。弁当は半分以上残っていた。
「休みも合わせづらいし、もういいわ」
「耕二」
 風を切る勢いで耕二が玄関に向かう。
 ゲーム機の入った大きな袋が、弘田のバッグの肩紐を引っかけた。
 バッグが音をたてて床に落ちる。
「何するんだ!」
 弘田がバッグに駆け寄る。バッグの中の、仕事道具を確かめた。
 祖父からもらった剃刀は無事か。
「普通、人間を先に見ないか?」
 耕二が低く言った。弘田が顔を上げる。
 三年を共にした恋人の顔からは、生き生きとした表情が消えていた。二度と弘田の前で鼻唄など歌わない、という意思だけが伝わってくる。
「それ仕事道具だろ。ヒロが大事にしてる。でもさ、おれより刃物とかあり得ねえし」

(なに。僕は何をした)

「……信じらんねえ」
 耕二がカウンターキッチンに合鍵を置いた。
 玄関のドアが開き、そして閉まる。冷たい外気が床を這った。