弘田の自室で大型の水槽が輝いている。青白い灯りがベッドのそばまで届く。
乱れたベッドで頭を横に振る弘田の上で、耕二が荒々しく動いていた。
「こ……じ、痛い」
ベッドを激しくきしませる耕二の胸や二の腕、肩などを、弘田が手で何度も押す。
拳で叩くように押す弘田の両手がつかまれた。手首を乱暴に握られたりはしないが、無理に手の平を開かされる。
指と指とを絡め、これは合意の上での行為だと言っているかのようだった。
「嫌だ……耕二。少し、休ませ……痛……!」
頭がベッドから落ちかけるほど激しく突き上げられ、弘田の後ろに痛みが走った。
言葉でも行動でも表情でもやめてくれと訴えているのだが、耕二は目を閉じて唇を舐め、自分の快楽を追っている。
「ローション、足したろ。あとちょっとだから、な?」
目を閉じたままの耕二が、申し訳程度のキスをする。唇はすぐに離れた。痛みに弘田がうめいても無視される。
いつからこんなふうになったのか。
耕二の息づかいも、時おり繰り出される「ごめん」も「好きだ」も、聞きたくなかった。
何度か続いた行為で達したのは耕二だけだ。弘田は行き場を失った射精感より、体の痛みに耐えるので精一杯だった。男の部分も力をなくしている。
ふたりは三年の仲だ。ここ数か月は特に、会うとこうなる。
互いに拘束時間が長い仕事を抱え、会えるのは夜中が多い。穏やかに愛し合い、ベッドで話しながら眠りに落ちる────。そんな過ごし方ができなくなっていた。
会話や食事で間をもたせようとしても、早々とベッドに押し倒されてしまう。
求められるのは嬉しいし苦痛だけではなかったが、ベッドに入るのが怖くなったことは、間違いのない事実だった。
「痛い、本当に痛い。休もう、少しでいいから」
耕二の手を強く握り、眉根を寄せて懇願した。
男とこういう関係になったのは、耕二が初めてではない。十六で男を知ってから、正確にはもっと小さなころから、弘田の恋愛対象は男だった。
痛みと情けなさで涙が滲みそうになる。弘田の口から悲鳴が漏れた。
「いたい……っ」
「なん、だよ。ここ、別に切れてないだろ」
耕二の指が、弘田の穴の入り口に触れた。
弘田が自由になった方の手で、入り口に触れた指を引き剥がす。
「入れてから触らないって、約束だろっ!」
思いがけず大きな声だった。
四歳年下の耕二が、穴に触れなかった側の手で弘田の頬を包む。先月二十八歳になった耕二の細い目が、弘田の余力を探っていた。
「耕二。もうやめてほしい」
「なんだ。ヒロ、大丈夫そうじゃん」
弘田の肉体は、出血するほど傷ついているわけではない。穴の入り口から浅い箇所に残る古傷は、もう痛みを感じないはずだ。
耕二の動きが一層激しくなった。ベッドにつく耕二の腕を叩くが、無駄だった。
「いた、痛い、嫌……だ……!」
ひとりよがりの欲望が、小さな暴力となって弘田の上を走り抜けた。
「はあ、ああ、ごめん。ヒロ、横向けよ」
耕二がコンドームの始末をしている。耕二が言うのとは違う姿勢で横になった。
「ヒロ、それじゃ抜けないって」
「いい。今、勃ってないし。休みたい」
毛布にくるまろうとする弘田を、耕二が後ろから抱きしめた。穴を指でなぞってくる。
変形している部分を撫でられて、弘田は目を開けた。
「もう忘れろよ。おれはヒロのここがこうなってても、ヒロのこと好きだし」
まるで弘田に落ち度があるかのようだ。耕二だけではない。付き合う男は皆、こう言うのだ。悪気はない。わかっている。
「悪いけど、帰ってくれないか」
「は?」
「僕のそこがそうなった理由、話しただろ。嫌だと言ってもやめないのは、正直へこむ」
「だってさ、出血してるわけでもないし」
「そういう問題じゃない」
耕二は何か言いかけたが、言葉をのんだ。ベッドから下りた耕二が水槽の向こうに歩いていく。服を着て、冷蔵庫を開ける気配がする。
「ヒロ……悪かった。水、飲むだろ」
耕二がサイドテーブルに水を置いた。
毛布越しに、額にキスをされる。毛布を少し下げると、まぶたにキスを受けた。
「ほんとに悪かった。おやすみ」
「……おやすみ」
耕二が勤める会社は、パソコン用ソフト開発の中堅どころだ。同年代の勤め人より多忙な中、まめに時間を作ってくれる。来れば必ず泊まってもらうようにしていた。
耕二は優しかったのだ。ほんの数か月前までは。
水をひと口飲んだ。手に力が入らなくてこぼしそうになる。
ベッドに座ると体じゅうが痛んだ。思っていた以上に力んでいたためかもしれない。
「帰れはなかったかな……」
大昔に負った傷が原因で、激しい行為についていけない。
自分ではそう思っていたが、医者は体の問題ではないと言う。
水槽を見る。
極彩色の熱帯魚が、動く竜を思い出させた。慌てて目をつぶる。
水槽に背を向け、安定剤と睡眠導入剤を飲み下した。
少年だった弘田の上で、うねり続ける竜の絵柄────
あのとき、鏡台の鏡に映った竜に、喰い殺されると思った。
十六年も前の痛みだ。そっと穴を触ってみた。入り口の一部が隆起している。
竜に喰われたときから、この傷は変わらない。
弘田は毛布を頭まで被った。
イチョウ並木が揺れている。
弘田は仕事帰りに空を見上げた。墨を流したような空の底が、厚い雲でせき止められている。高岡が店に来た日と同じ空だった。
(高岡……彰)
挨拶のようなキスがよみがえる。
手袋をはずし、唇をなぞる。荒れた指先が痛かった。
(名刺を渡すんじゃなかった)
高岡がこのイチョウ並木に消えてから、何度そう思ったかわからない。十六年前の暴力に怯え、薬の助けを借りて眠りにつくこともあるのだ。SMクラブを経営する男の行為に耐えられるわけがない。
コートのポケットが震えた。携帯電話を取り出す。見覚えのない番号だった。
「……弘田です」
「俺だ。今からでも大丈夫か」
頭では断れと声がする。口からは声が出ない。
「どうした。都合が悪いか」
「いえ。高岡様ですね。一時間後なら大丈夫です」
わかった、の後、電話が切られた。名刺には自宅の地図も印刷されている。
弘田はもう一度唇を触り、駅に向かった。