予約のない客

 空が低い。
 店の窓から見えるイチョウ並木が雲に届きそうだ。
 弘田を指名していた客から、予約日の変更を希望する電話を受ける。十二月も下旬に入り、連日の記録的な寒さだ。慌ただしく、体調も崩れる。
 レジ横の予約表を修正していると、店長が本日最初の客を案内してきた。
 弘田はレジカウンターの背面にあるクローゼットを開けた。客から預かっていた毛皮の上着を出し、店長に手渡す。
 この客は常に店長を指名した。店長の腕が確かだからだ。黒テンの半コートに白髪のウエーブが見事に映えた。客である老女が満足しているのは、ひと目見てわかる。
 老いてはいるが凛とした客と、すれ違う格好だった。
 長身の男がひとり、するりと入ってきた。
 艶のある黒髪。わずかな癖が前髪に残る。顔がとても端正だ。息をのむほどに。
 すれ違いで出ていく老女が、その男を見上げる。客を見送るために扉を手で押さえる店長も、眼鏡の奥の目を見開いていた。
 男は老女にも店長にも、同じ微笑を浮かべて会釈をする。
 男の顔立ちは端正だったが、表情は────目つきは精悍なものだった。
 切れ長の双眸が、強い光を放っている。一重まぶたではないので東洋的な魅力に溢れているとはいい難いが、人の関心を絡め取るような目だ。どこか狡猾で、野生の獣に似た雰囲気もある。
 これとよく似た目を見たことがある。生涯忘れることができないであろう、あの目。
 客が入店したのに挨拶ひとつしない弘田を、男が眉をひそめて見ていた。
「いらっしゃいませ。ご予約はお済みですか」
 予約表を確認した店長が男に対して言った。
 店長の声で弘田は我に返った。
 男は店長を見ない。弘田を見据えたまま、口を開いた。
「いや……こちらは完全予約制ですか?」
「予約優先ではございますが、今ならすぐにお入りいただけます。ご指名がなければこの者が承りますが」
 いいな、という店長の目配せに、一呼吸遅れて弘田が礼をする。
「いらっしゃいませ。本日はいかがなさいますか?」
 弘田の口から、ようやく声が出た。視点を男の襟から顔へと上げる。
 男は少し低い声で「洗髪とカットを」と言った。








「洗髪台が選べるのか。珍しい」
 個別のブースに入ると、男はそう言った。
 弘田が勤める店はユニセックスサロンである。洗髪台も前かがみになるものと、仰向けに寝るものとが用意されていた。
「男性のお客様の中には、顔を伏せる台をお好みの方もいらっしゃいますので」
 希望を訊こうとしたが、男は無言で仰向けの台を選んだ。弘田は男に膝掛けをかけ、顧客カードへの記入を依頼した。

 高岡 彰(タカオカ アキラ)

 読みやすい字だ。職業欄には自営業と書かれた。平日の午前十時前に自由になれる自営業。水商売だろうか。
「SMクラブを経営している。この界隈をぶらついていたら、窓越しに艶やかな白髪のご婦人が目に入った。お年を召した方の髪で品と量感が遠目にもわかる仕事ができる店は、あまり見たことがない。懇意にしていた美容師が跡を継ぐと帰郷したので、気紛れに入った」
 具体的な生業や来店の経緯を、淡々と告げられる。弘田は客との会話が得意ではない。高岡も世間話を好む人物には思えなかった。話の糸口が途切れたが、仕事をするにはこの方がいい。
 高岡の髪は扱いやすかった。染めた痕跡がない。顧客カードに書かれた生年月日からすると、高岡は三十五歳だ。人によっては白いものが混じってもおかしくないが、この男の髪はあくまで黒かった。
 男らしい体からは、夜の盛り場特有の臭いとオードトワレの香りがする。
 目を閉じていてほしい。
 高岡の目が怖かった。鋭い目つきは苦手なのだ。
(あの男と同じ、人を屈服させる目だ)
 心身を縛る過去を、高岡の声がかき消した。
「気に入った。腕は確かなようだな」
 気がついたら、手鏡で高岡に後姿を確認させていた。
「うるさくない程度に」としか言わない高岡は、終始目を閉じて口をきかなかったのだ。
 弘田は及び腰で声を発した。
「よろしければ……あたりましょうか」
「ひげをあたってくれるのか」
「はい。私どもは理容も致しますので」
「頼む」
 弘田を萎縮させる目が閉じられた。高岡の顔を一本の剃刀が滑る。
 この時間が一番好きだった。理容師だった祖父から贈られた剃刀がチャリチャリと鳴る。集中するためか、心が凪ぐのが自分でもわかる。
 今なら高岡の目が開いても動じない。
「上手いな」
 剃り終えたと同時に、高岡が言った。
「ありがとうございま……」
 今日初めてワンテンポ遅れずに出た弘田の言葉を、高岡の唇が封じた。
 ごく軽いキスだった。唇が滑るようなキス。
 いつ後頭部を押さえられたのだろう。心臓が倍速で動く。
 高岡の唇の端が上がっていた。
「カメラ、あるのか」
「……ございます。それ以前に、個別ブースですが扉がございません」
 何を言っている。自分に対して思う。
「扉がないのは通ったからわかる。お前とふたりになるには、どうしたらいい?」
「あ……の」
 二の句が継げない。初対面にも関わらず「お前」と呼ばれ、ためらいの「た」の字もなくキスをされた。
 弘田の鼓動は、恐怖以外のもので速くなっていた。怒りのためでもない。
 高岡はしばらく弘田を見ていたが、崩した相好を元に戻した。
「俺の見込み違いか。お前は同性が好きな質かと思ったのだが。仕事柄朝が弱い。許せ」
 謝罪する気など皆無なのだろう。高岡は何事もなかったように目を閉じた。
 照れも何もない、整った顔を蒸しタオルで拭いた。首と肩を揉む。
「高岡様。ご精算はここでも承りますが」
 高岡が目を開ける。数分間だが眠っていたのだ。この男は。








 銀色のプレートの上に、高岡のクレジットカードと受領証が乗っている。
 クレジットカードの下に弘田の私用の名刺を滑り込ませた。
 レジから高岡が待つブースに向かう間、迷わなかったわけではない。
(耕二……ごめん)
 高岡は窓の外を見ていた。胸板が厚いためか、ラフなスーツでもよく似合う。
「お待たせいたしました」
 クレジットカードを手にした高岡の眉が上がる。下にある名刺を認めたのだろう。
「僕の個人サロンです。夜の十一時までにお電話いただければ、ご予約をお取りします」
「弘田 尋志。ヒロタ ヒロシか。サロンは自宅に?」
「さようでございます」
「気に入った。電話する」
「お待ちしております」
 渡してしまった。自分の携帯番号と住所が印刷された名刺を。怖い目をした男に。

『SMクラブを経営している』

 高岡の声が弘田の頭をよぎる。
 店の前のイチョウ並木に、高岡が消えた。