竜の巣

竜の巣・6

 ワインなんて誰が作ったのだろう。酸っぱくて渋くて、いいのは香りだけだ。
 グラスが倒れた。残っていた赤い液体がこぼれる。テーブルを伝って床に落ちる様子を、弘田は笑いながら見ていた。
 実家はいつも酒臭かった。父が転がり込んできたのは弘田が十六歳になった年だが、もっと前から臭い家だった。浴びるように酒を飲んで暴れる母の姿を見て、酒だけはやるものかと決めていた。


 それがこのザマだ。血がアルコールを全身に運ぶ。


 暗い海が目前に広がる。錯覚ではない。
 十六年前、弘田は夜の浜にいた。父から解放されたあと、荒れた海にひとりで向かった。ハマヒルガオにつまづいて転び、這って海を目指した。ひとりになりたかった。陰鬱で好きになれない海だが、あちこち腫れてヒリヒリする体を冷ましてくれるなら、何でもよかった。雨も心地よかった。
 係留した漁船を見回りに来た男に声をかけられた。近所の漁師だった。懐中電灯で弘田の顔を見た漁師は、数秒で灯りを外した。漁師は弘田の家に疫病神がいると知っている。知っていて、腫れあがった弘田の顔から目をそむけた。
 立ち去り際、漁師は「逃げろ」と言った。
 弘田の心に強い怒りの感情が芽生えたのは、そのときが初めてだ。
 父が怖いと言った弘田を、母は無視した。教師も弘田を避けた。あいつの父親はヤクザだと陰口をきく級友の中には、ひそかに憧れていた少年もいた。
 反社会的な人物は父で、弘田ではない。竜の絵で人をねじ伏せる汚い男は父で、弘田は汚れていない。悪いことなどしていない。
 尻尾を巻いて逃げるのは、弘田でなくてはならないのか。
 海の端が波消しブロックにぶつかって砕ける。ブロックの向こうには県道がある。県道沿いに歩けば、もっと大きな道路に出られる。
 一銭の現金も着替えも持たず、県道に向かって歩いた。怒りを自立心に変えて生きてきた。


 暗い浜の奥、真っ黒な夜の海から風が吹きつける。
 弘田を喰い殺そうとした竜が、風に乗って追ってくる。母の荒んだ言葉を乗せて。
 竜が生け贄を追ってくる。息の根をとめるために。


 玄関のチャイムが鳴った。玄関に着くまでに二度ほど転んだ。上半身を起こしてドアノブを下に倒し、ドアを押した。高岡の脚に肩が当たる。
「……吐きそう」
 帰ってくれることを願った。高岡は無言で玄関に入り、弘田を支えた。
 便座を上げてくれたところまでは覚えているが、黒い波にさらわれてしまった。