竜の巣

竜の巣・5

「これでいいかな」
 ローテーブルの前で弘田は腰に手を当てた。センタークロスの上に、氷が入った容器に入れたワインボトルと、惣菜の皿が並ぶ。グラスや食器もセッティングした。クロスの端に小さな花瓶を置いてみた。
 ダイニングテーブルでもあればしっくりするのだろうが、高岡が好みそうなものを並べるのは楽しかった。
『お前に会いたい』
 電話口から響いた声が耳に残る。
 高岡との出会いは先週だった。ふらりと来店した高岡に、ブース内でキスをされた。何て男だと思ったし、鋭い目つきも怖かった。
 SMクラブの経営がどれほどのものかわからないが、自営業者の十二月も忙しいはずだ。年内に、というか、もう一度会えるとは思っていなかった。
 ローテーブルを飾る花を見る。顔を近づけて香りを嗅いでみた。控えめで楚々とした匂いに、自分の顔が曇るのがわかる。
 花は買わないつもりだった。植物の香りが、先週の朝を思い出させるからだ。
 同じベッドで目覚めた朝、高岡はまだ眠っていた。起こさないようにそっと体をずらしたとき、夜の間には気づかなかった香りを感じた。
 薄くなったオードトワレに、植物のような……温室に似た香りが混じっていた。
 あの日、高岡は弘田の部屋に来る前に、仕事でホテルにいたと言った。一昼夜、缶詰だったと。
 仕事に関する嘘をつきそうな男ではない。また、嘘をつく理由もない。高岡は植物の香りが移るところに、よく行くのだろう。そういう場所にいる人物と過ごす時間が長いのかもしれない。
 夜の住人である高岡に不似合いな香りは、弘田との一夜では消せなかった。
 追求などしない。弘田だけのものでいる男ではないと、わかっていた。戦利品のひとつでいい。恋人と呼ばれなくていい。未来のない恋だと覚悟して身をゆだねた。


 自宅電話の音がした。取り上げた受話器から、母の声がした。
「尋志? お父さんね、死んだよ。もうお葬式もすませたから」
 あまりに日常的な話しかたに、弘田は問い返すことも忘れてしまった。
「聞いてんの? あんた年末忙しいから、こっちでやっといたからね。あんたもそのほうが楽でしょ。気持ちだけ送ってくれればいいから。わかった?」
「わ、わかったけど……死んだって、なんで。いつ」
「交通事故だよ。四日前」
 母の声に感情がない。内縁関係でろくでもない男とはいえ、母が愛した男だ。混乱と葬儀の煩雑さで、心がついてこられないのかもしれない。
「母さん。どうするんだ、これから。今の家に住むの?」
「住むしかないだろ。あんたとお父さんが、あんなことになった家だけど」
 弘田の口から言葉が消えた。故郷の暗い海を吹く風の音がした。