竜の巣

竜の巣・3

「ヒロさん。電話、着信みたいですよ」
「え、あ……ありがとう」
 若いスタッフが長机にある弘田の携帯電話を指差していた。勤務中は音も振動も切っている携帯電話が、光の点滅で着信を告げている。
 電話を開いた弘田の腰が浮いた。画面に高岡の名と番号が表示されている。
「お疲れさまです。個人サロンの予約ですか?」
 浮かれた声を出したからか、着信を教えてくれたスタッフがこちらを見た。弘田はパイプ椅子から立ち上がり、スタッフルームの隅に移動した。
「いや。お前に会いたい。お前の部屋で」
 店内では有線放送の音楽が流れている。アップテンポのリズムにつられるように、弘田の鼓動も速くなった。
「わかりました。ご到着は何時ごろになりますか」
「日付をまたぐと思う。遅くなるが、いいか」
「かまいません。お待ちしております」
 ロッカーに携帯電話を入れる。通勤鞄の中には給与明細書があった。弘田にはこの店での売り上げにおいて、後ろ指をさされる要素はない。
 休憩時間が終了するまで少しあったが、店内に戻った。レジ横の予約表を確認する。予約がびっしり詰まっていた。
 年の瀬は一番の繁忙期である。弘田は自宅でも個人サロンを構えているが、今週に入ってからは休業していた。
 美容界では三十歳前後がひとつの分岐点だ。弘田も二十代最後の年に独立を打診された。社長が代替わりしてのれん分け制度による独立が可能になったが、都内で何人ものスタッフを抱えられる器かどうか、弘田自身が一番わかっていた。
 会社も店長も弘田の気質を把握しているのだろう。独立話はいつの間にか立ち消えになった。
「弘田。ちょっといいか」
「はい」
 店長がレジカウンターに入る。店の出入り口に一番近いブースを、ちらと見る。
「イチゲンさん、頼めないか。一時間こじあける。予約を十分単位でずらすが、上客にはシワ寄せしないようにする。やばくなったら即ヘルプ出せ。俺が入る」
「わかりました」
 悪いなと言いながら、店長は予約表に素早くペンを走らせた。言われたブースに向かう弘田と目が合い、若いスタッフが意味なく会釈する。独立を打診される年齢の弘田がいいように使われるのを、陰で笑う者もいた。
 笑いたければ笑えばいい。人を笑って腕利きの店長に次ぐ指名客数を得られるなら、とても簡単なことだ。