ウエイトレスの恋・3
観客の入りは上々だった。人いきれで汗が出るくらいだ。
物語の舞台は小さなカフェで、雨宿りで店に飛び込んできた家柄の良い青年と、貧しいウエイトレスが恋に落ちる。映画の全編を支える音楽が切ない。主人公を演じる女優のみずみずしい演技が、身分違いの恋の危うさを上手く表現していた。
ユーモアも少しはあるが、アクションシーンもなく動きが少ない。悲恋話なのだろうから当然とは思うのだが、退屈な映画だった。高岡も眠ってこそいないが、表情のない顔でぼんやり眺めている。
(つまらないと……思ってるかな)
知ったことではない。観ると決めたのは高岡だ。高岡の映画の好みなど知らないし、知りたいとも思わない。
高岡から視線を外すと、主人公の想い人が閉店間際のカフェに来たところだった。
想い人が床にハンカチを落とす。主人公が拾い、短い会話が始まる。コーヒーに添えられたチョコレートのひとつを、想い人が主人公の指に当てた。一緒に食べようと誘う。店主は売上金を金庫に入れにいったばかりだ。主人公は逡巡する。店主は気前が良くない。常に立ち働くことを要求される。トラブルを招く行動は避けたい。想い人は証拠隠滅だと微笑み、食べるように促す。働き疲れた体を甘いチョコレートが、恋の緊張を想い人の笑顔が溶かす。目を閉じてうっとりする主人公に、想い人が口づけをした。
小振りなテーブルを挟んでのキスを観て、春樹の心臓が勢いよく跳ねた。
春の夜に高岡と行った、フレンチレストランの帰り道。月は髪の毛ほどの細さで、街灯の真下で高岡が待っていた。高岡の上着に隠れて交わしたのは、極めて軽い、本当に一瞬のキスだった。あの夜のチョコレートの香りは、今でも覚えている。
スクリーンでは、キスを終えた主人公がゆっくり目を開いていた。地味だった主人公が甘いキスをきっかけに、あでやかな女性に変わる。なまめく唇とガラス細工の瞳がアンバランスで、女性美が観客の心をつかんだ。
高岡を盗み見た理由は、過去のキスを思い出したからではない。妹に生き写しの女優が演じるキスシーンで、動揺したかもしれないと思ったからだ。
しかし高岡の表情は、映画序盤時から変わらない。脚を組み替えるでもなく、首だけが少しかたむいている。妻をじっと見る、体の大きな雄狼の眼差しが再現されただけだった。
春樹の口から安堵の吐息が漏れた。キスをする女優に妹を重ねたとしても、高岡はいい大人だ。善良な人間でもない。気にするはずがないとわかっていたが、この目で見るまでは心配だった。
いつから高岡の感情を配慮するようになったのか。よくわからないが、気になるものは仕方がない。
起伏のないシーンが続き、意識が自分の内側に向いてしまう。速い展開を期待して目を上げたとき、映画は緊迫したシーンに突入していた。
想い人に婚約者がいることを主人公は察していた。主人公が勤めるカフェに、ひとりの女性が来店する。想い人が好むコーヒーを注文し、カップを置く主人公だけに聞こえるように、想い人は自分のものだとつぶやいた。無料の茶菓子であるチョコレートも、主人公の顔も見ることなく、コーヒーをひと口だけ飲んで店を出た。劣情を抑えきれずに現れた婚約者の目は、洞穴のようだった。主人公にはチョコレートのような恋も、婚約者には恥辱であり、地獄だったのだ。婚約者の目を洞穴にしたのは自分だと思い、主人公は身を引く決意をする。
婚約者の登場からラストシーンまで、一気に突き進んでいった。想い人が来店する。初冬の、雨が降る日だ。最初のシーンと同じ雨だが、出会ったころとは違っている。想い人は婚約者がいても主人公に惹かれた。主人公もまた、カフェで想い人を待った。頭を覆って駆けてくる想い人が、カフェの扉に手をかける。軽いベルの音と共に動くはずの扉が、今日は動かない。主人公が扉を必死に押さえているからだ。
冷たい雨に打たれる想い人を、店の中に入れてあげたい。温かいコーヒーを飲ませてあげたい。店主は客を閉め出すウエイトレスを見て激昂し、店内にいる客は口をぽかんと開けている。ガラス扉の外にいる想い人は、薄いガラスを手で叩いていた。
登場人物の声や息づかいのすべてを、映画の音楽が消した。カメラが主人公の顔を捉える。震える唇と細いあご、息をするたびに大きく上がる肩と胸。白目は真っ赤になっていた。少し痩せた頬を落ちる涙を、ガラス戸を伝う雨が隠す。鼻の頭も赤くする主人公の姿に、想い人はすべてを悟った。可憐な顔をよく見ようと、想い人がガラスを拭う。笙子と同じ瞳がその手を追い、ふたりの手は一枚のガラスを挟んで重なった。本当に泣いているのか、女優の喉が不規則に動く。認められない恋をするふたりの顔が、シンクロするようにガラス扉に近づく。
旋律から弦楽器が消え、ピアノの音だけになった。ガラス越しにふたつの唇が触れる。吐息で曇る間もないキスが終わり、先に主人公の唇が、次に荒れた手が扉から離れた。
想い人が去るまでの数秒間、映画から音が消えた。雨の音もピアノの音色もない。
無音になった館内で、洟をすする音がした。小さくなる想い人の背中にエンドロールが被さると、音楽が息を吹き返した。席を立つ観客が少ないのは、涙をとめようとしている人が多いからかもしれない。春樹の前に座る女性も、通路を挟んだ人も、下を向いて同伴者とうなずきながら、目や鼻の下を押さえている。
やはり女性向けの恋愛映画だなと思ったのと、喉がぐっとつまったのが同時だった。
(う……そだろ)
不覚にもという言葉がピッタリだった。鼻の奥がつんとして、エンドロールの文字が滲む。高岡の指が春樹の頬に触れたのは、焦ってハンカチをまさぐっているときだった。
「ご、ごめんなさい」
「静かにしろ。音楽を聴いている」
スクリーンを見る高岡の手の甲と指が、春樹の涙を拭き取っていく。何度もされた行為だ。当然のように伸びてくる手もお節介なのだが、高岡が拭いやすいように目を閉じ、顔を高岡に向ける自分も腹立たしかった。