ウエイトレスの恋・2
自宅マンションの廊下でチケットを取り出した。見れば見るほど女優が笙子に見える。愁いを帯びた瞳がきれいだ。笙子も悲しいとき、こんな目をするのだろうか。
玄関ドアを開ける直前、春樹の頬がひくりとした。
あの男と出会って半年以上経った今、狂犬探知機は割と正しく機能するようになった。ざわりとした感覚が、高岡の来訪を告げている。
春樹は淡々とドアを開け、棒読みで挨拶した。
「ただいま帰りました」
テレビを消した高岡が振り返る。眼光に射貫かれるのはいつものことだが、今日は光に押されるような感じがあった。押されるまま玄関の壁に背中がついたとき、高岡が何を見ているのか理解した。
作り笑いを浮かべて映画のチケットを後ろに隠したが、遅かった。頭を押さえられ、手首を捻られる。すがすがしいほど乱暴な手口でチケットを取り上げられた。
「何で捻るんですか! ちゃんと見せますよ!」
このサディストは言葉を惜しむ。手首を捻る前に「見せろ」と言えばいいだけではないか。春樹は手を掲げて大げさにさすった。
「見せろって言ってください。痛いです」
高岡がこちらを見た。片方の眉と唇の端が上がる。
「ご機嫌斜めだな。新田と行くつもりなのか」
端整だが侮蔑を隠さない顔の横で、ペアチケットがひらひらと振られた。
「違います」
突然、高岡はチケットを振るのをやめた。チケットを取ったときに写真部分は見たはずだ。妹の笙子にそっくりな女優に目がとまったなら、すぐに凝視するだろう。写真のために振るのをやめたわけではなさそうだ。
気まぐれ男の細かい行動など、どうでもいい。手をさするのをやめて高岡に向き直った。あまり薦める気にはなれないが、言わないのも変だろう。
「そのチケット、差し上げます」
「何故俺に? 新田は誘っていないのか」
「修一、修学旅行中なんです。それはクラスメイトからもらいました。上映が今日までみたいですけど」
薦めてしまってすぐだが、春樹の頭を後悔の二文字がよぎった。金曜の夜にSMクラブ経営者の高岡が暇なわけはない。考えてみれば映画の評判も知らないし、女優が笙子に似すぎているのも問題だ。
そもそも肉親によく似た少女が出演する恋愛映画を、観たいものだろうか。ラブシーンなどになれば、この男も人の子だ。穏やかな気持ちではいられないかもしれない。
誰かにあげてと言おうとしたら、高岡はチケットを二枚ともスーツの内ポケットに入れた。ダイニングテーブルの新聞をめくる。高岡の背後から新聞を覗いたら、映画劇場案内欄を見ていた。
「支度をしろ」
「はいっ?」
「小一時間ほどで始まる。金曜の夜だから道が混むかもしれん。早くしろ」
何故お前と観にいかなくてはならないのか。ここにはいかがわしい理由で来たのだろうが、仕事はいいのか。反論を組み立てようとした鈍い頭は、ソファに腰を下ろす高岡を見て活動を停止した。
チケットを出した高岡が下を向く。若くて美しい女優を、静かに見ている。わずかに首をかしげ、妹と同じ色の目を伏せ気味にした。
怪我をした伴侶を見守る狼が、こういう表情をしていた。ドキュメンタリー番組で見たことがある。
動かない春樹に高岡が鋭い目を向けるまで、数秒かからないだろう。春樹は急かされる前に寝室に入った。
気のせいだ。いつもの空回りだ。動物みたいな目をもう少し見ていたいと思ったことに、特別な意味などない。
久しぶりに映画館で映画を観るから、気分が上向いただけだ。一緒に行くのが高岡だとしても。