南風 〜はえ〜

南風 〜はえ〜・5

 門間が死んで一か月が経とうとしていた。
 捜査は難航しているようだったが、報道の表舞台からは消えつつあった。
 鴻野興産から門間の死が消えることはない。ただ、物件の管理や案内、集金など日々の業務に追われるうちに積極的な関心は薄れていった。
 門間は一度、組に出入りしていた。組織が欲しいものは構成員だ。組の者にならないかと誘いを受けたと、本人が自慢していたことがある。
 適性なしと判断したのは組織の側だった。門間が足を踏み入れたのは組事務所ではなく、鴻野興産の事務所だった。
 マスコミ取材もあった。しかし、鴻野興産が広域指定暴力団のフロント企業だとはどこも報道しない。何かしらの圧力の存在を考えたのは田村だけではないだろう。
 予定していた物件の案内も終わり、昼食を買いにいこうとしたときだ。
 組の幹部に雇われている弁護士が来社した。井ノ上は弁護士を知らないのか、一礼するも茶をいれようとしない。
「茶、出さなくていいのかよ。組の弁護士だぜ」
 水野が井ノ上に小声で言った。井ノ上は微笑んでうなずく。
「ややこしい話になると思いますから」
 加納が弁護士を連れて出ていく。食事をしながら話すのだろう。今日も自然な動きで扉を開閉した井ノ上は、のんびりと自分の席に座った。田村が訊く。
「弁当買いにいかないのか、井ノ上」
「はい。組からの電話があるかもしれません。落ち着いたら何か買ってきます」
 田村は財布を水野に渡した。
「悪い。全員分の弁当買ってきてくれ。おれがおごる」
 水野が田村の財布を片手に出ていった。田村は井ノ上に向き直る。
 脳内で鳴り響く警戒警報は、井ノ上の正体を暴けという危険な好奇心に屈した。
「気を悪くしたら謝る。お前、何した?」
 井ノ上はぽかんと口を開けた。
「水野がつぶれた夜、おれの部屋を出ただろ。何のためだ? あと、お前がここで留守番した日。何か持ち出さなかったか。ちょっとした書類とか」
 門間の件でうやむやになっていたが、メモ用紙は紛失したままだった。
「ああ……何か疑ってるんですか。無理ないですよね。おれは運転手として呼ばれれば組に接触しますし。普通じゃないって思いますよね」
 井ノ上が席を立つ。田村は井ノ上の腕をつかもうとした。強い力で手の甲を払われる。アザになるのではないかと思うほどの衝撃だった。
「南風が吹いたら、逃げるのが一番ですよ」
「なに……何いって」
「あなたはできる人だ。こんなところにいないほうがいい」
 井ノ上の目が最初に見たときと同じものになった。能面の目だ。
 電話が鳴る。ディスプレイに組本部の電話番号が表示されていたため、井ノ上が出た。はいといいえを数回言っただけで受話器を置き、給湯室に入る。
 井ノ上が振り向いたようだが、給湯室の入り口にかかるのれんで判然としない。
「田村さんの部屋に行ったの、楽しかった。ありがとう」
「なに言ってるんだ。また来ればいい。飲み会するんだろ」
「そうでした。早く彼女と仲直りしてくださいね」
 盆に湯呑みを三つ乗せて出てきた井ノ上には、あどけない笑顔が戻っていた。




 週末は久しぶりに休むことができた。
 門間がいたころは門間の代わりに出勤し、いなくなってからは仕事に忙殺された。それでも門間がいたころのほうがいい。明るい色に染めた髪も、あばたが残る顔も、もう見ることはできない。
 死んだら終わりだ。すべて波の向こうに消える。
 携帯電話を開いてマリに電話をする。つながらないと思っていた電話はつながり、マリはキャミソールを取りにきた。




 週明けの月曜日は空がよどんでいた。雲の位置も低い。
 いやな空ね、と言ったマリは田村より早く部屋を出た。マリが勤める会社は鴻野興産よりも都心にある。
 出社したとたん、田村は水野に給湯室まで押しやられた。
「井ノ上、帰ったんだって」
「……は?」
「九州に戻ったんだ。あいつ、あの歳で磯貝んとこの構成員なんだな」
「まさか。井ノ上の家は代々お抱え運転手なんだろ」
 水野の眉間に大きなしわが刻まれた。
「あいつの言うこと信じてたのか。ていうか、背中のアレ、見てないのかよ。あいつお前の部屋に泊まったって言ってたから、見たのかと思ってた」
「なに言ってんだ。背中のアレって何だよ」
「竜だよ。頭がふたつある竜」




 今朝珍しく早く出社した水野は、加納が電話で平謝りしている姿を見たと言った。社内電話には親子電話の機能もある。加納と組本部の人間が話していた内容は、およそこういうことらしい。
 門間はギャンブルの負けがこんで、組への上納金の一部に手をつけた。数回に渡って繰り返された行為に組本部は寛容ではなかった。
 ことの収拾を図るため、組織の者が送り込まれた。優秀で忠実な者が。
「門間もなあ。雀ゴロっていうだけで、組とは関係ねえのにな」
 井ノ上と三人で飲んだ店で、水野は顔を赤くしていた。遠くから雷鳴が聞こえる。田村は焼酎のロックを飲みほした。氷が空回りする音をたててグラスを置く。
「加納も気づかない程度の金をくすねた門間を殺すくらい、きゅうきゅうとしてるってことだろ。身内の家や土地とか、組がしぼり取れるものがありゃ死なずにすんだのかもしれないけどな。ヤクザってのは、カスだ」
「ばっ……か、お前!」
 水野が田村の口を押さえる。小さな目を左右に動かしていた。
 ばかばかしい。こんな話で田村たちがどうなるというのだ。
「おれ、帰る。何か疲れた」
 田村がうなるように言い、水野も同調した。雷雲が遠いうちに店を出た。