南風 〜はえ〜
南風 〜はえ〜・6
アパートまで五分くらいのところで雷鳴の間隔が短くなった。音はまだ遠いが空気は重く湿っている。
三人で飲んだ夜、水野を送り届けてからこの道を井ノ上と歩いた。
細く見えた背中に双頭の竜がいたなど、知る由もなかった。
『トイレ掃除んとき、蛇口にバケツが当たってよ。あいつが後ろにいるの知らなかったから、派手に水かけちまって。ふたりして服乾かしたときに、見たんだよ』
井ノ上の背中から腰にかけて、竜の入れ墨があったとのことだった。
組に出入りしていた門間が上納金に手を出した。門間の入院先を知りたくても、井ノ上には見舞う理由がないため訊くことができない。
門間から入院の知らせがあったとき、加納は病院名を書きとめたのだろう。殺害された従業員の入院先を書いたメモなら、なくして騒ぐのは当然のことだ。
書類を見なおしながら捨てる加納の癖を知っていれば、井ノ上もメモを持ち帰らなかったはずだ。情報を得た井ノ上は二日後に門間の病室に忍び、犯行に及ぶ。
退院を待たずに刺し殺し、一か月間関東にいたのは何故だろう。
「報復と……監視か」
田村は空気の匂いを嗅いだ。土臭く、金臭い。もう降りそうだ。
『南風が吹いたら、逃げるのが一番ですよ』
喉の渇きを覚えた。足もとを照らす光源を見る。飲料の自販機があった。アパートまで、これが最後の自販機だ。
財布を開けて何にしようか考えていると、人の気配を感じた。
田村を挟むように左右から何人も近づいてくる気がする。
ここは大通りから一本入った道に、直角で交わる細い道だ。飲食店が急に減り、古い公営住宅の裏手につながっている。街灯もまばらで夜は通る人も少ない。
田村はありったけの小銭を出した。次々に投入し、買えるだけ缶飲料を買う。
父が波間に消えたのも、こんな風の吹く日だった。
「違うよな。井ノ上を疑ったからって、違うよな」
ジャケットとシャツを脱ぐ。シャツの裾をきつく縛ってボタンをすべてはめる。袋状になったシャツを裏返して缶飲料を放り込み、袖で襟部分をふさぐように縛った。
田村は喧嘩が苦手だった。これは昔、一度だけやったことだ。
缶飲料入りシャツを振り回して暴君を殴り倒す。高校のとき、この方法で相手の歯を折った。停学処分をくらったくだらない思い出に、今はすがるしかない。
右からも左からも大勢やってくる。田村は凶器のシャツを持って構えた。
(ちがうと言ってくれ! 井ノ上!)
シャツを振り上げかけた田村を賑やかな声が包んだ。
総勢二十名近い男女の一群が手を取り合って笑っている。
あの交差点じゃなかったの、とか、この携帯の地図おかしいし、という声がする。
待ち合わせをしてすれ違った若者たちがここで落ち合った。
それだけのことだった。
「……ばかみてえ」
数人の若い女がこちらを怪訝な目で見る。田村は上半身下着一枚で、自販機の前でおかしな構えをしている。缶飲料でごつごつしたワイシャツを手に「ばかみてえ」とつぶやく。立派な変質者だ。
陽気な一団が去っていく。田村はその場にしゃがみ込んだ。
シャツの袋に雨粒が落ちる。顔を上げると、眼鏡にも数滴落ちた。
大きな雨粒が、欠けていた記憶を呼び覚ました。
井ノ上を泊めた夜、井ノ上は田村の部屋から一度出た。酔ってはいたがどこかで警戒していた田村は、井ノ上のあとをそっと追った。
年若い構成員は、ちょうどこのあたりで携帯電話を開いたのだ。自販機と街灯の間くらいのところだった。
携帯電話の四角い光で足がとまった。井ノ上がこちらを見た。
平然とした顔で、携帯電話に向かってこう言った。
『門間は欠勤しています。近日中に、必ず』
何故門間の名と欠勤を知っているのだろう。ああ、おれと加納の話を聞いていたのか。しかし近日中に必ずとは、どういう意味だ。
そう思ううちに井ノ上が目の前に来ていた。能面のような目に見据えられた。
『田村さんは足音が消せるんですね。はいこれ、酔い覚ましです』
井ノ上から手渡された錠剤を、自販機で買った飲料で飲んだ。
そこから朝までの記憶がない。
(薬で眠らされたか)
十八の子どもが背中に消えない竜を彫り、命じられれば上京して人殺しをする。
門間には地方に住む祖父がいる。団地の錆びた鉄扉を背に困惑しながら答える姿をテレビで見た。疎遠でも孫が殺されたのだ。忘れることなどできないだろう。
田村も忘れられそうにない。警察に告げれば片棒を担ぐ気分はおしまいだ。命も終わるだろうけれど。
自販機にもたれる。だらしない格好で雨に打たれる田村を見る人はいない。
井ノ上の背から竜がいなくなる日は、井ノ上がこの世から消えるときだ。
双頭の竜など今すぐ去れ。不気味な生きもののすみかは、人の背中ではない。
『田村さんの部屋に行ったの、楽しかった』
「……ばか野郎。おれ、マリと仲直りしたぞ。飲み会するんじゃなかったのかよ」
銀色に光る雨を降らせるどす黒い雲を、田村は体の芯が冷えるまで見ていた。
< 了 >
創作漫画サークル Comic Ocean 様に別名で書いた漫画原作です。加筆修正しました。
『Cufflinks』より約二年前のお話です。井ノ上は『Cufflinks』に出てくる井ノ上です。
鴻野は『Cufflinks』に出てくる壬のパトロンです。鴻野興産は準構成員に事業譲渡済。
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