南風 〜はえ〜

南風 〜はえ〜・4

 事件はそれから二日後に起きた。
 携帯電話から聞こえたのは、水野のひっくり返った声だった。
「もっ、もんま! 門間が死んだっ!」
 カレンダーを見た。四月一日ではない。冗談では────ない。
「テレビつけろ!」
 水野が叫ぶ。慌ててつけたテレビには病院が映っており、仮病で悩ませてくれた同僚の氏名、年齢などがテロップで表示されていた。
 今日の未明、病床で発見されたときには死んでいたらしい。刃物で刺されて失血死、不審な人物の目撃情報は皆無、が、今わかっていることだった。
「加納もパニクっててさ。ゴミがどうのとか言ってんだよ」
「ゴミ?」
「メモをシュレッダーにかけてたら、一枚なくなってたんだと」
「こんなときにメモってなんだ。シュレッダーなんかかけてる場合じゃないだろ」
「社長が来るっつってたから掃除したんだろ。勝手に捨てなかったかってうるさい、うるさい。頭んなかごちゃごちゃなんだろうけど」
 田村はリモコンを畳に置いた。胸が嫌な感じでざわつく。
 個人情報が書かれた書類はすべてシュレッダーにかけている。電話の控えなどのメモ用紙も例外ではない。一日の量はそれほどではないため、数日から一週間分をまとめて処分していた。
 加納は変なところで細かい。処分する際、書類に目を通す癖がある。
 ふと、二日前を思い出した。あの日はほぼ一日、事務所は井ノ上だけになった。
 十九歳になろうとしている井ノ上がメモ用紙を漁る姿が脳裏に浮かぶ。
(まさか。井ノ上がそんなもの盗んで、何になるんだ)
 誰にでもわかる書類ならともかく、ただのメモだ。それもたった一枚の。
「まずは出社だ。社長が来るなら、おれらも急いだほうがいい」
 水野は、そうだな、を繰り返しながら電話を切った。




 事務所にはすでに井ノ上がいた。スーツを着ている。
「あ、田村さん。大変なことになっちゃいましたね」
 青い顔の井ノ上が田村の隣に座った。井ノ上のスーツ姿は初めてだった。
 出向初日とその翌日はジップアップの上着とワイシャツ、百円ショップでも売っているようなネクタイという服装だったし、他の日はひとつボタンのジャケットとTシャツにジーパンだった。他で着る機会が多いのか、スーツはそれなりに合っていた。
「おい。社長来たぜ」
 水野が田村に耳打ちする。田村はバネ仕掛け人形のように起立した。井ノ上は音もなく立ち上がって扉を開ける。滑らかで速い動きだった。
「加納。説明しろ」
 黒塗りの車から降りてきた鴻野社長は、ふたりの男を従えていた。鴻野はダークグレーのスーツ、ふたりの男は黒のスーツだ。
「それが、報道以上のことは何ひとつ……」
 加納は汗ばかり拭いていた。田村と水野は自分の席の脇で下を向いている。
「そういえば……田村! 門間が最初に休んだ日、腹が痛いって言ったんだよな。電話だったのか? どんな様子だった!」
「電話でした。あまり痛くはないような感じでした」
 麻雀牌の音がしました、とは言わなかった。
 鴻野が目だけでこちらを見る。急に顔をそむけては不自然だと思い、田村は視線も体も動かさないようにした。鴻野の目が視界からなくならない。
 横長の目が井ノ上に少し似ている。が、鴻野の目は人を制圧する歪んだ熱気を帯びていた。威嚇するのではない。最初から自分のほうが力があり、上に乗るのは自分なのだと信じて疑わないものがある。暴力団関係者特有の目だ。
 井ノ上の、つかみどころのない目とは違う。
 加納がソファにかけるよう勧めて、ようやく鴻野の視線が外れた。
「そ、そのときは、痛みが、ひどくなかったんでしょうね」
 加納がしどろもどろに言った。仮病の常習を黙認していたとなれば責任問題だ。応接ソファに腰を下ろした鴻野が脚を組む。付き添いの男たちは座る様子がない。加納が汗を拭きながら対座する。
 茶をいれるべきか一瞬迷った。迷った隙に井ノ上が給湯室に向かった。水野から安堵のため息が漏れる。
 井ノ上の出社に感謝しているのは、田村だけではないようだった。




 鴻野が帰ってから、ひっきりなしに電話が鳴った。主に組関係の電話だ。
 井ノ上は取り次いでも具体的な返答はしない。ただ、高圧的かつ腹を探るような話し方に抵抗がないのか、客からの電話よりはスムーズに応対していた。
 昼時になっても電話は頻繁にかかり、田村は弁当屋に買い出しにいった。水野がついてくる。気持ちはわかるので好きにさせた。
「井ノ上が来てくれてマジ助かった。やっぱ怖いな、本物は」
 ふたりとも自販機で冷えた飲料を買う。
 ゴトンという落下音で、水野が酔いつぶれた夜がよみがえった。
 あの夜、確かに井ノ上は一度部屋を出た。
 錯覚ではない。アパートの扉を静かに開ける井ノ上の後ろ姿を見た。
(何をしに……?)
 弁当を提げる田村が立ちどまる。
「南風が……吹いてる」
「ハエ? どこに?」水野があたりを見回す。
 南風など思い出したくもない。父を連れていった風だ。
 田村は何も答えずに大股で進んだ。