南風 〜はえ〜

南風 〜はえ〜・3

 水野の部屋から出ると同時に雨が降り出した。田村と井ノ上は傘のないまま帰路につき、ずぶ濡れで田村のアパートの階段を上がった。
「ひでえ雨だな。水野転がしとかなくてよかった」
 部屋に入るなり田村が言った。井ノ上が笑い、靴を揃えながら田村を見上げる。
「田村さんはそんなことする人じゃないですよ」
 諭されたような気になり、思わず井ノ上を睨みそうになった。運転手でも暴力団と接触する男だ。息を深くして、極力角のない声を出した。
「風呂は好きに使ってくれ。部屋、カタしとくから」
「すいません。お言葉に甘えます」
 シャワーの音がするなか、部屋を片づけた。二日続けての深酒に足がふらつく。今朝はゴミを捨てただけだ。昨夜マリが投げた灰皿や食器の類はそのままだった。
 携帯電話を開く。マリからの着信も、メールの返信もなかった。
 胸ポケットを探るが、煙草が湿気っていたため舌打ちして畳に寝転がる。井ノ上と交代で浴室に入るのはやめた。正体の知れない男に、自分が見ていないところで部屋の中をうろつかれたくない。
 浴室から出て水を飲んだ井ノ上が、窓の外を見た。
「南風が吹いてる」
 ハエガフイテル。
 昆虫のハエではない。田村にはわかる。
 空がくすんでいる日、海に出ると吹いていた。あの風が吹くと海は荒れた。田村の父は南風が吹く日、波にのまれた。二度と岸に帰ることはなかった。
「カノジョのですか?」
 眠そうな声がした。井ノ上の手にはピンクのキャミソールがある。
 片づけたと思ったのだが。
「ああ。忘れてった」
「いいなあ。東京の人ってきれいですよね。おれも彼女欲しい」
「向こうにはいないのか?」
 キャミソールを取り上げる。井ノ上はあくびをして、ふすまにもたれた。
「高校のときはいましたけど、おれが中退したらそれっきり。田村さん、いくつです? なんか年齢不詳ですよね」
「二十四。井ノ上は? 十代に見えるけど」
「当たりー。来月で十九です。そうだ。今度彼女入れて、飲み会開いてくださいよ。お願いします」
 井ノ上が顔の前で手を合わせる。今になって酔いが回ってきたのだろうか。ぺこぺこと頭を下げる姿からは凶暴な臭いは一切しない。
 酒が入っていることもあり、田村の警戒心がゆるんだ。
「彼女とは喧嘩してるから、仲直りしたらな」
 あざーす! と言って井ノ上が大の字になった。タオルケットをかけてやる。田村のスウェット上下を身につけた井ノ上は、高校生といっても通るほど幼く見えた。
 年齢不詳とはよくいったものだ。田村は高校時代は大学生かと言われ、今は服によっては高校生に見られる。中肉中背で、とにかく印象が薄い。
 田村は携帯電話のアラームを設定して蛍光灯を消した。
 夜半に一度、井ノ上が部屋を出たような気がした。
 窓から入る南風がみせた錯覚なのだろう。




 翌日、ケビョウこと門間が欠勤した。虫垂炎で入院したとのことだった。
「マジで腹痛くするなんてな。盲腸やってなかったのかよ、あいつ」
 水野が管理物件の書類を見ながら缶コーヒーを飲む。田村の机にもいつもの缶コーヒーがあった。水野は何の疑問もなく飲んでいるが、これらは井ノ上が始業前に買ってきたものだ。
(あいつ……水野の好きなコーヒーもわかってるのか)
 玄関が開き、掃除道具を手にした井ノ上が入ってきた。
「外掃除すみました。机、拭きましょうか」
「今はいい。加納さんとおれは入居予定の物件に行くし、水野は集金があるから」
 鴻野興産が扱う物件には、家賃を分納する住人も住んでいる。大家に代わって集金し、滞納を臭わせたら「出向」組の出番だ。
 トラブルを起こさず取りこぼしがないようにするのは構成員の処世術を磨くらしく、鴻野興産にとっても迷惑なことではなかった。
「じゃあおれ、ひとりでここにいるんですか。大丈夫かなあ」
 井ノ上が眉を八の字にして言う。田舎の子どものようだった。
「うちは物件のチラシ入れないし、電話もそんなにないから心配すんなって。便所や昼飯んときは、留守電にしとけばいい。田村の携帯に転送されるから」
 昨夜ノックダウンした割に水野は先輩風を吹かせていた。田村は水野に見えないように笑った。
 井ノ上に電話の操作を教えていると、加納が喫茶店から戻ってきた。暑いからと脱いでいたスーツのジャケットを羽織る。
「何かあったら田村に電話しろ。外人さえ入居させなきゃ、何しててもいい」
 加納が社を出る。田村は社用車のキーを取り、心細そうな井ノ上に手を振った。