南風 〜はえ〜
南風 〜はえ〜・2
鴻野(こうの)興産。表向きは不動産仲介業だが社長の鴻野は広域指定暴力団の構成員だ。利益の一部を組に提供している。要は暴力団のフロント企業である。
そうと知っていたなら田村も入社しなかった。アパートの更新月が迫り、米びつの底も見えていなかったなら避けたと思う。
鴻野は滅多に出社しなかった。加納は鴻野の遠い血筋で、暴力的な仕事はしたことのない人物だった。できないのだろう、と、酒の席で水野と話している。加納はその程度の器だ。
だが、磯貝となると話は違う。
組本部は関東にあるが、もとは九州で生まれた組織だ。九州にある同系の組を束ねる四代目が磯貝だった。世間でいう何々会系何がし組、というもののトップを務める磯貝は冷酷だと聞く。
劣悪な環境で苦しむ風俗嬢らを、南に来れば逃げおおせられると誘う。ヒモや店から逃がしてやり、組が管理する店で使い物にならなくなるまで囲い込む。磯貝の息がかかった店から逃げられた女は、ひとりもいないという話だった。
「田村さん。そろそろお昼ですよね」
井ノ上の声がした。正午を回っており、水野はいつの間にか姿を消していた。
「外で食べるんですか? このへん、高いでしょうか」
「おれはコンビニで買うことが多いよ。電話番しなきゃいけないし」
言いながら加納を見る。加納が田村の視線に気づいた。
「いいぞ。外、行ってこい」
田村は礼を言い、井ノ上とふたりで外に出た。
形式的に組を脱退した構成員が「研修」に来たり、現役の構成員が「出向」したりすると、普段は電話に出ない加納も電話の前にいることが多くなる。構成員たちの様子を訊かれるのだろう。
先に歩く田村の後ろから、井ノ上がきょろきょろしながらついてきた。
井ノ上は健啖家だった。この定食屋は昼食時に限り、キャベツの千切りと白米と味噌汁がおかわり自由だ。井ノ上はそれらをすべておかわりした。
若いとはいえ、痩せた体のどこに入るのか。小食の田村は食べっぷりに見惚れてしまった。
「マグロの唐揚げなんて初めてです。うまかった。八百円で釣りがくるんですね」
「まあ、東京っていってもピンキリだから」
田村と井ノ上は公園に立ち寄った。いいと言っても井ノ上は缶飲料を買ってきた。鴻野興産で「誰それさんのところから来た」というのは、現役構成員の出向を意味している。暴力団構成員に缶コーヒーなど買わせてよいものかと思ったが、井ノ上は今までの構成員とは様子が違った。
暴力団などに属する奴らは社会生活に順応できない。今までにも何人かの構成員や準構成員、元暴力団関係者たちとかかわってきたが、うわべはおとなしくても、皆、醜い内面を持っていた。
自分が適応できないことを棚に上げて、世を、他人を憎み、ばかにする。口癖は「おれには学がねえから」か「あんたらは幸せだな」だ。言い訳と失敗を繰り返す人生を送る者は、水野や田村と数回昼食を共にしても、ある日突然単独行動をとる。こちらの何気ない身の上話や笑いで、勝手に立腹して傷つくというわけだ。
子どものまま大人になってしまったような彼らの相手は疲れる。食事や酒の席も、店を教えるために連れていく程度にしていた。井ノ上にも飲食店街を数箇所教えるだけのつもりだったのに、気がつくと公園に同行していたのだ。
ベンチに浅く腰かけている田村に、井ノ上がにこにこして歩いてきた。手渡された缶コーヒーを見て、井ノ上を凝視しそうになる。田村が毎朝飲むものと同じだった。今朝も出社途中で買い、社内で飲んだ。机を拭くときに見ていたのだろうか。
「田村さんは入社して何年目ですか?」
井ノ上が憎めない笑顔で田村を見る。十代なのかもしれない。
「三年目。井ノ上くん……井ノ上さんは、東京での仕事は初めて?」
「呼び捨てにしてください。三年であんなにできるんだ。すごいなあ。おれ、ガソリンスタンドのバイトと運転手しかしたことなくて。東京も初めてですし」
「はあっ?」
大きな声になってしまい、田村は冷や汗をかいた。井ノ上が笑う。
「もしかして、組の者だと思いました? おれにそんな度胸ないですよ」
「でも、磯貝さんとこの」
「うちは代々、運転手として磯貝さんに仕えてます。昔は寝起きを共にしてたらしいんですけど、もう時代も違いますし。そういうのは全部、ほんとの構成員がします。安心してください。盃も交わしてないですし、墨も入ってませんから」
井ノ上は袖を二の腕までたくし上げた。確かに入れ墨はなかったが、田村は目を見張った。発達した筋肉と太い骨しかないような腕だったからだ。
「腕、ごついですよね。兄貴が漁に出るとき、手伝ったりするから」
照れた井ノ上が袖を下ろす。お抱え運転手の家系というだけで東京の企業舎弟まで来るものなのか。
(以前にはこういう例があったのかもしれない。考えるな)
注意力散漫になった。終業後の酒の誘いに、田村は首を縦に振っていた。
本当のうわばみは初めて見た。座敷でノビている水野とは対照的に、井ノ上は顔色ひとつ変えていない。弱くはない田村でも、胸までシャツの前を開けてメニューで扇ぐのは久しぶりだ。
「水野さん大丈夫ですか。すいません、気ままに飲んじゃって」
「いい、いい。水野のことなんか。すごいねあんた」
あんたと言ってしまってから青くなる。机に伏せるふりをして井ノ上を見るが、別段怒ってはいないようだった。
「酔えないのもつまんないですよ。おれ、水野さん送ります」
漁の手伝いで鍛えたのか、井ノ上は水野を軽々と起こした。意識のない成人男性を、荷物を担ぐように引き上げる。そのまま背負いそうな勢いだった。
「水野の部屋はバス停でひとつだから転がしとけば目が覚めて帰る。それより終電ないだろ。どうすんだ」
「あ。帰り、考えてなかった」
しれっとした言い方は軽く、暴力団構成員とは思えない。異質に感じた横に長い目も、今は酒のためか少し柔和に見える。
「送らないとまずいですよ。六月といっても急に冷え込みますし。東京ならなおのことでしょう。今夜、夜中に雨降るって言ってましたよ」
井ノ上の肩で水野がいびきをかき始めている。田村の口もともゆるんだ。
「それもそうだな。水野送ってから、おれの部屋来るか。少し歩くけど」
謝辞を繰り返す井ノ上と共に水野を支え、空を見上げた。低い雲が水の重みに耐えかねているようだった。