南風 〜はえ〜
南風 〜はえ〜・1
携帯電話が鳴っている。鳴りやみそうにない。
田村は畳の上の電話を取った。『ケビョウ』と表示されている。
「……なんすか」
「田村? 悪ぃ、オレ。腹痛くてよお」
ケビョウの仮病が始まった。麻雀牌をかきまぜる音がしている。
「病院、行ったらどうですか」
ケビョウというのは同僚の門間(もんま)という男だ。今月に入って五回目の仮病だった。当然の忠告をしたくもなる。
「ああ? てめえ、今、なんつった」
門間の声はドスがきいていた。無理にきかせているのは明らかだが、門間は無害な人物ではない。田村は起き上がりながら言った。
「すんません。ちょっと嫌なことがありまして」
「人間生きてりゃそーゆーことあるよな。オレも腹痛くて気分悪いんだわ。お前の言い分はよーくわかる。わかるけど、歩けそうにもないんだわ」
「……おれ、今日出勤します。お大事にしてください」
おーう! という、元気な声を残して電話が切れた。田村は布団の上であぐらをかいたまま頭をかきむしった。電気シェーバーで髭をあたる。
「いって……」
シェーバーの刃にあごを咬まれた。眼鏡をかける。外刃の一部が欠けていて、傷のできた内刃が肌に当たったようだ。
「マリのやつ。派手にやってくれたよな」
立ち上がったとたん、頭がくらくらした。昨夜どれだけ飲んだのか覚えていない。台所で歯磨きと洗顔をする。石けんがあごにしみて目が覚めた。
着替えの途中で酎ハイの空き缶を踏んでしまい、ゴミ袋を手に部屋を一周した。コンビニ弁当や雑誌、アルコール飲料の空き缶を放り込んでいく。
ピンクのキャミソールが布団の下から出てきた。返すべきか逡巡する。携帯電話からマリの番号を消すつもりはない。
いつもの喧嘩の、少し派手なものとしてとらえたかった。
『昨夜は悪かった。忘れ物、取りにくる?』
マリにメールを送信した。返信は来ない予感がした。
田村の勤務先は都内の古いビルの一階にある、小さな不動産会社だった。
出勤してパソコンを立ち上げていると上司のダミ声がした。
「新入りだ。紹介する。こっち来いや」
上司とは名ばかりの加納(かのう)の口調は、普通の企業では考えられないものだ。だがそれも二年も勤めると慣れる。田村はもうひとりの同僚である水野と共に、ホワイドボードの前に向かった。
加納の脇に立つ男は二十歳前後で痩せ気味だった。短い髪が脱色されている。肌が浅黒い。顔の輪郭も骨ばっているが、華奢な感じはしない。一重まぶたの目が能面のものに似ていた。横に長く、表情が一切ない。
田村の警戒本能にスイッチが入った。どこかが常人とは違う。
「あー、イノウエだ。変わった字なんだよな。そこに書け」
「はい」
イノウエがホワイトボードに自分の氏名を書く。
井ノ上 直也
田村と水野が顔を見合わせる。
どこが変わった字なんだよ、と、互いの目が言っていた。
「井ノ上です。九州から来ました。よろしくお願いします」
「磯貝さんとこから来た。お前らどっちでもいいから面倒みてやれ」
イソガイのひと言に緊張が走った。水野が田村の背中を押す。
「九州なら、田村が四国出身だから、近いっすよね。じゃ、外掃除してきます」
水野は脱兎のごとく戸口に向かった。こんなときだけは素早い。井ノ上が田村に深く頭を下げた。
「若いし覚えはいいだろう。そういや門間はどうした」
「腹痛がするそうです」
またか、と言い残して加納が出ていった。念入りに外掃除をする水野の頭を小突いていく。喫茶店に行くのであろう。加納も水野も、田村が本日休みの予定だったなどとは露ほども気にしていない。
名前を消した井ノ上が振り返る。十代の少年のようにあどけない笑顔だった。
「何からやりましょう。おれ……ぼく、こういう仕事初めてで」
「おれでいいよ。客がいなければ。机の上でも拭いてもらおうかな」
田村の声が変にうわずる。敬語にすべきかと思ったが、必要以上にへりくだって機嫌を損ねることが怖い。
相手は磯貝────磯貝組長のもとから出向してきた者なのだ。
井ノ上は速く、そこそこきれいに作業をこなした。隅々まで拭かず見えるところは一度で清潔な見た目にしていく。
田村は井ノ上から視線を外さないようにパソコンに向かった。