NOVEL

光の当たる場所2 緋色の妄執 -2-

 どれだけ君に嫌われようと、僕は君が好きだから。

 意味深な台詞残して、放置すんなよ。バカ野郎。どうせ深い考えなんてなくて、適当に言ってるだけのくせに。アンタにとってはそうじゃなくても、俺にとって『好き』とか『愛してる』って台詞は特別な言葉なんだ。俺の事何とも思ってない奴に言われたら、傷付くんだよ。そういう男だって知ってて傷付いてる俺は、本当大バカで救いようないけど。
 傷付くだけだから。一緒にいても、傷付けられるだけだから。信じたり愛したり心許したりしたら、ズダボロにされるだけだから。なのに、引きずられてる。拒めなくて、逃げられなくて、それどころか声かけられてほいほい付いてきたりして。バカだ、俺。
 確かにあいつには何言っても無駄だし、抵抗しても無理矢理連れて来られてただろう。厭だと言っても、嫌いだと言っても、あいつには通じない。まるでこたえない。傷付けられるのは、いつだって俺の方だ。俺ばかりが空回りで。
 続き間の方で、ドアが開く音がした。
 どきん、とした。だけど、こちらから声をかけるのも何だか待ってたように思われそうでシャクだと思った。息を詰めて、隣室に耳を澄ます。バタン、ガタン、と何か探す物音が聞こえてきた。不意に、変な気がした。ここへ来てまだ荷物すら広げてないのに、今日来たばかりの部屋で捜し物なんてするか?
 慄然とする。全神経を研ぎ澄ませて、そっとドアに近付く。ドアの隙間に顔を寄せた、その時。
「!?」
 ドアが開かれた。そこに立っていた見知らぬ男に、確信を強めて、身を沈めた。
「なっ……!?」
 先手必勝。左足で下段攻撃。足払いをカマしてバランス崩させ、すかさず右拳を腹に叩き込んだ。派手な音と悲鳴を上げて、男は床に倒れ込んだ。
「うっ……うわっ……!!」
「俺は今、機嫌が悪いんだ」
 相手にまたがり全体重をかけ、肘で胸を押さえつけた。
「何をしようとした?」
「……君……だっ……誰……?」
 身長は一八九cm。顎ひげを生やし、目を丸く見開いて驚いた顔で。年齢は四十前後くらい。年の割に表情が幼い。目元と口元に皺があるが、それが無ければ三十代後半と言っても通じそうなオヤジだ。
「答えろよ。お前の名は?」
「し……じょう、たすく」
 しじょう、たすく?
四条佑[しじょうたすく]だよ。君、誰?俺……どうも部屋間違えたみたいで……」
  四条佑! それってあれだ!! 四条界[しじょうさかい]の父親。久本貴明の二番目の兄で、数少ない友好的人物。
「あっ……!!」
 慌てて飛び起きた。
「ごっ……ごめっ……俺っ……!!」
 カッと頬が熱くなった。びっしょりと全身に汗が吹き出した。ぐるぐると回って言葉が口から出てこない。混乱して、呆然と見つめた。
「ああ、いや、俺も人の部屋だと知らずにがさがさ物音立てて、寝室急に開けちゃったからね。俺、ボケで不注意で、息子にもしょっちゅう怒られてて、だから悪いのは俺だよ。……あー、でもちょっと痛かったな。結構力あるね? 武道か何かやってたの? あ、名前は? 俺覚えが無くて。外国行っててこっちほとんど来ないから。申し訳ないんだけど」
 耳まで熱くなった。顔から火が出るとはこの事だ。
「あ……すみません。俺……な……『九頭竜久遠』で……」
「あ! 久人君の忘れ形見? 久遠君か!!」
 すっとんきょうな声で叫んで、四条佑は両手で俺の手を掴んでぎゅっと握りしめた。
「なっ……!?」
「貴明が君のお父さんに昔お世話になって!! そうか!! 久遠君か!! こんなに大きくなって!! 話には聞いてたけども!! 俺の息子、界って言うんだけど君と同い年で!! まあ、仲良くしてやってくれないか!? あいつ、日本に友達いないから拗ねててね!!」
 テ……テンション高い……つーか……この男、一体何? 良く覚えてないけど、久本とは一回り以上離れてた筈で──中三の息子がいるんだから、イイ年な筈、だが……。
 とっちゃん坊や、という言葉が脳裏をよぎった。握りしめてくる手を、失礼に当たらない程度にやんわりと外しながら、俺は相手を観察した。どう考えても童顔だ。言動するとますます年齢不詳。
「あの、すみませんが……」
「ああ!! ごめん!! ひょっとして寝てた? そうか、そうだな。寝てる時にこんなおかしなおじさんが入ってきたらそりゃ怯えるね。ごめん、ごめん、悪かった。お詫びにごちそうするから、俺の泊まってる部屋来ないかい?」
「……は?」
「ほら、袖すり合うも多生の縁って言うだろう? ここで君と出会ったのも縁だから、一緒に飲もう!」
 何だと?
「あの……俺、未成年……」
 ってそういう問題じゃなく。
「大丈夫、大丈夫! うちの界も結構イケるクチだから。四条の連中が飲めるのは、全部九頭竜の血のおかげだしね。君のお父さんも、アルコール強くてね。俺は何度潰された事か。いつか飲み勝ってやる!と心に決めてたんだけど、結局最後まで負けっ放しで……。どうだい? おじさんと飲み比べしないかな? 久人の思い出話を酒の肴にしてさ……」
 それはマズイ。俺は九頭竜久人の事何も知らない。
「その……すみません、俺……っ」
「そう言わずに!! 俺、ロスに住んでるんだけど、友人におみやげでおいしいスコッチを貰ってね。貴明と飲もうと思って持って来たんだけど、何処に行ってるのか行方不明だから、ここはもう、二人で飲もうよ! これはもう、そうしろって神の思し召しだから!!」
 何言ってるんだ? この男。久本貴明以上の訳判らなさだぞ。一体どんな論理だ。理解不能。大体何なんだ、この異常なテンションの高さと言ったら……。
 その時、ドアがコンコン、とノックされた。
「……はい?」
 警戒しつつ、ドアを開けると、そこに立っていたのは、仏頂面の茶髪少年。俺と同い年くらいの……。
「……こ、んば……んは」
 まるでこの世の全ての不幸をかき集めて噛み潰したような顔をしている。金髪に近いくらいの薄い色素と白い肌。その陰鬱な表情さえなければ派手な男間違いなし、だ。なのだが……。
 長い前髪の間から伏し目がちの瞳が、見上げるようにおどおどと俺を見つめる。
「……本当に……すみませんが……」
 ためらいがちに、下唇を示しながら、ちらちらと俺を見て。厭な予感が脳裏をよぎった。
「こっちに酔っ払いの……バカ親父……が……その……来て……いません……か?」
 耳に三連ピアスなんか付けてるのに、おどおどしたどもり声で。
 コレが四条界かよ!! ……なんだか物凄く厭な気分になった。一時的にせよ、こいつの名を騙った過去がどうしようもなく、厭な感じに甦った。……最低。
「……佑さん」
 俺はきょとんとした顔で振り向くとっちゃん坊やを振り返った。
「うん、何? 久遠君」
「息子さんです。お迎えにきたようですけど」
「あっ! 界か!! ……界、久遠君と三人で酒盛りしないか? 貴明は出掛けてて連絡付かないしさ、ここはあいつ抜きでぱあっと……」
「ふざけんな! !クソ親父!!」
 その大声に驚いた。四条界は真っ赤な顔で怒ってる。さっきまでの陰鬱な表情に比べるとずっと血色良くて、心なしか生き生きとして見える。つかつかつか、と部屋の中へ入って来たかと思うと、四条佑の襟首を引き掴んで、ぐいと引っ張る。
「……俺にあまり恥かかせるな。世話ばっかりかけやがって……お前のおかげで俺はどれだけ恥ずかしい思いしてるか……!!」
 父親のシャツの襟をぐっと握りしめてふるふると震えながら、耳まで真っ赤に染めて、押し殺した声で言う。
「何怒ってるんだい? 界」
「この無自覚バカ!! 人様に迷惑かけんなって何度言ったら判るんだ!!」
 ……気持ちは判る。心の中でそっと手を合わせた。
「訳が判らないよ? 界」
「バカは死ななきゃ治らないんだよ!! 人様に絡んでないで、さっさと来い!! この大バカ親父!!」
 界少年は父親を引きずって部屋を出て行った。出て行く寸前に、真っ赤な顔でぺこり、と一礼してから。
 ……何となく、久本貴明のルーツの一端を垣間見たような気がした。血の繋がりは無かった筈だが。事実、顔は似ていないし。でも中身は似てるんじゃないかと思った。人の話を聞かない辺りなんか特に。っつーかそんなとこ似ててどうするよ? 久本貴明。
 それにしても。……久本のヤローは一体何処へ行ったんだ?

 結局、朝になるまで帰って来なかった。待ってた訳じゃないが何となく徹夜してしまった俺は、ぼーっとした頭をすっきりさせるためにシャワーを浴びることにした。服を脱ぎ捨てて、シャワールームのドアを開けて、目玉をひんむく羽目になった。
「久本!?」
 呆然として、頭が真っ白になる。かつて湯であったろうと思われる水を張ったバスタブの縁に頭を乗せ、スーツ姿で寝こけてる男一名、発見。
「こら! てめェ! 久本!! バカ!! 何寝てんだよ!! こんなとこで!! アンタいちいち人迷惑なんだよ!! 起きろったら起きろ!! この大バカ!!」
「……ん……」
「寝惚けてんじゃねぇよ! とっとと起きろ!! このバカ野郎!! 年下に迷惑かけてんじゃねぇ!! 世話焼かすなよ!! ジジイのくせに!!」
 揺さぶり起こす。
「あれ……? 龍也君じゃないか……」
「龍也君じゃないか、じゃねぇだろ!! お前まだ寝惚けてんのか!?」
 焦点の合わない目つきで俺をとろんと見つめる。……睫毛が長い。年の割に妙に幼く無防備に見える表情で、薄く口を開けて見上げる瞳に、ぞくりと来た。
「おい……目ェ覚ませよ……」
 声が、掠れた。
「もう少し、眠らせて」
 そう言って、こつん、と俺の胸にもたれかかってきた。
「なっ……バカ!! 何言ってんだよ!! 寝惚けやがって……っ!!」
 ぎゅうっと物凄い力で抱きしめられて、そのまま押し倒される。
「やっ……やめろよ!! 久本!!」
 思わず叫んだ俺の耳元に聞こえてきたのは、安らかな寝息。
「…………」
 本気で殺意覚える。
「二秒で熟睡かよ?」
 コップ一つ洗えない上に、寝起き最悪で、寝付きは良いと来た。いや、いぎたない、というんだな。コレ。……どういう意味だったか忘れたけど、昔俺がいつまでも寝てたら、兄貴が布団めくり上げて言ったんだ。

『いぎたない奴だな、さっさと起きろ』

 不意に、つんと込み上げてきた。……ひどく、遠い過去になってしまった気がする。ずっとあると思ってた。失うかも知れないだなんてただの一度も考えなかった。俺の日常。思い出すと胸が締め付けられる。だけど泣かない。泣いたって何も変わりやしないから。何より、俺は兄貴と広香のいない生活に慣れ始めていた。
 忘れたくない。忘れたくなんかない。過去の思い出なんかにしたくないんだ。だって俺には現実だった。当たり前のことで、明日も明後日も続いていく筈だった。記憶が希薄になっていくのが、忘れ去ってしまうのが、たまらなく怖くて。俺を置き去りにして、連絡一つよこさない兄貴。最初は悲しくて苦しくて辛かったのに、今は随分平気だ。それがたまらなく厭だった。俺が兄貴を、広香を忘れてしまうとしたら、大切だった何もかもがその価値を薄れさせてしまうとしたら、それはきっと俺を捨てた兄貴のせいだ。俺を一人残して何処かへ消えてしまった兄、中原英和のせい。もはや恨み言なのか愚痴なのか、責任転嫁か言いがかりか、判らなくなっている。久本貴明みたいな最低男に振り回されてるのだって、きっと兄貴がいないせいだ。俺の埋められない満たされない心の隙間が、こいつを振り切れない原因の一つ。……俺の弱さ。
 目を閉じて眠る久本の顔は、スリーピング・ビューティなんて言葉がよく似合う、やたらキレイな顔をしていて。長い睫毛が微かに揺れている。血管が透けて見えそうなくらい白い肌。薄く上気した顔。半開きにした唇の間から、歯磨き粉のCMにでも出てきそうな、白く健康なキレイに並んだ歯と微かに舌がかいま見えた。
 呼吸と連動して、白い喉がゆっくりと動いている。唇から洩れる吐息が、やけになまめかしい。思わずぞくりとして、下半身がずくりと疼いた。
「……んっ……」
 正体無く寄りかかって無防備な様をさらしてる久本貴明。血の気がかぁっと上るのを感じた。心臓が二つになったような感覚に襲われる。……ヤバイ。マジで。このままじゃ俺、かなりマズイ。慌てて突き飛ばした。
 ゴッと鈍い音がして、久本がようやく目を開けた。
「……酷いな。起こすんだったら、もう少し優しくしてよ。目覚めのキスとは言わないからさ」
 やたら甘ったるい声で言いながら俺を見て、あれ?という顔をする。
「え? 龍也君?」
 ……脱力した。覚えてないのかよ、この寝ボケジジイ。涙出そうに、怒りを覚えた。
「甘えた声出しやがって、一体誰だと思ったんだよ?」
「……うーん。夢の中では美女に膝枕されてたんだけどね」
「悪かったな、美女じゃなくて」
 ムッとして言うと、
「いや、僕は別に相手が美女でなくても別に構わないけど」
 何!? それってまさか……!
「お前節操なしか!?」
 久本は目をぱちくりさせた。
「え? 何が?」
 本気で判らない、って顔されて、耳まで熱くなった。
「んなのどうだっていいんだよ!! とにかくもう朝なんだから、そのぐしゃぐしゃなワイシャツ脱いで着替えろよ!! この不良中年!!」
「三十で中年とか言われたくないなぁ。ビジネスの世界では『若造』呼ばわりされるのに」
「そんな世界のことなんか俺が知るかよ!!」
「もっともだけど、お兄さんと呼べとか言わないから、ジジイとか中年とか言うのやめてよ。何か一気に年取った気分になるからさ」
「ジジイはジジイだろうが!! この色ボケジジイ!!」
「そんな風にひとの事をジジイ、ジジイと呼んでると、そのうち『ジジイの呪い』にかけられて、自分が将来ジジイ呼ばわりされる羽目になるよ」
「見てきたような事言うなよ!!」
「いや、僕がそうだったから」
 ……ちょっと待て。
「それじゃアンタもひとのことジジイって呼んでたんじゃないか!! だったら俺の事責められないだろ!?」
「だって、本当腹立つジジイだと思ったからね。僕の親でもおかしくない年齢差だったし。ま、もっともそれは隆兄のことなんだけどね」
 ……それって。
「……面と向かってか?」
「まさか。僕はそこまでの度胸は無いよ。心の中で、あるいは親しい友人に対してこっそりと、さ」
「……アンタに友人なんかいるのかよ?」
「厭だな。僕はこう見えてモテるんだよ。人当たりが良くて、温厚だからね」
「嘘ばっか言うなよ。だったら俺に対する態度は何だよ?」
「君はついついちょっかい出したくなるタイプなんだよね。とげとげしくって警戒心強くて、臆病なくせに大胆で。つつくとびくびくおどおどするくせに、刃向かってくるし。そういうのがとても楽しいんだよね」
「この鬼畜男!!」
 ああ、もう、最悪!! なんでこんな男に絡まれて振り回されて、つつき回されなくちゃならないんだ!! 俺の人生お先真っ暗か!? どうして俺がこんな男に興味本位でつつかれおちょくられなくちゃならないんだ!!
「信っじらんねぇ!! 畜生!! 二度とお前の口車になんか乗らない!! すぐ帰る!! 今すぐ帰る!! お前なんかもう知らない!! 知った事か!!」
「そんな事言わないでよ?」
 にっこりと、思わず見惚れそうな極上の笑みを浮かべて。
「淋しいじゃないか」
 ……最悪。……絶対判ってる。自分の顔の効能なんて。
「何でも君のいうこと聞いてあげるからさ。お願い」
 そう言って、額に手を触れられた。どくん、とする。髪をかき上げられ、そのまま梳かれる。そっと優しく撫でるその指が、ひどく気持ちよくて。何かすごく懐かしい感じ。涙が出そうに。
「……ひ……さ……もと……っ」
「何?」
 にっこり穏やかに微笑みかけられて。うっとりしそうになるのを、引きずられそうになるのを、懸命にこらえて。
「てめぇ、きたねぇ手使ってんじゃねぇよっ!!」
「何が?」
 何の事か判らない、という顔をして。……嘘つき。
「嘘つき。大嘘つき野郎だよ、お前。……最低」
 それでも、こんな男でも『好き』だなんて最悪じゃないか。俺。
「アンタは人の気持ちを平気で利用して踏みにじるんだ」
「僕がそんな酷い男に見えるのかい?」
「実際そうだろうが!! アンタは!!」
「そうかな? 僕は博愛主義なんだけど」
 この期に及んでまだそんな事言ってるし。
「絶対違う!! お前、自分の事が判ってないのか!?」
 久本は眉を顰めた。ふっと真剣な顔になる。
「じゃあ、君は僕の事が判ってるとでも言うの?」
 俺の目を射通す、まぶしい光。
 胸を、貫かれた。
「僕の事が判ってると言うなら、僕が一体どういう人間なのか教えてよ?」
 久本のことなんか。俺は何も知らない。まるで知らない。語れるほど知りはしない。
「君が『僕』だと思ってる人間の話をしてよ?」
 ……意地が悪い。本当、心底意地が悪い。
「ひ……さ……っ」
「言えないというなら君は卑怯だよ。僕を酷い人間だと弾劾しながら、僕がどんな酷い人間なのか説明できないならね」
 こんな男に、かなう訳がない。
「言えるようになったら、言ってよ? 考慮してみるから」
 鮮やかに笑った。……考慮って何だよ?とか思いながら、反論は出来なかった。酷い男なのは確かだ。冷酷で最低で、鬼畜で極悪。こんな酷い男は他に見た事が無い。……なのに、惹かれてる俺は、マゾなんじゃないだろうか? 酷い事を言われて、酷い事をされて、それでもこいつを好きだなんて思うのは、絶対『異常』だ。厭なら関わらないことだ。嫌いなら、距離を置けば済む事だ。
 何度嫌いだと呟いても、俺はやっぱりこの男から目が離せない。こんなのは残酷だ。こんなのは最悪だ。救いようがない。俺の事を好きじゃない男に振り回されて、つきまとわれて。いっそ、こいつが俺を嫌いで顔も見たくないと思うなら良かったんだ。これじゃ生殺しだ。心をまるで伴わずに、好きだとか愛してるとか平気でさらっという男に、本気でイカれてる、なんて。俺の事を人間とも思ってない男に。都合の良い玩具で道具でしかないと思ってる男に。
 俺は何にも祈れなかった。祈るべき神も仏も、助けを求める悪魔も何処にもいない。魂を売っても罪にまみれても、望むものが手に入るなら良い。この世に悪魔が存在するなら、きっとこんな形だ。
「……悪魔……!!」
 久本は笑った。
「そんな風に言わないでよ?」
 本気で酷い男だ、お前。……最低。
「僕は君が好きなんだから。傷付くだろう?」
 ……嘘つき。嘘つき、嘘つき!嘘つき!!
「だったらお前が俺を傷付けるのは良いのかよ!?」
「傷付けるつもりなんて毛頭無いんだけどな?」
「嘘つくなよ!! 俺が、お前の言動にどれだけ……っ!!」
 泣いたって救われない。苦しんだって。どんなにもがき足掻いても。お前なんか、お前なんか、お前なんかこの世にいるから!!
「お前なんか大嫌いだ!!」
 俺のことなんか見ちゃいない。俺の気持ちなんか気にしない。俺の心を利用する。何も与えないくせに、俺から俺の心を奪おうとする。たったひとつ残された、俺の心を。俺の意志を。俺の気持ちを。
 抗う事が出来ないなら、拒否する事が出来ないなら、だったら俺はアンタを憎む事しか出来ないじゃないか!!
「俺はアンタの『玩具』じゃねぇ!!」
「そんな事は思ってないよ」
「嘘つくなよ!!」
「どうしてそういう悲しい事を言うかな? 少しは僕を信じてよ?」
「だったら、お前はどういうつもりなんだよ!!」
「……一体何が?」
「俺のっ……俺のことっ……!!」
 何だか、ひどく泣けてきた。こんな男相手にマジになってる自分自身のバカさ加減に。
 久本は穏やかに笑ってる。まるで、幼い子供を見下ろすみたいに。
「……もう、いい」
 口にしたって、俺が傷付くだけだ。どうせ返ってくる答えなんか判ってる。だったら何度問い返したって同じ事だ。こいつの価値観と俺の価値観は天と地ほどの開きがある。俺の望む事を、こいつに言葉で説明したって無駄だろう。どれだけ言いたい事をぶちまけたって、共感なんて得られない。相互理解なんてやつは皆無だ。そもそも根本的なものが違うんだ。
 俺は自分を人間だと認識していなかった。『他人』や『学校』という名の集合体にまるで馴染めなかった俺は、草食動物の群れに放り込まれた野生の狼で。馴れ合う事なんて出来なくて、それどころか『エサ』にしか──俺の暴力的な衝動を叩きつけるための生け贄にしか、見えなかった。
 広香と兄貴しか大切じゃなかった。それは裏を返せば、広香と兄貴の事だけは大切だと思ってたって事だ。久本は──久本貴明には、そういう聖域すら無いんじゃないだろうか?
 美しい人の形をした凶悪な悪魔。きっと俺の言葉なんか、一生かかっても伝わらない。何を言っても。
 絶望的な片想い。せめて相手が俺に興味を無くしてくれたなら。俺のつまらなさを知って幻滅してくれればいい。嫌われているなら、まだ救いはあったのに。好きでもないけど、嫌いでもない。そんなのはかえって残酷だ。どちらか一方なら簡単なのに。
 きっと、久本は俺の気持ちなんかとうに知ってる。知ってて利用してる。俺が、自分の顔を好きだと言う事を最大限に利用して引き回す。俺が好きなのは、あの顔だけだ。広香そっくりなあの顔だけ。そう思っても救われないのは──!

To be continued...
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