NOVEL

光の当たる場所 -9-

 連れてかれたのは昨日の『たなか食堂』。
「おはよう!! おばちゃん!! いつもの、二人前ね!!」
「やあ、おはよう。今日も来たのかい? その坊や」
 俺は一瞬、硬直する。……どうも苦手だ。このオバはん。巨体揺らしてどすどす歩いてやって来るけど!!
「……そんな脅えなくても、このおばちゃんに喰われたりしないって」
 四条が面白そうに俺を見る。
「兄ちゃん、あんたアタシに喧嘩売ってんのかい? ねえ」
「まっさか!! 僕がそんな命知らずな男な訳ないでしょう!!」
「……いちいち失礼な子だね」
「そんな。僕はおばちゃんの事、心底尊敬してるんだから」
「口先だけなら何とでも言えるね!」
「ヤだなあ、おばちゃん。僕の円らな目を見てよ」
「……確かに可愛らしい顔はしてるけど、アタシにゃただの狸にしか見えないよ」
「そんな殺生な……」
 四条は苦笑したりしてるけど……何か……。
「あ、逃げないでよ」
 方向転換した俺の襟首、引っ掴む。思わず首が締まって、咳き込んだ。……何て事しやがんだ!! 四条貴明!!
「悪いけど、おばちゃん。この子が逃げ出さないうちに注文の品、宜しくね」
「あいよっ」
 四条に腕掴まれて、無理矢理座らせられる。
「っ!!」
 熱い緑茶、目の前に置かれる。俺はそれをぼんやり眺めた。四条は自分の分を取って、それを一口飲む。
「やはりここの緑茶は良いねぇ」
 呑気にそんな事、言ってるし。この男、全然こんな場所、似合わないのに……『違和感』ありまくりなのに……本人、妙に馴染んでるし。
「……ここ、来るの長いのか?」
 思わず聞いた。
「そうだね? 少なくとも大学生時分からの付き合いだね。場所的にも金額的にも味覚的にも良くて」
「……アンタなんか、凄ぇ金持ってそうだけど?」
「僕は別に『無駄金』使うのは『趣味』じゃないよ? ただの『浪費』じゃ意味がない。『価値』のあるものに『金』掛けないで、何の意味の『金』なの?」
「……良く判らんが、それがアンタのポリシーなんだな?」
「そうだね。だから『負債』分はちゃんと返してね」
「は!?」
 一瞬、何を言われたか判らなかった。
「言っとくけど、君にあげた物、無料じゃないよ? いずれその分返してね。『現物』でも『現金』でも『肉体労働』でも何でも良いから」
「……なっ……!!」
「最初から、そう言った筈だよ? 君だって貸し借りはない方が良いだろう? この世の中はね、全てギブ&テイクだよ。それが一番『無難』だよ。形のない『義理』や『人情』って奴が一番質悪いよ。『無形』の物というのはね、目に見えないから一番判りにくい。……そんな物で僕は左右されたくない。『金』のやりとりの方が幾らか楽だよ」
「…………っ!!」
 この男、本当に鬼畜!! あまりの台詞に俺は絶句する。
「はい、お待ちーっ」
 オバはんが脳天気な声で目の前に『日替わり定食』のトレイ二つ置くけど。俺はそんな物目に入らなかった。
「……四条!?」
「だから、ちゃんと返してね」
 にっこり笑って四条は、いただきますと箸を割った。俺は呆然としてそれを見て……がっくり力が抜けた。……四条は嬉しそうに食べてる。四条が『最低限の礼儀』だとか抜かすマナー通りに。吐き気がした。いっその事、これら全部ひっくり返して立ち去ろうとか思ったけど、そんな事してただで四条が帰してくれる訳なかった。……それに大体、俺には『帰る』場所が何処にもない。溜息ついて、諦めた。いただきます、と呟き箸を割る。豆腐と若布の味噌汁に白いご飯。小松菜と油揚げの煮物に、手作りの漬け物と梅干し、切り干しの煮物とインゲンのゴマ和え。シシャモとそれから俺の方だけ豚肉入りの野菜炒めとオレンジが乗っていた。……顔を上げると四条と目が合った。
「食べないの?」
 憮然とした。俺は四条が再三うるさく言ってるマナー通りに、食べ始めた。四条は満足そうに頷いた。
「やっと何とか形になってきたね」
 あれだけうるさく言われて、びしばしやられて、出来なかったら嘘だ。この男、俺をバカにするのも大概にしろ。
「今度、洋食でも食べに行こうか?」
 俺は思わずぴくりとした。
「大丈夫、マナーなら僕がきちんと教えてあげるよ」
 ってそれが一番ヤなんだよっ!! バカ野郎!!
「洋食は和食より簡単だよ。ナイフとフォークは並べられた順に、出された順番通りに食べれば良いし、食器を持ち上げる必要ないからね」
 アンタ、そんな事言う『根拠』って何? 俺は洋食なんてファミレスくらいしか経験無い男なんだけど。
「ナイフとフォークの持ち方くらい、知ってるよね? まさかそんな事すら知らないなんて言わないよね?それくらい『常識』だよね?」
「…………」
 一応知ってるけど……それがアンタの『常識』かどうかまで知らない。
 四条は俺の沈黙にひどく厭そうな顔をした。
「……信じられない。一体どういう『教育』してるの? そんな食事マナーくらい、誰もきちんと教えないの? やめて欲しいな。僕は食事マナーを守れない奴ほど、嫌いな人間はいないんだ。そんな連中には『犬』のエサでも与えて素手で喰わせれば良い。『人間』の食事なんて勿体なくて与えられないよ」
「……悪かったな、『人間』の食事与えられる『価値』無くて」
「君の場合、教えない連中の方が悪いという気もしないでは無くない」
「……ああ、そうかよ」
 俺は吐き捨てた。
「……しかし、これは本当に『苦労』しそうだ」
 俺は憮然とする。……俺、コイツのただの『玩具』なんじゃねぇの?
「……それじゃ、今夜は仏料理と行きますか。僕の贔屓にしてる店で、別室があるから。そこなら他人の迷惑にならずに『勉強』出来るしね?」
 俺は絶句した。
「やはり、食事は心静かに楽しみたいよね。いつか君とそう出来る事を、心から期待したいよ」
 穏やかに、夢見るように何か厭味言ってる……。
「……四条……」
 思わず呻いた。
「他の『礼儀』に関しても、『教育』してあげたいけど、まずはその『食事マナー』だよね。基本中の基本だからね。それが出来ない事には『人間』なんて言えないよね」
「…………」
 俺はそれなら『人間』じゃなくて良いと思った。
「……一つ聞きたかったんだが四条……」
「何だい?」
「……どうして冷蔵庫の野菜室にプチトマトのポラロイド写真入れてあるんだ?」
「ああ、あれ? 見たんだ? 可愛いでしょ? 僕の可愛いプチトマト。食べる前には必ず記念写真撮るんだ。勿体ないからね」
「……っ!!」
 コイツ、何て非常識な男なんだ!! 食事マナーなんかに気ィ使ってないで、『一般常識』先身につけろよ!!
「お前、絶対それ!! 変だぞ!?」
「……どうして?」
 きょとんとして四条は言った。本当に訳判らないって顔だ。……恐ろしい事に。
「普通はプチトマト食う前にそんな事、しない」
「だって僕の『彼女』達、とても可愛いでしょ?」
 怖気がした。
「……そんな事考えんの、お前だけだ!! 大体、どうしてわざわざ冷蔵庫に、しかも野菜室なんかに入れる!!」
「だってあの上に乗ってるトレイ、丁度良い大きさなんだ」
「っ!! お前、冷蔵庫、何のために使ってるんだ!!」
「主に氷を作るため。ウィスキーなんか必需品でしょう?」
「お前、氷作るためだけにあのデカイ冷蔵庫買ったのか!?」
「いや、氷しか作らない訳じゃないよ? ええと、たまに夏場なんかビールや冷酒入れる事もあるし」
「……食い物は入れた事無いんだな?」
「だって腐るだろう? 料理なんか作らないし」
 まるで当然のごとく。
「…………」
 良く判った。物凄く良く判った。
「お前、最初から『家事』する気ねぇな?」
「だから僕はする気がないんじゃなくて、向いてないの。良いんだよ。『家事』なんて出来なくても、僕はそれ以外に色々才能あるから。天は僕に二物も三物も与えたんだから、この上『家事能力』まであったらもう『大天才』でしょ?」
「……お前、自分でそんな事言うか?」
「僕は『完璧』じゃないよ。でも、僕は『完璧』じゃない自分自身がとても好きだから。ほら、この『顔』で『完璧』だったりしたら、厭味なだけじゃない?」
「……そんな事言う奴の何処が『厭味』じゃないんだよ」
 俺はげっそりした。四条はにっこり笑った。
「誰にだって『欠点』はあるよ。それこそが『愛すべき』とこだろ? 僕は自分の『欠点』をこそ『愛してる』よ?」
「……相当なナルシシストだな」
「『人間』なんて皆多かれ少なかれナルシシストでエゴイストだよ。他人のために命懸けるだなんてあれ、『嘘』だよ。言ってみるだけだよ。そんな『戯言』いちいち信じてたら、身が保たないよ。結局皆自分が一番可愛いんだ。それが『自然』だよ。そうじゃない『人間』なんて『嘘』だ」
 目の前がくらくらする。……俺の『周囲』の『大人』が言ってた『倫理観』とは全く違う。俺自身がこれまで、『正しい』と信じていた事ですら。……危険……信号。これ以上、コイツに巻き込まれてたら、とんでもない事になる。信じてたものが、狂わせられる。信じようとしてたものが、狂わされる。
「『人間』なんて所詮『嘘』の塊なんだけどね?」
 ガツン、と後頭部殴られたみたいなショックを受ける。聞きたくない台詞だった。そんなの、考えたくもない言葉だった。聞きたくなんて無い!!
「やめろ!! 四条!!」
「どうして?」
 明るい声で、四条は言った。
「……『本当』の事だよ?」
「……言うなっ!! 『人間』が信じられなくなる!!」
「……君、信じてたの? 『人間』なんて『他人』なんて信じてたの? それで良くもまあ『ああいう』事したよね?」
「うるせぇ!! 言うな!! それ以上言うなよ!!」
「……君が厭がるから、言ってみただけだよ」
 『嘘』だと判る目でそう言った。俺は泣きそうになっていた。四条は何事もなかったかのように、食事に戻った。俺は……口なんか付ける気になれなくて……。
「食べないの? 冷めるよ」
 くそったれ四条……。最低男。見た目だけは『優しそうな奴』なクセして……。
 俺はほとんど味のしなくなった『朝食』をろくに噛まずに飲み込んだ。涙の味を、喉の奥に感じた。……もう厭だ。コイツの傍にいるのなんか。コイツといたって余計ズダボロにされるだけだ。どうして俺は……こいつから逃げられない? 食べてる途中で、思わず突っ伏した。食事を終えたらしい四条が、俺の肩をぽんと叩く。
「……甘やかせて欲しかった?」
 俺は動揺した。涙に濡れた顔のまま、思わず四条をまともに見上げた。四条は静かに笑っていた。
「……甘やかすだけなら、どれだけでも甘やかしてあげるけど……たぶんそれじゃ君、一生『駄目』になるよ? 君は一生僕といたい訳じゃないでしょう?」
「……何を……」
「僕は君が望むなら、君の望む『夢』だけ見せてあげられる。君の望む『未来』だけを見せてあげられる。……ただ、君が『生きていく』ならそんなものじゃ到底『駄目』だから僕は『厳しい』事しか言わない。……『現実』よりも余程ね。君は一体どうしたいの? 僕は君が言ってる事が、君のやろうとしてる事が、君の『望み』とは思えない。君は何か『現実』から目を逸らそうとしてるだけだ。逃げているだけ。……何がそんなに『恐い』? 何にそんなに『脅えて』る?」
「……っんなの……アンタに……っ!!」
「そうだよ、『関係』ないよ。だから何?」
 きっぱり言い切って。四条は真正面から俺を見据える。厳しい目で。『甘え』なんか許さない目で。
「アンタなんかに言わない!!」
 俺は叫んだ。四条はクスリと笑みを洩らした。俺はカッとした。
「何だよ!! 文句あんのかよ!!」
「……別に? 僕にそんな『権利』ないし」
 ここまで傍若無人な態度取っといて、こんな事抜かすし!!
「そうだな? 悪いけど、僕はそんなに君を甘やかすつもりは無いよ? ……甘やかせて、君を『腑抜け』にするのは『恐い』からね」
「…………っ!!」
「食べないんなら出るけど、どうする?」
 ムッとした。返事しない。四条は笑って会計を済ます。
「おばちゃん、ごめんね?」
「また、おいでよ」
 四条は笑った。
「有り難う、おばちゃん」
 そう言って、俺の肩を叩く。
「……行くよ」
 俺は立ち上がった。四条に腕掴まれる前に外へ駆け出す。……俺は逃げた。懸命に。走って逃げた。途中、ジョギング途中のおっさんにぶつかりそうになったけど、夢中で走った。昨日の、川にぶつかった。俺は河原へ転がり込む。それから更に走って逃げた。不意に、背後から腕を掴まれる。よりによって左手首を!!
「っ!!」
 声にならない悲鳴を上げて、俺はその場に崩れ込んだ。四条だった。髪を乱れさせ、息を切らせて俺の両手を掴み寄せる。
「……てめっ……!!」
 ほとんど押し倒されるように、俺は四条に捕まえられた。四条は右手で俺の両手首、しっかり掴んだまま、左手で俺の肩を押さえつけた。
「……言っただろう? 君はまだ『負債』を支払ってない」
「…………っ!!」
 身動き一つ、出来なかった。抑え込まれて、動けない。物凄い馬鹿力だった。必死に抵抗しようとしても、まるで歯が立たない。『恐怖』すら感じた。コイツは……俺を『壊す』ものだ。ぞっとした。……コイツは俺の大事にしてる物を『壊す』男だった……。俺は悲鳴を上げる。四条は舌打ちをする。肩の手をどかして、口に当てる。俺の悲鳴を抑え込む。
「君が僕をどう思おうと、構いやしないけどね。……『広香』のためにも生きようとは思わないのかい? それが一番、僕が腹立ててる事なんだけど」
 俺は悲鳴を上げた。どうしてコイツ、『広香』の事を知ってる!?
「……知ってるかもしれないけど……『広香』は僕の娘だ。たった一人の僕の娘だ。自分の『血』なんてどうだって良いけど、あの子はとても可愛かった。毎月送られてくるあの子の写真をどれだけ僕が楽しみにしていたか……!!」
「っ!?」
「時折、君達が書いてくる『感謝の手紙』を倉敷さんから貰って僕がどれほど嬉しかったか、君にはまるで想像つかないだろう!! 僕はそれを手にする度に、広香を、君を夢想したさ。まるで遠い憧れのように。それがこんな事になって、どれだけ僕が苦悩したか判るかい!? 僕の手元に置いたら絶対不幸にすると思ってたのに、こんな事になって僕がどれだけ後悔したか判るのかい!? せめて君だけでも幸福にと思っていた僕が、どうして君の『自殺』シーンに居合わせなくちゃならないんだ!? 冗談じゃないだろう!! 許せる訳ないだろう!! 八つ当たりだろうが、何だろうがそんなもの、絶対許せる筈が無いだろう!!」
「…………っ!!」
 そんなものは、初耳だった。確かに初めて見た時から『広香』に似ているとは思っていた。けど、だからといってこんな二十半ばくらいにしか見えない男の子供だなんて誰が思う!? 三十歳だなんて言ったって、誰が『広香』の『父親』だなんて思うんだ!?
「……っんな……!!」
 四条は乱暴に、俺の腕を掴んだまま立ち上がった。立ち眩みを感じて、くらりとする。
「甘えた事言うな!! だったら死にたくもないのに、九歳なんかで死んだ『広香』はどうする!? 『広香』は死んで、二度と生き返ったりしないんだ!!」
 四条が激昂するのは初めてだった。四条は本気で怒ってた。四条は本気で俺に対して、腹を立ててた。
「……お前……最初から……っ!!」
「一目見た時から、知ってたさ。家族構成からこうなった経緯から何もかも、全て」
「…………っ!!」
「……昨夜、倉敷さんから電話があった。君を知らないかって。無論、知らないと答えたよ。まだ、邪魔されたくなかったんでね」
「……俺を恨んでるのか……?」
「どうして君を恨む? おかしな事を言うね。君に恨まれるならまだしも、どうして僕が君を恨んだりする?」
「……だって『広香』が……」
「君のせいだなんて誰も思ってない。ただ、『広香』の『兄』である君がよりにもよって僕の目の前で『自殺』謀った事が許せなかっただけさ」
「…………」
「……そうだな、『私怨』にも近いかな? けど別にそういう意味は無かった。それに今は『それだけ』じゃないし」
「……アンタ……」
「……しまった。服が汚れた……」
 不意に、気付いたように、四条が言った。見れば、袖口やスラックスに泥が付いている。俺は物凄く厭な予感がした。
「待てよ四条……まさか……!!」
「これもツケとくよ」
 やめろ!! 洗濯すりゃ良い話だろう!! 四条!! 俺の絶叫なんか無視して、四条はにやりと笑った。
「頑張ってね」
 ……コイツ、『悪魔』だ……!!

To be continued...
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