NOVEL

光の当たる場所 -8-

 翌朝、目覚めると部屋に四条の姿はなかった。時計を見ると六時。カーテンは開いている。俺は目を擦り、起き上がった。昨日、四条が腰掛けてた椅子に、無造作に毛布が掛けてあった。……アイツ、昨夜床で寝たんだろうか? ベッドには痕跡がない。部屋を出る。珈琲の匂いがした。ダイニングで立ったまま珈琲を飲みつつ、カウンターテーブルに広げた新聞を読む四条の姿があった。
「……四条」
「おはよう」
 四条は笑った。
「…………おはよう」
 大体コイツの行動パターンは読めてきたので、言われる前にそう言っておく。
「珈琲飲む?」
 言われて、頷く。四条がコーヒーメーカーからカップに珈琲を注ぐ。それを受け取り、四条の読んでる新聞を後ろから覗く。政治変革やら某メーカーの新製品なんかが載っている。新聞日付は六月十日日曜日、とある。
「……熱ある?」
 おもむろに、四条が俺の額に手を当てる。俺はぎょっとした。
「……少し高い、かな? 解熱剤、いる?」
「……必要ない」
「タフだね」
 感心したように、四条が言った。褒めてんのか? それ。俺は四条を見る。四条は新聞を折り畳む。
「今日は日曜だから、まだ寝てても良いのに」
「……昨夜何時に寝た?」
「一時。デスクワークを少し持ち帰ったんでね」
「……それで良く本なんか読んでたな」
「日曜があるから何とかなるかと思って」
「……終わったのか?」
「まあね。心配してくれて、有り難う」
「……誰もしてねぇよ」
 四条は笑った。
「……何だよ?」
「……別に。……今日は日曜だから、『業者』が来ないんだよね。平日しか頼んでないから。僕はいつも、月曜の珈琲は古いのを暖めて飲むんだけど……君は平気?」
「……は?」
「いや、別にそんなのは気にしないか」
 そう言って、四条は自分のカップを流しに置いて、そのまま去る。俺は目を見開いた。
「……ちょっと待て!! 四条!!」
 四条は振り向く。
「……何?」
「……洗わないのか?」
 俺は物凄く厭な予感を感じながら、そう言った。
「……ごめん。僕、そういうのは苦手なんだ」
「……は!?」
「洗えないんだ。……そういう訳だから」
「……ちょっと待て!!」
 俺は四条の腕を引っ掴んだ。
「どうしてこのコップ一つが洗えない?」
「……洗うのは良いけど、上手く洗えないんだ」
「……コップ洗うだけだろ?」
「……『致命的欠陥』なんだ」
 耳を疑った。
「冗談だろ!?」
 四条は厭そうに肩をすくめた。
「……悪かったね。僕は『生活不適格者』なんだよ」
「…………」
 唖然とした。
「……納得できないなら、やってみせようか?」
 四条はそう言って、俺の目の前でカップを取ってスポンジを握り、カップを回しながらスポンジを滑らせようとして、取り落とす。ガシャン、と派手な音を立てて取っ手部分からシンクタンクの端に激突して、辺りに陶器の破片が散乱した。
「…………」
 俺は無言で四条を見た。四条は溜息をついた。
「……幾らカップがあっても足りないんだ」
「……冗談でなく、本気か?」
 正気か?でも良かった。
「…………困ってるんだよ。本当に」
 しみじみと四条は言った。『嘘』には見えなかった。泣きそうにも見えた。
「嘘だろ!?」
「……それなら良かったけどね」
「だってそれくらい、小学生だって出来るだろ!?」
「……水とスポンジには、たぶん相性が悪いんだ」
「…………そういう問題か!?」
「……うるさいな。僕だって気にしてるんだ。あまり追求しないでくれ」
「……どうして!!」
「…………仕方ないだろ? 僕はそういう事をしなくても良い環境で育ったし、一人暮らしするようになってからは、人並みに自炊くらいやろうと思ったさ。けど、致命的に家事能力が無くて、大量のゴミを量産する事しか出来なかったんだ」
「……待てよ。じゃあ、お前掃除なんかも?」
「……悪かったね。家電はほとんど使えないんだ。だから一つも置いてない」
「……TVやビデオもか!?」
「僕に使える機械は電話とパソコン、ワープロくらいだよ。だからあまり追求しないでくれ」
「お前おかしくないか!?」
「……うるさいよ。良いんだ。別に出来なくても生活は出来るから」
 まるで拗ねたガキみたいな顔で。俺は思わずマジマジと四条の顔を見た。四条はぱあっと顔を赤らめる。
「……言いたい事は判ってるよ。偉そうな事言っといて、それくらいも出来ないのかって言いたいんだろ? 僕だって実に悔しいよ。どうしてこれくらいの事出来ないんだって思うさ。かなり屈辱的だから、これまで他人を部屋へ上げた事がなかったんだ」
 ムッとした顔で。……四条のこんな表情は初めて見たから、正直驚いた。……とても三十男の顔じゃなかった。
「……嘘みてぇ……」
 ぷいっと四条は顔を背ける。
「良いんだよ。こんな事、出来なくても僕には他の連中には真似できないくらいの『才能』があるんだから。どうせ、俺は『家事』なんて出来なくても、そんなものわざわざ自分でやる必要無いから構いはしないんだ」
 思わず吹き出した。四条は滅茶苦茶厭そうな顔をした。ますますおかしくて、俺は思いきり笑った。笑い転げた。
「……そこまで笑う? 笑い上戸?」
 四条は憮然とした。おかしかった。久し振りに健康的に腹の底から笑った。涙まで出た。
「……複雑な心境だな」
 四条がぼやいた。
「……何、それ」
  ようやく笑い止んだ俺が聞くと、四条は目を閉じて溜息をついた。
「……君の笑顔は一度見てみたいと思ったけど、まさか自分の事で大爆笑されるとは思ってもみなかった」
「だって笑えるぜ?」
 カッコつけ四条。エリートサラリーマンで、次期社長様で、厭味で最低で強引で偉そうな四条。それが珈琲カップ一つ洗えない男……。
「……子供の考える事は判らない。それくらいで笑えるなんて脳の神経おかしくない? 全然笑えないよ、僕は」
「……そりゃ、自分の事だからだろ?」
 四条は大きな溜息をついた。
「……天は二物も三物も僕に与えた。この上『欠点』の一つや二つくらい無かったら、僕は『人間』じゃないだろう?」
「……確かにアンタは賢明だよ。皆にこの事知れたら、笑われる」
「しつこいな。だから僕はそういう事をする必要性がなかったんだよ」
「……つまり、お坊ちゃんだったんだな?」
「……否定はしないけど、だからといって僕の『少年時代』が君より恵まれてたなんて思わないで欲しいな? その事に関して言えば、僕より君の方が余程恵まれていたんだ」
「……は!?」
「君にはちゃんと『保護者』がいたろう? 僕は早く大人にならなきゃいけなかったんだ」
「……何だよ、それ」
「僕に『親』なんてものはいないも同然だったという話さ。僕は父が五十一歳の時の子供でね。その父は五十五で他界したからね」
「母親はどうしたよ?」
「母はいなかったよ。僕を捨てて、男と駆け落ちしたからね」
「…………」
「僕は土蔵で寝起きさせられたよ。とても厭だった。土蔵は湿気が多くてね。暗くてじめじめしてるんだ。通気性も悪いし、埃っぽいしカビ臭いし。生活は裕福だったけど、ひねた性格にはなるよね」
「……『自覚』あんだ?」
「……君、面と向かって他人様に、それも年上に言う? ちょっと失礼じゃない?」
「何だよ。てめぇで言っといてンな事言うかよ?」
「……自分で言うのと他人に言われるのじゃ、大違いだよ。我慢出来る事と出来ない事がある」
「……アンタ、プライド高そうだもんな」
「…………あんまり調子に乗るんじゃないよ。僕は割合自分の寛容さには自信があるけど、許容できなくなるかもしれないからね」
「……そこで『脅す』んだ?」
「クソ生意気な『お子様』をつけ上がらせると、後々困るでしょう?」
「俺を『教育』しようってか? アンタ好みに」
「別にそうは言ってないよ。僕の『思惑』通りじゃ楽しみがない。少しは抵抗して『意表』を突いてくれる方が『嬉しい』ね。……もっとも、僕が『許容』出来る『範囲内』に限らせて貰うけど」
「…………アンタ、相当ひねくれてんな?」
「そういう君は『素直』だよね?」
 俺は意表を突かれた。
「『素直』!?」
 何でそんな『言葉』出てくる!? 理解できない!!
「『素直』でしょ? 思った事がすらすらとストレートに、口端から出てくる辺り」
「…………」
 そんな事言われたの、生まれて初めてだ。
「何? 誰にも言われなかった? ……そりゃ随分気の毒だったね。……それとも『人見知り』して誰にもそんな事言えなかった?」
 ……そんな……『理解』してくれるのは今まで……『家族』だけで……俺はずっと今まで……。
「僕はとても君が『可愛い』と思うよ? 素直で強情でプライド高くて感情の起伏激しくて。『人見知り』なんかしてなかなか人に慣れないところも、また良い。誰にでもしっぽ振るような八方美人じゃ、手懐ける『意欲』も湧かないよね」
「……四条。お前……俺がお前に懐かないから『構う』のか?」
「そんな事無いよ。……君、僕の事好きでしょ? 僕も君の事好きだから『構う』んだよ」
「嘘寒い事言うな!!」
 ぞっとした。四条は笑った。
「本当だよ。……じゃなかったら、自宅へなんか君を連れてくる訳ないじゃないか。『婚約者』でさえ上げた事無いのに」
「……その『婚約者』ってお前……『恋人』いるとか言ってなかったか?」
「そうだよ」
 けろりとした顔で四条は言う。
「お前、それで良いのかよ!!」
 四条は目を丸くした。……それから肩をすくめる。
「……っていうか、僕にも『愛人』の一人や二人いるし。……まあ、今は色々忙しいから、一時的に全員『切った』けど」
「は!?」
 俺は耳を疑った。
「……何だって!?」
 四条は苦笑した。
「彼女は『僕』に興味ないんだ。僕は『博愛主義』だから別にどっちでも良いんだけど。あちらの方が僕の『ご主人様』なんでね。『跡継ぎ』生んでいただけるなら、『父親』が誰でも僕は構わないってお伝えしてあるんだよ」
「……四条、お前『正気』か!?」
 俺は絶句した。四条は穏やかに笑う。
「別に。……その方が気は『楽』だし」
  ……こいつの『倫理観』って一体どうなってるんだ!? 大体『父親』が誰でも良い!? 普通そんな事、考えるか!? 俺には絶対理解できない!!
「どうしても僕と由美子嬢の間に『跡継ぎ』作れだなんて言われたら、僕の方がたぶん『重責』感じちゃうからね」
「……四条……」
 頭痛い。何でコイツけろっとしてるんだ。
「……お前……腹は立たないのか? 仮にも『婚約者』だろ?」
「僕は誰にも束縛されたくないし、相手の事も束縛したくないんだ。……だからむしろかえって、『好都合』とか思ってるけど?」
 ……こんな物は『おおらか』だなんて言葉で済ませられるもんじゃない。『鬼畜』だ。それ以外の何物でもない。絶対そうだ。
「……お前、別に『自分の』子でなくて良い訳か? 『自分』の『後継者』が?」
「別に僕の『血筋』を引いてるから、その子が優秀だなんて思わないよ。大体僕は『ろくでなし』の息子だから。親が最低でも、子供は幾らでも育つもんだよ。結局は本人の心がけ次第だ。それでも僕は自分の『血』を引いた子供が、一人でもいれば嬉しいと思うよ。……その子を愛せるかどうかはその子次第だけど……僕はそうだな……たぶん『親』としては『失格』だから、僕の傍にはいない方が良いんだ。たぶん、その子は『幸せ』にはなれないから」
 四条がどういう意図でそういう事、言うのか判らない。何を考えてるのか、さっぱり判らない。
「……お前、自分の子供育てる気無いのか?」
「……もし生まれて、『最低』だったら厭だろ? 厭だからって『殺す』訳にもいかないし」
 にっこり笑って言うけど。
「お前、本当『最低』だな!?」
「……子供は結局、ある程度育ってみないと、判らないからね。僕はたぶんそういう面では『欠陥人間』だから、僕が育てたりしたらきっととんでもない『化け物』にしかならないんだ。そんな始末に負えない物作り出すくらいなら、『他』に任せた方が良いだろう?」
「……お前……」
 頭がくらくらした。
「……つまり何か? お前が育てたりしたら、『ろくな物にならない』と?」
「……僕そっくりなのが生まれたら、『厄介』じゃないか」
「っ!?」
「僕はこれが『僕』だから愛せるけど、『他人』だったらたぶん、こんな存在はとても許せないからね。きっと『殺す』よ。子供のうちにね。だったらわざわざそんな『無駄』な事はしたくないでしょ?」
「……お前っ……どうかしてるよ!!」
 俺は悲鳴を上げた。四条は穏やかに笑ってる。笑ってなんかいるけど、コイツ本気でそういう事言ってたりしてて!!
「何考えてんだよっ!! 四条!!」
 四条はくすくす笑った。
「……『自分』そっくりな存在なんて気持ち悪いだけだよ。僕はこの世に一人しか要らない。『二人目』なんて現れたら、『殺す』より他に仕様が無いじゃないか」
  ……ひでぇっ……何て男だ!! 四条貴明!!
「……『最低』だよ、アンタ!!」
 四条は楽しそうに笑った。
「だって仕様が無いだろう? そうは言うけど、君だって自分自身に置き換えて、考えてみてよ? もし、この世に『自分』そっくりで、けれど決して『自分』では有り得ない存在が生まれたりしたら、どう思う? やる事成す事『自分』そっくりで、それでいて全く『自分』ではない存在だよ?」
「…………っ!?」
 俺にそっくりな『人間』!? そんなの厭だ!! 『自分』一人でさえ持て余して、嫌悪や苦痛すら感じてるのに、そんなもの、この世にもう一人でもいたなら……っ!!
「……君だって『殺す』んじゃない? そういう『結論』に達するでしょう? そういう『意味』では僕達はとても良く『似てる』んだよ」
「なっ……!?」
 何だって!? 『似てる』だって!? 俺と四条が!?
「でもまあ、僕は生きてる『僕自身』を殺そうなんて、とても思わないけど」
「っ!!」
「僕は『僕』自身をとても愛してるからね。とてもそんな気にはなれない。……だから、じぶんをわざわざ傷付けようとする君の事が、とても気になるのかもしれないけど……『気まぐれ』どころの話じゃないのは『確か』なんだけどね?」
「……どういう……意味だよ……?」
「それだけ僕が君を『気に入ってる』って事だよ」
「……嘘臭ぇよ!!」
 四条は肩をすくめた。
「ま、君がどう思おうと僕には全く関係ないんだけどね? 気にしないから。僕はあまり『他人』の思惑なんかに『干渉』したくないし。でも、自分の『欲求』には『正直』だからしたいようにするけど」
「……なっ……!!」
 この男、けろりとした顔で何て事抜かすんだ!!
「……さて、と。そろそろ食事にでも行かないか? お腹空かないかい?」
「……四条……お前……」
 げんなりした。
「……色々言いたい事はあるが……それより何より……お前、後片付けすらする気ないな?」
「大丈夫。月曜日、業者来た時、綺麗に後片付けしてくれるから」
 にっこり笑って。……鬼畜。
「……判った。俺が片付けてやるから……ちり取りと箒持って来い」
「ないよ」
 けろりとして言い切った。
「ない!?」
 俺は思わず声を荒げた。
「……必要ないから」
 四条はにこにこ笑ってる。
「……『必要ない』んじゃなくて、ひょっとしてお前……『使えない』からだなんて抜かすんじゃねーだろーな」
「……それもあるけど、あっても使わないなら『必要ない』じゃない」
「……っ!!」
 正直、やってなんからんなかった。こんな男、常識で考えてたら全くキリがない!! やめてくれ!! 小学生だってもっと『まとも』だ!!
「……判った。じゃあ、今日それ買ってくれ。俺はそんなの……たまったもんじゃねぇ」
「…………君、そんなに綺麗好きだったの?」
「……俺はアンタに比べれば、『常識人』なだけだ。アンタ、良く平気だな?」
「僕は綺麗で清潔な部屋は好きだけど、あまり執着はないんだ。僕は『金』を稼ぐのは好きだけど、それと同等に『使う』のも好きだし」
「…………っ」
 何と言ってやったら良いか、判らなかった。
「アンタ、何考えてんだよ!!」
 四条は笑った。
「僕の『望み』は嫌いな奴の言う事、聞かずに済む事。……嫌いな奴の言うなりになって、『土蔵』なんかに押し込められて、殴られても抵抗できないなんて厭でしょう?」
「……アンタ、心底『曲がって』るな?」
「殺したりしないだけ、マシでしょう?」
「……余程、恨みに思ってるんだな」
「そこまでは執着してないけどね。『後悔』して貰うだけだよ。それで『十分』だ」
 そう言って、四条は上着を羽織る。
「僕は『博愛主義』だからね」
 ……絶対嘘臭ぇよ、その台詞。
「一番上の兄は誰にも『似てない』この顔が、特に殊更気に食わなかったらしい。煙草の火を押し付けられそうになった事もあったよ。僕は自分の『顔』が好きだったから、それだけはご丁寧にお断りしたけど」
 どんな『お断り』だったのやら。
「……誰にも『似てない』ってどういう事だよ?」
「僕は『母』の『浮気』の果てに産まれた子らしい。本当の『父』は未だに不明だ。形式上の僕の『父』は病弱だったそうだが、それもあってますます体の具合を悪くして、早死にした」
「っ!?」
「僕は相当『厄介者』だったらしいよ? これで判ったろう? 『君』がどれほど『恵まれて』たか」
「……なっ……!!」
  四条は笑った。
「『君』なんて全然『不幸』なんかじゃないよ。それくらいで『人生』絶望されたりしたら、僕なんてどうなるんだい? そんな事言われた日には、本当『嫌がらせ』したくなるよ? 真面目に『生きて』いもしないクセに、百年早いんだよ」
「…………っ!!」
「ただの八つ当たりと思って結構だよ。ただ、伊達や酔狂で手を出すほど、僕も『暇』じゃないんだ。だから、君に『構う』のは『好意』が六割だよ」
 『六割』って……じゃああとの『四割』は何だって言うんだよ!!
「君の『噂』は多少聞いてたけど、僕の聞いてた話とは全然違うね? ま、もっとも『その通り』だったら僕もこんなに気にはならなかったんだろうけど」
「!?」
  愕然とする。
「……四条!! お前、俺の事知ってんのか!?」
 四条はにやりと笑った。
「知ってるよ。でも、それ以前に君、自分が『有名人』て知らないでしょう?」
「……なっ!?」
「君は余程新聞にもTVにも縁のない生活してきたらしいね? ま、実名と顔の一部は公表されてないけど、モザイク掛けた君の顔写真くらいはそこら中に出回ってるよ。……『原因』は君自身が一番、知ってるだろうけど」
「っ!!」
 心臓が、痛かった。思わず四条を睨み付ける。四条は笑う。悪気なんてまるでないと言わんばかりに。
「でも大丈夫。……一時期に比べれば、大分ほとぼりも冷めてきた頃だし。春辺りは凄かったよ。ほんの一ヶ月程かな? でも『人間』なんて飽きっぽい生き物でね。『他』の『事件』が起こると、そっちの方へ行ってしまうんだ。『人間』の……特に『日本人』の良い処だよ。おかげで注意深くない人間は、君を見てもそれが『あの少年』だとは気付かない。……『忘却』というのはとても素晴らしい『人間』の『特技』だよ。『他人』の事に関しては殊更ね」
「……アンタっ……!!」
 ギリギリと、胸が締め付けられる。
「……ほら、そういう『顔』するクセに。それでいて、『ああいう』事するってのが理解できない。『他人』に『蹂躙』されるの厭なクセに、どうして『ああいう』事が自身に出来る? 僕には全く理解できないよ。……そういう『気力』があるなら、『他』に幾らでも目を向けられるだろう?」
「アンタに……っ……そんな事言われたくない!!」
「……成程、『干渉』されたくない、か。それは僕も『同じ』事なんだが……どうしてかな? 君にはたぶん、僕には『理解』できない『別』のものがあるんだな? たぶん僕には想像もつかない『何か』が……」
「俺に構うな!!」
 吐き気がした。ぞっとして……たまらなかった。自分の内臓、素手で掻き回されてるみたいで。
「まあ、良い。取り敢えず食事にしよう。……おいで」
 四条は付いて来いと言わんばかりに、背を向けた。付いてくるのが当然と言わんばかりに。俺は腹が立った。こんな奴の言いなりになるのは厭だと思った。
 不意に、四条が振り向いた。まるで、背中にも目が付いてるかのように。人の心が読めるかようなタイミングで。
「!?」
 四条は穏やかに笑った。
「……おいで」  
  それは『命令』だった。抗う事を許さない。俺はびくりとした。……こんな奴の言いなりになる事無い。けど、とても逆らえなかった。物凄い恐怖心に、心臓掴まれた。笑ってるけど、本当穏やかに笑ってるけど、『心』はとても笑ってない。心底冷えるオーラを身に纏っていて。
「……っ」
 下唇を噛んで、それでも俺は逆らえなかった。渋々言う通りにする。四条は笑った。油断すれば、思わず見惚れる笑顔で。
「……『良い子』だね」
 そう言って、近付いた俺の頭に手を乗せる。まるで、幼い子供にでもやるかのように、くしゃっと撫でて。
「じゃ、行こうか」
 俺は憮然としながら、それでも四条に従った。コイツは『王者』だ。生まれながらに『命令』する事に慣れきった。……四条の『過去』なんて知らない。けど、たぶんこの男はそういう奴だ。それが『当然』な男だ。少なくとも、俺にはそう見える。…………そして、そうする事が誰よりも『似合う』男。最低最悪な事に。
 俺は口の中で、呪いの台詞を吐いた。四条は一瞬ぴくりと反応して、けれど何も言わずににやりと笑った。
「悔しかったら刃向かってごらん」
 刃向かわせる気なんて毛頭ないクセに。あっけらかんと嬉しそうに。鼻歌歌って、四条は俺に腕を差し伸べる。
「……定食で良い?」
 俺は返事をしなかった。四条は笑って、俺の腕を掴む。厭な顔をしてやったが、四条は全く気に止めない。嬉しそうに歌ってる。
「……それ何?」
「シューベルトの『魔王』。知らない? 有名だろ?」
「……知らねぇよ。んなの」
「ああ、そうか。そう言えば、サボり魔だったんだよね」
「……どうしてンな事知ってんだよ?」
「色々。情報網持ってるんでね」
「……シューベルト、好きなのか?」
「嫌いじゃないね」
 にっこりと笑う。……舌打ちする。
「……ひねくれ者」
「君ほどじゃないよ」
 四条は笑う。爽やかに。
「……アンタに言われるほど、俺は『人間』捨ててない」
「ははっ……言うね!」
 四条は声を上げて笑った。

To be continued...
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