NOVEL

光の当たる場所 -7-

 『広香』が生まれた頃、家の中はバタバタしていた。俺と『兄貴』は不穏なものを感じていた。たぶん、俺より『兄貴』の方が色々事情を知っていたに違いない。一度、親父が母さんに、『本当に生むのか』と詰め寄ってるのを見た。親父は俺に気が付くと、『子供は寝なさい』とそう言った。俺はあの時から、本当は気付いていたのかもしれない。でも、何も考えたくなんて無かった。俺は自分の両目を、自分から閉ざした。生まれた『広香』はとても可愛かったから、母さんが死んだのは悲しかったが、『広香』がいたから割合平静だった。親父が死んだ時も、それはそれなりに悲しかったし動揺したりもしたけど、『広香』がいたから『強く』いられた。『兄貴』はどちらの葬式でも涙を見せなかった。気丈な『兄』と明るいけれど泣き虫な『広香』がいなければ、『俺』はとっくに駄目になっていたかもしれない。『広香』に『お兄ちゃん』と呼ばれるのが好きだった。膨れっ面も実は好きで、わざわざ好んで怒らせてた自覚がある。だけど一番好きだったのは、『広香』の笑顔。あのためだったら、俺は何も惜しくなんか無かった。……四条なんかに動揺するのは、あまりにも『広香』にそっくりだからだ。俺は『広香』が好きだった。……このまま一緒にいたら、どうなるか判らないくらい。俺は『広香』が好きで、だから『他』の女なんてどうだって良かった。……最低。『広香』は純粋に『俺』を『兄』として慕っていたのに。……『広香』が『子供』だったから、俺は『何』もしなかった。ただそれだけの事だ。……もし、『広香』が俺とそう変わらない年齢だったら? ……ぞっとした。とんでもない事を想像した。『人間』だったら絶対やってはいけない事の一つだ。自己嫌悪で、吐き気がする。……『兄貴』は……気付いていた?
 冷たい汗が噴き出した。
『広香をどう思う?』
 『兄貴』はそう聞いてきた。俺はあの時、深くは考えなかった。深く考えずに俺は返事をした。『兄貴』は『俺』達の事、『異常』なくらい仲が良いと言った。……まさか、『兄貴』は?
 頭が、ずきずきした。気が遠くなりそうだった。悪寒で、身体が震える。……不意に、叫び出したい気分になった。逃げられるものなら何処かへ逃げたかった。誰にもこんな事、知られたくなかった。ただでさえ、俺は『異常』なのに、こんなおぞましい事、誰にも知られたくなかった。『妹』に……九歳の少女に、『女』を感じるなんて『異常』じゃないか!? 絶対『俺』はどうかしている!!
 耐えきれなくなって、俺は飛び起きる。窓に駆け寄る。迷い無く窓を開けて、そこから身を乗り出す。
「バカな事をするんじゃない!!」
 四条の激しい叱責と共に、平手が飛んだ。俺は絨毯を敷いた床の上に叩き付けられた。俺は四条を見上げた。四条は溜息をついた。
「……どうやら君は一人では寝せられないな」
 俺は返事をしなかった。叩かれた頬が熱く痛い。ひりひりする。ジインと耳鳴りがする。
「……仕様がないから僕の寝室へおいで。あまり寝室には他人を入れたくないんだが……仕方がない。我慢するよ」
 俺は返事をしなかった。四条は構わず俺を抱き上げる。……いつから、こいつ見ていたんだ? 四条は俺にうっとりするような優しげな笑みを浮かべてみせる。
「……仕方のない子だね」
 まるで、幼子に言うような。俺はカッと顔に血が昇るのを感じた。
「……四条……っ……!!」
 四条は笑う。
「これじゃとても目を離せられないよ。僕は明日からどうすれば良いんだい?」
「……そんなのっ……知った事かっ……!!」
 四条は苦笑した。
「……困ったね。本当困ったよ。……三十年生きてきて、これ程困った事はないよ。君は『天才』だね」
「はあっ!?」
「……君は僕の一番の『頭痛』のタネになりそうだよ」
「放っときゃ良いだろうが!!」
「……僕はそう『お節介』は好きじゃない方なんだがね。……困った事に、思いの外君が『お気に入り』なようなんだ。まだまだとても手放したくないね。……だから困ってるんじゃないか」
「……俺はお前の『玩具』じゃないっ!!」
「……君も『強情』だね。良い加減、判らないかな?」
「…………何をだよ」
「……わざわざ説明・解説するのは面倒だね。まあ、良いか。そのうち判ってくれるだろうし」
「は!?」
「仕様がないから明日から一緒に『行動』しよう。一番目の……いやそれはマズイから、二番目の兄の次男坊という事にしておこう。確か[さかい]君は中学三年だったし」
「…………おい?」
「……君は明日から人前では、四条界[しじょうさかい]だ。『世界』の『界』と書いてサカイと読む。誕生日は十二月一日ね」
「なんでそんなっ……!!」
「……だって下手な説明じゃ、怪しい『関係』だと思われちゃうじゃないか。僕は『博愛主義』だけどそういう『趣味』はないし」
「…………」
 何も言う気になれない。四条は笑った。
「口裏は合わせて貰うし、[たすく]兄さんなら絶対表に出る人じゃないし、大丈夫」
「……そんな事まで必要か?」
「……万一、僕の身内にあっても安心だよ? 佑兄さんは絶縁されてるから、誰も界君の顔を知らない。日本では僕くらいしか、彼の顔知らないから安心して良い」
「……待てよ!! それじゃ俺は『帰国子女』にされんのか!?」
「安心して。界君はロスにいるけど、日本人学校にいるから日本語しか喋れないんだ」
「そういう問題か!? 俺は外国どころか国内旅行もしたこと無いんだぞ!?」
「大丈夫、僕がフォローするよ。……それに、厭なら喋らなければ良いんだ。君どうせ『人見知り』でしょ? その調子で皆に『人見知り』してれば、ボロも出ない」
「…………」
 呆れて物が言えなかった。……この男は。四条は自分の寝室のベッドに俺を下ろした。セミダブル。四条は俺を下ろすと、傍らの椅子に腰掛ける。傍にあるテーブルには本が半分開かれた状態で投げ出されている。四条はそれを手に取り、ぱらりとページを捲った。赤い革表紙の分厚い本。横文字で何か書いてある。俺の視線に気付いて四条は目を上げる。
「……何?」
「…………別に」
 四条は笑った。
「……新約聖書だよ。読む?」
「…………お前、クリスチャンか?」
 四条は笑った。
「クリスチャンじゃなくても聖書くらい読むよ。……たまに読むと、面白い」
「……お前に一番似合わないな」
 四条は笑った。
「『神』を『信仰』するのは悪い事じゃないよ。とても素晴らしい事だ。『人間』ならではの『所業』だろう? 他の『動物』には真似できない事だ」
「……お前はやけに『人間』に拘るんだな」
「『理解』したいでしょう?」
「……って事はお前、『理解』出来ないんだ?」
 四条は笑った。本を閉じる。
「この世の全ての人間を『理解』するのはとても難しい事だよ。物差しなんかじゃ測れない。だからこそとても面白いんだ。……世界には有りとあらゆる雑多な『人間』が混在してる。『理解』したかに見えて『理解』出来ない事の、なんと多い事か。自分自身の事すら、全ては判らない。『人間』は『全知全能』の『神』になど決してなれない。だからこそ、『唯一絶対』を求めるんだろう?」
「……ひねくれた見方だな」
「別に新約聖書でなくても、コーランでも歎異抄でも何でも良い。『人間』の心の拠り所なんて物は、たった一つ有りさえすれば、それで十分なんだよ。……『妄執』でも何でも良い。存在する物・しない物……心の『糧』となるものがあれば、『人間』はそれを『核』に生きてゆける」
「…………」
「……『核』を持たない『人間』は恐いよ? 『方向性』を持たない。『方向性』も『目的意識』も何もなければ、いずれその身は破滅する。それが自身の事だけなら良いけど、『他人』を巻き添えにするようなら、『害悪』以外の何者でもないだろう?」
 自分の事を……言われた気がした。
「……アンタは……『核』を持ってるのか?」
 四条は笑った。
「あるよ。……けど、別にわざわざ人に話すような事じゃない」
「…………」
「僕は『生きている』のがとても楽しいんだ。だからと言って、君にもそれを強要するつもりは毛頭ない。実際、そうしてるようにしか君には見えないだろうけどね。大体、今更新約なんか読んでみようと思ったのは、君に会ったからなんだ」
「……えっ!?」
「だけど、そんな事はどうも『無駄』だな。そんな『気休め』、君は欲しくないだろう?」
「……四条……っ……お前……っ!?」
「千何百年以上前に死んだ男のもっともらしい『説法』なんて、君に全く効果無いだろう? 君がクリスチャンならその手も有りかも知れないけど、きっと君はジーザス・クライストが何人なのかも知らないだろう?」
「……四条……まさかお前……っ!!」
「実に厄介なお子様だよ、君は」
「……何でっ!!」
「……『因果』、なんだろうな。一言で言えば。これもきっと『仏陀』の思し召しなんだろう」
「…………四条?」
「拾った事を実に『後悔』するよ」
「俺は迷惑だ!!」
「そんな事は重々承知だ。……ただ、僕は『無責任』な『行為』をしでかすのは、出来得る限りしたくないのでね。とは言え、僕も『人間』で時折、若気の至りで取り返しの付かない『失態』もする訳だが」
「何で『俺』なんだよ!!」
「……たまたま目の前に君がいて、それが『無関係』で済ませられるような『状況』じゃなくて、僕の『知識』の中に君の『情報』があって、それで『好奇心』もあって手を出した。それがたまたま『藪蛇』状態で引くに引けない。……そういう事でしょう?」
「……藪蛇って何だよ?」
「……それを僕に言わせるのかい?」
「アンタが言ったんだろうが!!」
「……こう言って、君は信じてくれるかな? つまり、僕は君がとても『好き』になったんだよ」
「……なっ……!!」
「ああ、『誤解』しないでくれ。変な意味じゃない。だからどうこうなんて事は一切無い。君が元気で明るく笑ってくれると良いなと、平たく言えばそういう事なんだが……判ってくれたかい?」
「…………何考えてるんだ!?」
 四条は困ったように笑った。
「最初は『怒らせる』だけのつもりだった」
 こいつ……何て奴だ。
「……次に『反応』見てみたくなった」
 ……本当、最低……。
「それでほんのちょっと『構い』たくなった」
 ……ひでぇ話だ。
「ちょっと『遊んで』それで『さよなら』するつもりだったんだが、それじゃ『駄目』だと気付いた。……少々『面倒』見てやろうかなと思ったのが、ケチの付き始めだよ」
「…………」
 呆れて物が言えない。
「君に死んで欲しくない」
 まるで、口説き文句だ。
「でも、僕が君に『生きていて欲しい』と願うだけじゃただの『迷惑』なんだろう? だから『強制』的に『生きていて』貰おうかと思って」
「もっと『迷惑』だろうが!! それじゃ!!」
「……判らないんだよね?それだけ『元気』なら普通、『死にたい』なんて思わない筈だろう? それなのに君は手首切ったり、飛び降りようとしたりする」
「…………」
「僕は『精神分析医』じゃないから詳しい事は判らないけど、普通『自殺』謀る『人間』はもっとどうしようもないくらいの処まで行ってるよ。君は本来なら、『そういう』人間じゃない。プライドは高いし、感情の波は激しいし、人並み以上に『欲望』は持ってるし、ハングリーさも強かさも持ち合わせてる。それでどうして『そういう』結果に行き着くのか……僕には全く判らないんだ」
「……アンタの知った事じゃないだろう!!」
「僕の知った事じゃない。……だったら何だい? 別に僕は君が死のうが生きようが、損得無い。放っておけるものなら、君に言われるまでもなくそうするけど、僕は一旦やりかけた事を放棄するのが、死ぬほど嫌いでね。頑固と言われようが、意固地と言われようが構わない。気は長い方だから、別に十年掛かろうと二十年掛かろうと、一切気にしない。君が諸手を上げて降参したって、そう簡単には許さない。……『命』の『冒涜』だなんて月並みな事言わない。君が『自殺』謀った事を『後悔』するほど付きまとってあげるよ」
「やめろよ!! 冗談じゃない!!」
「『死』は君が思うほど簡単じゃない。まともに『生きる』事すら出来ない君に、わざわざ自分の命を絶つなんて真似、絶対させない。『死』が君の心を『救う』だなんて思ったら、大間違いだ。君がしたいのはただの『逃避』だ。そんな事の為に『死ぬ』なんてバカらしい。『逃げ道』なんて何処にも無い。それでも『生きていく』のが『人間』だろう?」
「……アンタっ……人の気も知らないでっ!!」
「……『人の気も知らない』?」
 四条は目を光らせた。
「それは一体どっちの事だい? 君の方こそ僕の気なんて知らないだろう。僕の望みは別に人に取り立てて言うほどの事無い『小さな望み』だ。見守っていた『種子』が失われて、『悲嘆』にくれた僕が見つけた物が『君』だなんて『悪夢』以外の何物でもないだろう!! 言っておくが、君に構うのは君のためじゃない。僕自身のためだ。『自己満足』と言っても良い。だから君の事なんて知らない。君の事情なんて知った事じゃない。僕がどれだけ憤ってるか判るかい? 『君』は『生きている』のに、『生きられる』のに『生きよう』としない。僕の腹立たしさが判るかい? ただの八つ当たりだから、僕を恨みたければ好きなだけ恨めば良い。君にはその権利がある。……ただ、僕は君が君の『意志』で自分の命を絶とうとするのは許さない。それはいわば僕の最後の『はなむけ』だから」
「……何をっ……!!」
「僕は『僕自身』のためだけに生きてきた。『他人』の『思惑』や『心情』なんて知らない。どん底から這い上がるために、光当たる場所へ行くためだけに日々邁進してきた。『目的』のためには『手段』なんて選ばない。『身売り』同然の事までした。僕はかつて『後悔』なんて何一つ知らずに、傲慢に生きていた。それはたぶん今でも変わらない。……『守りたい』ものが出来て初めて、僕は『後悔』した。……それまでの僕に足りなかった物だ。僕はそれまで、自分の背中を顧みる事がなかった。自分の背後に何があるかなんて、まるで気にした事無かった。……本当は、自分の背中なんて見る事無かったんだ。それでも振り返らずにはいられなかった。……今更後戻りは出来ない。前に進む事しか出来ない。だから僕はこれまで通り、前に進む。……ただ、前だけは見てられない。余計な物も見なくちゃならなくなったのさ」
「…………何言ってるんだよ!! 四条!!」
「……ここまで言っても判らないなんて、『鈍感』なんだね、君。まあ、良いけど。じゃあ、ヒントをあげよう。僕が君に構う事が『必然』になったのは、『因果応報』だって事さ。昔のツケが今になって回ってきた。そういう事だ」
「……昔のツケ?」
「それで判らないなら、君は本当のバカだよ」
「なっ……!?」
「寝なさい。……それとも傷が痛む? 鎮痛剤でも飲むかい?」
「……いらねぇよ、んなもん!! そんな事より四条……てめぇ何隠してんだよ!!」
「……隠してる気は毛頭ないよ。バカが嫌いなだけだから」
「悪かったな!! 俺はどうせバカだよ!!」
「……そうだね、バカだから『そういう』事するんだろうしね」
「……っ!!」
「……寝なさい。……それとも僕に添い寝して欲しい?」
「誰がっ!!」
 四条は溜息ついた。手元の電気を消す。部屋は真っ暗になった。四条は俺の目の前まで来る。ベッドに腰掛け、俺の頭に手を置く。ぎょっとした。四条は俺の頭を撫でる。
「……君が眠るまでこうして頭撫でてあげるから」
 俺はムッとした。
「俺は子供じゃない!!」
「……そういう事言ってるうちは『子供』なんだよ。……世の中そうだと決まってる」
「…………っ!!」
「……もう寝なさい。疲れてる筈なんだから、ちゃんと休まないと体が保たない」
 お前はどうなんだよ? 出かけた言葉を飲み込んだ。四条はそれから無言で頭をゆっくり撫で続けた。……まるで、赤ん坊扱いだ。それでも、四条に頭を撫でられてる内、俺はうとうとしだすのを感じた。……四条が歌を歌う。囁くように。甘い声で。……シューベルトの子守歌。バカにしてる。冗談じゃない。……それでも、とても心地良くて。悔しいけど……睡魔に腕を引かれるのを感じた。
  四条なんて大嫌いだ……大迷惑で……最低で……それでも……時折騙されそうな優しい笑顔で……『広香』そっくりの顔で……絶対判ってる……自分の顔の『効能』なんて絶対に……。

To be continued...
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