NOVEL

光の当たる場所 -6-

 ひどく場違いな場所にいる気がした。物凄く居たたまれない。俺は落ち着かなく、辺りを見回し、それから窓の外を見た。遠くにビジネス街やショッピング街が見える。ベランダにある白いプランターにプチトマトが生っていた。……何か物凄いギャップ。俺は部屋を見回した。……ひどく生活感のない部屋。何故だ?と思って、ふとこの部屋がやけに物が少ない事、それからゴミ箱一つも、洗濯物一つも無い事に気付いた。……一体、どうやって生活してんだ? ……余計な事、だ。判ってる。そんなの、どうだって良い事だ。良く判ってる。全く気にする必要ない。十分判ってる。それでも……どうしても気になって、試しに冷蔵庫開いてみた。…………厭な気分になった。一般家庭用のその冷蔵庫には何も入ってなかった。
「何なんだよ!! これ!!」
 俺は片っ端から開けてみた。冷凍庫、氷だけ。野菜室…………おい!?
 俺はぎょっとした。そこには何枚ものポラロイド写真が入っていた。……何でこんな処に……一枚、拾い上げてみると、そこには赤いプチトマトが映っていた。……ご丁寧に日付まで、几帳面な四角い字で書かれていた。『一九九〇年六月九日、生育良好』……。未開封の未使用のフィルムも一緒に入ってる。……だから何で野菜室……。俺は思わず脱力した。慌てて閉める。……やめてくれっ!! こういう非常識な事すんのっ!! 俺は心底ぞっとした。……深呼吸する。頭痛がした。何かこれ以上探索すると、もっと余計な物を見つけてしまう気がしたが、これよりはマシなんじゃないか? 俺はゆっくり立ち上がった。
 塵一つ無い部屋。……たぶん、アイツ滅茶苦茶几帳面なんだろう。それにしたって片付きすぎだ。人間の棲む部屋じゃない。俺は厭な物を感じながら、部屋を探索した。居間には黒い丸テーブルと背の高い黒い椅子二脚。中央に白いレースのテーブルクロス。綺麗に透き通ったガラスの灰皿がある。食器棚にはごく僅かな食器。ほとんど皿とかカップやコップ類。ご飯茶碗なんて物は無い。棚の半分近くがブランデーか何かの瓶で埋め尽くされてる。綺麗に磨かれて、指紋一つ無い。俺の顔が映りそうなくらいだ。その隣りに本棚。何とか経営学だとかマキャなんとかだとか、俺には意味不明な難しそうな本が並んでる。娯楽本は一切無い。殆どハードカバーか新書で、文庫はほんの一握りだ。あとは訳の判らんアルファベットの背表紙が数冊か。……部屋には何か微かな芳香剤か何かの匂いがするけど、何処にもそれが見当たらない。何故だろう、と思って俺は、それが『四条』の匂いだと気付いた。どきりとした。……そうして、はっとする。何でそんな事で動揺すんだよ。頭を振る。……気を取り直す。
 居間の隣りはダイニングキッチン。カウンターテーブルには椅子は一脚のみ。収納戸棚が並んでいるが、その中は空だった。鍋一つ、フライパン一つ入ってない。唯一あったのはやかん一つきりだった。……つまり自炊はしてないって事だ。機能的なシンクタンクは新品同様に綺麗に光り輝いていた。埃一つ積もってない処から、掃除だけはマメにしてるという事か? 洗って綺麗に乾かされたコーヒーメーカーがぽつんと台の上に置かれている。……って事はきっと何処かに豆も置いてあるんだろう。流しの下を覗いて、溜息ついた。包丁一つ、洗剤一つ置いてない。……待てよ? 何で洗剤もないのに、こんなに綺麗なんだ? 食器用洗剤も一切無いってのは一体どういう事だ!? 俺は愕然とする。……何か……物凄くおかしくないか!? この部屋!! 思わず立ち上がる。
 綺麗に拭き磨かれた流し台。……けれど台拭き一つ置いてない。雑巾一つ見当たらない。そんなおかしな事ってあるか!? だったらどうやって綺麗にするんだよ!! ……ぞっとした。俺には理解の範疇外だった。……ますます恐ろしい物を感じながら、それでも俺は自分を止められなかった。廊下の押入を覗く。……そこにあったのはきちんと積み上げた古新聞だけで、掃除道具すら……掃除機一つすらも無かった。
「何なんだよ!! これ!!」
 俺は悲鳴を上げた。思わずその場にへたり込む。そうして座り込んだ床でさえ、ぴかぴかに拭き磨かれていて……。俺は冷や汗でびっしょりになった。……これ以上は無理だった。これ以上は何も知りたくないとつくづく思った。やめておけば良かったと後悔した。……四条貴明はきっと人間じゃない。何か俺の知らない物凄い『生き物』なんだと思った。……俺の知らない『世界』だ。俺は物置を閉め、廊下を四つん這いになって歩いて、さっきの居間に辿り着くと、ごろんと寝転んだ。蜘蛛の巣も埃一つもない白い天井。俺は目を瞑った。心臓に悪かった。物凄く心臓に悪かった。俺には全く理解不能だった。……アイツ、ただ者じゃないと思ってたけど、それどこじゃなかった。『人間』ですらないんじゃないか? 時計が五時半を知らせるメロディーを鳴らす。俺は一瞬、ギクリとして……時計と知ってほっと胸を撫で下ろす。不意に、涙が込み上げてきた。喉を、鳴らす。堪えようとして……今、この場に誰もいないのだと気付いて……俺は思わず涙を落とした。『限界』だった。俺は思い切り泣いた。声を上げて、思い切り泣いた。自分が何故泣いてるかなんて判らなかった。そんな事はどうだって良かった。
 『広香』も『兄貴』もいない。何処にもいない。だけど俺は今、そういう『理由』で泣いてなかった。ただ、『不安』で。これからの『先行き』がひどく『不安』で。子供のように泣きじゃくった。俺の『未来』は『不確定』だった。俺の『未来』は『真っ暗』だった。……何の『望み』もない。やりたい事すらない。『広香』も『兄貴』もいない今、俺に『道』なんか見えなかった。何にも無くて……空っぽで、空虚だった。それでも誰かの『道具』にされるのも、『玩具』扱いされるのも厭だった。……俺は『特別』なんかいらなかった。何も要らない。『命』だって要らない。俺が欲しかったのは、『広香』の『笑顔』と、『兄貴』の『支え』だった。『代わり』なんて要らない。そんなもの、必要ない。生きていたくなんて無いけど、誰かに利用されたくもなかった。こんな事ならもっと早くに死んでおくべきだった。あんな奴に目を付けられるずっと前に。『火事』で『広香』と一緒に死んでしまえば良かった。そしたら、今、こんな想いもしなくて済んだのに。
 俺は『抜け殻』だ。何もしたい事が無い。生きているのがただ『苦痛』で。ここにこうして『存在』してる事にさえ『罪悪感』抱いて。時々『暴走』しそうな危険な『獣』内部に抱えて。誰かを何かを傷付けてしまう『恐怖』に脅えていて。何処にも何にも『救い』なんて無いのに、それでも『生きてろ』なんて言うんだろうか?あの傍若無人な男は。……何処にいても、安心なんて出来ない。この世の何処も、俺の居場所じゃない。全てが『俺』を『否定』してるみたいで。
 あの時……俺は『血』に『恍惚』としていた。『血』が溢れ出し、流れ出す光景に没頭した。ぞくぞくする程、『綺麗』だった。『俺』自身の『血』なのに、うっとりするほど『快感』だった。俺は『病気』だ。……治るものなら『救い』があるけど、俺はそれが決して『治らない』と確信してた。……それは俺の『本性』だった。俺が唯一『望む』ものだった。……そんな事は許されない。『人間』でいたいなら、『絶対』に『禁忌』とすべき『衝動』だ。……俺は、傷付けたい訳じゃない。犯したい訳でもない。殺したい訳でもなくて……ただ、『血』が見たいだけ。『捕食』でも『性欲』でも何でもなくて……ただ、自分の『快感』のために。限りなく『肉欲』に近くて、そうではないもの。何処かで止めておかないと、俺は制限無く暴れ出して止まらなくなる。……俺は今、ギリギリの分岐点に立っている。右か左か、一歩踏み出したその瞬間、俺はもう引き返せなくなる。『人間』か『獣』になるかの……『瀬戸際』だと感じた。
 四条は『危険』だ。あの男はとても『危険』だ。俺はアイツに脅えにも似た感情を抱いていた。けれど同時に、『負けたくない』とも思っていた。アイツに関わりたくない。……けれど、逃げ出したくもなかった。アイツに『喰われる』のは厭だ。だけど……『負ける』のはもっと厭だった。『広香』そっくりの美しい顔。人の好さげな穏やかな笑顔。人を動揺させる甘い声。『草食動物』のフリして実は凶暴な『肉食獣』で。相手を仕留める瞬間を、眠ったフリで狙っている。
 四条は俺が見た中で一番、姿形の『綺麗』な男だった。中身はとんでもなくどす黒いが。線の細い感じがするクセに、妙に腕力があったり、飄々としてる割に、実は冷酷だったり。……俺は騙されてる。『広香』そっくりの『容貌』に騙されてる。早く逃げなきゃ。……逃げられない。負けたくない。あんな男に、負けたくない。……それこそが、四条貴明の『思惑』だってのに。俺の『内部』は動揺・混乱していた。……絶対認めたくない。絶対に認めたくない。…………あの『顔』だけが、俺の……っ!!
 悲鳴を、上げた。どうして『広香』そっくりなんだ!! どうしてあの男は、あんなに『広香』に似てるんだ!! ……どうにかなりそうだった。『広香』だけが、今の俺を『救える』。けれど……その『広香』はこの世の何処にもいなくて!!
 何も出ない。何も出て来なくなった。喉が、ひどく痛かった。カラカラに乾いて、声が出なくなる。どうしようもなくて、俺は転げ回った。気が狂いそうだった。……今、この場に四条がいたらいとも簡単に俺は『服従』してしまいそうだった。……俺は四条の事なんか嫌いだ。大嫌いだ。……けど、その『顔』だけが唯一の『弱点』だった。『広香』そっくりの『顔』だけが。
 俺は心臓に、手を当てた。波打ってる、鼓動。俺は何の因果か、今、生きている。止まる事無く、それは波打ち続けていて。……生きていたくなんか無かった。生きたくなんか無かった。それとは無関係に、心臓は脈打っている。俺は乾き切った両目に両手を押し当てた。……『空虚』。涸れ果てた、『俺』。何処にも行けなくて、路頭に迷って、血迷ってる俺。行きたい場所が無い。やりたい事が何も無い。何処へも行けないのに、何処にも居場所なんて無いのに。俺は生きている。性懲り無く。死にたいのに、死ねなくて。生きていたくないのに、生かされて。苦しくて、苦しくて仕様がない。……『終わり』にしたかった。何もかも『終わり』にしたかった。それの何処がいけないと言うんだ。誰でもやってる事だ。現に俺の両親は二人とも、自分で自分を殺した。……『他人』を殺すのは『犯罪』でも、『自分』を殺すのは『犯罪』なんかじゃない筈だ。……何か重大な『間違い』を犯さない前に、俺は『俺自身』を殺してしまいたいのに。……『目的』も無く、生きて存在したりしてたら、『俺』は『欲望』に走ってしまう。誰か止めてくれるなら良いけど、俺には『束縛』されるものが無い。『束縛』されたいものが無い。止めどなく溢れてくる『衝動』の行き先が、何処に行き着くのか……俺はうっすら判り始めていた。放っておけば俺が何処へ行ってしまうのか、俺は少しずつ気付き始めていた。……俺を縛る『枷』は無い。俺の『守りたい』ものは何も無い。俺が『救いたい』ものも。何一つ。
 四条貴明の大バカ野郎!! 俺に一体、何をさせる気だ!! 一体俺に何をするつもりだ!! 俺が俺でいられる間に、俺が『人間』の『範疇』にいられる間に、俺は『俺』をこの世から『消滅』させてしまいたいのに。醜くおぞましいこの『俺自身』を誰にも知られない内に、『封印』してしまいたいのに。誰かに知られる前に、誰かに気付かれる前に、一刻も早く消し去りたいのに!!
 四条の『顔』なんて見たくない。……けれど、俺は心の何処かで、四条の帰りを待ってる自分に気付いてぞっとした。……四条は『麻薬』だ。危険な物だと判っているのに、俺は……。
 立ち上がって、鏡を見る。……酷い顔だ。流しへ行って、顔を洗う。掛けてあるタオルで顔を拭いた。……四条は厭がりそうだが、別に構やしない。タオルはタオルだ。そのままそのタオルを水に濡らして顔に当てる。気持ち良い。……そうだ。思い出して氷をくるむ。瞼に当てる。俺は仰向けに寝転び、タオルを当てて大の字になった。……そのまま思わず、うとうととした。
 どのくらい時間が経ったろう。チャイムの音で目が醒めた。タオルはすっかり温くなっていた。タオルを外す。起き上がり、真っ暗な部屋を見回し、四条がまだ帰ってない事に気付いて、立ち上がる。玄関へ向かう。
「……はい?」
「こんばんはー。ケータリング・サービスのDCHです。四条貴明様ご注文の品をお持ちしました」
 ……ケータリング・サービス? 俺は首を傾げながら、ドアを開けた。大学生らしきいかにもバイト男が、赤縞の『DCH』とかいうロゴの入った制服上下プラス帽子を被って立っている。両手には白いデカイ箱。中央と側面に『ケータリング・サービスDCH』とシャツや帽子のロゴに似たレタリングが記されている。
「ご注文の『上海セット』二人前他、確かにお渡しいたします。受け取りのサインか印鑑、お願いします」
 俺は促されるまま、『四条』とボールペンで書き込んだ。
「又のご利用、宜しくお願いします!」
 男はそう頭を下げ、俺に箱を押し付けて行ってしまった。……俺は注文してないから、たぶん四条の仕業だろう。そんなような事を言っていた気もする。俺はその箱を台所のカウンターテーブルに置いた。
「……只今ーっ」
 四条の声。鍵を掛けて、入ってくる。
「駄目だよ、鍵が開いてるじゃないか」
「……今、開けたトコだよ」
 俺は憮然とした。
「鍵は開けたら閉める。……常識でしょ?」
 てめぇが一番『非常識』なんだよ。
「……ああ、届いたんだね? 僕はまだ試食しかした事無いから、味の保証はあまり出来ないんだけど、『試食』の段階ではそんな悪くもなかったよ。……ただ、それが『実施』の時点でどれほどの物になってるか……食べてみないと判らないけどね」
「……何言ってんだ? 四条」
「……株式会社DCH。ネーミングはデリシャス・チャイニーズ・オブ・久本。出来たばかりの子会社なんだ」
「…………そんな事までやってるのかよ!!」
 俺は思わず目を見開いた。
「僕はだから『忙しい』んだよ」
「……『不動産屋』じゃなかったのかよ」
「……『今は』って言ったでしょ? 全部の事業所いずれは回るんだよ。細かいトコは抜きでね」
「……何だよ……それ……」
「僕は四ヶ月後には『結婚』する予定でね。それ以前から、『社長教育』の一環として、色々やらされてるんだ。僕が今いる『職場』も借りの物で、正式じゃないんだ」
「お前、『次期社長』かよ!?」
「……今頃気付いた? 久本秋芳[ひさもとしゅうほう]社長の一人娘、由美子[ゆみこ]嬢と十月七日に『婚礼』予定だ」
「……お前っ……!!」
 咄嗟に、声が出なかった。
「久本秋芳殿は結構クールなお人でね。僕が結婚前に『失態』でも犯したら、とても許してくれそうにないんだよ」
「……そんななら、俺に構わない方が良いんじゃねぇの?」
「……彼は『持病』持ちなんだ」
 いきなり話が変わった。
「……は!?」
「心臓が弱くてね。……実はもう長くないんだ。僕は以前彼の『秘書』をしてたから、知ってるんだけどね」
「…………」
 何か厭な予感がした。
「彼は僕を随分買ってくれてるけど、そう『甘い』人じゃない。……その上、由美子嬢には『恋人』がいるようなんでね」
「…………」
 物凄く厭な予感がした。
「このまま順調にいけば、僕が『次期』は間違いないんだけど、僕はもっと『確実』なものが欲しいんだよね」
「……俺に何かさせようって気か?」
「……まさか。僕がそんなに腹黒く見える?」
 見えるだろうが!!
「由美子嬢はね、『年下』が好きらしいんだ」
 俺はぞっとした。
「ちょっと待て!!」
 寒気がして、俺は自分の両肩を抱いた。
「……四条、お前……何考えてる!?」
 四条は笑った。
「……何も」
「……嘘だ!! 絶対何か、企んでるだろ!!」
「今度、由美子嬢とお食事する予定なんだけど、君も連れていってあげるよ。……その前に、テーブルマナーを覚えて貰う必要があるけどね」
「……四条!! お前俺の話聞けよ!!」
「何を脅えてるんだい?」
「……バカな事、考えるなよ?」
「僕はそんなにバカじゃないよ」
 四条はにっこり笑った。
「……何も起こりはしないさ」
 嘘だ!! コイツ絶対『期待』してる!!
「大体その由美子ってババア、幾歳なんだよ!!」
「ババアだなんて失礼な。まだ二十八歳だよ」
「……十分ババアじゃねぇか」
 暫く、四条は検分するように俺を見た。
「……そうか。最大の問題があったな」
 ……おい!?
「やっぱり良いよ。……君は飾れば見てくれは何とかなるけど、その下品で低俗な中身の方はどうにもならないらしい」
「何っ!?」
 何て暴言だ!!
「四条!! てめぇっ!! 世の中には言って良い事と、悪い事があるんだぞっ!?」
「……僕には君にそれが理解できてるとは思わないけど?」
「何だとっ!?」
「……仕方ないよ。下賎の生まれだものね。三つ子の魂百までって言うからね」
「俺をバカにしてんのか!?」
「……本当の事を言っただけだろう?」
「何が本当だ!! ふざけんのも良い加減にしろ!!」
「……じゃ、証拠を見せてよ」
「幾らでも見せてやるよっ!!」
 四条はにやりと笑った。……はっとする。しまった。言質を取られた。
「……決まりだね」
 にっこり笑った四条は、俺には『悪魔』に見えた。……悪夢だ。

 夕食を終えた後──例の通りのスパルタでしごかれた──四条は自分の寝室から救急箱を持ってきて、俺の目の前に置いた。
「……は?」
 四条はにっこり笑った。
「腕、出して」
「…………」
 俺は渋々左手を出す。四条は昼間止血のために縛ったハンカチを外す。
「……全く自分で外そうとは思わなかったの? あんまり長く縛っておくと、血の流れが悪くなって壊死してしまうじゃないか。自分の身体はもう少し大事にするものだよ」
「…………」
 四条は手首の傷をオキシドールで消毒する。傷口にひどく染みて、俺は思わず眉根を寄せた。
「……この傷、たぶん残るよ。……バカな事したものだね」
「……アンタに関係あるかよ」
 四条は唇だけで笑った。
「君はね、何も判ってないんだよ。僕が怒ってるのはそういうとこ。……世の中にわざわざ自分殺してまで、逃れなきゃならないものなんて何もないよ。……皆、喉元過ぎれば、忘れてしまうんだ。全く『人間』は良く出来ている。『忘却』という防御手段を持っているんだからね」
「…………」
「……君はそんなにプライド強いのに、どうして『自分』から『負ける』ような事をする? 勝負する前から逃げてどうするの?」
「……アンタにそんな事言われたくねぇよ」
「……僕はわざわざ『他』の連中のような真っ当な『説教』してやるなんて、ぞっとするんでね。僕自身がそういうの、毛嫌いしてたから、君にわざわざしたくない。……けど、あんまり酷いと腹は立つよね」
「……だったら構うなよ」
「……ところがそういう訳に、いかないんだよね」
「何でだよ!!」
 四条は笑った。
「……僕は『弱い』人間が嫌いなんだ。泣く事しか出来ないような連中は特に。噛み付いてくる方が絶対良い」
「……四条……お前……っ!!」
「君を見てると、つい構いたくなるね」
「……なっ……!!」
「……僕は『嬉しい』んだよ」
「何言ってんだ!!四条!!」
「……僕はずっと『捜して』いたんだ。『同じ』言葉で話せる『同朋』を」
「……っ!?」
「僕は気の長い方なんでね。『時間』は掛かっても構わないんだ」
「……俺はっ……!!」
「『自殺』なんて『卑怯』な手段だよ。そんなものは許さない。少しでも自尊心があったら、そんな事はとても出来やしないと思うんだけどね?」
「アンタの知った事かよ!!」
「……少なくとも、君が必死で『生きてる』人間なら、止めはしないよ? だけど、君は『生きてない』クセに死のうとしてるでしょう? そういう惰弱なところが僕の気に障るんだよ」
「そんなの、アンタに関係ないだろうが!!」
「……関係ない? そういう事言うかい? 僕が今日、君を見つけた時、どれだけ憤ったか判るかい? 君と暫く会話してみて、どれだけ気に障ったか判るかい? 『生きる』事がどうでも良いような人間に、簡単に『自殺』なんかされたら、世の中『自殺志願者』でいっぱいになるじゃないか。そんな『甘い』事言ってる人間に、多少の『嫌がらせ』をしたくなるのは至極当然の事だと思わないかい?」
「……『嫌がらせ』!?」
「それでなければ『鬱憤晴らし』でも構わないよ。どちらにしても似たようなものだ」
「……四条……お前……っ!!」
「『死ねば楽になる』なんて思ってる『少年』に、僕の『貴重な時間』を割いて、『お仕置き』をしてやろうという事かな?」
「……そんなっ……!!」
「君に『同情』はするよ? だけど、そんなものは『情状酌量』の余地無いよ。僕が君を『生贄』に選んだのは単純な『理由』じゃないんだ。僕の憤りの『意味』が判るまでは、君を『解放』しない。『覚悟』したまえ」
 目の前が、真っ白になる。一瞬、何も見えなくなる。四条は俺の腕にガーゼと包帯を巻く。巻き終わると、呆然としたままの俺を置いて、何処かへ行ってしまった。まるで、ハンマーで叩かれてるみたいに、頭が痛い。吐き気すらした。俺はその場に崩れ込んだ。どうしてそんな事、四条に言われるかまるで理解できない。どうして見ず知らずの奴に、そんな事で責められなきゃならないのか全く判らない。どうして俺だけが、責められなきゃならないんだ!!
「……『少年』」
 四条が俺の目の前、屈み込んだ。俺は無言で四条を見上げる。四条は笑った。
「恨むなら恨めば良い。僕を憎むならそれでも良いさ。君に感謝なんかして貰おうと思わない。僕は僕のやりたいようにする。誰にも理解されようなんて思わない。そんな事、ただの時間の無駄だ。君の思惑なんて知らない。……僕はそういうやり方で、ここまで来た。これ以外のやり方なんて知らない。僕は『他人』を自分に『完全服従』させるつもりなんて毛頭ない。世の中には『勘違い』してる連中が山ほどいるけどね。誰かの『人形』になんてなる必要ない。『他人』のために生きるなんて、ひどくバカらしい事だ。そんなもので人生棒に振るのはただのバカだ。自分自身の力で生きられない奴は、遅かれ早かれ『駄目』になる」
「……どうして俺なんかに構うんだよ」
「『生きていける』のに『死にたがってる』なんて滑稽な事だろう?」
「俺は生きてたって仕様がない人間なんだよ!!」
「……その判断は、君がする事じゃないな。君以外の『誰か』がする事だ。だけど、だからと言ってそんな物に振り回されるのは、ただのバカだよ。『暗黒』は誰の胸の内にもある。『少年』の『綺麗事』だけで世の中の物全てを判断されるのは、僕には『滑稽』以外の何物にも見えないね」
「そんな事、アンタに言われたくない!!」
「……君は誕生日迎えてないから、まだ十四だっけ? 僕は自分の考えを無理矢理押し付ける『悪趣味』は無いけどね? ……そのくらいで『人の生きる価値』について聞かされたくないね。『子供』の『価値観』の『傲慢』さにはぞっとする。君は自分が可愛いだけだよ。自分の弱さに酔ってるだけのナルシシストだ。そんなもの『見苦しい』だけで美しくも何ともないよ」
「っ!!」
 四条の言葉は、俺の胸をズタズタにする凶器だった。俺は震えて、何も言えない。
「……僕は君に謝らないよ。でも、自分が絶対正しいなんて言わない。これはたぶん僕のただの『八つ当たり』だから」
「……なっ……!!」
「……君が女の子だったら、たぶんきっと君が『駄目』になるまで甘やかしたろうけど、君は幸いにも男の子だからね。……僕は君に『期待』してるんだ」
「……何を……っ!!」
「内緒」
 四条は笑った。それから、俺を抱き上げる。動揺する俺に四条は優しく笑い掛ける。
「……僕には正直、血の繋がりなんてどうだって良い。気にするのもいるけどね。そんなものに『価値』は抱いてない。大事なのは、『それ』を『大切』だと思えるかどうか、なんだ」
 何を言ってるのか、俺には全く理解できない。四条は俺を抱きかかえ、客間へ連れていく。客間にはソファベッドがあった。シーツと布団が敷いてある。そこに寝せられた。
「……ただの『感傷』さ。それでも僕は放っておけない。因果な性分だよ」
「……四条?」
 四条が不意に、俺の頬に手を触れる。俺はギクリとした。両手で俺の頬を挟み、真正面から俺を見る。……油断すると、騙されそうに優しい笑み。こいつ……中身は最低なのに、どうしてこんな顔、作れるんだ。信じられない。
 悲しそうに、四条は笑った。そうしてゆっくり俺の頬から手を離す。
「……おやすみ」
 四条は笑った。俺は一瞬、言葉に詰まった。何も言えずにいる間に、四条は部屋を出て行った。俺は呆然と、四条に触れられた頬に手を当てる。何だかひどく熱かった。鼓動が早い。俺は動揺した。……何を。何をそんなに俺は……。カッと血の気が昇る。背中が不意にぞくりとする。……ヤバッ……俺……っ!!
 どくん。心臓が波打つ。俺の内部の『獣』が行き先求めて、『咆吼』を上げる。全身の『血』が煮えたぎって熱くなる。……紅い……『血』のイメージ。爪の先から、髪の先まで『嵐』が俺の全身、駆け巡る。思わず自分の身体に爪を立てる。背中がぞくぞくする。激しく内部を掻き回されて、俺の『獣』が猛り狂う。苦しくて……呼吸が上手く出来なくて……俺はもがいた。必死で喉を掻きむしる。血が、滲んで滴り落ちる。紅い、血。俺の両目にうっすらと涙が浮かぶ。俺は自分の喉を伝う血を指ですくい取って口に含む。口内に僅かに香る鉄の味。……恍惚とした。歓喜すら感じる。……『病気』だ。『病気』以外の何物でもない。それでもそれはとても『快感』で。狂っていた。……もっと……もっと……もっと……!!
 俺は発作的に笑い出した。狂気じみていた。何か致命的におかしかった。『俺』は一体何なんだ? 嗤うしかなかった。狂ってる。全身が、熱を帯びて感覚がおかしい。気分がひどく高揚していた。嗤わずにはいられなかった。俺は呼吸困難寸前まで嗤い続けた。……息が、切れる。
「は……はは……は……っ」
 最後は、声も出なくなって。喉が、変な音を立てる。嗤いすぎて、涙が出る。涙が、頬を伝い流れ落ちる。……俺はどうかしている。このままだったら絶対気が狂う。『人間』だなんて言えない。こんなもの『人間』なんて呼べない。体中の『熱』が俺から正気を奪う。気が遠くなりそうになる。震える手で、身体の中央部に手を触れる。ひどく熱かった。涙がこぼれる。
「……最低……っ」
 場所柄なんて考えずに、俺は動物的に『行為』にふけった。四条が途中で来るかもしれなかった。俺は自暴自棄になっていた。……来るなら来いよ。てめぇなんか恐くねぇよ。『行き先』間違えると、とんでもない処へしか行けない『衝動』。『嘘』でも良い。『偽物』で良い。『俺』は何処にも行けない。こんな『俺』は何処にも居場所がない。『人間』なんか何処にもいないか、『俺』自身が何処にもいなければ良かった。……『俺』は『人間』なんかじゃない。そのフリをしていただけだ。こんなものは絶対『人間』なんかである訳がない。『枷』を外すのが恐かった。『枷』が壊れてしまうのが恐かった。……『俺』はもう、既に一線を越えてしまってる。もう、二度と、元には戻れない。『衝動』を押さえるには、『性行動』しか無くて。自分の事だが吐き気がする。放出と共に、『熱』が冷める。急に身体が寒くなって、俺は自分の身体を丸めた。……皮膚の下の、紅い『血』。こんな『俺』にも他の『人間』と変わらず流れているもの。……そうだ。俺は最初から自分を『人間』だなんて思ってなかった。『広香』がまだ傍にいる頃から、ずっと。『広香』を愛していた。とてもとても愛していた。……俺は一度も言わなかった。ただの一度も口にしなかった。『広香』はもう何処にもいない。こんな事なら言えば良かった。『後悔』なんてしないように。

To be continued...
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