NOVEL

光の当たる場所 -4-

 結局、あれから何日経ったのか判らない。俺は暴れる度に、注射を打たれて、気力も体力もすっかり消耗して、力つきたところで『遺体安置室』へ連れてこられた。
 『冷凍保存』された『広香』の『遺体』。俺はぼんやりそれを見つめた。真っ黒に焼け焦げて、顔の造作も何もない。髪の毛すらちりちりに焦げて、元の色などまるで判らない。俺は笑い出したくなった。……これを『広香』だなんて抜かすバカは何処のどいつだと思った。
「……『広香』じゃありません」
 俺は言った。
「……もっと良く見て。ほら、腕とか……足とか……」
 言われた通り、腕や足は元の色や形が判る程度の損傷しかなかった。でも、考えるまでもなくこれが『広香』の筈無かった。
「……『広香』じゃありません。『広香』はまだ九歳で笑顔の可愛い女の子です」
「……龍也君、ショックなのは判るけど……もっとちゃんと良く見てくれ。ほら、この手首の処のほくろ……『広香』ちゃんにも付いてなかったかい?」
「……『広香』にもありましたが、これは絶対『広香』じゃありません」
「……龍也君!! 君が認めないと、『広香』ちゃんは一生『身元不明』になるんだぞ!? きちんと埋葬してあげたいだろう!?」
「……こんなの、『広香』じゃありません」
 周囲の連中はウンザリしたように首を振った。俺は無感動にそれを見ていた。……こんな黒こげが『広香』だなんて認められる筈無かった。『広香』の面影なんて何処にもなかった。顔と頭はすっかり焼け尽くされ、生きてる間だったなら、さぞ苦しかっただろう。……だけど、こんなの『広香』じゃないから。同情も哀れみも、掛ける気なんてしない。
「……仕方ない。他の人に『確認』して貰って、『検屍解剖』に回そう」
 俺はそれを他人事のように、ぼんやり聞いていた。
「……龍也君、もう病室戻って良いよ」
「……はい」
  俺は言われた通り、自分に配分された病室へと向かった。ぼそぼそと、俺の事をどうこう言う声が聞こえてきたけど、俺は気にしなかった。何もかも、どうだって良かった。
「……気分はどうだい?」
 そう、声掛けてきたのは倉敷[くらしき]院長。俺達のいた『施設』の管理・経営者だ。
「……おかげさまで、すっかりいいです」
 俺はほとんど抑揚無く、そう言った。すると何故か、院長は悲しそうな顔をした。
「……龍也君……すっかりやつれたね……」
「……健康状態は、良好です」
 俺は答えた。
「……私が誰か、判るかい?」
 まるで俺が、『病人』のように言う。
「倉敷院長、です」
「……君は昔、私をそう呼んだ事は一度もなかったね」
 俺は答えなかった。俺に対する台詞には、聞こえなかったから。
「……私の力不足だよ」
 老人のような声で、院長は言った。
「……『事件』の事は覚えてるかね? 龍也君」
「健康状態は、良好です」
「……違うよ、龍也君。『事件』の事だよ。『火事』の事だ」
「……今日の天気は、快晴です」
「……龍也君……」
 哀れむように、見つめられた。俺にはさっぱり、意味が判らなかった。院長は出て行った。俺は窓の外の景色を眺めた。真っ青に晴れた空。遠くで誰か、子供の声が聞こえる。ぼんやり眺める。……そうだ、『広香』。『広香』を捜しに行かないと。『広香』は気が強いけど、あれで結構寂しがり屋で、泣き虫で。
 俺は一人、病室を出た。
「……あら、龍也君。一人でお散歩?」
 俺は頷いて、歩く。階段降りて、ロビーへ行く。人のざわめきを聞きながら、俺はスリッパのまま外へ出た。誰かが慌ててやって来る。
「駄目よ、龍也君!! スリッパのままじゃ!! これを履いて、これ」
 下駄を履かされた。ぼんやりそれを見下ろし、歩き出す。看護婦さんも一緒について来る。
「……何処をお散歩したいの?」
「……『広香』を」
「……え!?」
「『広香』を捜さないといけないから」
「……龍也君!?」
「『広香』、たぶん一人で泣いてるから」
「……あのね!? 龍也君!?」
「早く、見つけてあげないと。きっと、『広香』、心細がって泣くから」
「龍也君!!」
 看護婦さんが騒ぐから、いっぱい人が集まってくる。
「どうしたんだね!?」
「龍也君が……『広香』ちゃんを捜しに行くって……っ!!」
 悲鳴のような看護婦さんの声に、周囲が騒然とする。
「龍也君!! しっかりして!!」
 両腕、がっしり掴まれて。……どうしてこの人達、俺を『異常』なもの、見るような目で見るんだ? 判らないから、俺はきょとんとする。
「『広香』ちゃんは『外』にはいないよ!!」
「……でも、『広香』はあれで結構寂しがり屋だから……早く見つけてあげないと」
「正気になってくれ!! 龍也君!!」
 どうして皆、俺を『病気』みたいな目で見るんだ? 俺を『狂人』扱いするんだ? 俺はこんなにも『正気』なのに。俺はこんなにも『まとも』なのに。……おかしいのは、周りの方だ。俺を、『腫れ物』に触るみたいな扱いして。
「……だって『広香』が……」
「……とにかく、病室へ戻ってくれ!! 話はそれからだ!!」
 俺は無理矢理、数人がかりで病室へ連れ戻された。俺はどうしてこんな目に遭うのか、判らない。それにどうして、こんなになっても『兄貴』が戻らないのか、判らない。……どうしたんだろう。どうして俺はこんな処に一人でいるんだろう? 判らなくて、急に不安になって。頭が痛くて。何か、大声で叫びだしたくなる。こめかみが、酷く痛い。どうして俺は『一人』なんだろう? 『広香』と『兄貴』は一体何処にいるんだろう? 早く捜さないといけないのに。早く見つけないと、本当に『一人』にされてしまうのに。俺『一人』、どうしてこんな処にいるんだろう? 判らなくて。酷く不安で。心細くて。『一人』は厭だよ。『一人』は恐いよ。早く捜しにいかなきゃ。早く見つけて『一緒』にいないと、見えない『闇』に捕まってしまうから。早くしないと見えない『獣』に食べられてしまうから。……早く、早く、早く、早く。

 ……病室に、『花』が生けてあった。俺は知らないから、誰か他の人が生けたんだろう。俺は精神科の先生に長時間に渡って質問に答えさせられたり、絵を描かされたりした。何が何やら判らない。錠剤を呑まされて、絵を描かされて、監視付きで散歩させられて。個室には鍵を掛けられ、自由に外へ出られなくなって。
 『広香』はどうなったんだっけ? 答え。四月十二日夜の『火事』で焼け死にました。
 兄『英和』は今どうしてる? 答え。行方不明で、所在不明。今、大勢の人達が捜してるけど、見つかりません。
 全問正解。
 今度、『広香ちゃん』の『遺体』が帰ってくるから、明日くらいに『お通夜』と『お葬式』するらしいよ。……ああそうですか。それからその後『四十九日』で『遺骨』を『納棺』するんだよ。大役だね、龍也君。そうか、それ俺がやるんですか。それは大変ですね。大した事はないよ、君は『遺影』持ったり『遺骨』持ったりするだけだよ。後は周りの大人の言う事聞いてれば良いから。なあんだ、それじゃ簡単ですね。俺でもきっと出来ますね。そうだね、頑張ってね。
 最近俺、眠くないんです。……それは困ったね。眠らないと体に悪いよ。睡眠薬を出してあげよう。それ、どうしても飲まないと駄目ですか? 先生。飲まないと駄目だよ。体に悪いからね。でも俺、全然平気です。身体軽いんです。眠らなくなってから何だか気持ち良くて。それは駄目だよ。一体いつから寝てないんだね? 忘れました、先生。
 季節は春から夏へと移行しかかり、まだ半袖には寒いけど、『五月晴れ』の良い天気が続いている。俺は一人、病室で鼻歌を歌う。『悪い夢』も見なくなって、何も感じなくなって、気持ち良くて、毎日楽しくて幸せで、だけど何か『重大なもの』足りなくて、だけどそれは思い出さなくて良いと『俺』の中の『何か』が『命令』するので、『俺』は何も考えずにただ歌ってる。『頭』空っぽな方が楽だから、俺はひたすら何も考えず、毎日歌を歌って、先生に渡されたスケッチブックに思いついた事絵に描いてみる。クレヨンで。今日は天気がとても良いから、クレヨンで空を描いてみる事にする。画面一杯に『空』を描いて、描ききれずにはみ出して。仕方ないから二枚、三枚に渡って描き続けるけど、とても『空』は描ききれなかった。仕方ないから、六枚目で諦める。これ以上描いても仕様が無いね。仕方ないよ。スケッチブック閉じる。
「……龍也君」
 鍵ががちゃりと開いて、倉敷院長が入ってくる。
「……あ、院長先生」
 俺はにこりと笑う。ほとんど来る人のないこの部屋に、この人は毎日のようにやって来る。何故か可哀相なものを見る目で、彼は俺を見る。
「……外出許可は取って来たよ。そろそろ行こう」
「はい」
 俺は院長の持ってきた、黒い喪服を着て外に出た。久し振りだった。何だかとても嬉しかった。俺は知らない処へ連れて来られた。墨で『中原広香 通夜・告別式会場』とある。俺は院長と中へ入った。中には花や果物が飾られていた。椅子が並んでいて、何か祭壇のようなものがあり、そこに黒枠の付いた黒いリボンを掛けたモノクロの写真が飾られていた。何の写真だろう? 覗き掛けて、俺は硬直した。
 俺は悲鳴を上げた。必死で悲鳴を上げて、泣き叫んだ。……気が、狂いそうになった。そこに飾られていたのは、『広香』の『遺影』。『悪夢』が『現実』にフラッシュバックする。俺はとても耐え切れなかった。黒く焼け焦げ、何処の誰とも全く判別付かない『死体』!! 大勢、人が駆けつけて来た。身体を押さえつけられて、無理矢理注射を打たれた。……俺は強制的な『眠り』と『昏睡』に陥った。『眠り』と『混濁』の間で浮遊する。俺はどうかしていた。……俺は『何か』おかしくなっていた。『何か』致命的におかしくて、『異常』で『狂って』いた。
 泣き叫びながら、俺は真っ黒に焼け焦げた『広香』の『遺体』を見つめていた。目を逸らす事も出来ずに。爆煙と共に燃え上がる、『施設』の兄貴の部屋の前で、俺は炎を上げて燃え上がる『広香』を見ていた。気が狂いそうになりながら、背後に気配を感じて振り向くと、兄貴が工具を握り締めて、にやにや笑っていた。
 どうしてこういう事したんだよ!! 叫ぶ俺に、兄貴は言う。
『お前、広香をどう思ってる?』
 そんなの、大切な妹に決まってるじゃないか!!
『本当に? あんなに俺達兄弟には似てないのに?』
 当たり前だろ!? だって俺達と同じ母さんの生んだ子供だろう!? 何の違いがあるって言うんだ!?
『お前は単純でいいな、龍也』
 だって兄貴、俺の事も広香の事も、分け隔てなく扱ってただろ!?
『広香が俺達の本当の妹でなくても?』
 妹だよ!! そうだろ!? だって見てたじゃないか!! 間違いなく、母さんのお腹の中から出て来たじゃないか!! 出て来たところは直接見てないけど、だけど母さんが産んだ子供なのに、妹じゃない訳、ないだろう!?
『例え、父親が俺達とは違っても? そのせいで、母さんが自殺したとしても?』
 やめてくれよ!! こんなもの!! 見たくない!! 聞きたくない!! それ以上、何も聞きたくないよ!!
『それは逃げって奴じゃないのか?』
 絶望的な、悲鳴を上げた。トドメ刺されて、絶叫した。明るくて気が強くて、可愛い『広香』。くりくりとした大きな二重で、おませで口達者で小三のくせに俺に説教したりする『広香』。下半身は綺麗なのに、何故か『顔』だけは『確認不能』なくらい焼け焦げて、面影一つ無い『広香』。
 俺はいつまでも『一緒』にいたかった。『お荷物』でも何でも良いから、『兄貴』のそばにいたくて。叱られても良いから『広香』に構われたくて。俺はこの『幸せ』がいつまでも続くと思ってた。俺は『広香』に『兄貴』に、大切なこと、何一つ告げていない。何一つ、思ってる事言って無くて。ある日突然、どちらも俺の目の前から消えて無くなるなんて、考えた事もなくて。いつだってそこにあると思ってたから、何の心構えもしてなかった。母さんが自殺して、親父が自殺したのに、この後の及んでまだ、人の『死』が不意に訪れるものだって、人との『別れ』が不意にやって来るものだって判ってなかった。母さんと親父亡くしたんだから、これ以上失う筈無いって勝手に思い込んでた。
 俺は本当バカで。救いよう無いバカで。俺は悲鳴上げる事しか、出来なかった。泣き叫ぶしか、出来なかった。誰も助けてなんか、くれなかった。何処にも『出口』なんか無くて。この『世界』は真っ暗闇で、『絶望』と『混沌』に満ちていて。苦しいだけで、何の『救い』もなかった。俺は力の限り、絶叫した。何も見えやしなかった。何も聞こえやしなかった。
 『広香』も『兄貴』も何処にもいなかった。

 俺は逃げ続けていた。走り続けてた。息を切らして力の限り走って。……体力なんてほとんど無かった。慌てて路地に入り込んだ。
「……何処だ!?」
「……この辺の筈だ!!」
 更に走る。……『閉じ込められる』のはもうたくさんだった。無理矢理『生かされる』のはもうたくさんだった。今日の日付なんて判らない。薬漬けにされて、今日まで逃げる『機会』なかった。すぐに息が切れてしまう。……当たり前だ。薬漬けで病室のベッドに押し込められてたんだ。これで身体おかしくならない方がどうかしてる。
 眩暈しそうな頭振って、俺は必死で走る。走って、走り続けて、知らない場所へ辿り着く。
 静かで平穏な家々。その傍らにゆったり流れる広い川と広い河原。見た事無いのに、何故か懐かしい風景。俺は河原に降りて、川の水に腕を浸けた。冷たくて、気持ち良い。俺は何も考えずに、川の水に直接口を付けて、水を飲んだ。……不潔だとかそういうの、全く気にもしなかった。喉が渇いたから飲んだ。ただ、それだけ。水面に、波紋の間に歪んだ俺の姿が映った。俺はそれから目を逸らす。空を見上げた。眩しくて、目を閉じる。……頬を、風が撫でた。気持ち良かった。……何だかこんなに気持ち良いのは、久し振りな気がした。風に揺られながら、俺は目を開けた。立ち上がる。今夜過ごす場所を見つけないと。俺は何処へも行けなかった。今更何処にも行けなかった。帰る場所も、行く場所も、何処にもなくて。頼るべき人も、この世には何処にもいなくて。
 ふらふらと、夢遊病者のように俺は歩いた。目的地なんて本当は何処にもなかった。行く場所なんて本当は何処だって良かった。ただ言えるのは、『閉じ込められる』のも『薬漬けにされる』のもこりごりだという事だけだった。『俺』を『俺』以外のものにされる事だけは、もう二度と。
 廃屋を、見つけた。生け垣が破れて、障子はびりびりに破れていて、ガラスが一枚割れていた。俺はそれに近寄り、玄関のドアに耳を近付けて様子を伺った。……物音一つ、しない。ドアの鍵は掛かっていた。割れたガラスから、中へ侵入した。……まるで強盗にでも荒らされたかのような、惨状で。荒れ果てて、僅かな家具が放置されて。壁紙も、床板もべろべろだった。俺は何かに足を引っ掛けて、見下ろして思わず息を呑んだ。
 刃の出たままのカッターナイフ。幸い足は怪我しなかった。……けれどそれを見た瞬間、俺は自分が『何』をすべきかに気が付いた。
 そうか、そうなんだ!! 俺は思わず歓喜した。どうしてもっと早く、気付かなかったんだろう。俺は本当、バカだと思った。まるで気付きもしなかった。全くバカだとつくづく思う。……そういう『手段』があったのに……。
 俺は笑った。思い切り笑った。笑って笑って、笑いまくった。涙が出るほど、思い切り。
 俺はカッターを拾い、その場に腰を下ろし、壁に寄り掛かって左手首を膝に置いた。深呼吸、する。右手でカッターナイフをしっかり握り、力一杯、左手首の静脈に刃を押し当てた。やけに生々しい、肉の感触と痛みと共に、生温い血が吹き出す。雫を作って、滴り落ちる。
「…………っ!!」
 震える腕で、ぐいと引き裂く。毒々しい色の血が、溢れ零れる。俺はカッターをその場に取り落とした。心臓の音と共に、溢れ出す血。思った程赤くなくて、TVや映画の『血』は嘘だと思った。……それでも俺は、その血を『美しい』と感じて、思わず見惚れた。ぞっとするほど『綺麗』で、これが『俺』の『内部』に流れてるなんて嘘みたいだと思った。恍惚と見惚れて、俺はぞくりとした。爪先から脳天に走る、『快感』。全身の『血』が『獣』のように狂い出す。ぞくぞくして、身震いしながら、それでも目が離せないで。紅く滴り落ちる、『俺』の『血』が、流れて血溜まりを作るのを俺は恍惚としながら見つめていた。ひどく、気持ちが良かった。物凄く気持ちが良くて。こんな『快感』初めてだった。俺は頭の片隅で、こんなの絶対『狂ってる』と思いながら、目を逸らせないで。マスターベーションより気持ち良かった。ぞくぞくして、身体が震えて、止まらなかった。魅せられている、と思った。俺は『これ』が見たかったのだと……俺は今まで、『これ』を求めていたのだと、初めて気付いた。
 薬に酔うより簡単に、酒で泥酔するより簡単に、俺は『自分』が『血』で『酔う』事を『自覚』した。……俺は大笑いしたくなる。発作的に、衝動的に、野性的に、本能的に。『狂ってる』と思った。『俺』は本気で『狂ってる』と俺は思った。嗤うしかなかった。……『死』の『間際』になって、こんな事に気付いた自分自身に。
「……素敵な『趣味』してるね?」
 俺は一瞬、それがどういう意味か判らなかった。ぼんやり『声』を見上げる。焦点が合わなかった。……『幻聴』かと思ったそれは、『現実』で。
「……悪いけど、ここは『改修』して、売りに出すんだ。だから『他』でやってくれないかな? こんな処でやられると、商売上がったりなんでね」
「…………」
 俺はその『意味』を考えた。
「……アンタ、誰?」
 すると、『男』は笑った。
「僕? ……僕は『不動産屋』だよ。物件[ここ]の下見に来たんだ。そういう訳だから、『他』でやってくれないかな?」
「…………」
 どういう意味か、全く判らなかった。
「……別に良いでしょ? ここじゃなきゃいけない『意味』でもあるの?」
「……ない、けど」
「じゃあ、退いてね」
 そう言って、俺を軽々抱き上げる。俺は激しく動揺した。俺の身長は一七八cm。目の前の男はそれより数cm高いぐらいだ。しかも俺は、結構重量がある。……それをこんなにあっさり持ち上げられたら。
「……ちょっ……!!」
 抵抗する間もなく、男はずんずん歩き、ぽいと道路に投げ捨てた。
「じゃあ、早く『他』へ『移動』してね?」
「…………」
 開いた口が塞がらないとはこの事だ。
「……アンタ、止めないのかよ!?」
 思わず叫んだ。
「……何で?」
 不思議そうに、男は聞いた。
「……何でって……」
 俺は詰まった。……確かに俺は、誰にも『邪魔』されたくなかった。……けど。
「……普通、こういう時、『大人』は『説教』すんじゃねぇの?」
「……元気そうだね、『少年』。それなら自力で歩いて帰れるね? 僕は仕事があるから」
 そう言って、俺に背を向ける。
「ちょっと待ちやがれ!!」
 思わず相手の背中に体当たりした。
「わっ!! スーツが汚れる!! ……あ〜あ、血が付いた……」
「…………」
 鬼畜だ。こいつ、とんでもなく『鬼畜』だ。
「……弁償代……と言っても、金なんてなさそうだね、君」
「…………」
 こんなガキから金むしり取る気か!? このエセ・サラリーマン!!
「……仕様がないから、『身体』で支払ってよ」
「っ!?」
 何だと!? この男っ……一体何考えてんだ!?
「……何で俺がっっ!!」
「……こんな処で手首切るほど、君『暇』なんでしょ? 僕は忙しいから、少しくらい手伝ってくれても良いでしょう?」
「…………」
 俺は、呆然とした。
「……何? 他人のスーツ汚しておいて、『拒否』するの? 君、性格悪くない?」
 そんなの、アンタにだけは言われたくない!!
「……アンタ、何考えてんだ?」
「君が何処で何しようが、僕は『他人』で関知しない。けど、人に『損害』与えたら、それなりの『補償』はするのが、最低限の『礼儀』じゃない?」
 そう真面目くさって言われ、俺はその時初めて何気なく、その『男』の顔をまともに見た。
「っ!?」
 ぎょっとした。心臓鷲掴みにされる。……すらりとした、ビジネス・スーツを身に纏った男。二十代か三十代前半。秀麗な額。細く整った眉。一見優しげで穏和そうな瞳。全体的に整った、白い顔。すっきり通った鼻梁。いかにも『穏和』なエリート・サラリーマンといった風体で。微かにコロンかオードトワレの匂いなんかさせて。……そんな事はどうだって良い。その『顔』だった。その『目』がまるで……っ!!
「『広香』!?」
 すると男はにやりと笑った。
「……何でっ……!!」
 俺は思わず悲鳴を上げそうになった。何でこの男、『広香』にそっくりなんだ!?
 男は何を考えてるのか、くすくす笑う。
「……何をっ……!!」
 思わず、身が震えた。
「何を笑ってんだよっ!! てめぇっ!!」
 男は肩先を細かに震わせ、笑いを噛み殺しながら、俺を見る。
「……失敬。少々、思い出し笑いをね」
「……てめぇっ!!」
 思わずカッと血の気が昇った。右拳、握り締める。男はなおも笑った。
「……『学校』はどうしたの?」
 笑いながら、男は言った。
「……『中学生』は『学校』行ってる時間じゃないの?」
  呆然とした。……突然、『まとも』な大人のような事、言い出したけど……それより、何より。
「……アンタ、誰!? 俺を知ってんのか!?」
  男は笑った。
「……名前言って、君知ってるの? 僕の名は……」
 そうして、笑いを噛み殺して、真顔で。
「僕の名前は四条貴明[しじょうたかあき]。もうすぐ『久本[ひさもと]』になる『予定』だけどね」
 ……『久本』……? 何処かで聞いたような……。
「ちなみに僕の今の勤務先は『久本不動産』」
「っ!! ……『久本ローン』!?」
 俺の親父が金借りて、不当たり出して滅茶苦茶執拗な取り立てされて、『自殺』する原因になった……!!
「……そういうのも、『系列』にあるね」
  男は含み笑いをする。
「……まさかっ……!!」
「……僕を逆恨みするのは、お門違いだよ。僕の『取り立て』のモットーは『生かさず殺さず』だ。『殺して』しまったら、『元』は取れないからね。そんな事する奴はクズだ。能のない低俗な人間のやる『仕事』さ」
 そう、他人の顔で言う。俺は喉元まで出かけた言葉噛み殺して、代わりに無言で睨んだ。
「……ま、その時の担当者は『閑職』に回されて、『自主退職』したよ」
「……アンタ、俺を知ってんだな?」
 男は笑って答えない。
「アンタ何者だよ!!」
「……さっき教えてあげたでしょう?」
「どうして俺の事知ってんだよっ!!」
「……君、自分が『有名人』て知らないでしょう? ところで、その『傷』手当しなくて良いの?」
「っ!!」
 男はぐいと、俺の腕を掴んだ。目を細めて、傷口を見る。
「……骨は見えてないね」
「……なっ……!!」
「……肉がちょっと切れてるだけだ。痛くないの? 君、鈍感だね。感心するよ」
 不意に腕を捻られ、痛みに悲鳴上げそうになる。必死で堪えて、脂汗滴らせながら、睨み付けた。
「……『痛覚』はあるみたいだね」
  ……この鬼畜男っ!! 掴みかかろうとしたその時、男は胸元から白いハンカチを取りだし、ぴりりと破いて細長い紐状にした。
「!?」
 男は何でもない顔で、それを俺の左腕に巻き、きつく縛って止血した。
「……君、マゾ?」
「……アンタッ!!」
 マジでムカついた。そんなの、見ず知らずの男に、言われたくない。誰が痛い思いしたくてンな事やるかっ!! 普通、『自殺』するためだろーがっ!!
「ふざけんな!! 俺に喧嘩売ってんのか!?」
「……血の気多いね。それくらい血の気多かったら、多少出血しても平気そうだね。そんなに『血抜き』したけりゃ、十六になったら早々に献血すると良いよ。世のため人のためになるからね」
「ふざけんなよ!!」
「……ふざけてないよ。大真面目」
 にっこり人の好さげな顔で。……こいつ、絶対俺をおちょくってる!!
「……本当は下見と『測量』しに来たんだけど、物凄い有様だね。これじゃ土台から立て直した方が早いかも。築十年だって聞いたのに、これじゃ『改築』どころか『建て直し』だよ。担当者怒鳴りつけないと、僕の気が済まないよね?」
「……それをどうして俺に言う?」
「君だってこれ、酷いと思うでしょ?」
「…………」
「……じゃ、行こうか」
「……は!?」
 訳判らなかった。
「……『弁償代』」
「何っ!?」
「……働いて、返して貰うよ。これ十万するんだ」
「……何だと!?」
「『測量』手伝ってよ、『少年』。それとも『現金』持ってるの?」
「…………っ!!」
 男はにっこり、人の好さげな顔で笑った。
「じゃ、頼むよ」
 そう言って巻き尺の端を渡される。俺は呆然とした。……何でだ!? どうして俺が!?
「……ぼうっと立ってないで、向こうの隅へ行って!!」
 厳しい声で叱咤されて、俺は条件反射的に男の反対側へ行った。
「ほら、もっとぴんと伸ばして!! 弛んでちゃ駄目でしょ!! ああ、ほら!! 曲がってる!! きちんと角を測って!! 君物差しの使い方も知らないの!? そうそう、やれば出来るじゃない。……ええと、十m八十。よし」
 そう言って、何か手帳に書き込む。次に短い方を測る。それを又書き込む。
「これで居間は終わったから、後はキッチン・ダイニングと二階だ。はい、とっとと移動!!」
 ……俺、良いように使われてないか? 確かに金はない。だが、何かおかしいと思うのは気のせいか? この男の思惑が、全く判らない。
「だらだらしない!! きびきび動く!!」
 命令されて、素直に従ってしまう自分が悲しい。……何で俺がこんな……不満はあるけど、口には出せない。……何だか思い切りペースに乗せられてる……。
「はいっ、一階終了!! 次二階!! ……っと前に、階段。ああ、ストップ!! ストップ!! うん、そこそこ。ぴったり角付けて!! OK!! 次!!」
 二階の『測量』をほぼ終える頃には俺は……諦めの境地に入っていた。
「はいっ、これで全て終了!! ……じゃ、行こうか」
 何っ!?
「これ以上働かせる気か!?」
 すると、男は『何言ってんの?』とでも言いたげな顔をした。
「『十万』だよ? ……取り敢えず、昼食にしよう。……行くよ」
 付いて来いと言わんばかりに、ジェスチャーして一人でさっさと階段降りる。俺はげっそりした。やめろよ。……嘘だろ!? ざけんなよっ!!
「……あのなっ!!」
 俺は男を追い掛けた。
「……何?」
 男はきょとんとした。
「どうして俺がそんなに付き合わされなきゃならないんだ!! てめぇにっ!!」
「……それは君が僕のスーツを汚い手で触って、汚したからでしょう?」
「だったらクリーニング代で済む話だろう!! 何で『弁償』までしなくちゃならない!!」
「……決まってるじゃないか。僕が厭だからだよ」
 あっさり言った。
「そんな義理無い!!」
  男はにっこり爽やかに笑った。
「それは僕が決める事であって、君が決める事じゃない」
「……なっ……!!」
 あまりの言葉に、俺は一瞬、言葉に詰まった。
「……ねえ、君。大事な事忘れてない?」
「…………は?」
「……君はこの家の現在の『所有者』が誰か知ってる?」
「……へ?」
「……君、ここの『鍵』持ってないでしょう? たぶん居間の窓から入ったんだと思うけど……『他人』の『所有』の土地に入って、勝手にその『建物』に侵入するのは、もしかしなくても十分『犯罪』じゃない?」
「……っ!?」
「……『無罪放免』で見逃してあげるんだから、『感謝』されても、『非難』される覚えないね」
 ってもっともらしい事アンタ、言ってるけど!! 何処が『無罪放免』だよっ!! 何処がっっ!!
「労働基準法はどうなってんだよ!!」
 怒鳴ると、男はにやりと笑った。
「別に僕は君を金で雇って働かせてる訳じゃない。先に僕に『損害』を与えたのが君で、君がその『補償』するためにちょっとばかり、『無料奉仕』で僕の『お手伝い』するだけなのに、どうしてそこで『労働基準法』だなんて言葉が出て来るんだい?」
「っ!?」
「それじゃ、行こうか。車はそこにある……けど、その格好じゃとても乗せたくないな」
「……じゃあ置いてきゃ良いだろうが!!」
 すると男はまじまじと俺を見る。
「……う〜ん、そうだね。『車』を置いて行こう」
  何っ!? ……動揺する俺を置いて、男はすたすた歩いていく。玄関までもう少し、という処で振り返った。
「……早く、おいで」
 危うく、騙されそうに優しい顔で。『広香』そっくりの。それと甘い、声で。
 俺はどきり、とした。男は、四条貴明は笑って、手招きする。立ちつくす俺に、苦笑を向ける。
「迎えに行かなきゃ、駄目かい?」
 カッとした。
「ふざけるなっ!!」
 四条は笑う。
「お腹、空いたろう? もう一時だ。『定食』で良いかい?」
 俺は返事をしなかった。
「食べたら、その『格好』をどうにかしなくちゃね。……本当、酷いよ。自分で鏡見てごらん?」
 返事なんか、絶対するかと思った。
「……ねえ」
 不意に、腕を掴まれた。真正面から、顔を覗き込まれた。
「っ!?」
 四条の秀麗な顔が、触れ合いそうな程、近付けられる。その双眸が、真っ直ぐに俺を射抜く。一見、穏やかに見えて……けれど、力強い意志に溢れた瞳。……ぞくりとした。背中に衝撃が走った。四条の目には、何の表情もなかった。笑っているのは、口元だけ。四条自身は笑ってなんかいなかった。四条は口角を上げ、すっと目を細めた。
「……僕は『無視』されるのは嫌いなんだ」
 『草食動物』の皮を被った『肉食獣』の瞳で。俺は心底ぞっとした。ぴくりとも動けなかった。とても目を逸らせなかった。蛇に睨まれた蛙のように、俺は身動き一つ、出来なかった。四条は不意に笑った。声を上げて。
「……っ!!」
 立ちすくむ、俺に。
「……恐がらせて、悪かったね」
 そう言って笑うけど。……もう、さっきと同じようには見えなかった。本当にこの男が笑ってるなんて思わなかった。四条は俺の腕をようやく解放した。
「……来るよね?」
 やっと判った。確認ではなく、命令。……俺の『意志』の『介入』なんて認めてない。こいつは、そういう『男』だ。
 俺はしぶしぶ頷いた。四条は満足そうに微笑んだ。そのままくるりと背を向ける。俺は四条に続いて玄関から外に出た。四条が家に鍵を掛けてから、並んで二人で歩き出す。俺は、この男に『不信感』を抱きながら、逃げられない。俺の『本能』がこの男は『危険だ』と告げていた。優しそうなのは面の皮一枚だけ。中身はひどく『物騒な』生き物だ。こんなに『顔』は『広香』に似ているのに。全く『広香』に似ていない。それでもこの『顔』で優しく微笑まれたら、騙されるかもしれない。……油断すれば。

To be continued...
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