NOVEL

光の当たる場所 -3-

 兄貴は五時半を少し回ったくらいで、大急ぎで帰ってきた。心なしか、表情が少し暗い。
「お帰り、兄貴」
「……ただいま、龍也」
 声の調子もどっかおかしい。
「……兄貴、どうした?」
 兄貴は笑った。いささか、強張った表情で。無理に笑ったみたいだった。
「……兄貴?」
「……大丈夫。少し……疲れただけだよ」
「大丈夫か? 何だったら、やめるか?」
「……大した事無い。用意は?」
「……俺はこれで。広香の方は……なんかごたごたやってる。さっき声掛けたら『覗くな』と言われた。覗いたって面白くもねぇっての」
「……広香、か」
 兄貴は溜息ついた。やっぱ様子が変だ。
「……龍也、お前……『広香』をどう思う?」
「……は?」
 きょとん、とした。何を言われたのか、全く判らない。
「……何、急に。どうしたんだ? 兄貴」
「…………」
 言いにくそうに。
「……俺達とは、全然似てないだろう?」
 俺は目を丸くした。……そんなの。
「何を今更? 母さんから生まれたのは確かだろ? 俺達、見てたじゃないか」
「……そうだな、『今更』だな」
 自嘲気味に笑ったりして。
「どうしたんだよ? 兄貴」
 急に、不安になる。
「どっか、調子でも悪いのか?」
「……いや、そういう訳じゃない。ただ……」
「……ただ?」
 その時、向こうの方から広香が来た。兄貴は口を閉じた。何か、考え込むような顔で。
「……悩み事あるなら……」
「ないよ」
 兄貴はにっこり笑った。さっきまでのが、嘘みたいに。きっぱりと言われて、俺は詰まる。
「無理するなよ?」
「大丈夫」
 言い切るから。俺は、それ以上の追求を諦める。
「……何の話?」
 俺達の方へ近付いてきた、広香が不思議そうに言う。
「……大した事じゃないよ」
 素っ気ない口調で兄貴が言う。何処か、硬い表情で。……何かおかしい、と感じた。上手く、言えないけど。
「そう」
 素っ気なくされても、広香は気にしなかった。
「ねえ、英和お兄ちゃん。腕、組んでも良いでしょ?」
「……悪いけど、龍也にして。俺とじゃ身長合わないでしょう?」
「ちぇっ、つまんないの。英和お兄ちゃんとが良かったのに。仕方ないから、龍也お兄ちゃんで良いや」
「……俺は『仕方ないから』か!?」
「だって、龍也お兄ちゃんとは朝したもん!!」
「……お前達、仲良いな」
 溜息つくように、兄貴が言った。
「仲なんか良くねぇよ。節穴か? 兄貴」
「そぉよぉっ!! 龍也お兄ちゃんたら、冷たいし酷い事するし、乱暴だし!! 全然紳士じゃないもん!!」
「……やっぱお前達、仲良いよ。……『異常』なくらい」
「そんな言い方するかよ!?」
「そうよ!! 失礼よ!! 英和お兄ちゃん!! 龍也お兄ちゃんの『横暴』がうつったの!?」
「俺は『病原菌』か!?」
「……『夫婦喧嘩は犬も喰わない』って感じだな」
「……兄貴っ……やめてくれっっ!!」
「……英和お兄ちゃん……熱でもあるの?」
 そう言って、広香が手を伸ばそうとする。兄貴がそれを不意に乱暴に振り払った。
「触らないでくれ!!」
 広香がびくっとした。俺も我が目を疑った。兄貴は汚らわしいものでも触れたかのように、自分の手を拭い、それから俺達二人の視線に気付いたかのように、硬直した。
「……すまない。やはり……疲れてるようだ……」
 そう言って、苦笑いする。
「……兄貴?」
「……悪いけど……財布は渡すから……二人で行ってくれないか? 少し……休む事にするよ」
「……兄貴……大丈夫か……?」
「……すまん……気が高ぶってるようだ……ゆっくり休むから……広香……楽しみにしてたろ? 二人で楽しんでおいで。俺は良いから……」
「……でも……」
「……折角の……『広香』の誕生日だろう? 俺はどうも……楽しめそうにないから……二人で楽しんで来てくれ……もし気に病むなら……感想でも聞かせてくれ。それが一番……嬉しい」
「……判ったよ、兄貴」
「……大丈夫? 英和お兄ちゃん」
 蒼白な顔で、広香が訊ねる。
「……大丈夫だよ、『広香』。龍也と楽しく『外食』して来なさい。羽目は外しすぎないようにね」
「判った!! 私がいるから、大丈夫よ!! お兄ちゃんに変な事は絶対させないから!!」
「……それは普通、俺の台詞じゃないか?」
「……うちは龍也お兄ちゃんが一番、危ないの!!」
 ギッと睨まれた。……ああ、そうかよ?
「……ごめんね」
 弱く、微笑んだ。その笑顔が、何故かひどく遠い気がして。俺は思わず、兄貴の腕を掴んだ。
「……大丈夫だよ。今夜一晩寝れば治る。平気だ」
 そうきっぱり言われて。
「……兄貴は俺達に、大事な事何にも言わないから、さ」
「平気だって。……心配性だな? 龍也」
「兄貴は無理しすぎるんだよ」
「……『無理』……ね。かもしれない」
 兄貴は苦笑した。
「明日の朝でも、話を聞かせてくれ。それが何よりの土産だ」
「判ったよ。気を付けてな、兄貴」
「……お前達もな」
  そうして俺達は別れて、兄貴は自室へ、俺達は外へと向かった。
「……どうする?」
「……最初の予定通り、ファミレスで良いんじゃない? 出来るだけ安い奴頼むのよ、お兄ちゃん」
「……誕生日なのに、せこい事言うな。お前」
「誰のお金だと思ってんの!?」
 物凄い形相で睨まれた。……こえェ。広香は可愛らしいワンピースを着ていた。
「……そんなの、持ってたか?」
 すると、広香は胸を張る。
「あのね、いつもの名前判らない、親切な人。すっごいよね?きっとお金持ちなんだよね? 見ず知らずの私に、こんなの送ってくれるなんて。サイズ、ぴったりなの。足長おじさんみたいだよね?」
「……誰それ?」
「やだぁっ!! お兄ちゃん!! 足長おじさんも知らないの!? J・ウェブスターよ? 孤児の女の子を見守ってくれる、素敵な実業家との甘いラブストーリーなのよ?」
「…………それ、つまり『光源氏』か?」
「……それを言うなら、『源氏物語』。そうね、大分違うけど、まあそういう感じかしらね?」
「……それってただのロリコンじゃねーか」
「バカ言わないでよ!! 足長おじさんは『好青年』なんだから!!」
 憤然として、言う。……お前、まだ九歳だろう広香……。
「……お前にまだ恋愛は早すぎるだろーがっ」
「何言ってるのよ。もう、九歳なのよ? 恋愛くらいバリバリにするわよ」
「……ほお、じゃあ、もうお相手でもいるのか?」
「……それはまだだけど……でも、これからだもんっ!! 私、選り取りみどりだもん♪ モテモテなんだから。ただ、私の心にキュンとくる、素敵な男の子がいないだけだもん」
「……はぁ〜っ。言ってろ、言ってろ」
「お兄ちゃん、私の事、思い切りバカにしてるわね? そーゆーお兄ちゃんはどうなのよ? 十四や五にもなって、好きな女の子の一人もいないなんて、尋常じゃないわよ? それともすぐ振られるの? お兄ちゃん、女の子と付き合った事なんか、無いでしょう?」
「うっせぇなぁ! それこそ、余計なお世話だ。俺だってそれこそ、お前なんか比較にならねぇくらいモテるんだから、焦る必要ねぇんだよ」
「……やっぱりその年齢で、彼女の一人もいないんだ。おっかしいよ? それ。異常じゃない?」
「しつけぇよ。構うな。不自由してねぇからイイんだよ、んなのは。辟易してるんだから」
「……お兄ちゃん、もしかして……ホモ?」
 思わず鳥肌立った。
「っざけた事抜かすなっ!! 冗談でもそういう気持ち悪ぃ事言うなっ!! やめろっっ!!」
「……ああ、良かった。……身内からそんなの出したらどうしようかと思った……」
「……お前、それ『ホモ連合会』に知られたら、クレーム来るぞ……」
「……なにそれ? そんなのあるの?」
「知んねぇ。俺が今、勝手に作った」
「……お兄ちゃん……」
「別に女に全く興味ねぇ訳じゃねーよ。ただ、ぴんとくるものが無いだけだ」
  ……それ以前に……自分と同じ『生き物』だなんて思えないだけだが……。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「もし私が結婚するとしたら……」
「……まだまだ先の話だろ?」
「……もし、ね? 結婚式に花嫁衣装着たらね? 泣いてくれる? 大声で」
 面食らった。……いきなり何言い出すんだ、このませガキ。
「……そりゃ、普通花嫁の『父』がやる事だろ?」
「でも、うちお父さんいないし……英和お兄ちゃんの泣くところは想像できないから」
  ……う……まあ、確かに……。
「……けど、何だって、俺?」
「だって、お兄ちゃんなら泣いてくれそうだもん」
  嬉しそうに。……お前、兄を何だと思ってるんだ。おい。
「……泣いて欲しいか?」
「……泣いてくれないの?」
「…………そうだな、嬉し泣きするかもしれんな。こんな奴を嫁に貰ってくれる酔狂な男がいるなんてって」
「ひっどぉい!!」
「……お前がバカな事言うからだろ?」
「そんなに私バカな事言った?」
「……言ってるよ。お前、普通の妹は……んな事絶対兄貴になんか言わねーよ」
「冷たいんだーっ」
「……冷たくない。普通だ」
「……嘘でも『ウン』って言ってくれれば良いのに」
「……何お前、俺に甘えてんの?」
「甘えてなんかいませぇん、だ!!」
 べぇって舌なんか出すし。
「んな顔するとブスになるぞ?」
「うっさいよっ!! お兄ちゃんのバカ!!」
 手に持ってるポシェットで殴る。……やめろって。凶器は。
「……暴力娘……」
「……今日は私の誕生日なんだからね!!」
「……判った、判った。お姫様」
「……英和お兄ちゃんに、何かお土産買ってこ? 私、少しお小遣いあるから」
「……何買う?」
「お兄ちゃん、年長者なんだから私任せにしないでよ!!」
「……こういう時ばっか年下ぶりやがって」
「……お花、買ってこうか? 何が良いかな?」
「……花ぁ? そりゃ俺の専門外だ」
「……面倒臭いだけなんじゃなくて? あ、それともアイスクリームとかにしよっか? プレミアムの、高い奴」
「……おいおい、どっちだよ」
「……どっちが良い?」
「……アイスクリームなんて、溶けるだけだろ?」
「じゃあ、お花ね。帰り、寄ってこ!」
 二人で食事して、帰りに花買って、それから帰った。もう遅いから、俺が花を兄貴のとこ持ってく事にして、広香を部屋まで送って。それから俺は、兄貴の部屋をノックした。
「……兄貴?」
 明かりが、洩れていた。ノブを回すと、かちゃりと開いた。
「……あ……」
 兄貴は、起きていた。床の上に、何か広げていた。
「……ごめん、兄貴。あの……楽しかったよ。それで、これ土産って言うか見舞いって言うか……金は俺と広香で出し合ったから……」
「……わざわざ……いいのに」
 そう言って、兄貴は顔を背けた。
「……何、してたの?」
 見て、気付いた。金属製のそんなに大きくない箱の中に、プラスチック容器二本。その両端に金属製の棒が付いていて、それからコードが伸びている。それが何かの装置に繋がっていて……。
「……時限爆弾?」
「……模型だよ」
 兄貴は素っ気なく言った。
「……疲れてるのに、そんな事してたの?」
「……気を……紛らわせたかったんでね」
「……一体……どうしたんだよ……兄貴……」
「…………」
  兄貴は俺と目を合わそうとしない。
「……お前……『広香』をどう思ってる?」
「……さっきもそう、言ってたな? どうしたんだ? 一体。……どうもしないよ、大切な妹だ。兄貴だってそうだろ? 俺達は大切な『家族』だ」
「……お前は……単純で……良いな」
 壊れそうな、笑顔で。
「……兄貴!?」
「……そうだな……お前の言う通りかもしれない……そうなんだ……だけど……」
「……兄貴……!?」
「……俺は深く考え過ぎなんだな……」
「……兄貴、悩み事があるなら……」
「大丈夫」
 笑った。
「もう、寝ろ。龍也」
「……兄貴?」
「……時々、お前が羨ましいよ」
「……何言ってんだ? 兄貴」
「……お前はただ……俺より素直なだけだな。お前は俺の……素直な『本音』なんだ」
「……何言ってんだよ!?」
 動揺した。兄貴がこういう事言ったの、初めてだった。
「……俺だって世間には不満を持ってる。ただ、俺は狡いからそれを上手い具合に隠し通してるだけなんだ」
「……兄貴!!」
 そんな事、絶対ない!! 兄貴は絶対、俺みたいな『生き物』なんかじゃない!! 兄貴は俺よりずっと強くて賢くて『綺麗』で!!
「……たまには俺も、愚痴りたくなるらしい。悪かったな、龍也」
「……兄貴……本当……何か心配事あるなら……」
「……余計な事、考え過ぎただけだ。寝ろ、龍也。……体には、気を付けてな」
「……え?」
 聞き返す前に、部屋の外へ追い出された。俺は呆然と、立ちつくした。兄貴の部屋のドアには、錠が下りた。……俺は諦めて、自室へと戻る。途中、広香の部屋を窺って、寝息を確認してから。
 ……どうしたんだろう……兄貴……。様子、おかしかった……。あんなの……初めてで……何も話してくれる気配もなくて。……『拒絶』だ。俺は不安になった。物凄く、不安になった。もう一度、兄貴の部屋へ行こうかとも思った。だけど、たぶん無駄だった。兄貴は俺と話なんかしたくなかったんだ。俺と話なんてする気なくて。……涙が出た。どうしてか全く判らなかった。兄貴に起こった『変化』の理由を、全く理解できなかった。……もしかして……俺の隠し通そうとしてる『中身』の事がバレたんだろうか!? それだったら、あの態度は判らなくない。俺の『醜悪』な『中身』がバレて? ……待てよ、それじゃ辻褄が合わない。だったら、どうして兄貴が俺を『羨ましい』だなんて言う? ……たぶん、兄貴に何かあったんだ。今朝、食堂を出てから、『施設』に戻ってくるまでの間に。俺は急いで、部屋を出た。兄貴の部屋へ向かう。
「……兄貴?」
 ノックする。返事はない。でも、人の気配はする。鍵は掛かったままだった。
「……兄貴。話があるんだ。……開けてくれ」
 それでも、扉は開く気配がなかった。中にいる人間が、動く気配も。
「……兄貴。何があったか、話してくれよ? 俺達、兄弟だろ? かけがえない『家族』じゃないか」
 くぐもった、声が聞こえた。
「……兄貴!?」
 低い、唸るような笑い声。
「兄貴!?」
「……何でもない。寝ろ、龍也」
 知らない人のような、声だった。
「……ゆっくり、な」
 俺は脱力して、とぼとぼ自室へ戻った。……仕方ない。今日は諦めよう。明日……明日、朝一番に、兄貴の処へ行こう。一晩経ったら、対応も違うかもしれない。
 俺は明かりを消して、ベッドに潜り込んだ。

 どおん、という大音響で目が醒めた。跳ね起きて、慌てて部屋を飛び出す。廊下に、濛々と煙が、立ちこめていた。警報が、『施設』内に鳴り響く。火事だ!!寝ぼけ頭で、それだけは理解した。真っ先に、広香の部屋へ行った。広香の部屋の鍵は掛けられてなかった。そこには誰もいなかった。広香のスリッパが、きちんとベッドの脇に履き揃えられたまま、布団はめくり上げられたままで放置してある。……広香は先に、逃げたんだ。俺はその部屋をそのままにして、慌てて兄貴の部屋へ向かった。煙と炎が物凄い。出火元はこっちの方らしい。両手で鼻と口を覆いながら、涙を堪えつつ懸命に走った。
「兄貴!!」
 兄貴の部屋は煙と炎で物凄い事になっていた。中の様子はまるで判らない。
「兄貴!! いるなら返事してくれ!!」
 答えはなかった。激しく炎が燃える、音だけがした。
「早く逃げなさい!! 外へ!!」
 職員に促されて、俺は仕方無しに、走り出す。そのうち、天井が崩れたりし始めた。
「っ!?」
 両手で頭を庇い、何とか外へ逃げ出す。息を切らせ、深呼吸し、それから辺りを見回す。大抵の職員や入居者達が、着の身着のままで、地面に座り込んでいる。『施設』全体が、火に包まれ、激しい轟音と共に崩れ落ちようとしていた。落ち着きなく、俺は視線を彷徨わせた。……兄貴と広香の姿を懸命に捜した。
 愕然とした。
「広香!? 兄貴!?」
 慌てて、建物へ駆け寄ろうとした。職員達に、取り押さえられる。
「待てよ!! あの中にまだ、兄貴と広香が!!」
「危ないからやめなさい!! 今入っても、救助活動の邪魔になるだけだ!!」
「救助活動!? 救助活動なんて何処でやってる!!」
「今、消防車が到着するから!! 落ち着いて待ちなさい!!」
「バカ野郎!! んなもん待ってられっか!! 今、来てないもん待ってたら、死んじまうだろうが!!」
「落ち着きなさい!!」
 いきなり、平手打ちされた。……ハゲ院長。
「……君がそんな事して、英和君も広香ちゃんも喜ばない。少しは落ち着いて、待ちなさい」
「……うるせぇ、ハゲジジイ」
 言いたくて、今まで言えなかった台詞、するりと口から滑り出た。さっきと反対側を叩かれた。
「叩きゃ済むと思ってんのかよ!! ハゲジジイ!! 俺の気もっ……知らないでっ!!」
「君の気持ちなんか知ってる!! 皆同じ気持ちだ!!」
「嘘ばっか言うなよ!! 俺の『家族』だぞ!? 同じ気持ちの筈なんかあるか!! 俺の兄貴だぞ!? 妹だぞ!? それを黙って見てろというのか!?」
「落ち着きなさい!! 君が死んでも誰も喜ばない!!」
「うるせぇよっ!! クソジジイ!! 俺なんかっ……俺なんかどうだっていんだよっ!! 兄貴が……広香が無事じゃなきゃ、意味なんか無ぇんだよ!!」
 もう一回、叩かれた。
「院長命令だ。……君が言っても、邪魔になるだけだ。おとなしくしてなさい」
「……そんなのっ……聞けるかよ!!」
 よってたかって、抑え込まれる。消防車が到着した。慌てて水かなんか、掛けるけど……遅いんだよ!! そんなんじゃ全然、間に合わねぇんだよ!! 誰かに後頭部、殴られて……目の前……暗くなる……てめぇら……最低だよ……人間じゃ……ねぇよ……本当……最低で……俺は……。
 ひんやりとした、地面の感触と共に、俺は意識を手放した。

 俺は悪夢の中を泳いでいて。どんどん深みに沈んでいた。どれだけ腕を掻いても、上へは上がれなくて、下へ、下へと引きずり込まれて。沢山の腕が、海底から生えていて。海藻のように揺らめいている。その腕に、足を引きずり込まれて、更にその奥へと、沈み込む。砂の中を、何処までも腕に引きずり込まれて。……呼吸、苦しくなる。……誰も、いなくて。全然誰も、傍にいなくて。腕だけが、生えていて。何処までも引きずり込まれて、俺はもう抗う力もなくなって。やっと一番底へと辿り着いた。
「…………」
 そこは、鏡だった。一面、鏡で。幽霊のような、俺の姿、映していた。俺の他には、誰もいない世界で。あの『腕』さえも、もうなかった。
「……広香……兄貴……?」
 ひどく、声が響いた。音が反響して、わんわんと鳴る。
「……広香……兄貴……何処だ……?」
 答えはなくて。俺は、泣いた。崩れ込んで、泣いた。人に見られたら、恥ずかしくなるくらい、激しく泣きじゃくった。何処にも、広香と兄貴の姿はなかった。……全く何処にも。

 目が醒めると、白い天井だった。見覚えのない、天井。俺は辺りを見回した。白いベッド。幾つも並んで。俺は見た事もないお仕着せの寝間着、着せられて。見た事もない茶色いスリッパを履いて、立ち上がった。後頭部が、ずきりと痛んだ。窓が、ある。窓に近付き、外を眺めた。知らない、景色。……全く知らない。
「……あっ」
 背後から響いた声に、どきりとして振り向く。ナースキャップに白衣。……看護婦だ。……病院?
「……目が……醒めたのね……?」
 看護婦は近付いてきた。若いネェちゃんだ。残念ながら、美人じゃない。でもブスでもなかった。
「……どう? 何処か痛いところ、ある? 気分悪くない?」
「……腹が減った」
 正直な感想、言ったらネェちゃんは苦笑した。
「あら、そうね。もうお昼だものね。待っててね」
「……その前に……」
 言い掛けてるのに、看護婦はあたふたと走り去った。……ひでぇ。ぼんやりと、頭の中を、まとめる。頭が痛くて、なかなか物事が上手く考えられない。何で俺……こんなトコにいんだ? 広香は……兄貴は……? どうして、俺一人なんだ? どうして……誰も……。
「……気が付いたかね」
 ハゲ院長!! 俺は目を見開いた。昨夜の悪夢が脳裏に蘇る。思わず、ジジイに掴みかかる。
「てめぇっ!!」
 ジジイは反抗しなかった。
「……広香ちゃんの事は……気の毒だった」
  ……え!? 俺は一瞬、硬直した。
「……英和君は……今、捜索中だ……『重要参考人』として……」
「……えっ……!?」
「……こんな事になって……本当に申し訳ないと思う……私の……不行き届きだ……謝っても仕様がないと思う……恨むなら……私を恨みたまえ……龍也君」
「……何をっ……!!」
  何を言われたのか、全く判らなかった。
「……広香ちゃんは『遺体』で発見された。……落ち着いたらで良い……君の目で……『確認』してくれ……」
「……何を……っ」
 声が、震えた。理解なんか、したくなかった。何を言ってるのかなんて、全く判りゃしなかった。
「何言ってんだよ!! クソジジイ!!」
 殴りかかった。ジジイは避けなかった。まともに腹に入って、ジジイは倒れ込んだ。俺は相手が避けるか何かするものと思い込んでいて、呆然とした。ジジイはげほげほと咳き込んだ。そうやって、ようやく立ち直ってから、
「……これくらいで……君の恨みは済む筈ないと思うが……悪いが……これで取り合えずは……勘弁して貰えるかね? ……これ以上は、ちょっと無理そうだ……」
「…………」
 信じられないものを、見ている気分だった。このジジイが、俺に黙って殴らせたのなんて初めてだった。
「……出火元は……英和君の部屋だった……英和君は……見つかってない……広香ちゃんが見つかったのは……その『部屋』だ……」
「っ!?」
「……後で、警察の人に聞かれると思うが……何か知っている事があったら、警察の人に話してくれ……辛いだろうが……その方が、英和君と広香ちゃんの為になる……」
「……何を……っ」
「……認めたくないのは良く判る。私だってそうだ。けれど、認めざるを得ない。……だから、恨むなら私を恨め、龍也君」
「…………っ!!」
「……『遺体』は『遺体安置室』だ。地下にある。……人に聞けば、すぐ判るだろう……」
 それ以上、聞きたくなかった。俺は走り出した。『遺体安置室』なんて、行く気無かった。ロビーへ走った。TVが臨時ニュースを流していた。見覚えのある光景と、不意に『広香』の顔写真が映し出された。
「!?」
 TVキャスターが、『昨夜亡くなった中原広香ちゃん』とか言ってる……!! 俺は耳を塞いだ。大声で、喚いた。周りにいた連中が、ぎょっとしたような顔で、俺を見た。俺は駆け出した。誰かに止められそうになるのを振り切って、俺は病院の外へと駆け出した。懸命に走って、『施設』へと、丘へと向かった。建物は黒い残骸と化していた。TVレポーターや、記者やカメラマン達が多く集まっていた。連中を掻き分けて、警察連も押し退けて、誰かに腕を掴まれそうになるのを振り切って、黄色い紐で囲ってある中へ飛び込み、取り押さえられそうになるのを押し切って、残骸に腕を突っ込んだ。
「広香!! 広香っ!!」
「やめなさいっ!! こんな処に誰もいない!!」
  四方八方から、取り囲まれ、抑え込まれる。
「離せ!! てめぇらっ!! 人間じゃねぇっ!! 俺のっ……俺の妹だぞ!? てめぇらの好きにさせるかよ!!」
「落ち着きなさい!! 君!! 君の妹さんはこんなところにいない!!」
「てめぇら、寄ってたかって広香を殺そうとすんなよっ!! 広香は生きてるっ!! 勝手に殺すんじゃねぇよっ!! くそったれ!!」
「落ち着きなさい!! それこそ、生きてたらこんな処にいないよ!!」
「じゃあ、何処にいるんだよっ!!」
「……病院に……」
「いねぇよ!! 何処に隠してんだよっ!! 肉親なんだぞ!? 俺の大切な『家族』なんだぞっ!? てめぇら好き勝手言ってんじゃねぇよっ!! 知らねぇクセに何でも言ってんじゃねぇよっ!!」
「駄目だ!! 映すんじゃない!!」
 カメラのフラッシュの音。眩しくて、目を閉じた。簡単に抑え込まれて、身動き一つ出来なくなる。……畜生!!
 無理矢理に、パトカー乗せられる。さっきの病院へ、連れてかれる。知らない医師に、注射打たれる。俺は眠くて動けなくなって……ひでぇ……てめぇら……人間じゃねぇよ……誰が認めても……俺は認めない……最低だよ……てめぇら……!!
 叫ぶけど、口が回らない。暴れたけど、だんだん身体の感覚おかしくなって……動けなくなる。俺はまた、知らないベッドに寝せられて、夢うつつで白い天井、見上げてた。……ひでぇ話……。今すぐ兄貴と広香に会わせろよ……死んだなんて……行方不明で被疑者だなんて……俺はそんなの……信じない……。てめぇら、悪い冗談いい加減よせよ……言って良い事と悪い事あんだよ……そのくらい『大人』なら判れよ……てめぇら……。
 ろれつ回らなくなって……本気で『ビョーキ』みたいで……信じられねぇ……一体何注射しやがったんだ……ぶっ殺してやる……てめぇら……!!
 涙が、こぼれ落ちて。知らない、世界で。俺は一人、取り残されて。……広香も兄貴も、誰もいなくて。誰一人、俺と同じ『言葉』喋る奴いなくて……本当……気が狂いそうになる……。『違う』生き物ばかりで……『俺』と『同じ』奴一人もいなくて……どんな言葉も『偽物』で『嘘』で『作り物』で何も耳に響いてこなくて……憎まれ口で良いから、『広香』の声が聞きたい。説教で良いから『兄貴』の声が聞きたい。……こんな風じゃ、俺はいつか狂ってしまう。いつか本当に、狂ってしまう。俺の中の『獣』が溢れ出して、『俺』が『俺』じゃなくなる。『俺』が『人間』じゃなくなってしまう……。苦しくて。本当、苦しくて。熱い怒濤のような波に、飲み込まれそうで。窒息しそうになる。……出口が見えない。誰か……助けてくれ……っ!! 恥も外聞もなく、叫びだしたいくらい……弱っていて。……広香、顔を見せてくれ。兄貴、しっかりしろって叱りつけてくれ。俺は本当、どうしようもなくてバカで……すげぇバカだから……周りに飲み込まれそうになる……深い海に飲み込まれて……俺が……『俺』が消えてしまう……飲み込まれて、崩れて溶けて……どろどろの醜悪な、腐臭を放つ『別の』ものになってしまう……混乱して……動揺して……錯乱して……気が狂いそうに……なる。悲鳴上げる一瞬に、広香の声がリフレインする。意味は不明で、何か懸命に叫んでいるのに、俺には何を言ってるのかさっぱり判らない。何、言ってるんだよ、広香。そう聞くけど、広香には何も伝わってなくて、広香の声は消えてしまう。広香の姿は消え失せてしまう。……待てよ。待ってくれよ!! 俺を『一人』にしないでくれ!! 俺を嫌っても腹立てても、何でも良いけど、『一人』にだけはしないでくれよ!! 俺は『一人』じゃ、何処へ行けば良いのかすら判らない大バカ野郎で。広香も兄貴もいなかったら、この世で何もしたい事も、すべき事も見つからなくて!! 頼むから、それだけはやめてくれ!! 他に何をされても良いから、何をどうされても構やしないから、『俺』を『一人』にするのだけは、よしてくれ!! ……じゃないと俺は、おかしくなるから。じゃないと俺は、狂ってしまうから。じゃないと俺は、『正気』保てないから!! 頼むから、『一人』にだけは、しないでくれ!! 俺は他に、『望み』がない……俺は他に『望む』ものがない……!! 広香……兄貴……頼むから……俺を『一人』にしないでくれ……!!

To be continued...
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