NOVEL

週末は命懸け9「血」 -8-

 放課後、俺は、真っ直ぐ病院へと向かった。社長は中原には伏せておけと言ったが、俺は中原に全て話すつもりだった。中原を巻き込むつもりは毛頭ない。だが、知らないでいることの危険性の方が恐かった。中原を信頼していないわけじゃない。俺が、中原の立場なら、厭だと思うからだ。自分のことを、自分の知らない、関知できない部分で、勝手に決められ、実行されるなんて冗談じゃない。俺の、あるいは誰かの、心と命は、俺あるいはだれかのものだ。他の誰にも左右されて良いものじゃない。他に何も持たなくとも、それだけは確実に自分のものだと言えるものだから──だから、他人が勝手に決めたりするのは許されない。それは、人間の最低限の尊厳だと思う。俺は中原龍也を愛している。だからこそ、彼の意志を尊重したい。彼の尊厳を大事にしたい。誰かに、何かに、断りもなく土足で踏み荒らされるなんて冗談じゃない。そんなことされたら、俺なら殺す。誰だろうと、絶対殺す。許せるはずなどない。
 病院は変わりなかった。普通の、日常の続きのままに、ところどころに顔見知りの連中の顔が見えること以外は、『普通』で『平穏』だった。
 ふと、すぐ脇を、金髪の男が通り抜けていった。大柄なのに、意外と音も気配もなく。安っぽい花束と、同じく安っぽいケーキの箱を持って。なにげなく、しかし、注意深く、ケーキを傾けないよう、早足で通り過ぎる。
 それは、『予感』だった。または『憶測』。全く、それを裏付けるものは無かった。だが、俺の本能が、声を上げて叫び、警告した。その瞬間、反射的に、身体が動いていた。
「……あ?」
 驚いたように、男が振り返った。急に立ち止まって、揺らしかけた紙箱を、慌ててもう一方の手で支え、地面と平行するよう保ちながら。握られていた花束が、床に落ち、花弁などが舞い散った。
「……何? 何なんだ?」
 凄むでもなく、脅えるでもなく、不安がる風もなく、ただ不思議そうに。全くわけが判らない、と言った顔で、男は突然相手の腕を掴んだ俺を、凝視する。年齢は二十代半ばから後半くらい。サングラスをかけている。金色に見える髪の一部に、ところどころ銀色のメッシュが入っている。肩先に付くか付かないくらいの髪の先は、バラバラで、あちこちにはねている。オシャレなのかどうかは微妙なところだが、パーマをかけて不自然にはねさせていることだけは確かだ。全身に無造作にじゃらじゃらと銀のアクセを大量に付けていて、ぱっと見には、ロック系の素人バンド・ミュージシャン、と言った風体だ。が、その割に、身なりや装飾品に、随分と金をかけている。
 似合わない。──第一印象がそれだった。チープな──あまりにチープすぎるスタイルや、『小道具』が、俺の直感に、ハンマーで叩き付けるような刺激を与えた。ちょっとした違和感だ。たいしたことない、通り過ぎてしまえば、なんということもない、些細な違和感。それが相対した途端、爆発的に膨れ上がった。見れば見るほど、この男は『おかしい』。異常だ。子供のように無邪気な顔で、不思議そうに首を傾げるその様は、下手すれば俺とそう年齢が変わらないのではと思わせられかねない風情だったが、単なる老け顔、と見るには、相手が落ち着き過ぎていた。この、目の前にいる男は、驚いた顔はしているが、全く動揺はしていない。落ち着きすぎるくらいに落ち着き払っていた。俺が今、ここで何をしようと、すぐに反応するだろう。先制攻撃をするのならば、腕を掴んだりせずに、即、予告・警告なしにいきなりやるべきだった。もう、時は逸している。隙だらけで無防備に見えるこの男に、隙は全く見られない。
「あのさ、硫酸って臭いしないって知ってた?」
「……は?」
 何を言ってるんだ、という顔で男は俺を見た。俺はポケットの中で、携帯を探り、それをいじり回しながら、先を続けた。
「だから、硫酸を金属や何かと反応させた時に臭ったりするのはさ、硫酸そのものじゃなくて、その化学反応の際に発生する気体や、化合物が発する臭いなんだ。いわゆる硫酸臭ってのは、実は硫化水素のことで、硫化水素は硫黄化合物にも若干含まれてる、あの例の『卵の腐ったような臭い』なワケだ。ちなみに、硫黄化合物では人は死なないが、硫化水素は硫酸以上に危険な劇物だ。が、硫酸はきちんと密閉して保存しておけば、人体に被害は及ばさない。無色透明で無臭だ。だから、純粋な硫酸の臭いを感知することは不可能だ」
「……何の話をしてるんだ?」
「たぶん、硫酸が無臭であるのは、不揮発性であることも原因なのかな、と俺は思うんだけど、正直専門じゃないから、良く判らない。が、塩酸は逆に臭うんだ。同じ、無色透明でもさ。塩素系の漂白剤とか洗剤なんかが一般に流通しているから、塩酸の臭いを一度も嗅いだことがないってやつはほとんど皆無だろうな。日本の公立の小中学校では、生徒に掃除をさせるからな」
「……何が言いたい?」
「お前からは、ほんの僅かだけど塩酸、つまり塩化水素水溶液の臭いがするんだよな。まあ、塩素系漂白剤で髪を脱色するバカはいないだろうから、色を染めていたとしてもヘアマニキュアが妥当なところだろう。で、本物の塩酸の臭いだったとする。問題は、塩酸の臭いは、それほど長く付着するものかどうかってことだ。確かに塩素系洗剤や漂白剤の臭いはくさいけど、暫く換気していれば、すぐに臭いは消える。だったら、お前の臭いだってそうなはずなんだ。で、思い出したんだけど、そう言えば、中原英和という男の服からも、そんな臭いがしたような気がしたんだ。病院だから、薬品の臭いはあちこちに充満している。が、それとは全く関係なしに、違和感を感じたんだ」
「違和感?」
「……お前は『他人』を人間だと思ってない。通りすがる人間は、全て『モノ』だと思っている」
「……は? 何、ソレ。何言ってんだ? お前」
「たぶんお前は、鬼畜で、クソで、ろくでなしの、犯罪者だ」
 俺がそう言った途端、男はぷっと吹き出し、けたたましく笑い出した。
「ぶっはははは! 何ソレ!! 笑える!! 真面目な顔して何アホなこと抜かしてんの?! お前!! 俺は、初対面の人間と、相手が美人なら男も女も関係なく、心優しい穏和な男だけど、笑っちゃって、ちょっとイラついてぶん殴りたくなっちゃったよ? ねぇ?」
「殴る? どうやって?」
「どうやってって、こんな至近距離にいるんだから、いつでもすぐ殴れるデショ? な〜にをおかしな事言ってんだかな♪ この『ボク』ちゃんは」
「ケーキの箱はどうするんだと聞いてるんだ。床に置くのか? でも一度床に置くと、持ち上げる時にまた気を遣うだろう? 傾げるわけにはいかないからな。 随分軽そうだが、まさか、ペットボトルを切って使ってるんじゃないだろうな? 一応劇物だぜ? 自分の身体にかかったらシャレにならないだろう?」
「…………」
 今度こそ、確実に、男は驚いた顔になった。ぽかんと口を開けて、呆れたように、目を大きく見開いて、俺を凝視した。
「え? 何ソレ。お前……一体……?」
「だから、その箱の中にあるのは、塩酸と硫酸を詰めたボトルだろう? 入れ物は何か知らないけど。でも、本当にマジで、ペットボトルの上を切ってバーナーか何かで加熱して溶接して作った代物だった? それじゃきちんと密閉できないだろう? そんなヤバイもの、良く平気で持ち歩けるな。感心するぜ」
「…………」
 男の表情が、変化した。取り繕った笑みが消え、真顔になる。両目をすがめて俺を見て、唇だけで男は笑った。
「頭が良いとか、そういう問題じゃないな? 当てずっぽうとか、直感とか、そういうの得意だろう。占い師か、詐欺師か山師が天職なんじゃないか?」
「……占い師もどうかと思うが、詐欺師か山師ってのは一体何だよ。それに、俺の天職はそんなものじゃない」
「そうか。じゃあ、新興宗教の幹部や教祖様はどうだ? その気があるなら、俺がプロデュースしてやるよ?」
「やなこった。誰がそんなバカな真似をする? 猛獣の前に、餌をぶら下げて。ぜひ襲ってくれと言わんばかりだ」
「じゃあ、現在の状況はどうなんだ? 久本郁也」
 俺も唇だけで笑い、目をすがめた。
「……諦めたのか?」
 そうではないだろうと判っていて、俺は言う。……『応援』が来るまで、この男は、ここに留めておく必要がある。俺は、まともにやり合って、この男に勝てる自信はまるで無い。そもそも、暴力的な手段というやつは、俺にはあまり性に合わない。そういう荒事は、これまで中原に任せてきたから、今更何かやろうと思っても、経験値があまりにも低すぎて、役には立たない。
 俺にやれること、俺の特技と言えば、この顔とこの身体、それに口先くらいだ。
「しらばっくれ続けなくても、良いのか? もう構わないのか? どうなんだよ? そんなに殊勝なタチには、とても見えないけど?」
「……面白いヤツだな」
 男は楽しそうに笑った。この場には不似合いな、明るい笑い声を上げる。開き直った、にしても何かどこか変だ。俺はまだ何かを見逃してる? この男にはまだ切り札があるのか? まさか、楠木のように、と思いかけてギクリとする。
「……まさか、一緒に自爆する気か!?」
「まさか。ナリの野郎じゃあるまいし。俺はそこまで自虐的にはなれねーよ。ナツのことは好きだが、それほどまでに惚れ込んでるワケでも、愛があるワケでもないし。俺はさ、何事も楽しむことにしてんだよ。いついかなる時も、どういう状況もさ。お前みたいな美少年におさわりされて、二人っきりで話をするなんて状況、楽しいと思うだろ? だから、無粋な客なんか、呼ぶのは無しにしようぜ? カワイコちゃん」
「っ!?」
「ギャラリーがいた方が燃えるってタチなら、それはソレで大歓迎だけど」
 と言って、何故か急に顔を近付けてくる。
「!?」
「あ、動くな。動くとヤバイぜ? 傾いちゃって、塩酸と硫酸が混じっちゃったり零れちゃったら大変な事になるからな♪ 指摘された通り、こいつはペットボトルで作ったちゃちい代物だから、すっげー危険なんだぜ♥」
「……なっ……!?」
「だから、しばらくおとなしくしてろ。すぐ済むから」
「ちょっ……待てっ!! おっ……お前っ……一体何を考えてるっ!?」
「だ〜から、たぶん、お前が今、考えてるようなこと、だよ。判ってるんだろ? 子猫ちゃん♥」
「だっ……おおぉお前っっ!! へっ、変態か!?」
 思わず声が裏返る。
「減らず口は良いから、じっとしてろって。な?」
「う……ぁああぁっっ!!」
 慌てて腕を放して逃げようとする俺の首の後ろを引き掴んで、男は無理矢理唇を重ねて来た。悲鳴は、男の口によって塞がれる。男の舌が俺の口腔に侵入して、歯列を撫で回し、俺の舌を絡め取ろうとする。その舌に、思い切り噛み付いてやった。
「うあっ、痛っ!!」
 男は軽い悲鳴を上げた。
「うっわー、いひなり何ふんだよ。はぁはぁ。……あー、ビビったぁ〜」
「ビビったって!! 驚いたのはこっちの方だ!! お前こそいきなり何すんだよっ!! この、ド変態っ!!」
「……もったいねーな。顔はキレイなのに、口が悪すぎるぜ。そういうお転婆も、キライじゃないけどな。調教しがいがある」
「だっ……何が調教だっ!! ふざけるのもいい加減にしろ!!」
 泣きそうな気分になりながら、俺は怒鳴った。
「う〜ん、イイ声だな。これは是非とも啼かせ甲斐がありそうだ。実にイイ声で啼くだろうなぁ」
 と、男は何やら不穏な想像をめぐらす表情で、にたりと笑った。
「だっ……やめろっ!! 絶対やめろ!! 想像もすんな!! このクソ変態ド鬼畜野郎!! お前も楠木と同類か!?」
「んー? 俺をあの自己陶酔マゾヒストと一緒にすんのはやめてくれよ、郁也」
「だっ……!! なんで人の名前を了承も無く勝手に呼ぶんだ!! きっ、気色悪ぃよ、お前!!」
「気色悪いとまで言うかねぇ? まあ、そういうところも割とイイな。惚れた。よし、決めた。ナツには土下座しておこう。というワケで、郁也。二人で楽園への旅に出掛けないか?」
「なっ……!?」
「大丈夫。十数分もあれば、桃源郷へ行けるぜ?」
「だっ……誰が行くか!! バカ野郎!! ふざけんなっ!! このっ……クソエロ変態ホモ野郎っっ!!」
「……そこまで言わなくても良いだろう? ツレないヤツだな。それとも、照れてるのか?」
「誰が照れるんだ!! この変態っっ!! こんなに必死に力一杯嫌がってるのに、それはないだろう!!」
「ふむ、そうか、成る程。あまりにも知り合った時間が短すぎるか」
「な、成る程じゃねぇよっ!! この変態野郎っっ!!」
「じゃあ、じっくり時間をかけて、知り合って、ゆっくり愛を育もうぜ? ハニー」
「誰がハニーだ!! 気色悪いこと言うなっ!!」
「じゃあ、マイラブ」
「一緒だ!! ほとんど変わらねーだろっ!! このクソエロ変態!!」
「そうか。困ったな。……じゃあ、普通に呼ぶか、郁也。そうそう、自己紹介がまだだったな。俺の名前は志賀秀一[しがしゅういち]。知り合いや友人はシュウと呼ぶが、郁也の場合は特別にダーリンと呼んでも良いぜ?」
「誰が呼ぶかっ!!」
「真っ赤な顔がカワイイぜ、郁也。じゃ、また会おうぜ! じゃあなっ♪」
 そう言われて、愕然とした。俺は既に、男の腕を掴んでいない。志賀秀一と名乗った男は、持っていた紙箱を窓の外に投げ捨て、走り去ろうとした。
「待てっ!!」
 一瞬遅く、間に合わない。落下していく紙箱。俺は窓の外に、大声で叫んだ。
「逃げろっ!!」
 窓の外には人がいた。中には見知った顔もあったが、一般客も。その瞬間、箱は落下して……。
「あっ……ぁあぁああぁっ……!!」
 箱は、爆発しなかった。代わりに、ケーキの箱から、大量の白い羽が舞い散り、空を飛ぶ。いや、確かに小さく爆発したのだ。だが、それは人を傷付けるものというよりは──脅しや、人を驚かすために使う程度の代物で──手に持っていれば、ヤケドや軽い怪我などはしただろうが、あれでは、人は死なない。
「だっ……騙された……っ……!!」
 思わず、その場にへたり込んだ。
「郁也様っ!!」
 野木が駆け寄って来る。
「大丈夫ですかっ!?」
 当然ながら、へたり込んで呆然としている暇は無い。俺は立ち上がる。
「金髪の男だ。肩先までの長さの髪の。二十代半ばから後半くらいで、ところどころ銀色のメッシュが入っている。サングラスをかけているかも知れないし、もしかしたら外してしまっているかも知れない。身長は一八七cmくらい。ジーンズに革ジャン、本革のブーツを履いていて、銀製のペンダントやブレスレット、指輪やブローチ、アンクルまで大量に──たぶん少なくとも十個から二十個近く付けている。悪い、数えなかった。とにかくふざけた男だ!! すぐに追え!! それから、たぶん大丈夫だとは思うが、中原の身の安全の確保を!!」
「郁也様は?」
「俺も追う!! 顔を見たのは、俺だけだからな」
「では俺も行きます!!」
「お前はこの場の指示を頼む。『社長』に連絡済みだから、すぐに応援や伝達は行くだろうが……やはり現場にいる方が強みだからな。頼む、野木」
「……判りました。お任せください、郁也様」
「ああ」
 頷いて、走り去った男の後を追った。

To be continued...
Web拍手
[RETURN] [BACK] [NEXT] [UP]