NOVEL

週末は命懸け9「血」 -4-

「たまにはこういうのも良いだろう?」
 良いわけあるか! ああ、畜生!!
 どうせ、俺が考えなしだって事なんだろうけど。くそっ。ここでこんな展開になるだなんて、何処の誰が思うんだ。俺は久本貴明がこういう事する男だなんて思ってもみなかったぞ。俺の知ってるこの男は、どんな時にも自分は安全な場所にいて、無茶とか無謀とかそういうものとは無関係だった筈だ。むしろ、こういう荒事は中原の管轄で。
 どきん、とした。
 ……もしかして? 中原が今、動けないから? ……だったとしても。俺の知ってる『久本貴明』のやり方じゃない。スマートじゃないんだ。あまりにも乱暴で無鉄砲で、計算がなさ過ぎる。めちゃくちゃだ。中原が傷付けられたからって無茶やるような男には思えない。この男が中原のことを特別視して、特別扱いしていたとしても、この男がそんなことで今までのやり方を変えるとは思わない。……だったら何だ? こいつは──『親父』は一体何を考えてる? 何を企んでるって言うんだ?
「郁也。こっちへおいで」
 そう言った親父の手に武器は無かった。素手かよ? ……良くもまあ、それでこんな事やりやがったな、と呆れつつも従った。俺も丸腰だ。最低限の護身術は学習させられているが、こんな滅茶苦茶な銃撃戦にそんなもの役に立ちゃしない。くそっ。射撃の練習でもしろってか?
「お父さん」
 我ながらわざとらしい言葉だ。心の中ではただの一度もそう呼んだ事は無いくせに。何度口にしてみても白々しいと思う。
 『社長』は笑った。
「大丈夫だよ。僕に任せて」
 そう言われても安心なんか出来やしない。この次は何が起こるんだ?と思ったら物凄く厭な気分。最低。
 銃撃戦の真っ只中、笹原と社長の先導で、裏口へと向かった。親父と待ち合わせしていた男も一緒だ。肩先まで伸ばした色素の薄い髪。端正な顔立ちは律に良く似ていた。いや、正確には──『久本貴明』に。思わずごくり、と息を呑んだ。男は無言で俺を見た。けれどそっけなく目を逸らした。俺は目を逸らせない。瞼が少し厚めなことと、髪の長さの他は、本当に良く似ている。双子の兄か弟、と言ってもいいくらいだ。こんな偶然なんかある訳が無い。律が俺に似ていたのは当然だ。母親が親戚同士で、父親が瓜二つだというなら。
 冷たい汗が、滴り落ちた。この男は、社長と知り合いらしい。だったら、社長は最初から知っていた筈だ。律の名前を知った時点で、律が誰の子供か判っていたに違いない。それでいて素知らぬ顔で俺の影武者なんてさせて、律に負担を強いていた──。
 腹の底から、冷たい怒りが昇ってくる。
 全て、知っていたのか? 最初から? 知っていて、律を利用した? 律は知っていたのか? 俺が、律と近い血筋にあった事を。
 知っていたからってどうにかなる訳じゃないけど。今更、律が親戚だったからって、何がどう変わる訳でも無いけど。知っていたなら、他人ではない、知人の息子であったなら、普通もう少し違う対応取らないか?
 久本貴明、お前は一体何を考えている? お前という人間には『心』は無いのかよ? お前の『心』は一体どうなってるんだ? 冷血漢? 極悪非道? 鬼畜野郎? ……そんな事は知っている。
 誰にだって心の中に侵しがたい『聖域』がある。誰にも触れられたくない大切な存在がある。何にも譲れないものがある。お前の『聖域』は一体何だ? 自分自身? 金か? 力か? それとも地位か名誉か? そんなものが生きるための一体何の役に立つ? お前は虚しさを感じはしないのか? お前の心に『愛情』はあるのかよ? 何も無いと思っていた俺の心の中にさえ、愛情はあったのに。誰にも譲れない、誰にも譲らないと思っていた俺の『心』。それを引きずり倒し揺るがしかねないくらいの強い想い。抗っても抗い切れない情動。今の俺を、支配するもの。
 相手が知り合いだから加減しろってことじゃない。そんなものは誰に言われるまでもなく、普通は自然と抑制がかかるものだ。自分でそれをしてはいけないと制限をかけるのが人の心ってものだ。それを裏切れば、良心の痛みを覚える。苦しくなる。誰にも何にも左右されない、自分の心に自由でいる、そんな事は思っていても、必ずしもそうだと限らない。自分の心に自由でいようとするのは、同時に自分の心に縛られるって事だ。自由と束縛は紙一重だ。この世の全てのしがらみから自由でいられる人間なんて、そんなものは人間なんかじゃない。神か、悪魔だ。この世に神はいない。だけど、俺はこの世に悪魔がいるだなんて事も信じていない。俺の知ってるこの世界に存在するのは、人間と、その他の生物・無生物、それだけだ。
 ぞくりと身震いした。俺は『久本貴明』の全てを知っている訳じゃない。この男の心の中全てを見通せる訳じゃない。俺は何も知らない。知りたくもない、と思っていた。ただの一度も、この男を信用したことなど無い。ただの一度も、この男に心を許した覚えなど無い。初めて会った時から大嫌いで虫唾が走ると思っているし、それは今でも変わらない。知れば知るほど、憎悪が増した。中原がこいつに見せる執着のようなものに気付く度に、許せないと思った。俺と中原より、俺とこいつとより、こいつと中原の付き合いのほうがずっと長い。それはたぶん嫉妬以外の何物でも無いけど。
 久本貴明の事なんか、知りたくも無い。それは本音だ。だけど、こいつが俺の『敵』ならば、知りたくないからと知らずにいる訳には行かない。自分のことは何も知らさずに、相手のことを知る事は、戦術的にも戦略的にも必要だ。
 この男は一体どういう男なんだ? 知っているつもりで、判っているつもりで、俺は何も知らない。判っていない。一体この男は何を考えているんだ?
 笹原の部下が後方を守り、笹原を中心とした六名のボディーガード達が道を切り開いていく。硝煙の臭いが鼻を突く。白い煙が薄い霧になって部屋を覆っていく。煙に咳き込みそうになって、慌てて鼻と口を手で覆う。空気の流れが悪い。目が痛い。こんな狭い地下で銃撃戦やる連中は、バカか物好きとしか思えない。くそっ。
「大丈夫かい?」
 心配そうに、社長が俺に声を掛けてきた。
「大丈夫です」
 社長は曖昧に笑った。
「そう?」
 何か言いたげに、でもそれ以上は何も言わなかった。代わりに黙って俺の肩に手を置いた。振り払おうかとも一瞬思ったが、それに対して何か言われるのも面倒だから、苛立ちを覚えながらもそのままにした。視線を感じた。振り向くと、例の男がこちらを見ている。社長が笑った。
「後で紹介するよ、金山君。僕の息子だ」
「知っている」
 男は掠れた低い声で言った。
「そう」
 社長はくすりと笑った。
「……相変わらずだね」
 男は一瞬じろりと睨むように社長を見て、でも結局何も言わずに目を逸らした。無表情。こんな状態なのに、さして驚いた様子も無い。慣れているわけでも無さそうだ。どちらかと言えば諦めている──そんな顔に見えた。達観しているようにも。……この男も良く判らない。何を考えているのか。ほとんど無表情で──わずかに不機嫌そうに見える。当たり前だ。こんな状態で嬉しそうな顔をする男は、久本貴明と中原くらいだ。……そう思って、くそ、と思った。ここでどうしてあの二人を同列に並べなくちゃいけないんだ。腹が立つ。そんな事は今はいい。今、大事なのは──ここをどうやって切り抜けるかという事と──。
「俺が来てる事、知ってたんですか?」
「まあね。まずいな、とは思ったけど、君がそうしたいならそれも有りかなと思って」
 ……やっぱり厭な奴だ。くそ。
「……貴明様」
 笹原が、そっと社長に耳打ちする。低い小声で、何を言ってるかは聞き取れない。
「君に任せるよ」
「ありがとうございます」
 笹原が微笑した。どきりとした。俺、こいつが笑ったところ、初めて見た。……なんていうか。はにかむ少年のような、という表現の似合う──こういう状況なのにか? 何考えてるんだか判らない。
 俺の感覚が変なのか? こんな硝煙臭い、銃弾の飛び交う音で耳が痛くなりそうな狭苦しい地下で、のほほんと笑えるなんて、俺の感覚では絶対変態か頭が悪いかどっちかだぞ?
 明かりは既に消えている。誰かが消したのか、銃撃戦で消えたのかは良く判らない。辺りは木片やガラスの破片やら壁やらコンクリートやらで埋め尽くされていて、一歩足を踏み出すごとに、足下で音が鳴る。視界は悪いが、どうやらその音を頼りに銃撃戦をやらかしてるらしい。店内にいたのは──たぶん二十名以下だったと思う。後から入ってきた連中もいるけど、ほとんど『久本』の人間だった筈だ。きちんと確認したわけじゃないから、違ってないとも言えないけど。身動きした途端、足下でじゃり、とガラス片が鳴って、社長に腕を引かれてうずくまった途端、先ほどまで頭のあった位置の壁に、銃弾の穴が空いた。冗談じゃない。俺はこういう暴力沙汰は大嫌いだ。反吐が出る。こんなものにはいつまで経っても慣れる事なんか出来やしない。こんなものが気持ちいいなんて奴は、頭のネジが抜けてるか神経一本足りないんじゃないかとマジで思うぞ。言ったら中原が泣きそうだが。
 陽動としんがりと、先陣の連携プレイで、銃撃戦の合間に少しずつ移動する。臭いと暗さと騒音で、だんだん感覚がおかしくなってくる。麻痺し始めてるんじゃないかと思い始めた時だ。不意に、社長が俺を突き飛ばした。
「!?」
 ざしゅ、というかぶしゅ、という感じの何かが切れる、厭な音がした。それと共に頭に降りかかってきた生暖かい液体と、生臭い鉄の香り。
「……っ!?」
 血の気が引いて、一瞬頭の中が真っ白になった。
「笹原君」
 ぼうっとした頭に、やけに穏やかな声が聞こえてきた。
「……大丈夫?」
 俺を庇おうとした社長に覆い被さるように両手を広げて立っていたのは、笹原だった。社長の肩を庇うようにかざした腕から血が滴って、それが社長の肩を伝って俺の頭に降り注いでいた。
「なっ……!?」
 大丈夫な訳無いじゃないか!! かなりの出血だぞ!? 今すぐ止血して手術しなくちゃ……!!
「だ……いじょうぶ、です」
 嘘をつけよ!! そんな大量の血を流して平気な奴いるもんか!! 明かりが無いから顔色判らないけど、絶対土気色してるに決まってる!! その証拠に体が小刻みに震え出しているし……!!
 がくり、と笹原は膝を付いた。笹原の部下が、ずっと機会を狙って潜んでいたらしい奴を倒して、ナイフを取り上げたところだった。
「……もう一度だけ聞く。『大丈夫』?」
 社長の声に険が籠もった。
「すみま、せん。……先に行って……いただけますか? 後で、追いつきますから」
 笹原は、震える声でそう言った。
「『駄目』なら『駄目』って言ってくれて良いんだよ?」
 その冷たい声音に、ぞっとした。超氷点下の押し殺した低い声。
「……すっ……みません、た……かあき、さま……っ」
「謝れって言ってるんじゃなくてね?」
 久本貴明がどんな顔をしているのか、俺には背中しか見えなかったが、きっと怒っているのだろう。笑みを浮かべた表情のまま。辺りの気温が二・三度ばかり下がったように感じた。
「出来る事と出来ない事を言って欲しいんだ」
 それは……どう考えても虐めてるようにしか見えない。
「そんな事言ってる場合じゃない!」
 俺は思わず叫んだ。ぶるり、と肩が震えて。膝が震えそうだった。
「とにかくここを脱出するのが先だろう!?」
「……郁也」
 社長は振り返った。どくん、と心臓が跳ね上がった。間近にある社長の顔は、笑ってるようにも怒ってるようにも見えた。眼差しだけが、ひどく冷たい。唇が微笑みの形をしているけど、身にまとった冷たい空気が笑ってないと教えている。
 冷酷な悪魔。それを現実に表現したら、こんな姿をしてるんじゃないか?と一瞬思った。気圧される。俺は自分を奮い立たせた。
 負けてたまるか。
「今はそんな事言ってる場合じゃないでしょう?」
 正面から見返した。人間を超越してるような、冷たい鋼のような瞳。目を逸らさないで、真正面から。きっぱりと。
「そんな事は今問題にしてる場合じゃない。そんな事してる暇にここを脱する事が重要でしょう? ……どう考えたって平気な訳無い。笹原が重傷なのは判りきった事です」
「笹原自身は『大丈夫』と言っているのに?」
「大丈夫な訳が無いと、あなたも判っているでしょう? 『お父さん』」
 社長は目を伏せてふっと笑った。穏やかな目で俺を見た。
「良い子に育ったね、郁也」
 ……は?
 俺は目を丸くして呆然とした。……一瞬何を言われたか判らなかった。ぽんぽん、と子供をあやすように頭を撫でられた。
「なっ……!!」
「郁也の言うとおりだ。……無理しなくていいんだよ、笹原君」
「……たかあきさま……」
「他に怪我をしているのは?」
「かすり傷です」
 誰かが答えた。社長は笹原の腕を掴んでぐいと引いた。不意を突かれて倒れかかった笹原をそのまま抱き留めて、肩に担ぎ上げた。
「貴明様!?」
「……耳元でわめかないでくれるかい?」
 つまらなさそうな声で社長は言った。笹原の体が硬直した。
「そうそう。おとなしくしててね」
 良く判らない表情だった。笑ってる訳でも怒ってる訳でもない。ほとんど無表情に近いくらいの真顔。不意に、笑ってない社長の顔を見るのは初めてなんじゃないか?と気付いた。
 パトカーのサイレンの音が鳴り響いた。遅すぎるくらいだ、と思ったが、聞こえてきたのはごく近くだ。
「……やっとのおでましだね」
 溜息つくような社長の声。……まさか?
「警察を呼んだんですか?」
「僕が呼ぶ暇があったと思う?」
 社長はくすり、と笑って言った。
「でもまあ、前もって電話はしてもらってたんだよ。それでも遅過ぎるけどね」
 それじゃ──敵も味方も、ここにいるほとんどの連中が捕まるんじゃないか?
 そう思ったけど、それにしてはやけに社長の顔には余裕がある。
「警察だ!! 銃を捨てろ!!」
  そう乗り込んで来た刑事か誰かを見た時も、悠然としていた。逃げようとした奴も、それを押さえ込んだ『久本』のボディーガードも、なだれ込んできた刑事や警官達にまとめてしょっ引かれて行く。
「……すみません、遅くなって」
 近付いて来た、スーツ姿の男──たぶん中原や笹原と同じくらいの年齢だ──が小声で言った。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫に見えるかい?」
 男は困ったような顔をした。顔を赤く染めた。
「……すみません、あの……救急車ももうじき来ますから」
「悪いけどパトカーで送ってくれる? その方が早いと思うんだ」
「全員は無理なんですけど──良いですか?」
「僕と、この怪我してる彼と、僕の息子と、そこでぶすくれてるおじさんだけでいいから」
「……自分の方が年上のくせに、ひとの事をおじさん呼ばわりするとは良い度胸だな」
 それまでずっと黙っていた律の父親らしき人が言った。
「そう変わらないだろう? 彼からしたらおじさんだ」
「君もな」
「実際その通り、叔父なんだよ。実際はもう少しややこしい血縁関係だけどね」
 ……って事は、この目の前にいる警察関係と思しき男は、俺の親戚? って事は俺にとっては従兄弟かそれに近い関係になる。
「従兄の子供だ」
  又従兄弟[またいとこ]、か。
九頭竜久遠[くずりゅうくおん]です。よろしく」
  そう言って、男は俺に柔らかく微笑みかけてきた。
「……よろしく」
 俺の声は強張っていた。たぶん表情もそうだったに違いない。九頭竜久遠と名乗ったその男は、困ったような顔で笑った。
「もう、大丈夫だから」
 人の好さそうな坊ちゃん面。もっとも顔で人は判断出来ない。
「後の事を頼んでも良い?」
 社長は九頭竜に言った。
「最初からそのつもりだったんでしょう?」
 悪戯っ子のような表情で九頭竜は屈託無く笑った。硝煙臭い地下室には不似合いなくらいの爽やかさ。眩暈しそうだ、と感じた。
「話は通しておきますよ。……こちらへ来てください。口の堅い子を紹介しますから」
 そう言って、九頭竜久遠は腕をこちらに差し伸べた。

To be continued...
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