NOVEL

週末は命懸け8「傷」 -4-

 厭だ。はっきりとそう、思うのに。こんなのは厭だって俺は思ってるのに。楠木の目は俺を見ていない。俺はただのモノで、奴にとって何の価値も無くて。……いや、何かの利用価値があると思ってるから、ここへ連れてこられて、こんな……!!
「お前は一体何を……」
 一体何のために。
「こんな……っ!!」
 楠木は俺に顔を近付けてにっこりと、善人面で穏やかに笑った。
「……傷付けてボロボロにしてやりたかったんですよ、ずっと」
「……なっ……!!」
 思わず目を見開いた。
「でも、『見極める』までは判断が付かなかった」
「……何を……っ」
 痛みを感じるくらい、強く、擦り上げられて、俺は呻いた。快感なんて無い。こんなのただの拷問で。苦痛。
「……取り敢えず、あなたはいらない」
 穏やかな目で、冷然と。紳士の顔で。
「だから、あなたの命は今は私のものですよ」
 くすりと笑って。
「私の気持ち一つで、どちらにも傾く。……あなたの命は楯にならない。つまり、先のような手段は使えないという事ですよ、郁也様」
「……ふざけるな。大体、俺は……」
「あなたの見張りに立っていたガードマンは先に眠って貰いました。発信器は取り外させていただきましたし、あなたの頼りにしているような事は……」
 不意に、銃声が鳴り響いた。
 はっと、楠木と男が振り返り、胸元から銃を取り出した。楠木が舌打ちをした。
「……バカな……早すぎる……!!」
 そう言って、俺の眉間に銃を押し当てた。
 ひやりとした冷たい鉄の塊。重たいそれが、ぐっと押し当てられて。ぞくり、としながら、何処か少しほっとしていた。考えなくたって、来たのが誰かはすぐ判る。たぶん間違いない。……中原だ。
 それ程長い時間待つ必要はない。あのドアを開けて……。
「郁也様!!」
 金属的な音と共に、扉が大きく蹴破られて。男が、ドアの向こうへと、銃を乱射する。中原はそれを見越していたらしく、ドアを楯にそれをやり過ごす。男の腕を撃ってドアの中に進入しようとして、中原は足を止めた。
「ようこそ、中原さん」
 中原の目が、俺に注がれている。
「……っ!!」
 その、怒りに震える顔と、激しい瞳に、どきりとした。はっと、今の自分の姿を思い出す。カッと羞恥に頬が染まった。
「……なかはっ……!!」
「……許さない!! 楠木……っ!!」
 中原の視線が、楠木へと移った。楠木は嗤う。
「……良いんですか? 大切な『郁也様』の眉間に大穴が空きますよ?」
 銃口が、更に強く押し付けられた。中原の顔色が蒼白になった。
「……貴様……っ!!」
「……知ってましたか? 中原さん。私はあなたの事、結構好きだったんです」
「…………」
 中原が、無言で楠木を睨んだ。
「そうだな、同僚連中の中で、一番好きでしたよ。中原さん」
 そう、穏やかに笑って言うのに、銃は変わらず俺の眉間にぴったり押し当てたままで。
「だから、あなたの趣味の悪さは本当、可哀相でお気の毒だと思っていましたよ。……私は、あなたがこの人にどんな目に遭わされていたか良く知っています。あなたが、どんなに傷付いていたか、傷付けられていたかを」
 ずきり、とした。
「……楠木」
 中原は楠木を睨んだ。
「だって本当の事でしょう? あなたはいつもこの人に振り回され、傷付けられていた。あなたがどんなに苦悩していたのか、あなたがどれ程尽くしていたのか、私は知っています。……この人は、いつもあなたの傍にいたのに、あなたの事をまるで理解していなかった」
「今は違う!!」
 中原が叫んだ。……胸がずきりとした。
 今は? ……本当に? ……俺は本当に、中原龍也を理解していると言えるか? 今の俺がそうじゃないと、どうして言える?
「貴様は何も知らない。知らないくせに勝手な事言うな!! 郁也様に、彼に一体何をした?!」
「……判ってるくせに」
 楠木が笑った。中原の顔からすうっと血の気が引いた。白いくらい青い顔になって。
 違う!!
 叫ぼうとして。……違う? 何が? ……何処が違う? だって……俺は……!!
「この人は、誰にでも足を開く淫売ですよ。あなたじゃなくても良いんだ。その証拠に、私に抵抗しなかった」
 嘘だ!! そんなの、嘘だ!! ……そう言いたくて。だけど声が出ない。だって……俺……中原の事好きだけど、中原しか好きじゃないけど、中原じゃなかったらセックスなんてする気毛頭無いけど、それでもたぶん今、中原が来なかったら、きっと抵抗しきれなかった。抵抗しきれなくて……たぶん楠木に……。
 ぞくりとした。そんなのは絶対厭だ。そんな事は絶対望まない。中原以外の男に身体を許すなんて、そんなのは絶対に厭だ。ぞっとする。想像しただけで気持ち悪い。
「違う!! 中原っ!!」
「……この人は、あなたに『同情』しているだけですよ。あなたを可哀相に思って、それであなたに身体を委ねてるだけです」
「違うっ!! そんなのっ!! 絶対……っ!!」
 違う。絶対に違う。……そりゃ、確かに最初は同情だったかも知れないけど。今は違う。絶対に違う。
「中原っ!!」
 中原が、俺の目を見ない。銃を持つ手が、震えている。
「……もし、そうだとしても……」
 中原の、声。
「……お前には、関係ない」
 楠木の目を見て。
 先程、手を撃たれた男が、もう一方の腕で銃を拾い上げ、両手で握って、中原に銃口を向けた。
「……諦めた方が良いですよ、中原さん。私はあなたを殺すのは惜しいと思っているんです」
「悪いが」
 中原は吐き捨てるような口調で。
「お前の顔見てるだけで反吐が出る。……お前は、俺の一番嫌いなタイプの男だよ。吐き気がする」
「……困った人ですね」
 楠木が笑った。その時、上の方から、物凄い大音響が鳴り響いた。天井が、壁が、激しく揺れた。
「!?」
 ぐらぐらっと激しく揺れて。厭な音を立ててロープがきしみ大きく振られた。
「!?」
「郁也様!!」
 眉間から、ふっと銃口が遠のいた。反射的に、身体が動いていた。壁際すれすれまで、ロープごと揺られ、反動で引き戻される。その丁度中間地点、足を伸ばした先。
 楠木が、目をむいた。空中で身体を捻り、唯一自由な足で、楠木の頭を狙って。……ヒット!!
 楠木は大きく上体のバランスを崩した。傍らの男も、一瞬こちらに気を取られる。
「受け身を!!」
 正気かよ!?
 次の瞬間、鳴り響いた銃口。ロープがぶつん、と切れて、勢い良く吹っ飛ばされる。……無茶するなよな! 他人事だと思って!! 地面が近付いて来る。……これでまた腕でも折れたらシャレになんねぇよ。首を出来るだけ引っ込めて、身体を縮こまらせて頭と首をガードして。接地は背中から。バアン、と思い切り良く叩き付けられて。一瞬目の前真っ暗になった。
 遠くの方で銃声が鳴り響く。……もしかしたら、近くだったかも知れない。……朦朧として。耳鳴りとかもして。ガンガンと頭がひどく痛む。背中がずきずきする。熱くて。なのに頭がひどく冷たくて。気持ち悪くて。冷や汗が出ている。身体が揺れてるみたいだ。全身が痺れてる。感覚が……遠い。身体を動かすのも億劫で、目を閉じたまま、その場に倒れていた。
「……郁也……様?」
 ひどく静まり返ったような気がして、俺は目をうっすら開けた。目の前に中原の顔がある。
「……なかは……ら……?」
「良かった」
 ほっとしたような顔で、中原は言った。
「……意識はありますね?」
 嬉しそうに。
「……何とか」
 怠いけど。……怠くて重いけど。
「……大丈夫、ですか?」
 涙に濡れた瞳で、中原が言った。
「……ああ」
 そう言ったからには、起き上がらないとな。身を、起こし掛けると、中原が慌てた。
「大丈夫なんですか?! 郁也様!!」
「……腕、貸せ」
 無言で差し出された腕に掴まって。しがみつくように。
「……郁也様……?」
 腕を伸ばして、中原の首の後ろに回して。
「……終わったんだな……?」
「ええ、取り敢えず……」
 中原の唇に、自分の唇を押し付けた。
「……郁也……さ……ま?」
 もう一度、キスを。唇を貪るように。吸い上げて。舐め取って。
「……くれよ……」
 拭い取って。拭い去って。……奪われた唇を。
「……郁也様……!!」
 中原の目が、熱く潤んで。
「……キス、してくれよ」
 奪われたものを、取り戻す為に。
 この腕を、失ってしまわないように。
「……なあ?」
 今じゃなきゃ。今じゃなきゃ、俺は不安になるから。
「……俺を、挑発してるんですか?」
 中原は少し上擦った掠れた声で、困った顔で言った。
「それとも誘惑?」
「キスだけで良いんだ」
「……楠木に……?」
 俺は笑った。
「お前の事、好きだ」
 たぶん迷い無く。
 中原の顔が、真っ赤に染まった。
「……郁也様?」
「キスしてくれ」
 その気持ちは、間違いない筈なのに。
 ……恐いんだ。
「俺も、好きです」
 中原の唇が、俺の唇に重なる。中原の熱い、唇。両手で頬を包まれて、ゆっくりと吸い上げ、唇の間を割って、舌が滑り込んで来る。
「すみません!! 中原さ……っ!?」
 ドアが開いて、聞き覚えのある声が……。
「ああっ!! まっまたっ……!! あっいやあのっ!! しっ……失礼しました!!」
 バタン、とドアが閉まる音がして。
 不機嫌そうに、顔を上げて、中原が後ろを振り向いた。ドアは既に閉ざされている。
「……野木」
 苛ついた声で、低い声で、中原は言った。
「は……はい……」
 ドアの向こう側から、脅えた声の応答が返る。
「……撤収準備を、してくれ」
「はっ、はい!! わっ、判りました!!」
 大きな靴音と共に、野木はその場を駆け去った。
「…………」
「じゃ、続きをやりましょうか」
「やるか!!」
 俺は慌てて肘でガードした。
「えっ!?」
 中原は意外そうな声を上げる。
「だって、今……っ!!」
「とにかく、このロープ外せ!! 今すぐだ!!」
「だって郁也様っ!! 今!!」
「痛いんだよ、ロープ!! 早くしろよ!!」
 顔が熱い。……たぶん、真っ赤だ。……バカか? 俺。
 中原は渋々、という感じで、胸元からナイフを取り出し、ロープを切る。その頃になってようやく、俺は周りに目をやった。血溜まりが二つ、出来ていた。……顔は、見なかった。
「……死んだのか?」
 唇だけで、中原は笑った。
「まだ、死んでませんけど、死にますよ」
「…………」
 俺はますます、顔を見られなくなった。下を向いた。
 俺の身体を縛める全てのロープを切り離し、中原は俺の顎に手を掛けた。
「……なっ……?」
 ぐい、と顎を引き上げられて。真っ直ぐに、真正面に、俺の目を見つめる中原の目。
「大丈夫、ですか?」
 思わず、目を逸らした。
「……大丈夫」
「本当に?」
「……何もされてない」
「その恰好で?」
 カッと顔が熱くなった。思わず、相手を睨み上げる。
「されてねぇよ」
 ……されてない。そう思わなくちゃ。じゃないと……。
「……触られただけだよ」
 たった、それだけだ。……それだけ。
「……郁也様……」
「大丈夫」
 そっと両手で、抱きしめて。
「俺の好きなのは、中原だけだから」
 唇にキス。
 キスしたいと思うのも、セックスしたいと思うのも。……本人に言ってやるのはひどくシャクだが。どうせ、ろくなリアクション返って来ない。だから。
 不意に、ひゅんと風を切る音がした。
「なっ……!?」
 中原の背に、ナイフが。呻き声を上げつつ、中原が振り返る。俺が中原越しに見た光景。血溜まりの中で笑う楠木。
「なんでっ……!?」
 楠木は血みどろの姿で笑った。
「私が、首から上の攻撃を全て致命傷を避けていたってご存じでした?」
「……貴様……っ!!」
「今回の目的は達成しました。取り敢えず」
「……取り敢えず?」
 俺は眉を顰めた。
「どういう意味だ」
 楠木は銃を拾い上げ、こちらにポイントしながら、立ち上がり、後ずさる。
「逃げても無駄だぞ!!」
 中原が叫ぶ。
「外は俺の部下で一杯だ。逃げる場所なんて何処にも……」
「……人材には苦労しているでしょう?」
 楠木は笑った。
「春の騒動の時に、随分優秀な部下に逃げられ、夏にはまた私という貴重な部下が裏切って。確かその後、辞めた人間も結構いたらしいですね」
「……まさか……?」
「ここ数ヶ月で入れ替えが激しかったですよね。全体的には質が落ちたんじゃないかと。あなたの苦労が偲ばれますよ。ああ、笹原さんも」
「……貴様っ……!!」
 まさか。内通者が……。
「『久本』もさんざんですよね? 穴の空いたスポンジ状態で。押せば簡単に潰れてしまう」
「お前の目的は何だ?」
 楠木は笑った。
「教えて差し上げましょうか? 郁也様。そう問われて素直に答える人間はただのバカですよ。嘘を言ってみるのも良いんですが、適当な嘘も思いつかないのでね。親切でしょう?」
「……親切だと?」
「……郁也様、こちらを見ないで聞いて下さい」
 中原が、小さく囁いた。
「……え?」
 思わず声を上げた。楠木が俺を見る。
「何か適当に喋っていて下さい。それから……肩を貸していただけませんか?」
 了解の代わりに手を握る。
「お前は自分のやっている事に満足してやっているのか?」
「そんな事聞いてどうするんですか」
 呆れたように楠木は言った。
「そろそろお別れです。残念ですが。……先に行かせて頂きますよ。長居は無用ですしね」
 そう言って部屋の鍵を取り出し、去ろうとする。
「待てよ!」
 怒鳴った。
「お前の姉さんの話だけどな!!」
 楠木は振り向いた。
「……姉?」
 中原が銃を拾おうとしている事に気付いた。
「お前と一緒だったのかも知れないぞ?」
 楠木は怪訝な顔をした。
「……何がです?」
「お前、自分の事、『臆病だった』『弱かった』って言ったろう? それ、お前の姉さんだってそうだったんじゃないのか?」
 楠木は不思議そうな顔をした。
「……どうして?」
「人は誰だって弱さを持っているし、臆病さも持ち合わせてる。そんなものが無いなんて奴はただのバカだ。己を知らないだけだ。何の弱点も欠点も無い人間なんて、この世に存在しない。そんなもの人間じゃない」
 ましてやこの世に、神など存在しないのだから。だから、あの男だって……。
「人は皆『恐い』んだ。人を信じるのが恐くて、傷付けられる事が恐くて。そんな事で容易く人は大切なものを失ってしまう。ぎりぎりの極限状態で、自分のためでは無く、誰かのために行動できる人間なんてほとんどいない。自分を捨てて、誰かを守ろうなんて、誰かの心を思いやろうなんて、そんなの簡単に出来る事じゃないんだ」
 言うのは簡単だ。だが、実際出来る人間なんてこの世にどれ程いる?
「何も考えずにそんな事する奴はただのバカだ。究極のナルシシズムと正義感に凝り固まった、ただのバカだ。本当に凄い奴は、自分と相手と両方のために行動できる奴だ。そうじゃなければただの自殺行為で、何も見えてないだけだ。自分自身のヒロイズムに酔いまくってるナルシシストだ。全て判っていてやれる奴はほとんどいない」
 全くいない、とは言い切れない。そんな人間はいないなんて俺は言えない。だって俺の母さんは。それがどうなるか判っていて、俺に全て……。

『ごめんね』
 優しく聖母のように笑って。何処か哀しみを湛えた瞳で。
『ごめんね』

 苦しい思いをさせてごめんね、という意味じゃない。あれは先に自分が死んでしまう事に対して謝っていたのだ、と今なら判る。彼女は自分が死ぬことを予期していた。

『頑張って生きてね』
『頑張って』
『ごめんね、郁也』

 生きていて、何か楽しい事があるだろうか?と思っていた。生きていて、あの人ほど美しい人間に、この世で会えるだろうかと疑問に思っていた。命長らえたからと言って、俺は生きていると言えるだろうかと。
 生きることに、何か意味があるなら。生きることに何か目的が無くてはならないのなら。だったら俺の生きる意味は、存在する価値は、一体何だろうと考えていた。俺は五歳の冬に一度死んだ。俺は生きている死体で。春に、中原に出会うまで。俺はたった一人だった。俺は生きる意味も見失って、ただ周り全てが敵で。『久本貴明』が俺を生かしておこうと思うのなら、精一杯戦って死んでやろうと思ってた。俺の味方なんてこの世の何処にもいなかった。神ですら、俺と母さんを救ってはくれなかった。
 俺を救ってくれないのなら。もし存在したとしても、俺を救わないのなら。そんなものはいないのと同じだ。神に救いを願ったりしない。神に望みを祈ったりしない。誰も何も俺を救わないなら、俺が俺を救うまでだ。自分が自分のためにやることなら、どんな結果になっても悔いはしない。

『死にたければ死ねば良いさ』
 中原が凶悪に嗤って。
『死ねば誰かを喜ばすだけだろ?』

 だったら。今は死なずに。……俺が死んでも誰も喜ばないような状況で。精一杯やったと自分に言い聞かせられるような。そんな生き方が出来るように。そんな風に、生きてやる。誰も俺を認めてくれなくても。誰にも支持して貰えなくても。誰のためでも無い。自分のために。自分のために何をどうしようが、そんなのは俺の勝手だ。誰にも文句言わせない。文句を言う奴は叩き潰してやる。この世に神なんて存在しない。だったら恐いものなんて何一つ無い。俺の望みは唯一つ。

「臆病さも弱さも持ち合わせないなんて、それこそ人間じゃないだろ?」
 だから。……久本貴明にだって絶対。
「そんな奴がいるもんだったら、この目で見てみたいね」
 持ち合わせてる筈なんだ。人間なのだから。絶対に。
「いる訳ねぇだろ?」
 楠木は笑った。
「……成程」
「臆病さも弱さも持ってない人間がいたとして、そいつが何をしたとしても俺は絶対に信じない。信用できるか、そんな奴。そんなのは人間じゃない。臆病さを持ち合わせてない奴が、俗に言う勇気ある行動とかってのをしでかしても、それは勇気があるからじゃない。臆病さを持ち合わせてないからだ。そんなのはロボットと変わりない。ロボットはやれと言われた事を正確にその通りやるだけだ。人間はやれと言われても、その通りにやるとは限らない。だからこそ人間なんだ。そうじゃなくなったら、人間なんて呼べない」
 俺は弱さすら持ち合わせてない人間を、人間だなんて絶対認めない。弱さも持ち合わせてないだなんて……そんなものは『化け物』 だ。異常で、おかしくて、どうかしている。
 そんな存在は認めない。絶対に。
「……肝に命じておきますよ」
 楠木が言った、その時。中原が腕を上げた。すかさず俺はその腕を下から支えた。どぉん、という反動と共に、銃口が火を放った。一発だけで良かった。崩れ掛ける中原の身体を、自分の肩や身体を使って支え、抱き留める。ばたばたと足音が近寄ってくる。
 楠木はこちらを撃とうとして、その気配に舌打ちして身を翻した。中原は更にその足下目掛けて銃を放った。楠木の足に命中し、身を崩し掛けたが、そのまま立ち止まらずに楠木は扉を開け、その向こうへと消えた。
「……大丈夫か?」
 中原を振り返った。中原は唇を歪ませて笑った。
「キスして下されば大丈夫です」
「……バカ」
 目から、涙が滲んで。
「……これ、抜かない方が良いよな? 病院行って……」
「……病院?」
 心外、というような声を上げられた。
「……中原?」
「これくらいで病院なんか行きませんよ。舐めておけば治ります」
「治るか! バカ!!」
 怒鳴りつけた。
「ふざけるなよ? ちゃんと病院行け。傷が大した事なかったとしてもな、傷口から雑菌入って破傷風にでもなったらどうすんだよ? 最悪壊死して死ぬぞ? 治療はちゃんとしろ。お前のためだけじゃない。お前が死んだり、病気になったりしたら、皆に迷惑掛けるんだぞ。それに……」
「……それに?」
「……俺が困る」
 中原が笑った。嬉しそうに。
「困りますか?」
「困る。……お前以外の男が俺の後ろに立つのは、落ち着かないからな」
「……それだけ?」
「……判ってるくせに」
「判らないから聞いてるんですよ」
「……それだけ元気なら、俺が心配するまでもないな」
 やせ我慢なのか、本当平気なのか、俺にはまるで判らないけど。
「……痛覚無いのか? へらへらして」
 中原は苦笑した。
「どうでしょう? ……良く、鈍いんじゃないかって言われるんですが。結構痛いですよ」
「……笑って言うなよ」
 呆れた。
「それより、あなたは? ……痛いところとか……」
 不安そうに、中原は俺を見た。
「俺は大丈夫だよ。それより、お前、自分の身体ちゃんと心配しろよ。早く治療しないと駄目だろ、それ」
「……楠木はどうするんです?」
 楠木成明。
「……お前の部下はそんなに無能か?」
 中原は複雑な表情になる。困ってるのか怒ってるのか、悩んでるのか何だか判らない表情。
「……楠木は、俺より余程人望がありましたからね」
 その口調は、諦め、にも似ていて。
「…………」
「どうだろう、と思いますよ。正直」
 楠木は穏和で落ち着いた物腰で。いかにもインテリで育ちの良いお坊ちゃん面で、愛想が良くて。誰に対しても棘が無かった。今思えば、不自然な程に。
「……あいつが敵に回るなんて、春には考えても見ませんでしたし」
「……信頼してた?」
 ちり、胸と痛んだ。
「そうですね」
 中原は言った。どくん、と心臓が跳ねた。
「……部下としてはね。プライベートでは互いに関わり合わなかったですけど」
 ほっとした。……バカみたいだ。俺。
「……仕事とプライベートをきっちり分けるタチでしたからね。俺も仕事上の関係を、私生活にも引っ張りたいと思わないですし。だから仕事仲間と飲みに行くなんてうんざりですよ。仕事が終わってからも顔付き合わせるなんてぞっとします。……プライベートで会いたいなんて思うのは、あなた一人だ」
「……だから、土橋が嫌い?」
 中原は目を丸くした。
「……そんな事、言いましたっけ?」
 言いましたっけも何も。
「お前、嫌いだろ? 土橋の事」
 中原は苦笑した。
「……あの人、悪気無いんですよね」
 悪気。無いかどうか知る程親しくは無いけど。見た目は割とまともそうだ。でも、あの『社長』の筆頭秘書だしな。信用できない。正直。
「……それが困る」
「……どうして?」
 疑問。
「……腹が立つから」
 ……それは……理由になるのか?
「……親切にしてしてるつもりで、悪気なんかないから、無性に腹が立つ。それが『余裕』に見えて」
 余裕。……相手に余裕がある事が気に触るというなら。
「お前に余裕が無いから?」
 いつもぎりぎりで。切羽詰まってて。いっぱいいっぱいで。必死で。他人の事を思いやる事なんか出来なくて。周りを見る暇なんて全然無くて。
「……痛い事言うんですね」
「余裕があるなら、気にならないだろう? そんなこと」
 中原は苦笑した。
「……そうでしょうね」
 大人のくせに、子供みたいで。
「ひがんでも良いけど、恨みには思うなよ?」
「……恨めないから、余計腹が立つんですよ」
 そりゃ、土橋も気の毒だ。
「……楠木に対しては?」
 中原は苦笑した。
「あいつは年下だったし……それに……俺と同類だったから」
 ……同類。
「……『普通の家庭』なんて、俺にはまるで縁が無かったから。だからそういうものを見せ付けられると、ひどく居たたまれなくて……」
 『普通の家庭』。俺には憧れで、だからこそ昭彦の家は居心地が良くて。……なのに。
「……『普通の家庭』が厭なのか? そういうものを感じさせられるのが?」
「だって……」
 言い訳する子供みたいな口調で。
「……だって、それって……」
 少し、泣きそうな顔で。
「…………俺には一生手に入らないものなのに」
 そんなこと、考えてたら。
「バカだな」
 俺は中原の頭を撫でた。
「バカだよ、そんなの」
「……バカですか?」
「一生手に入らないなんて思ったら、それこそ一生手に入らない。悔しかったら自分で手に入れてやろうとか思えよ? 望まなくちゃ、手に入れられない。最初から手に入れることを諦めたら、その時こそ終わりだ。一生手に届かないものになる。俺は、お前の『家族』の代わりにはなれないか?」
「……なれる訳ないでしょう。だって、俺はあなたに欲情してるんだから」
 そう言って、俺の頬を両手で包んだ。
「……『家族』とセックスする訳にはいかないでしょう?」
「お前って奴は……」
「『家族』なんていらない。幸せな家庭なんて奴も。あなたさえいれば、それで良い。他には何も望まない」
 口づけられて。
「俺は……お前の事、好きだけど」
 中原は不思議そうに俺を見る。
「他に何もいらないなんて言えない」
 だって、望むものはお前だけじゃないから。お前だけで救われる事なんて出来ない。俺にお前が救えるだなんて思えない。お前の苦しみを、痛みを、傷を俺に癒せるだなんて到底思えない。お前の全てを俺が受け止めきれるだなんて信じられない。
「……他には何も望まないなんて言うなよ? そんな訳には行かないだろう?」
「……俺を、拒絶するんですか?」
 裏切られた、と言わんばかりの顔で。
「違う! 俺は、お前に幸せになって欲しいんだ。だから……」
「あなたなしで幸せになれと!? あなたには面倒見きれないから他に行けってそういう事ですか!?」
「違うと言ってるだろう!!」
 どうして。この男は。こんなに物判り悪いんだ。
「頼むから俺だけだなんて言わないでくれ」
 恐くなるから。……お前の未来が、ひどく恐くなるから。お前が俺の全てを許すと言い続けるなら、俺はお前をいつかひどく傷付けてしまうかも知れないから。許せない事は許せないと言って欲しい。俺を甘やかせないで欲しい。甘やかされたら、俺はどうしたら良いか判らなくなる。際限なく、お前を搾取してしまいそうで。俺は、俺がお前を壊してしまいそうで。それが一番恐いんだ。
「……俺が、お前を壊してしまう羽目になったらどうする気だ?」
「……それがあなたの望みなら、本望ですよ」
「違う!!」
 どうして。どうして判らないんだ。この男は。
「俺がそれを望まないから言ってるんだ!!」
 バカ。
「そんな事は望まない。俺は、お前に幸せになって欲しいんだ。お前を壊す原因になるなんて不本意だ。だから、お前は俺の望みを叶えたいなら、自分で自分の身を守る事を考えろ。自分を大切にしろよ。頼むから」
 じゃないと、胸が痛くなる。痛くて。苦しくて。
「俺を心配してくれるんですか?」
 嬉しそうに、中原は言った。
「お前、俺を何だと思ってるんだ?」
「あなただから、嬉しいんですよ」
 中原はそう言って、笑った。

To be continued...
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