NOVEL

週末は命懸け7「追憶」 -7-

 授業が終わった。
 がたがたと一斉に立ち上がるクラスメイト達を後目に、俺は机の下でたった今、着信したてのメッセージを読んでいた。
「郁也、授業終わったぞ?」
「……判ってる」
「判ってるって、お前な」
 昭彦は呆れたような声を上げる。……中原からのメール。それによれば、高木沢静一は『高木沢鉄鋼』という会社の社長で、不当たり手形を三ヶ月前に出しているらしい。思った通り、高木沢晃一はその息子で、私立高校に通っていたが今月うちに転校、て事らしい。更に詳しい事があればメール寄越すって書いてあるけど……。
「……何してんだよ? メール?」
 ぱたん、と携帯を閉じた。
「悪い、待たせたな」
 俺は立ち上がった。
「……また、面倒な事に首突っ込んでるんじゃないだろうな?」
 昭彦は渋い顔をした。
「心配するな。メル友からだよ」
「……郁也にそんな友達いるのかねぇ」
「なんだよ? お前、俺に喧嘩売ってんの?」
「……別に。ただ、お前に嘘つかれるの良い加減慣れてきちゃったからさ、俺。なんとなく疑うくせって言うか、裏を読もうとするくせついちゃったって言うか」
 ……こいつ。
「そんな癖、俺になんか働かせてないで、知らない奴に対してやれよ。俺なんかお前騙したってどうって事ないけど、知らない奴がお前騙して利用した方が、とんでもない事態になるだろ?」
「……どう考えたって、郁也ほどとんでもない奴もなかなかいないと思うけど」
「……何? お前。言いたい事があるなら言えよ?」
「高木沢の事」
 どきん、とした。昭彦は真顔で俺をじっと見つめて。
「何も言わないのな。お前の又従兄弟って言ってたけど、本当?」
 ……何となく居心地悪い。その目が。
「……それでむくれてた訳?」
「別にむくれてないけどさ。俺だってあの場にいたんだから、ちょっとくらい教えてくれたって良いだろ? どうしても厭だって言うなら、聞かないけど。……郁也、俺にちっとも身内の話とかしないしさ。別に無理に話せって言ってんじゃないよ。俺、小学校の時、お前についての噂、ちらっと聞いた事あるしさ。お前はちっとも話さないし、噂の内容については話半分としても、あんまり話したくなるような内容でもなさそうかなって事くらいは想像つくし。最近はちっとも来なくなったけど、以前俺の家に入り浸りだったって事考えてみれば、郁也にとって自分の家ってのはあんまり居心地の良い場所じゃないんだろうなって事くらいは感じるし」
「…………」
「話すのが厭なら厭でも良い。強制はしない。俺にそんな権利ないから。でもさ、お前があいつの事厭だったら協力くらい出来るぜ?」
 音楽教室にはもう誰もいなくなっていた。俺と、昭彦だけ。
「……母方、だよ」
「……え?」
 昭彦はきょとんとした。
「『高木沢』っていうのは母方の姓だ。俺の旧姓は高木沢。久本に引き取られる前は、そういう名前だったんだ。聞いた事あるんだろう? ……有名だったし」
「ん……まぁ。名字までは俺、知らなかったけど」
 近所では有名な話だ。久本貴明が、愛人の子供を引き取ったって話は。俺の母親が、未婚で出産して一人で育ててたって事も。強盗に襲われて誘拐されて、殺された事も。俺自身死にかけた事も。俺の耳に入った頃には随分話が誇張されて、酷い内容になっていたけど。
「……じゃあ、本当に親戚なんだ?」
「ああ。……俺の母親の……父方の従兄弟があいつの父親で。そういう事、らしい」
「……郁也、こういう話、厭?」
「あまり気持ち良くはないな。思い出したくもなければ、考えたくもない」
「……ごめん」
「別に。話しておいた方が良いような気もするし。……少なくとも、高木沢の人間にとっちゃ、俺達は恥さらしな人間だ。思い出したくもない存在だろう。……なにせ、未婚の母と私生児だしな」
「郁也っ!!」
 昭彦は真っ赤な顔で叫んだ。俺は笑った。
「だから、連中にとって俺が役に立つ部分あるとしたら、俺が『久本貴明』の息子で、『久本』グループ次期社長だと思ってるとこだろうな。『久本』とのコネクションにするか、金づるにって事だろう。俺自身には価値は無い」
「どうしてお前ってそういう考え方しか出来ないんだ?! お前に会いたくて、とか思えないのか!?」
「思えないね。……俺はお前ほど能天気にも楽天家にも、なれない。俺はお前みたいに考えられる世界に生きてないんだ。言ったろ? 長年顔も見なかったような親戚が、懐かしがって目の前に現れたら、まず金銭目的を疑えって。……中華料理屋で声掛けてきたおっさんがいたろ?」
「……え? ……ああ。この前の?」
「アレが、あいつの父親らしいんだ」
「えええっ!? そうなの!? 偶然だね!!」
 お前はバカか!! この大ボケっ!!
「んな訳あるかっ!! このボケっっ!! そんな偶然ある訳無いだろ!! 故意だよ!! 故意!! おっさんで駄目だったから、息子が近寄ってきたって事だろ!!」
「……え? でも、あの頃は既に高木沢、うちの部に入ってたよ? 俺とも親しかったし」
「だったら何でお前気付かないんだよ!!」
「だって……良くある名前なのかなって……」
「疑えよ!! まず!! お前は何でも素直に信じすぎ!! 少しは疑え!! 親切そうで穏和そうな奴ほど質悪いんだぞ!!」
「……その決めつけはどうかと思うけど」
「お前のその思い込みだって十分だろうが!! ボケのくせして頑固で融通利かないなんて、本当質悪いぞ!! お前!!」
「郁也にだけは質悪いとか言われたくないよ、俺」
「質悪いから質悪いって言ってんだ!! どうせ言ったって聞きやしねぇだろうけど!! ……忠告してやる。俺の身内やその関連にろくな連中いねぇんだよ。どいつもこいつも、他人利用して陥れて、自分甘い汁すすってのし上がる事ばっか考えて、自分の欲望のためだったら、何をどうしたって良心痛まない連中ばっかりなんだ。手段なんて選ばない。普通の常識・倫理観なんか当てにしてたら殺されたって文句言えねぇ極悪鬼畜揃いだ。お前みたいなお人好し、骨まで残さず頭からボリボリ食われてあの世行きだ。判ったか?」
「……郁也……お前……」
 懇切丁寧、親切に人が言ってやってると言うのに。昭彦は大仰な溜息ついて。
「疑いすぎ」
 ……こいつに、理解させようなんて最初から期待してなかったけど。相互理解、なんて奴は天地がひっくり返っても一生無いかも知れない。

「サシで話してくる」
 何とか昭彦から高木沢晃一の教室聞き出して、E組へ向かった。隣のDにはあんまり会いたくない人間がいるから、わざわざ階段使用して遠回りして。なのに……何故かそういう時に限って。
「あら、久本君」
「…………」
 どうして……鉢合わせたりするんだ? 太田&中西コンビ。
「……やぁ……」
 顔、合わせ辛くて、ずっと避けて来たのに。太田は、表面上は以前と変わらないように見える。……心持ち、視線が柔らかくなったような気はするけど。相変わらずなのは──中西聡美。まるで親の敵でも見るみたいに、物凄い敵意篭もった目つきで。……そりゃ、俺のやった事考えればそれも判らないでは無いけど──折角の美人が台無しだな。そう言ったら、絶対噛み付かれるし、たぶんふざけてるようにしか聞こえないだろうから言わないけど。
「ごめん、その……」
「何故謝るの?」
 太田は言った。どきり、とした。余裕に満ちた、笑顔で。……強い、と思う。あんな事があったのに、もうすっかり立ち直ってるんだ? 何かそれって……凄い。だって、俺は……。
「用事?」
「あ、E組に」
「そう。……じゃあね、久本君」
 ……何も、言わない。
「……俺の事、恨みに思ってないの?」
 思わず訊いた。
 すると、太田はにっこり笑った。
「思ってるわよ、恨みに。大丈夫、心配しないで」
「……はぁ!?」
 目を見開いた。太田は鮮やかに笑った。
「全部あなたのせいって恨んでるから。安心して」
「…………何それ」
 呆然として呟いた。
「……じゃあね」
 太田はそのまま通り過ぎた。中西はじろりと俺を睨み付けて、無言で立ち去った。
「…………」
 中西の反応は、判る。だけど、太田の反応は……判らない。全然判らない。一体何なんだ!? 中原より訳判らないぞ!! って言うか、俺の修行が足りなさすぎるのか!? 全然判らない……。
「……笑顔って恐い……」
 そんなのは、知ってたけど。許してるんじゃなかったら何故、笑えるんだろう? 恨みに思ってるんだったら、何故? 女って判らない……俺にはたぶん一生判らない気がする……。
「……と、こんな事してる場合じゃない」
 E組を覗き込む。……いた。真っ直ぐに、歩み寄った。
「高木沢」
 声を掛けると、ギクリとしたように顔を上げ、俺の顔を確認すると飛び上がりそうなくらい驚いた。
「ちょっと、話しようぜ」
 ぐいと腕を引っ張ってさっさと歩き出す。
「ななな何をっ!! 一体何だって!! もう話は済んだ筈だろ!? そっちだってもう二度と声掛けるなって……!!」
「……お喋りな奴は早死にするって知らないか?」
「っ!?」
 高木沢は黙り込んだ。そのまま屋上まで連行した。
「なっ……何だって言うんだよぉ……っ!!」
「お前、以前『皇崎[すめらさき]高校』行ってたんだって? あの坊ちゃん高校」
「なっ……!!」
 高木沢は大きく目を見開いた。
「……なんでそれをっ……!!」
 俺は鼻で笑った。
「以前の所属部はバスケ。普通、高校変わった途端、バスケからバレーに転向なんてのは、変わってるよな? しかも中学もバスケだったって? 高校じゃまだ成績挙げて無いけど、中学時代は結構有名だったらしいじゃねぇか。シューターとして。だったら余計、畑違いのバレーやってるのっておかしいよな? 確かに八剣浜のバスケは万年最下位で、うちの男バレは、運動部でも好成績上げてる部類には入るけど、それでも県内で万年ベスト8止まりだしな。それだったらバスケ部に入った方がマシじゃないのか? ヒーローになれる事間違い無しだぜ? なあ?」
「……っ!!」
 高木沢は絶句して俺を呆然と見上げる。
「高木沢鉄鋼御曹司さんよ? ……一体何が狙いだ?」
 にやりと笑った。高木沢はくっと下唇を噛んだ。
「……見え見えだよな? ……他にも何か、ネタ上げてやろうか? 例えば、お前がつい先日まで付き合ってた彼女の名前とか」
「なっ……!! 何で知って……!!」
 ……あ。いたんだ? こいつ。そうか。……後で調べさせておこう。まあ、知らなかった事は顔に出さずに、ここは含みを持たせておこう。
「……俺の情報網を甘くみるなよ? 隠したって無駄だ」
「……くっ……てめぇ……っ!!」
 高木沢は俺を睨み上げる。
「美由紀に何かしてみろ!! ぶっ殺してやるからな!! 畜生!!」
 俺は大仰に肩をすくめてみせる。
「……俺を極悪人みたいに言うなよ?」
 ……ちょっとわざとらしいか? 芝居気入りすぎかも。それでも、高木沢はすっかり頭に血の気が昇ってる。焦りまくって動揺してる。額に汗が吹き出ている。陥とすのはたぶん簡単。
「……それに、お前、自分の『立場』って奴を理解してないんじゃないのか?」
「…………っ!!」
 高木沢は真っ青になった。
「俺が質問してるんだよ。お前は、それに答えるだけだ」
 にやりと笑った。その瞬間、高木沢の顔が泣きそうに、ぐしゃぐしゃに歪んだ。
「……っ前が律を……」
 ……え?
「……お前が律を、殺したりするから……」

 『オ前ガ律ヲ、殺シタリスルカラ』

 頭の中が、冷たくなった。
「俺の兄貴が……自殺した」
 そう言って、俺を睨み付けて。
「……な……んだと……!?」
 全然、繋がらない。律の死と、高木沢の兄貴の自殺がどう──。
「兄貴は律が、好きだった。ずっとずっと……好きだった……!!」
 呆然と、見つめた。
「俺には判らないけど、俺には絶対理解出来ないけど、兄貴はずっと好きだった。俺は知ってた。俺は何もかも全部知ってた。知ってて誰にも言わなかった。兄貴が律に何をしてたか知っていても、誰にも決して口外しなかった。俺は……」
「……律に何をしてたって言うんだ!?」
 高木沢の目がきらりと光った。
「……知らなかったのか? お前」
 厭な予感がした。
「……知らなかったんだ? お前」
 物凄く、厭な予感。
「兄貴は律を抱いてたんだよ。お前は俺の兄貴と、律を共有していたんだ」
 嘲笑うような、口調で。
「律の泣き叫ぶ声は、その気のまるでない俺が聞いたって色っぽ……っ……がっ……ぁっ!!」
 思わず、殴りつけていた。自制なんて利かなかった。全然止まらない。殴る度に、拳の感覚が無くなっていく。ひどく興奮してるくせに、殴れば殴るほど、心が冷たくなっていく。何も感じない。ひどく熱い気分なのに、ひどく冷たく褪めた気分で。目の前のこいつが、ただの肉の塊にしか思えない。殴っても殴っても、全然何も感じない。感じなくて。怒りだけが、許せないという想いだけが、俺を支配してる。
 こいつが言ったのが律の事じゃなかったら、こんなに俺は怒っていただろうか? 妙に冷静な俺が、熱くなってる俺に問い掛ける。
 誰の事だって構わない。……俺は、こいつの存在そのものが、許せない。こんな事をわざわざ人に言ったりする根性が許せない。だって、俺がもし律の立場で、こういう事を誰かに言われたりしたら、絶対に許さない。許せる筈なんて無い。
「郁也!!」
 ドアが開く音と共に、昭彦が駆け寄って来て、背後から俺の腕を掴んだ。
「……離せ!!」
「バカ野郎!! 殺す気か!? 郁也!!」
「殺してやる!! こんな奴!! 殺してやる!! 冗談じゃねぇ!! こんな奴この世に生かしておいたらろくな事無い!!」
「いっ……郁也っ……!!」
「ひいいっ……!!」
 高木沢が、引きつった悲鳴を上げる。
「誰もこいつを殺さないって言うなら、俺が殺してやる!! そうするのが世のため人のためだ!! 絶対許せる訳ないだろ!! こんな最低野郎!!」
「人を殺したら、罪になるんだぞ!?」
「それが何だ!! 犯罪だろうがなんだろうが、腐ったウジ虫のさばらしておくよりゃよっぽど善行だろ!! 誰が認めなくたって俺にはそうだ!!」
「人を殺したら、悲しむ人がいるんだよ!!」
 昭彦は怒鳴った。
「どんな人だって、死んでも良い人なんていないんだ!!」
 俺は、腕を振り解いた。
「郁也っ!!」
 俺は高木沢の襟首を引っ掴んだ。
「……それでもな、死者を冒涜するような奴は、それなりの罰を与えないといけないんだ。……死者は自分を弁護出来ないからな」
「だからって郁也にそんな権利ないよ」
「……何だと?」
 昭彦を睨み付けた。昭彦は真っ直ぐに俺を見返す。
「……死者を冒涜する人間に、罰を与えられる存在がいるとしたら、それは神様か死者だけだよ。郁也じゃない」
「……神様なんてこの世にいないのに?」
「いるよ」
 昭彦はきっぱりと言い切った。
「……目に見えなくて、感じにくいだけなんだ」
「お気楽だな」
 昭彦は困ったように笑った。
「……郁也は短気すぎるんだよ」
「何だって!?」
「だから、喧嘩売る必要のない相手にまで喧嘩を売る羽目になるんだ。もう少しきちんと話をしたら、解決出来るかも知れないのに、郁也が自分でそれを失敗させるんだ。喧嘩腰の人間には誰だって喧嘩腰になるよ? 反対に、穏やかに解決してみようとしてみなよ? そしたら、もっと違う結果や方法が見つかるから」
「……だけど……こいつは……!!」
「きちんと話し合ってみれば良いんだよ。だって、俺と話した時は、高木沢って良い奴だったもん」
「……昭彦」
「…………」
 昭彦はにっこり笑った。
「努力してみろよ? 郁也も、高木沢も、良い奴なんだからさ」
「…………」
  ……こいつって……本当呆れるくらい……。
「……正反対だな……」
 高木沢が、顔を歪めて、そう言った。俺は無言で睨んだ。
「……まるでお前が観音様みたく見えるよ、藤岡」
 高木沢の言葉に、昭彦は眉を顰めた。
「……何、それ?」
 俺は無言で、高木沢を見た。高木沢はびくりと肩を震わせた。
「……郁也、睨むのはやめなよ」
「…………」
 俺は視線を逸らして、腕組みをした。……まだ、殴り足りないけど。
「……あんた……一体何なんだ?」
 高木沢は言った。
「……普通じゃねぇよ。何でそれくらいで……!!」
「それくらいだと!?」
 思わず振り向いて睨み付けた。ヒッと小さく悲鳴を上げて、高木沢はしゃがみ込んだ。そのあまりのオーバーアクションに、俺の振り上げた拳は思わず固まったけど。苛々する。腹立たしい。
「……郁也、脅しすぎ」
「脅し過ぎも何も……!!」
「さっきあんなに殴るからだろ? 誰だって怖がるよ。お前、そんなんだから俺の他に友達いないんじゃないか」
「こんな奴と友達になれってのか!?」
「……なりたくないのになれとか言わないけど。それにしたって郁也、極端過ぎ。……ちゃんと話し合いしなきゃ駄目だよ」
「お前、こいつが何言ったか知ってて言ってんのか!?」
「……何て言ったの?」
 きょとん、とした顔で。真っ直ぐで純真な瞳で。
「…………」
 ……言える訳無い……。
「なんだよ? 言ってみろよ?」
 ……どの面下げて言えるんだよ……そんなっ……!!
「藤岡、酷いんだ。彼は俺が何もしてないのに……!!」
 その途端、ぶっちぎれた。
「冗談じゃねぇよ!! そいつがっ……!! 高木沢が、律が男に抱かれた時云々なんて事を言うからっ……!!」
 昭彦はきょとんとした。
「……『男に抱かれた時』……?」
 思わずカッと頬が熱くなった。
「……何、それ? どういう意味?」
 本気で判らないって顔で。俺は思わず狼狽に顔が熱くなるけど、昭彦は全然判ってない。
「知らないのか? 藤岡。こいつは男と……」
「高木沢!! てめぇっ……!!」
 思わず掴み掛かった。だけど、一歩遅くて。
「……セックスしたことあるんだぜ……?」
 嘘だ、とは叫べなかった。……それこそ嘘だったから。だけど、高木沢の考えてる事には大きな間違いがあって……。
 俺は思わず殴りつけていた。……それを奴が、口にする前に。
「……郁也……?」
 真っ直ぐに、大きな瞳が俺を見つめてる。俺は……何も言えなくて。目を逸らす事しか出来なくて。
 高木沢を更に殴った。
「……郁也」
 昭彦の手が、俺に触れる。
「……何となく、事情は判った。……判ったけど……それ以上殴っちゃ駄目だよ」
「……なっ……!?」
 判った!? ……判ったって……どういう意味だよ!? 昭彦!!
「……言っちゃいけない事ってあるよね?」
 穏やかに、昭彦は言った。高木沢の口元から流れ落ちた血を、ハンカチで拭い取って、それからぱしん、と平手で高木沢の頬を打った。それから俺に向き直って。
「……!?」
 俺の頬も、叩かれた。
「……あ……き……ひこ……?」
 昭彦はにっこり笑った。
「喧嘩両成敗」
「……は?」
 思わず、目を見開いた。
「……頭冷やして、それからゆっくり考える事。郁也も、高木沢も。それで……高木沢」
「……え?」
 昭彦は真顔になった。
「人の厭がる事を言うのはやめた方が良いよ? 喧嘩の元になるから」
「…………」
 その時になって、ようやく、俺は昭彦がずっと怒っていた事に気付いた。
「……昭彦……」
「弁明は後で聞くよ。でも、今は頭冷やして。二人の間で解決したら、俺に話して。……俺は関係ないから」
「…………」
「じゃあね」
 そう言って、昭彦は身を翻し、振り向きもしないで去っていった。
「…………すっげー奴……」
 高木沢が言った。……認めるのは癪だけど……俺も同じ事を思った。昭彦って……前から思ってたけど、大物かも知れない。
 何となく、顔を見合わして。……俺、こいつにはまだすげぇ腹立ててるんだけど。
「…………」
 互いに、言葉を探していた。

To be continued...
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