NOVEL

週末は命懸け7「追憶」 -8-

「……あんた、絶対おかしいよ」
「常識知らずの大バカ者にだけは言われたくない」
 睨み付けると、びくりとしたように肩を震わせた。
「……確かに怒らせようとした。俺は確かにあんたが怒りそうな言葉を選んで使ったけど……だけど、あんた『異常』だよ。変だ。絶対変だよ。普通じゃねーよ。あんたのキレ方」
「『普通』である必要なんかねぇだろ。てめぇみたいな豚野郎は今すぐこの世から放り出したい気分だぜ」
 ぞくり、としたように高木沢は身を震わせた。
「……それより、目的は何だ? それをまだ聞いて無いな」
 髪を掴んで、高木沢の顔を上げさせた。高木沢は大きく目を見開いた。
「……答えろよ?」
 『命令』。拒絶なんか許さない。妥協なんて許さない。逃げる事なんて絶対に許さない。
 高木沢の目が脅えたように、なのに真っ直ぐに俺を見返している。
「……答えろ」
 足を上げて、爪先で相手の顎をつついた。びくりと肩を震わせて、高木沢の瞳の色が揺らいだ。
「……ぁっ……!!」
 俺は笑った。
「……殴られるの、好きか? お前」
 高木沢は蒼白になった。
「……俺はっ……ただっ……兄貴の復讐を……っ!!」
 掠れた声で。
「……復讐?」
「……律を……律を殺したのが……あんた……だから……っ!!」
 『律を殺したのが、俺』。
「…………」
 ……確かに、間違いじゃない。……ただ、こいつがどういう意味で言ってるのかが、謎だが。
「……で?」
 高木沢はぎゅっと眉を引き絞った。
「俺はあんたに……兄貴と同じ苦しみを与えてやるために……!!」
 俺は目を細めて睨み付けた。
「……昭彦を利用しようとした?」
 がん、と高木沢の耳元掠めて金網を蹴り付けた。高木沢の顔から一気に血の気が引いた。
「……俺の、嫌いな事、知ってるか?」
 俺は笑う。冷酷に、残虐に、突き放す笑顔で。
 ごくり、と高木沢は息を呑んだ。
「俺の嫌いな事は、な。無関係な奴を巻き込む事と、文句も言えねぇ奴や何の力も無い奴を、冒涜したり暴力振るう事。それからナメた真似される事、だ」
「……ひ……っ!!」
「売られた喧嘩は買う。やられたら百倍にして返す。それが俺の信条だ。……文句あるか?」
 手を離し、足を戻して、肩先を踏み付け蹴り倒した。
「……うぁあっ……!!」
 ぐり、と踏みにじる。
「知らなかったって言うなら教えてやる。この学校で、俺が恐れられてる理由ってのを、さ」
 にやりと笑った。
「……手加減しねぇんだ。……判るか?」
「……ひっ……!!」
 高木沢は、両目を瞑って、身体を縮み込ませた。
 ……呆れた。……こいつ、全然弱っちいじゃん。なのに何で俺に喧嘩売ってる? ふざけてんのか?
 足を引っ込めた。
 ゆっくりと目を開ける高木沢に、唾を吐き掛けた。
「っ!?」
「……今後のお前の言動次第では、お前を念入りに袋叩きにして、あの世に放り込んでやるよ。……判ったな」
「……っ……」
 脅えた目で、それでも高木沢は俺を睨み上げた。俺は高木沢の腹を蹴り付けた。ぐふっと声を上げて、高木沢は腹を折った。
「……返事くらいしろよ?」
「…………っ!!」
 泣きそうな顔で、それでも高木沢は俺を睨み付ける。……その顔が、全然似てないのに、不意に律と重なって。
 本来なら、もう少し殴るか蹴るかしてやるとこだが、まるでその気が無くなった。
 背中を向けて、扉へと向かう。
「……てめぇっ……!!」
 高木沢の声が、飛んでくる。俺は扉を開く直前に立ち止まって、振り向いた。高木沢は、俺の目を見て、硬直した。
「お前が早死にしたいなら、幾らでも俺に喧嘩売れば良い。だけど、無関係な連中に手を出したら、お前だけで済むと思うなよ?」
 唇だけで笑った。
「世の中、『殺す』だけが『やり方』じゃないんだ。死ぬより不幸な目に遭わせてやるよ?」
「…………っ」
 絶句する高木沢に背を向け、扉を開けた。返事は無かった。俺は階段を降りていった。

「……で?」
 昭彦が不機嫌そうな顔で言った。
「……話し合いはした訳?」
「……まあ、な」
 あれが、話し合いと呼べるかどうかはともかく。
「……本当に『話し合い』だった訳?」
 疑わしそうな目つきで、昭彦が言った。
 ──こいつ。妙なとこで鋭い。
「いや、大丈夫。一応話し合いはした」
「……それで結論は?」
「いけ好かない」
 そう言ったら、昭彦はがっくりと肩を落とした。
「……き……期待はしてなかったけど」
 俺は眉を顰めた。
「何? お前、俺と高木沢仲良くさせようとしてた?」
 昭彦は溜息をついた。
「……そんな事は考えてないけど、もうちょっとマシな結果にはならないかなと思ってた。良く考えたらそんなもんかも」
「……何が?」
「……郁也はともかく、高木沢の方は郁也の事、好きなんじゃないかなって思ってたから」
「はぁ?!」
 何だって!? 一体、何処からそういう発想が思い浮かぶんだ!?
「お前、何考えてんだ!?」
 こいつの頭の中、さっぱり判らねぇよ!!
「……だって、郁也の事、俺に色々興味深そうに聞いてたからさ」
 不意に、身体が冷えた。
「……喋ったのか?」
 昭彦は穏やかに笑った。
「郁也の都合が悪そうな事は言ってないよ。隠しておきたいだろうって事も。……俺が話したのは、郁也が心底イイ奴だって事だよ」
「……はぁ?」
 思わずきょとんとした。
「……何ソレ」
「郁也、本当イイ奴だよ。すごく不器用で判りにくいけど」
 真顔で言うし。……こいつって。
「お前バカか?」
 恥ずかしいとか思わないか? 本当に。
「それで寂しがりやで甘えん坊」
「なっ……!!」
「で、物凄く照れ屋。俺、郁也の事すごく好きだよ? 友達になれて本当良かったって思う。郁也、割ととんちんかんな事するけど、結構優しいところもあるし」
「とんちんかんって何だよ? お前、俺に喧嘩売ってるのか?」
「すぐ喧嘩売るのは郁也の悪い癖。人の言動に対してすぐ攻撃的に振る舞うとこも。……それはきっと郁也がひどく他人を警戒して臆病になってるからだと……」
「他人なんか信用したら、何されるか判らないんだよ!!」
 俺だって、こんな風な生き方なんかしたくなかった。
「……お前みたいになれたら、良かった」
 ずっと、昔から。今も、そう思ってる。
「お前みたいに、平凡に幸せに生きたかったよ、俺は!!」
「……郁也……」
「でも、俺はそんな風には生きられない。そうしたくてもそうできないし、お前みたいな考え方して生きてたら、とうの昔に死んでいた」
「……郁也……」
「俺は、誰かのせいで、俺の意志以外のものによって、殺されたくなんかないし、好きにされたくもない。俺の意志によって生きていたいんだ。未来を決めるなら、運命を決定付けるなら、自分自身の手で決めたいんだ。誰にも何にも邪魔させない。誰にも何にも左右されたくない。俺は俺の意志で、俺自身のことを、俺の未来の事を決める。他人にバカとしか思われなくたって、他人に否定されたって関係無い。俺の事は俺が決める。俺の価値観は俺が決める。誰かの何かがどう、なんて関係無い。だから、今更他の道は選ばない」
 他の生き方なんて選べない。……俺が俺でなくなったら、俺は存在してられない。存在の意味を、見失いそうで。
「……ごめん」
 ちくり、とした。
「何謝ってるんだよ?」
「……だって、俺……たぶん、無神経な事言った」
 情けない顔で、昭彦が俺を見上げて。
「……別に、今更だろ?」
 俺はにやりと笑った。
「ひどいな」
 昭彦は嘆息した。俺は笑う。
「大丈夫。お前、そういう奴だから」
「……褒めてないよ」
「褒めてないし」
「…………」
 昭彦は溜息をついた。
「……何かあって、さ」
「え?」
 虚を突かれた。
「……もし、郁也に何かあってさ、俺でも良いから助けが欲しい時、ちゃんと『助けて』って言えよ? ……言われなきゃ、通じない事って世の中いっぱいあるんだからな」
「判った」
 言うと、昭彦は溜息をついた。
「……そうやって簡単に『判った』なんて言うとこが、判ってないんだよ、郁也」
「え?」
「……何となく判ってんだけどさ。郁也、たぶんどうしても今一番ヤバイ、とかどうにも助けが欲しいって時には、俺になんか助け求めないだろ?」
「……なっ……!!」
「……たぶん、俺に何か言ってくるとしたら、俺がそれに勘付いた時か、何もかも終わって解決した時くらいなんだ。お前は俺に、相談しない」
 ぐさり、ときた。
 昭彦は真顔で俺を見る。
「俺は郁也の事好きだけど、時折そういうとこが悲しくなるよ。けど、たぶんこんな事言っても、お前を追い詰めるだけなんだろう。だからこれは俺の愚痴だ。……俺はお前の役に立ちたいと思うのだけは間違いないから、たまにで良い。俺の事、思い出してくれないか? 俺にだって、出来る事はあるから」
「……昭彦……」
「俺と郁也は、考え方も、性格も、たぶん生き方も全然違う。……でも、違うからこそ判る事はあると思うから。違うからって判り合えないってもんじゃないだろ? 逆に、同じだからって判り合えるとは限らない。判り合えるかどうかってのは、結局のところ、本人同士の努力ってところが大きいだろ?」
「…………」
 不意に、俺は他人と『判り合おう』とした事がろくになかったんじゃないかって思った。俺は、自分から中原に判り合いたくないかと尋ねた時でさえ、判り合おうだなんて思ってなかったんじゃないだろうか、と。
 俺は、誰の何も、見ていなくて。俺は誰の何も、判ってなくて。目を開いていても、瞑ってるのと同じで。目を閉じたまま、歩いていたんじゃないかって気がして。
 だって今、俺は驚いてる。昭彦の事は、誰よりも知っていた筈だ。昭彦とは親友で、理解しきる事は不可能だけど、何を考えて何をしようとするかくらいは考えなくても判っていた筈だ。だけど今、俺は驚いてる。……昭彦がこんな事考えてたんだって、驚いてる。言われてみれば、昭彦がそういう事考えても不思議じゃないんだって思えるけど、言われなければ判ってなかった。判らなかった。
「……昭彦」
「郁也、次第なんだよ。結局は。……相手の態度を決めるのも、さ」
「……俺次第?」
「人は結構現金な生き物だからさ。自分に好意的に振る舞われると、自分の都合の良い風に勘違いしちゃうんだよ。逆に、敵視されたり警戒されると相手の事気に食わないって思うんだ。相手がどういう人間かって事は関係無しに」
「……それって……俺が、自分で敵を作ってるって事か?」
「郁也が世の中全部敵だって思ってると、世の中の方が郁也を敵にしてしまうってそういう事だよ。だからさ、郁也は不器用なんだよね」
 昭彦は笑った。
「郁也が笑えばさ、大抵の人間はきっと、郁也の事好きだって思うよ? なのに、郁也はそうしないんだ。俺は郁也の事好きだから、そういう不器用なとこ見てると、損してるよなぁっていつも思うんだ。だって郁也はさ、郁也がそう望めば、世界全部を味方に出来るってそう思うから」
 世界全部を……味方に?
「そういう不器用なとこも含めて俺、郁也好きだけど、でもやっぱり皆に郁也の好さ判って貰って、郁也が幸せになれると本当良いなぁって俺は思うから」
 ……『笑顔』は武器になる。そう教えてくれたのは『久本貴明』だ。あの男はいつもそつのない笑みを浮かべて、人の心を操り、支配する。俺の目には、いつもあいつが人の心を自由に操ってるみたいに思えた。まるで、本物の魔法みたいに。
「郁也次第なんだよ。相手を、敵にするか、味方にするかってのは」
 ……昭彦の言ってる事が全部正しいか否かはともかくだ。目から鱗、なのは間違いない。だって俺はそんな事、ただの一度も考えなかった。思いつきもしなかった。
「うん。有り難う、昭彦」
 それはたぶん、そういう考え方もアリなんだろう。今後、そういうのも考慮に入れて置く必要がある。大体、表面上で相手に好意的に振る舞って見せたとしてもだ。実際に心の中でまで、そう思う必要など無い。表と裏が同じである必要なんて、何処にも無いんだから。
「本当、有り難う。昭彦」
「……別に。俺は大した事言ってないよ」
 ようやく、『見えた』気がした。今まで気付かずにいた事。今まで判らずにいた事。何か大事な物を、見つけた気がした。
 たぶん、これは『きっかけ』だ。明日に活きる糧になる。
 俺は笑った。……たぶん、昭彦が考えてる事は、俺とは違う。同じになんてなれない。なる必要も無い。俺は昭彦が好きだ。でもそれ以上に、必要だ。中原とは、違う意味で。
「お前と友達で本当、良かったよ」
 たぶん、一生判り合えないけど。

 放課後、図書室へ向かう廊下の途中、高木沢がいた。
 俺は無視して通り過ぎようとした。……話す事なんて無いから。
「……待てよ」
 ……懲りない奴。
「何?」
 意地悪く、笑って見せる。
「まだ殴られ足りねーの?」
 言うと、びくりとしたように肩を震わせ、脅えた表情になった。……本気でバカじゃねぇの? こいつ。
「……あんた……一体何なんだよ?」
「……意味が判らねぇけど?」
 高木沢は、下唇をぐっと噛み締めた。
 俺はそのまま通り過ぎようとする。
「待てよ」
 腕を、掴まれた。ぱん、と腕を払いのけた。再度、掴まれる。振り解いた。高木沢が俺の正面に回って、真っ直ぐに見る。
「……律に、似てるよな?」
 どきり、とした。
「……誰もあんたと律が似てる、なんて言わなかったけど、あんたは律に似てる。確かにあんたと律は又従兄弟だけど……それにしては似すぎだ。だって、あんたは俺より律と血縁が遠い筈なのに……」
「……知った事じゃねぇよ」
 吐き捨てた。
「そんなもん、知ったこっちゃねぇよ!! 鬱陶しいんだよ!! お前!!」
 襟を掴んで、壁に叩き付けた。
「っ……!!」
 高木沢は、一瞬目を瞑った。でも、すぐ、目を開いて。
「……律は死んだのに」
 何処か、潤んだ瞳で。掠れた声で。
 俺はどきりとした。
「……律は死んだのに……あんたに殺された筈なのに……」
 半分熱に浮かされたような瞳で。
「……あんたは記憶の中の律にそっくりだ」
 ぽつり、と。
「……中身は全然似てないけど」
 不意に、腕から力が抜けた。殴る気力も無くなって。呆然と、見つめた。
「……似てないのに……混乱する……」
 高木沢は呟いた。
「……会ったら絶対酷い目に遭わせてやるって、決めてたのに」
 …………こいつ。
「……中身なんて全然、似てないのに……っ!!」
 高木沢の両目から、涙がこぼれ落ちた。両手で顔を覆って、しゃがみ込んで。
「……バカじゃねぇの?」
 俺は言った。高木沢は、涙目で俺を見上げた。
「バッカじゃねぇの?」
 俺は吐き捨てるように言った。
「相手傷付けるつもりで、自分傷付いてるんじゃ、世話ねぇな。バカ以外の何者でも無いんじゃねぇの?」
 ……本当、ただのバカだ。こいつ。目的が……何にせよ。
「……別に俺はっ……!!」
 高木沢は、顔を真っ赤にして、否定しようと……してる。けど。
「……人の事変態って言って、お前も同類なんじゃねぇの?」
「っ!!」
 俺は笑った。
「バカだよ」
 死者は、何も返さない。死者には何も、伝わらない。……そして死者は、生者を助けてはくれない。
「…………っ」
 高木沢は、濡れた瞳で俺を睨み付けた。
「……そんなんじゃない」
 涙声で。
「そんなんじゃない!!」
 そう叫んで。……俺は目を、見開いた。
「……っ!?」
 いきなり抱きすくめられて。キスを……。
「……っの!!」
 考える間も無く、ぶん殴ってた。
「……がっ!!」
 見事なくらい吹っ飛ばされて、向こう側の壁に激突した。うずくまって咳き込む。口を手で拭った。……冗談じゃない。何で、こんな……。
「……何考えてるんだ?!」
 思わず怒鳴りつけた。
 高木沢は、ゆっくりと顔を上げた。口の端に血が滲んでる。それを拭って、真っ直ぐに俺を見る。
「……あんたが……」
「俺が何だって言うんだよ!?」
 高木沢は、目を、逸らした。
「何だって言うんだよ!?」
 高木沢は、両手で顔を覆った。
「……あんたを、見てるとおかしくなる」
「……なっ……?」
 何を、言ってるんだ? ……こいつ。
「……俺のせいじゃない。俺のせいなんかじゃないんだ……」
「何言ってるんだ? お前……」
 高木沢は、呻いた。
「……律じゃないのに、律がまだ生きてるみたいで……」
 違う!!
「違うだろ!?」
 思わず怒鳴った。
「俺と律は違うだろ!?」
 両手を額にまで上げて、泣きそうな顔で高木沢は俺を見上げた。
「……もう……判らない……」
 判らないのは、俺の方だ。何でこんな……!!
「もう混じってて……ぐちゃぐちゃで……判ってるのは……」
 聞きたくない!!
「言うな!!」
 絶対に、聞きたくない!!
「……あんたの顔が、好きだって事だ」
「……っ!!」
 カッと来た。拳を握り締めて、殴りかかろうとした。……けど。
「……律じゃなく、あんたの顔を」
 泣きそうな、その目は、知ってる『誰か』を彷彿とさせて。
「……性格なんて、最悪なのに」
 行き場の無い感情。自分ではどうにも始末のつかない想い。
「……バカじゃねぇの?」
 声が、掠れた。
「バカだろ?」
 高木沢は、目を閉じた。
「……バカだよ」
 その声が、一瞬律に似ていた。どきりとする。
「……どうせ、バカだよ……」
 高木沢は呻くように呟いた。
 どうしたら良いかなんて、俺には判らなかった。
「他を当たるんだな」
 突き放すように、言った。
「俺はお前の相手してられる程、暇じゃない」
 吐き捨てるように。
 ……それ以外、どう言えって言うんだ?
「……お前になんか興味ない」
 だから……忘れろよ。気の迷いだと思って。
「…………判ってる」
 高木沢は呟いた。
「俺は……騙されてるんだ。あんたの面に」
「…………」
 そんな事……言われても。
「……バカじゃねぇの?」
 俺に他に何を言えって言うんだ? 俺はバカみたいに、同じ台詞繰り返してる。
「……バカだよ。判ってるけど……」
「二度と、面見せるな。今度、俺やその周辺に関わってきたら、どうなるか判ってるんだろうな?」
「…………」
 高木沢は、真っ直ぐな目で俺を見た。
 どきり、とした。
「……あいつ、良い奴だよな」
「え?」
「俺も、そんな風に思われる人間になりたかった」
 ……何、考えてるんだ?
 高木沢は立ち上がった。
「……あんたさ」
「何だよ?」
「あんた、最低で冷たくて酷い奴だけど、懐に入れた人間には優しいのな」
「…………」
 俺は……全然優しくなんかない。
「俺は別に……」
「……一生俺の事嫌いで良いよ。それで良い。だけど……」
 何なんだ?
「ただの『記憶』になるのは厭だ」
「……どういう意味だ?」
 聞き返すと、曖昧に笑った。
「……二度と顔は見せない。たぶん、俺は」
「……おい?」
 高木沢は背を向けた。そのまま、何も言わずに。俺はそれを呆然と見送った。

「……記憶っていう奴は、確かなようでいて、不確かなものだよな」
「え?」
 中原が怪訝な顔で俺を見た。俺は溜息をついた。
「幾らでも、操作されちまうって事だよ。自分の、あるいは誰かの、都合の良いように」
「…………」
 中原は、俺をじっと見つめた。
「俺が今、これはこうだ、って思ってる事が、本当に真実かどうか、なんて誰も知らない。過去の記憶っていう奴は確かなようでいて、不確かで曖昧だ。人間の脳は機械ほど正確じゃない」
「……そりゃ、そうですよ」
 中原は笑った。
「人間は『機械』なんかじゃありませんから」
「……そうだな」
 俺は笑った。
 俺達は、機械なんかじゃないから。だから間違ったり、見失ったり、失敗したりする。
「……中原」
「なんです?」
「俺がもし、お前に『消えろ』って言ったらどうする?」
「……俺が素直に消えると思います?」
 俺は曖昧に笑った。
「代わりに俺が逃げたら、どうするんだ?」
 中原は両腕を背後から絡めてくる。
「逃がしませんよ。以前ならともかく──今となっては、あなたが厭がっても抗っても、追い掛けますよ。あなたがその唇で、俺を欲しいと言うまで、あなたを追い詰めます。だって……俺はもう、あなたの代わりなんて要らない。あなたしか、要らないから……」
 俺は黙って頷いた。
「……どうしたんです?」
 答える代わりに、腕に口付ける。
「……それで、調査の結果はどうだった?」
 俺は笑う。中原は苦笑した。


〜エピローグ〜

「……で、……なので……おそらくは…………」
 男は、その報告を聞いて、ゆっくり頷いた。
金山奏[かなやまそう]か」
 笑みを含んだ唇で。
「……調べてくれ」
「了解しました」
 男は、目の前の男が立ち去るのを見送った。
「日本が誇る天才ピアニストと、久本貴明、ね」
(知名度は前者が勝るが……)
「『息子』の方は崩すのはいつでも出来る」
 男はうそぶいた。
「問題は……」
 男は笑った。
「……全ては、あの方の為に……」

The End.
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