NOVEL

週末は命懸け7「追憶」 -6-

「それでさ、そこで店員が『彼女、凄い美人ですねぇ』とか言ってさ。いや、中西が美人なのは誰がどう見たってそうなんだけどさ、面と向かって俺に言われるとさ、『ひょっとして似合ってないとか思われてる』?とか色々余計な事考えちゃって。どう思う? 郁也。俺と中西って、どうかな? ……時折ひどく自信無くすんだよなぁ……」
 呆れた。
「そりゃただのノロケにしか聞こえないぞ、昭彦」
 俺が顔をしかめてそう言うと、昭彦は大きな目をますます大きく見開いた。
「ぇえ!? ノロケ!? 嘘!! 俺、真剣に悩んでるのに!!」
 ……本気でバカか? お前。
「嘘つけ。ノロケかでなけりゃ自慢にしか聞こえねぇよ。あーあー人に羨ましがられる美人でナイスバディの『彼女』でようござんしたねぇってな感じだよ、バァカ」
 ……ったくよ。似合ってる似合ってないで、付き合う訳じゃねぇだろうが。結局のとこ、付き合うかどうかって奴は本人の気持ちが最優先で、ギャラリーなんか知ったこっちゃないだろう。大体、人に見せ歩くために付き合うってもんじゃねぇだろ? 中西の『他』に対する態度見てたら、お前なんか破格の対応だっての。昭彦といる時の中西は、普通の女に見えるぞ。……一人でいる時の、特に俺に対する目つきと来たら最悪だけど。
 大体、その贅沢すぎる悩みってのは何だ? ふざけんな。大体、俺なんか──俺なんかどうしろって言うんだ。あいつと二人手を繋いでショッピングなんか行ったら、浮きまくりだぞ。つーか『モーホー』呼ばわりされて、『あら、あの人達』呼ばわりされんだぞ。そんな事したいとも思わねぇけど。大体、あいつと出掛けたりしたら、何処で何をされるか判ったもんじゃない。あいつ、人の目なんか気にしないし──キスだって、エッチだって平気でやりかねない。そんなもん人に見られたら──俺の人生終わっちまう。
 不意に、視線を感じた。振り向くと、知らない奴がこちらを見ているのに気付いた。身に覚えの無い奴。なのに、何処かで見た事あるような……。
「あれ? 高木沢?」
 昭彦の声に、俺はぎくりとした。『高木沢』って……!!
「おい、昭彦……っ!!」
「やっぱ高木沢じゃん。……何か用?」
 『高木沢』って!! その名字!! もしかして……!!
「や、藤岡」
 その『高木沢』とか呼ばれた奴は馴れ馴れしく笑い掛けてきた。
「どうしたの? 何? 教科書でも借りに来た? それとも部活関係?」
 昭彦もにこにこと応対したりして。
「おい、昭彦……?」
「……あ、紹介するな。こちら、久本郁也。俺の親友。郁也、彼、高木沢晃一[たかぎざわこういち]。つい先日、こっちに引っ越してEクラス編入してきたんだ。実力テストの後だったから郁也まだ知らないだろうけど、凄い頭良いって評判なんだぜ? 男子バレーボールに入部して、それで知り合ったんだ。すっげ上手いんだぜ。入ったばかりなのに、もうレギュラー取れそうなんだ」
「そんなに褒めても何も出ないよ、藤岡」
 くすり、とそいつは笑った。厭な感じだ。ムカつく。
「……おい、郁也。何ガン付けてんだよ。失礼だろ?」
「…………」
 上手く言えないけど、俺、こいつ嫌いだ。大体、名前が気に入らない。高木沢晃一、だって? 大体、昭彦、こいつ──鈍すぎないか? だってあの『オヤジ』がいた時、こいつも傍にいたのに──まさか、偶然だなんて思ってやいないだろうな?
「初めまして、久本。俺、前から君と話してみたかったんだ」
 ぷつん、と理性の糸が切れた。
「初対面でタメ口利いてんじゃねーよ!!」
 思わず相手の襟首掴み上げた。
「郁也!!」
 昭彦が慌てたように俺の腕を押さえようとする。俺はそれを振り払い、両手で襟を掴み直す。
「てめぇ!! 何様のつもりなんだよ!!」
「郁也っ!! お前って奴は!! 何でそんなっ……!!」
 昭彦が必死にしがみついて、俺を引き剥がそうとする。俺は怒鳴った。
「……っざけんのも良い加減にしろよ!! 俺に一体何の用があるってんだよ!! このクソ野郎!!」
「郁也ってば!! どうしてそうお前って……!! ……やめろよっ!!」
 泣きそうな声で昭彦が言うけど、知らない。
「……親子揃って俺に喧嘩売る気か?」
 ぎろりと睨み付けると、奴はひょいと肩をすくめた。
「ああ、成程ね」
 能天気な声。
「……高木沢?」
 昭彦が怪訝な声を上げる。高木沢はにやりと笑った。
「それで警戒、か。用心深いね。噂には聞いてたけど」
「……てめぇ……っ!!」
「……高木沢……?」
 高木沢は、昭彦に向かってにっこりと笑った。
「ごめん。黙ってたけど──俺、久本君の又従兄弟になるんだ」
「又従兄弟ぉ!?」
 昭彦が素っ頓狂な声を上げた。そして高木沢はそっと声を顰めて、俺にしか聞こえないように呟いた。
「……そして『金山律』の従兄弟」
 思わず、血の気が引いたのを感じた。
「……っ……!!」
 ごくり、と息を呑んだ。高木沢はにっこりと笑った。
「……話をしたいんだけど、良いかな?」
 俺は懸命に顔を作って、顔をそむけた。
「……用事はそれだけか?」
 高木沢はにっこり笑った。
「『取り敢えず』はそれだけだよ」
 そう言って、指を伸ばしてくる。
「なっ……!!」
 肩先に。
「やめろっ!!」
 振り払った。高木沢は大仰に目を見開いてみせた。
「痛いな。……髪の毛を取ろうとしただけなのに」
 じろりと睨み付けた。
「……郁也。すぐ喧嘩腰になるくせ、良くないよ」
「お前は黙ってろ」
 昭彦に言って、正面から高木沢を睨み付ける。
「……郁也……!!」
 俺は無視する。
「……俺は話なんか無い。だから無駄だ」
 高木沢はにっこりと微笑んだ。その笑い方に、どきりとした。……その仕草に、律の面影を見つけて。ぎくりとした。
 顔なんか、全然似てないのに!!
「……ほんのちょっとで良いんだ。お願い」
 声が、少しだけ。……ほんの少しだけ、律に似ていて。
「……貴様……っ」
 困ったような笑顔で、俺を見上げて。その顔が、まるで似ていないのに、律みたいな表情で。醜悪なレプリカでも、見せられてるみたいに。
「ねぇ、お願いだから」
 笑ってそう言う顔を見て──確信した。わざと、だ。
「お願い」
 妙に甘えた声で。似てないのに、無理に似せようとしてる、醜悪な『偽物』。気分がひどく悪くなる。……こいつは、知っているのか? 俺と、律の事を。新聞やテレビで報道された以上の事を? ……吐き気がする。気持ち悪い。
 昭彦は気付かない。昭彦は知らないからだ。昭彦は、律を、知らない。金山律という名は知っている。隣のクラスで、合同授業が一緒で、そして──俺を殺そうとした、事。だけど──胸が痛い──『金山律』がどういう少年だったかを知っている人間は、ごく僅かだ。律は、誰の記憶にも残らないよう振る舞った。同じ学校にいるどいつもこいつも、『金山律』がどういう人間だったか、誰一人として覚えてなかった。知らなかった。判ってなかった。知っているのは、外側から見た、『金山律』では有り得ない、『幽霊』のような『幻影』。
 『根暗だった』『何考えてるんだか判らない感じ』『オタク』『本ばかり読んでた』『気持ち悪い』『不気味』『恐かった』。
 全部嘘だ。──俺は知ってる。そんな証言した連中の誰も、律がどんな奴か知らなかった。知ろうともしなかった。そういう人間がこの世にいた事にも気付いてなかった。俺を殺そうとしたのが『金山律』だったと聞いて初めて、そういうクラスメートがいたという事実に気付いた。だから、そのイメージは後から作り出されたものだ。確かに『金山律』の幾らかの断片は記憶の隅に残っていただろう。だけど、誰も律を見ようとした事なんて、ただの一度も無かった。生きている間の『金山律』を見ようとした連中なんて、この学校には何処にもいなかった。俺ですら──律を好きだと思っていた俺ですら、『金山律』の『真実』を見ようとはしていなかった。俺は何も知らなかった。何も判っていなかった。
 こいつは──目の前にいる、この高木沢とかいう野郎は、確かに律を知っている。この世に、似てない物真似ほど醜悪なものは無い。気持ち悪い。吐き気がする。
「貴様……殺すぞ」
 ぎり、と睨み付けた。
「……恐いな」
 高木沢はひょいと肩をすくめた。
「俺は、話がしたいだけなんだよ。……ちょっとくらい、良いだろう?」
「……ふざけた真似をするな」
 高木沢は笑った。
「……でも、話を聞く気にはなっただろう?」
 何か、言いたげな顔で。……舌打ちをした。
「……昭彦」
 自分の持っていた教科書その他を突き出す。
「悪いけど持って行ってくれるか?」
「……郁也?」
 昭彦は不安そうな顔で俺を見た。
「すぐ行くから」
「……なあ、郁也。お前がもし本気で厭なら……」
「良いから。……先行ってろよ」
「……本当に『良い』んだな? 郁也」
「大丈夫。お前が心配するような事は何も無いから」
「……判ったよ。じゃあ、先行ってるから」
「悪い」
 昭彦の背中を見送って、それから高木沢を見た。
「……『噂通り』だね?」
 じろりと睨み付けた。
「お前、何が目的だ?」
 くすりと、高木沢は笑った。
「……『金山律』の話をしようか?」
 一瞬、ぞくりと背中が冷たくなった。ポーカーフェイスは保ったままで。
「……俺は律に、ここ数年、会っていなかったからさ。君を殺そうとした律の話で良い。聞かせて貰えないかな?」
「……『被害者』の俺に、わざわざその話を振るか? 普通」
 それは『嘘』だと俺は知っている。高木沢はにやりと笑った。
「……君がたぶん、この学校で一番、律の事を知っているだろう?」
 冷たい刃を喉元に当てられてるみたいに。ひやりとして。
「……他の奴らよりもまともな話が聞けるんじゃないかと、俺は期待してるんだけど?」
 冷たい汗が、背筋を滴り落ちた。
 その時、俺は自覚した。目の前にいるのは──『断罪者』だ。
 高木沢の目が、きらりと光った。獲物を狙う肉食獣の瞳で。俺は懸命にポーカーフェイスを保ちながら、言った。
「……それで? 何の話を聞きたいんだ?」
「……場所を変えないか?」
「ここじゃいけない訳でもあるのか?」
 冷静に言った。高木沢は唇だけで笑った。
「……律が、『同性愛者』だって知ってた?」
 俺は、眉間に皺が寄るのを自覚した。高木沢は唇だけでにやにや笑っている。
「……何が言いたいんだ?」
 怒りが、声に出てしまう。拳が、震えそうになる。
「律は、男を誑かす淫売だった。あいつのせいで、破滅した男を、俺は何人も知ってる。……君は、あいつが男に抱かれた時、どんな声を上げるか…………っ!?」
 思わず、カッとして、殴りつけていた。高木沢は呆気ないくらい簡単に吹っ飛んで、廊下の窓際の壁にぶつかった。
「……った……」
「世の中には、言って良い事と悪い事があるんだ!!」
 思わず怒鳴っていた。
「知っているからって、べらべら喋れば良いってもんじゃねぇんだよ!! それが例え『真実』だろうと、まったくの『虚実』だろうと、何だって構わない!! そんなのはどうだって良いんだ!! そんな事に何の意味がある!! 『死者』を冒涜するな!! 反論も出来ない相手を誹謗中傷するのは、ただのバカだ!! 最低で卑劣なクソ野郎だよ!! 反撃も出来ないような相手を貶めようとするバカは、この世のゴミだ!! クズなんだよ!! 腐ってるんだ!! てめぇみたいなクソ野郎は便器の中に顔突っ込んで、汚物やゲロをたらふく呑み込んで、窒息して死んじまえ!! お前が自分でそうする気がねぇって言うなら、俺がお前のクソとゲロを掻き出して詰め込んで、その辺のどぶ川にでも捨てて流してやるよ!! 涙流して感謝しやがれ!! このクソ野郎!! 腐れ外道!!」
 怒鳴りながら、腹を思い切り蹴り付けた。何度も、何度も、繰り返し。厭な音が聞こえたから、俺は素早く距離を取った。半瞬の差だった。高木沢の呻きと共に吐瀉物が溢れ出て、廊下中に撒き散らされた。涙と鼻水を流しながら嘔吐する様を見て、初めて俺はやりすぎたと思った。けど、今更後悔はしない。黙って見つめた。
 高木沢の嘔吐が止むのを、じっと待った。びくん、びくんと肩を、背中を震わせて、両手で口を押さえながら、それでも吐き続ける様を、俺は黙って見ていた。高木沢が痙攣し腹を折った状態のまま、ひどく蒼い顔で俺を見上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔で。蒼い唇で。泣いてるのか、睨んでるのか判らない顔で。
「……て……め……ぇ……っ……!!」
「……さっきまでのおぼっちゃん面が台無しだな、色男」
 途端に、奴の顔が殺気立った。シャツの袖で、口元を拭い、涙や鼻水を拭き取って。蒼白ながら殺気立った顔で、瞳で、俺を睨み付けた。
「……俺は謝らない。俺が絶対に正しいなんて言わない。けど、俺の前で今後『死んだ』人間の悪口を言ったら、もう一度同じ事をする。お前が吐こうが死のうが知った事じゃない。お前は俺に恥をかかされたとでも思ってるんだろうが、お前が先に自分自身に恥をかかせたんだ。お前が自分で自分の恥をさらけ出したんだ。お前のど腐れた根性を、どうしようもなく醜く浅ましい醜態を、恥ずかしいと思う道徳心も羞恥心も無く。俺はそれをお前に教えてやったんだ。感謝されても恨まれる覚えは無いな。恥ずかしい事を恥ずかしいって親切にも教えてやったんだから感謝しろよ?」
「てめぇ……っ!! 一体自分を何様だと……っ!!」
「るせぇよ。自分が今、言った事、言おうとした事、冷静になって良く考えてみろよ? 恥ずかしいと思わないのか? だったらお前、本気で腐ってるな。恥ずかしくてお前なんか『人間』の扱いするのバカらしくなるぜ。って言うか、生きてる生ゴミが人間の言葉喋ってるんじゃねぇよ。背筋が寒くなる。吐き気と眩暈でぞっとする。お前なんかゴミ溜の中に一生いろよ。その方が似合いだ」
「……っんだと!?」
「おい、ゴミ。自分で出したゴミの後始末くらい、自分でしとけよ。人間様のためにもな」
「てめぇっ!! 一体何様のつもりなんだよっ!!」
 高木沢はそう叫んで、立ち上がった途端、痛みに顔を歪めて吐瀉物の中に崩れ込んだ。ばしゃり、と吐瀉物が跳ねて、制服のズボンに掛かった。俺は眉を顰めた。ハンカチでそれを拭う。その後で、ぽいとそれを放り投げた。
「っ……!? なっ……!?」
「やるよ」
  高木沢の足下に落ちたハンカチを指差した。
「『ゴミ』になったからな。お前に『やる』よ」
「……なっ……!!」
 ズボンのポケットを探り、ポケットティッシュも取り出す。天井にぶつかりそうなくらいに高く、放り投げる。
「ついでだ。……受け取らないと、汚れるぜ?」
 言うと、慌てたように高木沢は手を伸ばして受け止めた。
「……お前……」
 しかめた顔で、睨んでるのか困ってるのか判らない中途半端な表情で、高木沢は俺を見る。
「……俺をおちょくってるのか、それとも……」
 俺は高木沢を睨み付けた。
「……二度と、俺に声掛けるなよ」
「なっ……!?」
 驚いたような顔で、高木沢は俺を見た。
「お前、吐き気がするんだよ」
 言い捨てると、高木沢は俺を睨んだ。
「……てめぇっ……!!」
 俺は無視して、背中を向けた。
「逃げるなよ!!」
 高木沢の怒鳴り声。俺は無視する。……ああいうバカに構ってる暇なんか無い。時間の無駄だ。聞きたくも無い。相手なんかしてたら、耳が、脳髄が腐る。冗談じゃない。
「律の、『オトコ』の話!! 全校中にバラまいても良いのかよ!?」
 びくり、と思わず足を止めてしまった。何故!?と思ってしまった。思わず振り返ってしまって。
「……お前が、律の『オトコ』だったんだろう?」
 その瞬間、後悔をした。俺の内部を、苦渋が満たしていく。
 『こいつは、何も知らなかった』。
 全く何も、知らなくて。何も本当の事など判って無かったのに。俺は『知っている』と反応してしまった。……俺はバカだ。
「……お前、本当にバカだな」
 俺は言った。心底そう思いながら、俺は言った。……だけど、俺はもっとバカだ。すげぇバカ。情けなくなるくらいバカ。
「すげぇバカだよ」
「……何だと!?」
 高木沢は俺を、睨み付ける。
「ホモのくせに、俺に喧嘩売ってんじゃねーよ!!」
 吐き捨てるように、高木沢は言った。
「……何も知らないくせに」
 ……俺だって、何も知らない。判ってない。
「……お前、本当、すげぇバカだよ」
 近付いて、拳を、高木沢の目の前に突き付けた。
「なっ……てめぇ、まだ俺を……っ!!」
 高木沢の声が裏返った。ぐいと、額に押し付ける。
「なっ……何なんだよっ……!! てめぇっ……おっ……俺にバラされてもっ……!!」
「……お前を殺すのなんか『簡単』だよ」
 耳元で、囁いた。高木沢は硬直した。
「……お前が俺に殺されたいって言うなら、殺してやっても良いけど? 俺は出来る事なら、お前ごときの小者の為に、手をわざわざ汚すのは厭だし? それだったら……お前が自殺した方がマシだって目に遭わせて、お前が自分で死を選ぶように仕向けた方が楽かな、とか思うんだけど……お前自身はどう思う? お前がそれで良いって言うなら、そうしてやるけど?」
 勘違いしてるなら、勘違いしてるで、そのままでも良い。わざわざ誤解を解いて本当の事なんて教えてやる必要なんて無い。
 ノンケの男が一番厭がるのは、男にカマを掘られる事だ。本気で俺が律の『オトコ』だと勘違いしてるなら、たぶんきっと効果的。
「なっ……な……っ!?」
 喘いで、口をぱくぱくさせて。魚みたいに。
「『道具』使っても良いし、マワすってのもアリだよな? 勿論縛ってやるよ。丁寧にな。……それともロープより手錠の方が良い? それだと今日はちょっと無理っぽいかも知れないけど……」
「うっ……わぁああぁあっ!!」
 完璧裏返った悲鳴を上げて、吐瀉物の始末もそのままに、高木沢は逃げ去った。一目散に。
「……根性ねぇな」
 つーか、そこまで本気で脅えるか?
 思わず顔をしかめた。……それより一番問題なのは……この後始末、だ。……冗談じゃない。俺は背中を向けた。取り敢えずもう一個あったティッシュで自分の靴の裏を拭ってゴミをゴミ箱に捨てて。手洗い場の水で両手を洗って。
 でも、俺がこの始末をするのはヤだな。絶対厭だ。昭彦にバレたら何を言われるか判らないけど──俺は階段へ向かった。
 他人のゲロになんか、触りたくない。しかも、あんな奴の。……たぶん、そのうちちゃんと始末を付ける必要がある。胸ポケットから携帯を取り出した。中原の携帯に掛ける。
 コール音。一、二。
〔はい!! もしもし!? 郁也様!?〕
 ……何、焦った声、出してるんだろうな。こいつ。
「あ、悪い。ちょっと調べて欲しい事あるんだけど」
〔……え?〕
 ……こいつ、大丈夫かな? ……本気で。
「『高木沢晃一』。自称俺の又従兄弟、で──『律』の従兄弟」
 そう言った瞬間、息を呑む音が聞こえた。
〔……それって……〕
「それともう一人。『高木沢静一』。たぶん親子。……頼めるか?」
〔……判りました〕
 押し殺した、声で。
〔それで……あなたは……今?〕
 苦笑した。
「……帰ったら話す」
〔判りました。……気を付けて〕
「俺は大丈夫。……心配要らない」
〔……本当に?〕
「って言うか、今、そいつをゲロまみれにしたとこ」
〔……郁也様……〕
 呆れたような声。
「そういう訳で、なるべく早いとこ、『処理』したいんだ。頼む」
〔……了解しました〕
 溜息、つくように。……けど、こいつにそういう態度されるのって……心外な気が。
「……じゃあな」
〔ええ、後で。……連絡は、メールと電話、どっちが宜しいですか?〕
「メール。電話はこっちからする」
〔判りました。じゃあ、後ほど〕
「ああ、待ってる」
〔……愛してます〕
 思わずカッと顔が熱くなった。
「……バカ」
〔それでは失礼します〕
 そう笑ってる声で言って、中原は電話を切った。
 俺は顔を引き締めた。
 『高木沢晃一』に関しては、たぶんもう一押し釘を刺して置けば、暫くはたぶん保つだろう。その間に対策を考えて『処理』すればたぶん問題無い。……問題があるとするなら……『何』が『狙い』で『本命』なのかって事で……それが判らないうちは下手な真似は出来ない。取り敢えず次の休み時間にはE組に行って『追い打ち』をかけておいた方が良い。今すぐだと──授業サボる羽目になるからな。時間はあまり置かない方が良い。相手に冷静な判断力を与えちゃ駄目だ。攻撃は早ければ早い方が良い。相手の恐怖心が冷める前に。
 俺の、致命的ミス。用心深い律が、頭の良い律が、あんな奴に悟られる真似をする筈が無かったんだ。俺だって、律がまさか──中原と付き合ってるだなんて……知らなかった。
 ……そう。今更ながら、思うけど──律が好きだったのは、俺じゃなかった。律が好きだったのは、唯一人、好きだったのは、中原で。中原龍也。律は中原が好きで──なのに、中原は……。
 俺は……俺は今、中原が好きだ。今だったら、今目の前に律がいたら、俺は──どうした? 律に、真っ直ぐな瞳で、迷いの無い声で、言葉で、中原の事言われたら──俺はどうする?
 律が好きだ。今でも好きだ。……だけど、だけど、律が中原を好きだからって俺は、中原を手放せるか? 俺は……律が中原を好きだと知っている。中原を手に入れるためなら、俺なんか殺しても良いと思うくらい中原を好きだったという事を知っている。俺は、こんなになってもまだ、律が好きだ。凄く好きだ。だけど、中原も好きで。嫌いだったのに、大嫌いだったのに、失えなくて。律を好きな気持ちと、中原を好きな気持ちは違う。違うって俺は判ってる。俺は確かに律が好きだった。だけど、律に性的な感情を抱いた事は、ただの一度も無くて。中原に友情なんか感じた事はただの一度も無くて。
 『選べ』って言われたら──たぶん、俺はどちらも手放せない。失いたくなんか無くて──どちらか一方を選ばなければ駄目だなんて強制されたら、きっと俺はおかしくなる。……律は今、ここにいない。だから俺は選択せずに済んでる。迷う必要も無い。でも──?
 自嘲の、笑みを浮かべた。
「……ひょっとして俺……最低?」
 今更、気付いて。今更やっと気付いたりして。……こんなんじゃ、律に嫌われたって仕方ない。嫌われるのは、当然だ。好かれる資格なんて、何処にも無い。中原にだって……。
「…………」
 弱気になってる、俺。情けないくらいに。ぐらついて。揺さぶられて。動揺してる。……今更。今になって。
「……しっかりしろ、久本郁也」
 自分で自分の頭、小突いて。目を閉じて、深呼吸して。……やらなきゃいけない事は山ほどあるんだ。……こんなところでつまずいていられない。
 ゆっくりと呼吸して。足を踏み出した。

To be continued...
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