NOVEL

週末は命懸け7「追憶」 -3-

「じゃあな」
 昭彦が言った。
「ああ、悪かったな」
 俺が言うと、昭彦は笑った。
「じゃあ、また明日」
「おやすみ」
「おやすみ」
 昭彦の自転車こぐ後ろ姿を見送る。不意にふっと、耳元に息が吹き掛かった。
「……気持ち悪いからやめろよ」
 俺は言った。
「……そういう事、言いますか?」
 中原の、低い囁き声が耳朶をくすぐる。ぞくり、とした。中原のごつごつとした指が、俺の首の後ろから顎へと滑っていく。くいと顎を掴むと、中原はそのまま俺の顔を後ろへ向けさせ、そのまま唇を重ねてきた。
 俺は軽く相手の胸を押した。
「……よせよ。人に見られたらどうする気だ?」
「俺は構いませんけど?」
 街灯の下、中原の瞳がぎらりと光った。『雄』の顔。ぞくり、とした。中原はそのまま俺を塀に押し付けた。
「……中原……!!」
 中原は唇を歪めて笑った。目がひどくぎらついている。
「人に見られたなら、見られたで好都合ですよ。あなたが俺の物だって、大勢の人に知られれば、あなただってそんな風に、俺を邪険に出来ないでしょう?」
「何をバカな……っ!!」
「このままここで犯しましょうか? 白々とした街灯の下、それも自宅の門の前でなんて、なかなか素敵なシチュエイションじゃないですか。もしかすると、家の人間にも見られるかも知れませんしね。これ以上、ぞくぞくするロケーションもそうそう無いですね」
「ふざけるのも良い加減にしろっ!! 中原!!」
 中原は目を細めた。
「……あなた、一体何を考えてるんです?」
「……何を……っ」
 中原の指が、俺の頬と顎の間を行き来し、それから唇に触れた。ふっと吐息が額に掛かった。動物的なぎらぎらとした中原の目が、俺を射抜くように見つめた。
「……俺を、試してるんですか?」
 唇を、人差し指でなぞられる。びくりとした。
「……俺を、焦らせて挑発して。……あなた、俺を怒らせたいんですか?」
「……もう怒ってるだろう、お前……っ」
 中原はにやりと笑った。
「……ええ、そうですよ? 確かに怒ってます。怒ってますけどね、郁也様。怒らせてるのが自分だって意識あります? ねぇ。……判っててそうおっしゃってるんでしたら、こちらにも考えがあるんですけど」
 右手で俺の唇をなぞりながら、左手が俺の腰に回った。ボタンを外し、ジッパーを下ろそうとするのを、俺は右手で押さえた。
「……お前が……っ!!」
 中原の左手を引き剥がす。
「……俺が何です?」
 中原が俺の手を振り払って、右手を顔の脇に付いた。そのまま更に顔を俺に近付けた。中原の体臭が、俺の鼻腔をくすぐった。
「お前がっ……いけないんじゃないかっ!!」
 俺は泣きそうな気分で、そう叫んだ。
「……俺が?」 
 大仰に目を見開いて、そう言った。
「俺の何がいけないとおっしゃるんですか? 郁也様」
 わざとらしいくらい大仰なイントネーションで。
「お前、本当は俺の事なんか好きじゃないだろう!!」
 泣きたいくらい、厭な気分で。俺は叫んだ。
「……何をおっしゃるんです?」
 中原は眉を顰めた。
「お前っ……本当はお前っ……お前が好きなのっ……『久本貴明』だろう!! 違うとは言わさないぞ!! お前は……よりにもよってあいつが好きな癖に俺の事が好きだなんて嘘ついたんじゃないか!! それなのにっ……『被害者面』すんなよっ!! お前の方が酷いんだよ!!」
 中原は、呆然としたように俺を見た。
「……何……ですって……?」
 心底驚いた、って顔で。
 ……言ってしまった。
 ぎり、と下唇を噛んだ。
「……『久本貴明』が手に入らないからって、俺を『身代わり』にするな!! 俺はそんなに人間出来てやいねぇし、寛容にもなれないんだよ!! お前、失礼なんだよ!! 俺の事、人間だと思ってないだろう!! 俺は『ダッチワイフ』なんかじゃないし、お前の都合の良い『玩具』でもないんだ!! お前の都合でお前の好き勝手にされたら、許せる訳なんかないだろうが!!」
「……ちょっと……待って下さいよ……それって……じゃあ……郁也様……!!」
「言い訳なんかするなよ!! そんなもの聞きたくない!! 謝られたくも無い!! そんな事する暇あったら、とっとと消えろ!! 俺の目の前に現れるな!! お前の顔なんか見たくない!! これまでちゃんと付き合ってやったんだから、もう十分だろ!? これ以上何が必要だって言うんだよ!! 俺はもう我慢なんかしないぞ!! お前なんか……お前なんかっ……大っ嫌いだ!! 『お情け』で付き合ってやったんだから、『感謝』しろよ!! お前なんか反吐が出る!! お前はっ……ただ、ヤりたいから適当な事言って俺を騙して……っ!!」
 中原の両手が、俺の両手首を掴んで、塀に押し付けた。
「……ちょっと待って下さいよ!!」
「痛い!! 何すんだよ!!」
 ぎり、と押し付けられて、俺は中原を睨み付けた。中原は、混乱したような困惑したような顔で、俺を見つめていた。
「……それ、どういう意味ですか?」
「どうもこうもねぇだろ。その通りの意味だろうが!! バカか!? お前!!」
「バカなんで意味が少し図りかねるんですよ。……それって、もしかして、『嫉妬』してるんですか?」
 真顔で聞かれた。俺はカッと頬に血の気が昇るのを感じた。それを見た中原の頬が紅潮する。
「うるさいな!! とにかく、消えろよ!! もう、我慢できないんだよ!! 我慢しようと思ったけど……もうっ……これ以上……っ!!」
 不意に、中原の唇に塞がれた。熱い舌が、滑り込んでくる。……やば……い……っ……俺っ……もう……なんか……流されそう……。
 中原の指が顎の下をくすぐった。首の後ろに手を回され上向かせられて、右手の指が胸を、腹を滑り落ちた。
「……ん……っ」
 気持ちとは裏腹に、身体は勝手に気持ち良くなっていく。中原の舌を受け入れながら、俺は気付くと夢中で中原の唇を貪っていた。中原の舌が、俺の舌をなぞり、絡め取って強く吸い上げる。唾液が口の端から零れ、シャツの襟元に滴り落ちた。厭だ、と小さく心が叫ぶのに、俺の身体は勝手に欲情していた。右手が勝手に中原の着ているスーツの上着を掴んでいる。中原の右手がジッパーを下ろし、中へと侵入してきた。ちゃんと俺は判ってるのに、抗えなくて呻いた。下着の中に潜り込んできた指が、『俺』を掴み上げた。
「……ぅっ……」
 中原が、顔を上げた。
「……このままだったら、最後までしてしまいますよ? 『良い』んですか?」
「……バ……カ……野郎……っ!!」
 良い訳ないだろうが!! 本当バカっ……!!
「……そんな濡れた目で『挑発』しないで下さいよ?」
 中原は困った顔で笑った。
「……後先考えなく、『欲情』してしまうでしょう?」
「十分、後先なんか考えないくせに!!」
 俺が怒鳴ると、中原は困った顔で笑った。
「……そんな色っぽい目で怒鳴られても、ね。……目に、涙が滲んでますよ」
 言われてどきりとして、目尻を拭った。涙の感触。
「……っくそぉ……っ!!」
 吐き捨てて。
「……お前、何考えてるんだよ!! 本当……っ……最低だな!!」
 俺を、こんなとこで『欲情』させたりして!! お前の方が……お前の方が、俺なんかより、よっぽど質悪いだろう!!
 中原は困ったように笑った。そうして、『俺』からゆっくりと手を離す。
「お前なんかっ……お前なんか大っ嫌いだ!!」
 そう叫んだ途端、目尻から涙がこぼれ落ちた。中原は苦笑した。
「……説得力全然無いですよ」
「うるさいな!! 放っとけ!!」
「……放っておける訳無いでしょう?」
 そう言って、顔を寄せて、俺の涙を舌ですくい取った。
「……あなたみたいにカワイイ人、放っておける訳が無いじゃないですか」
 そう、魅力的な笑顔で言って。
「うるさい!! うるさいんだよ!! お前!!」
 情けない事に、涙がぼろぼろ溢れ出て止まらない。中原が何度も涙を唇で吸い取り、舐めた。その度に身体が、燃えた。徐々に熱を上げていく。
「……もうそれ……やめろよ……!!」
 俺は震えた。ぞくぞくする。膝下から、力が抜けそうになる。中原は笑った。
「……もう、駄目だ。……限界です」
 そう言って俺をぎゅうっと抱きしめ、抱き上げた。
「何をっ……!!」
 見慣れぬ車に乗せられた。日本車。赤いマークIIだ。助手席に放り込まれ、ドアをロックされる。
「中原っ……!!」
「……少し、飛ばしますよ」
 そう低く、囁いて、キーを回してエンジン始動させた。
「何考えてるんだ!!」
「……シートベルト、した方が良いですよ」
 そう言って、車を急発進させた。俺はバランスを崩しそうになりながら、慌ててシートベルトをした。中原は車を乱暴に走らせる。
「……何考えてるんだよ?」
 聞くと、無言で笑い、返事の代わりに手を伸ばしてきた。
「あっ……なっ……!?」
 開きっぱなしのジッパーから指を滑らせて、中身を掴み出した。かぁっと血の気が顔に昇った。
「お前っ……何考えてるんだ!?」
 くすり、と中原は笑った。
「大丈夫。見えませんよ」
 顔がひどく熱くなった。
「そういう問題じゃねぇよ!! こんなっ……!!」
 ぞくり、とした。中原の指が、滑り落ちる。ぐっと、握る力が強くなった。俺は思わず声を上げそうになって、歯を食いしばった。
「……声、出したかったら出して良いですから。どうせ聞こえませんよ」
 そう笑いながら、ゆっくりと扱き上げ始めた。
「……バ……カ……何……考えてるんだっ……お前……っ!!」
 ヤバイ。揺れてる車の中、流れ去るイルミネーション。俺を扱き上げる、中原の太い指。BGMの流行のJ-POP。ボリュームが小さく絞ってあって、歌詞は殆ど聞き取れない。耳慣れた音程が微かに耳に響いてくる。じぃん、と頭の奥が痺れてる。対向車のライトが、ひどく眩しく感じる。暗い車内の中、誰かに見られてるみたいで。光が去り際、車内を照らしながら次々過ぎ去っていく。身体全体を舐められるみたいに、光が。ぞくぞくする。ヤバイと判ってるのに、普通にヤるより意識する。身体の熱が高まっていく。マズイと思うのに、身体が意識とは逆に、震えながら熱を蓄えていく。波が、押し寄せてくる。光の洪水。中原の指と、流れていく光と振動しか、感じられなくなって。俺は喘ぎ、呻いた。必死で歯を食いしばり、声を押し殺しながら、徐々に頂点へと上り詰めていく。
 びくん、と震えた。ぶるりと震えながら、白い液が迸った。
「あっ……!!」
 かあっと頬が羞恥に染まった。ダッシュボードや、服が、シートが、中原の指が、たった今、放出されたばかりの『それ』で濡れている。俺はそれを見て、泣き出したい気持ちになった。
「……あなたの『身体』は正直ですね」
「……中原っ……お前……っ!!」
 中原はウィンカーを出して、左折した。そこは静かな住宅街だった。川縁の。ハザードランプを点けて、停車した。エンジンは掛けっぱなし。
 ゆっくりと屈み込んで、口付けられた。そのままシートを倒される。
「……待てよ……お前……っ……まさかっ……!!」
 俺の制止もろくに聞かずに、サイドブレーキを引いて、そのままこちらへ移ってくる。
「バカ野郎!! 何考えてんだよ!! こんなとこで!!」
「……大丈夫。ここは滅多に車も人も通りませんよ。街灯も無いから、万一誰か通っても見られません」
「冗談やめろよ!!」
「……冗談言ってるつもり、ありませんよ?」
 中原はくすりと笑った。
「本気です」
 カァッと血の気が昇った。
「やめろよ!! お前、本気で質悪い!!」
「車が汚れるって問題でしたら、もう既に手遅れだから心配しなくて結構です。大丈夫。『他』へバレる前に、俺がきちんと始末しておきますよ」
「そういう問題じゃねぇだろ!! お前一体何考えてんだよ!! こんな処で、こんなっ……本当質悪いよ!! 大体お前っ……俺の事っ……!!」
 中原の唇が、俺の唇を塞いだ。
「……んっ……!!」
 ズボンを、下着ごと引きずり下ろされた。中原はもどかしげに、自分のスラックスのジッパーを下ろし、中身を掴み出した。
「何にも無いですけど、仕方ないですよね?」
「……何考えてるんだよ!! こんなとこでっ……出来る訳無いだろ!!」
 泣きたい気持ちで、俺はそう叫んだ。
「そうでもありませんよ」
 中原は、俺の精液を指ですくい上げて、自分の右手の指をびちゃびちゃに濡らしながらそう言って笑った。その指で、双丘の間に指を這わせた。中原は自分の性器を俺の下腹にこすりつけながら、指で入り口を揉みほぐす。そうしながら、少し強引に人差し指を滑り込ませた。
「……あぁっ!!」
 思わず、大きな声を上げてしまった。ひどく、車内に自分の声が響いて、俺は羞恥に赤くなった。思わず睨み上げる。
「……色っぽいですよ、郁也様」
「……貴様……!!」
 中原はにやりと笑った。
「月明かりの中で、あなたはとても綺麗だ」
「……ふざけた事言うな」
 言った途端、滑り込んだ指が、ぐるりと円を描くように中を掻き回した。俺は耐えきれず、悲鳴を上げた。
「……今日は感度が良いですね」
 中原は嬉しそうに舌なめずりをした。
「……ふっ……ざ……けるなっ!! お前がっ……乱暴にするからっ……感じてるんじゃなくてこれは……っ!!」
「……へ……え……?」
 にやりと笑って、中原はゆっくりと指を抜き出した。
「……ぁ……っ……」
 ゆっくりと、『中』から指が抜けていく。その感覚が、ひどく頼りなくて。
「……そんな顔、するくせに?」
 また強引に、指をねじ込ませた。俺は悲鳴を上げた。
「マズイくらいに反応するんですね、今日は。……仕方ないから……俺の肩でも噛んでいて下さい」
そう言いながら、もう一度指を引き抜いて、素早く上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンを外して前を広げた。
「……なかは……ら……?」
  中原は笑った。
「……ほら」
  そう言って、肩先を俺の口に押し付けた。俺は言われるままに、中原の肩に歯を押し当てた。
「……そんなに素直にするくせに、『俺を嫌い』だなんて、良く言えますね?」
 それは……お前が……!!
「挿れますよ? ……我慢なんか出来ない。痛いかも知れませんが、歯を食いしばって下さい」
 そう言って、ゆっくりと、俺の身体を押し開くように、『それ』を俺の身体に押し付け、挿入してきた。まだ、開ききっていない身体が、悲鳴を上げて軋んだ。俺は声にならない悲鳴を上げて、中原の肩に、歯を突き立てた。
 中原は軽く呻きながら、それでも構わずにゆっくりと中へ入ってくる。肉の感触をリアルに内部に感じながら、灼熱感に俺は悶えた。俺の『中』でそっと鼓動する『モノ』。熱い、生き物。徐々に俺を浸食し、埋め尽くしていく。
 歯を食いしばりながら、それでも堪えきれない悲鳴が唇からこぼれ落ち、暗い車内に響いた。月明かりが、中原の肩越しに見える。青い月に見つめられながら、俺は中原に突き立てられる。荒い息が、交錯し、車内に響き、篭もる。自身の全てを俺の中に埋め尽くした中原は、ゆっくりと腰を引いていく。俺は思わず腰を浮かせた。中原の腕が、それを掴み引き戻す。左手で俺の首の後ろを支え、右手で俺の腰を抱きながら。中原はゆっくりと腰を引き、俺の中から全てが零れ落ちる寸前で、一気に奥まで貫いた。熱い灼熱が、俺の内部を走り、身体全体を駆け回った。俺は呻きながら、中原の背に腕を回し、爪を立てた。必死にしがみつくように。
「……あなたが好きです」
 掠れた声で。
「あなたが好きです。……誰に何と言われようと。あなたが俺を信じなくても。何度だって言います。俺は、あなたが好きです」
 切ない声で。甘く、囁かれて。……嘘でも良いから、すがりたくなるような。俺の身体を貫きながら。切実な声で。真っ直ぐに俺を見つめて。
「あなたが好きです」
 俺のこだわりなんか、ちっぽけなプライドなんか、どうだって良くなるような、そういう瞳で。そういう声で。……嘘でも良い。
「あなたが好きだ……っ!! ……あなただけが、あなただけが……俺の、心の光で……っ!!」
 感じるところを、強く擦り上げられて。ぐっと歯を立て、ぎゅっとしがみついて、声を殺し息を潜めて。熱い息が、耳元を掠める。切ない吐息。この空間は、熱に閉ざされて。窓ガラスが雲っていく。俺達の吐息で、全身から放つ熱気で。恥ずかしい、とか誰かに見られるかも、とかそういうの全部吹き飛んで。
 ──お前だけが、欲しい。
 強く、そう思って。
 ──嘘でも良い。嘘でも良いから、俺を、信じさせてくれ。お前が俺の物だって、幻想で良いから。ただ一時の夢で良いから。嘘で良いから、お前が俺の物だと信じさせてくれ。俺は……俺はいつの間にか……お前に……お前が……ひどく……大切で……っ……失えなくて……嘘で良いからっ……騙されてても構わないから……っ……お前が俺の傍にいて……俺を『愛して』くれると……幻で構わないから……っ!!
「あなた以外を、こんな風に抱きたいなんて、思わない……っ!!」
 お前が『久本貴明』を好きでも、構わないから。俺を、目の前にいる時だけで良い。不安にさせないで。俺だけを愛してるって言ってくれ。お前が俺の物だって言ってくれ。嘘でも良い。騙されてても文句は言わない。俺を完全に騙しきってくれ。俺を信じさせてくれ。甘い幻想に溺れさせて、何もかも忘れさせてくれ。くだらないプライドなんか、粉々に打ち砕いて。俺の心を貫いて。何もかもを超越して。俺が……俺が、俺なんてどうだって良いと思えるまで、俺を全部奪い取って、俺をお前で埋め尽くして、他の余計な事全部、何もかも忘れられるくらい巧妙に、俺を完全に籠絡してくれ。
「あなただけだっ……!!」
 涙が、こぼれ落ちた。ぐっと歯を食い締め、血の味が、口の中に薄く広がった。中原が腰を引き、俺の身体の奥を貫く。中原の額から、汗の滴がしたたり落ちた。
「あなただけなんですよっ……!!」
 ──騙されてても、良い。素直にそう、思った。騙されてても、嘘つかれていても良い。俺は──お前が好きだ。好きなんだ。……いつから、なんて判らない。何故、なんて知らない。お前が欲しいと思う。いや、お前が欲しい。欲しくて欲しくて、たまらなくて。お前を俺だけの物にしたくて。お前を俺で支配したくて。俺の事だけ考えてくれよ、中原。俺の目の前にいる時だけで良い。他の誰の事も考えたりするなよ、中原。俺を不安にさせないでくれ。あいつの話なんか聞きたくない。お前の口からなんて、聞きたくもない。お前なんか、大っ嫌いだ。俺なんか放っておいてくれれば良いのに。俺になんか構わなければ良かったのに。俺はお前に支配されて、お前の身体にこんなに反応して。昼間だって人目のある場所でだって、欲情してしまう。俺はこんな風になりたくなんか、なかったのに。俺はこんな事、望んでなかったのに。お前が全部、変えたんだ。お前が俺の全てを変えたんだ。お前一人に、俺はこんなに身体を、心を変えられてしまって。もう、お前以外でこんな風に感じられない。マスターベーションだって一人で出来ない。俺はもう、何も知らなかった頃には戻れない。戻れないんだ。俺はもう、お前を失えない。失ってしまったら、きっと気が狂う。正気なんて失ってしまう。お前に求められる事が、こんなに気持ち良い。お前に貫かれる事が、こんなに気持ち良い。痛くても、苦しくても、お前がいないと──俺はもう、満足に呼吸一つ出来やしない。
「あなたが好きだっ……!!」
 幸せな、幻想。ひとときの夢。幻で良い。……幸せなんて、ただの幻で良い。あんまり幸せだと、俺は本気で駄目になりそうだから。全部嘘で構わない。この一瞬だけが、全てなのだと、思い込ませてくれ。刹那の幸福が、この世の全てなのだと、信じ込ませてくれ。
 真実なんて、どうだって良い。目の前の俺だけ、騙してくれれば良い。俺は、ずっとお前に騙されたかったんだ。騙し切って欲しかったんだ。俺にこの幻想の、嘘を見破らせないでくれ。俺に真実なんか知らせないでくれ。俺の目の前にいない時のお前の事なんか、知りたくもない。俺の目の前にいる時だけで十分だ。目の前の俺だけ、騙し切ってくれ。それだけで十分だ。
 俺の押し殺した、悲鳴のような喘ぎ声が、高く、車の天井を穿ち、響いた。俺の射精の半瞬後に、中原のモノが大きく波打ち、内壁に精を叩き付けた。じいん、と痺れたような余韻が走る。耳が少しおかしい。ゆっくりと、中原の肩から、顎を外した。薄く、血が滲んでいた。
「……ごめん」
 声が、掠れた。中原は苦笑した。
「……何、謝ってるんですか?」
 穏やかな、表情で。何となく、顔がまともに見られなくて、目を逸らした。
「……だって……」
 ふっ、と中原は笑った。
「良いんですよ」
 そう言って、俺の額に口づけた。
「あなたにだったら、何をされても良い。あなたにされる事なら、何だって俺には幸せだ。あなたが、俺を必要としてくれさえするなら、俺はあなたのために何だってする。何だって出来る。俺は……」
 頬に口づけられる。
「俺は、あなたが本気で好きなんです」
 そう言って、顎をそっと掴まれて、正面に向かせられる。俺は、瞼をそっと伏せた。
「あなたは、俺を必要としてくれますか?」
 耳元で、声が響いた。俺は、ゆっくりと頷いた。中原が嬉しそうに、俺を強く抱きしめ、唇に唇を重ねた。
 中原の、熱い舌。痺れるような、甘い陶酔。熱。俺を、この空間を支配するもの。どろどろに溺れて。今、この瞬間のためなら、命だって投げ出して良いと思えるくらい。俺は溺れて。性に溺れて。かなりヤバイ。……レッド・ゾーン。これ以上溺れたら、俺は駄目になる。俺はまともな事、何も、考えられなくなる。
「……中原……っ!!」
「俺の事……好き、ですか?」
 囁くように、中原が言った。俺は曖昧に笑った。中原はそれを見て、困ったような顔をした。
「……判らない人だな」
 半ば呆れたように、困ったように。
「……良く判らないですよ、郁也様」
 甘い声で。
「……あなたの事は、良く判っているようで、一番良く判らない。判ったつもりでいると、次の瞬間には足下掬われる。あなたが何を考えているのか、さっぱり判らない。……あなた、俺に、俺があなたに判るよう努力しろってそうおっしゃいましたけど、ご自分が俺にその努力なさらないじゃないですか。少しは、俺に理解させようとか、思わないんですか?……ねぇ」
 俺は笑った。俺は、俺自身は、こんな俺をお前の前にさらけ出せない。俺は──情けない事に、怖がってる。『本当』のお前自身の事、ひどく恐れている。俺は、傷付きたくなくて。傷付けられたくなくて。必死に細切れのプライド繋ぎ合わせて、何とか誤魔化して自分を維持しようとしてる。おぞましく、矮小なプライド。『本当』の事なんて、知りたくない。お前が本気でどう思ってるか、なんて知りたくない。言ったらお前は怒るだろうけど。
 お前を知りたいと思う。でも、同時に知るのは恐いと思っている。お前の事、何でも無ければ良かった。何とも思っていなければ良かった。そうしたら、お前が何をどう考えていたって、俺はきっと平気でいられたのに。俺はお前なんか、好きじゃなかったのに。お前なんか、大嫌いだったのに。
 顔も見たくない、と思っていた時の方が平穏で幸せだった。今はお前を失う事なんて考えたくもない。お前の顔を見ないと、辛くて苦しい。お前に触れられていないと、ひどく不安だ。触れられても、こんなに不安なのに。苦しくて痛くて、こんなの知りたくなかった、と思う。お前が、お前が嘘でも俺が『好き』だなんて、言わなければ良かったのに。俺の事抱いたり、キスしたり、振り回したりしなければ、一生こんな事思わずにいられたのに。
 責任取れよ、中原。こうなった責任、ちゃんと取ってくれよ。じゃないと俺の気が狂う。
「……返事は何か無いんですか?」
「……お前、うるさい」
 中原は眉根を寄せた。
「……そういう事、言います?」
「うるさい」
 そう言って、俺は中原の唇を塞いだ。厚い唇を、熱い舌を貪り、強く吸い上げる。濡れた音が、車内にこだました。
「……どうしよう。俺、あなたに欲情してますよ」
 困ったように、中原が言った。
「……お前だけじゃないよ」
 小さく、呟いた。それでも、ちゃんと中原は聞き取って、嬉しそうに微笑み、口づけた。
 青い月が、俺達を見ていた。

To be continued...
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