NOVEL

週末は命懸け6「報復」 -6-

 昨夜の俺はどうかしていた。寝て、起きてみたらそう思った。笑いが込み上げてきた。ひどく、おかしくて。理由なんて無いけど、俺は笑った。堪えきれないくらい、ただおかしくて、俺は俺自身を嗤った。
 バカじゃねぇの? 今更怖じ気づいた? 恐くなって、ケツまくって逃げだそうとした? おかしくて、腹がよじれそうなくらいおかしくて、俺は涙滲ませてくっくっと笑った。誰か見たら気でも狂ったかと思うかも知れない。
 俺は今、後悔してるか? 自分自身に問い掛ける。……後悔だったら、何度もしてる。数え切れないくらい。そんなのは『今更』だ。
 俺は今、怖じ気づいて怯えてるのか? ……怯え、じゃない。恐怖なんかじゃない。これは『不安』だ。確証ないものに対する『不安』。だが、全ての物事は大抵『確証』なんてない。『失敗』も『成功』も準備段階に八割の要因、実行段階で一・五割、残りの〇・五割は運が要因だ。『不確定要素』を〇にする事は出来ない。不可能だ。
 中原の……考えてること。……俺が、一番判らない事。何を考えているのか、何を企んでいるのか、何を望んでいるのか。俺には全然判らない。……判ったつもりになってみても、次の瞬間にはひっくり返される。奴の事なんて全然判らない。……俺がたぶん、一番不安になる事は……『中原龍也』だ。
 ずきり、と胸が痛んだ。……あいつは俺を『好きだ』と言った。だけど……俺は疑ってる。あいつが俺を『好き』だなんて、『嘘』じゃないかと疑ってる。そんな事はどうだって良いことだ。俺はあいつに好かれたいだなんて思ってない。俺はあいつの愛情なんて必要じゃない。あいつとのセックスは『中毒』するくらい気持ち良い。『嫌い』だと思ってた筈の男にヤられて、こんなになるなんて、実際どうかしてると思うけど。確かに俺はあいつの事は『嫌い』じゃない。どちらかと言えば『好き』に近い。無理矢理力ずくで浸食されて、俺はもう逃れられない。……酷い奴。俺は『一人』ではいられない。こんなに簡単に『不安』になる。『不安』でぐらぐらになって、迷ったりする。俺は誰の手も救いも求めてなんかいなかったのに。あいつが俺を『不安』になんかさせるから。俺は血迷って弱くなったりする。ぐらついて、揺れたりする。
 律と、中原のせいだ。俺が、弱くなったのは。立ち止まったりしたら、先へは進めやしないのに。断崖絶壁で、逡巡してしまったら、その先になんてとても飛び込めやしないのに。……以前の俺は『迷い』なんて無かった。『不安』も『逡巡』も『罪悪感』も。俺は自分の全てを振り捨てて、奈落の底へだって飛び込めた筈なのに。『久本貴明』への『復讐』の為なら、何をどれだけ捨てても構いはしなかった筈なのに。
 俺が──今、一番不安に思ってる事。その正体に俺は気付きながら、あえて見ないフリをしてた。判りたくなんて無い。判ろうとは思わない。判らなくて良い。判りたくなんか無いんだ。……だから、心の中でだって、言葉にしない。言葉にした瞬間に、それは俺の内部を『支配』してしまいそうだから。
 俺はこれまで以上に、『久本貴明』が憎いと思った。この世の全てを、『支配』したがってるとしか思えない冷酷非道な男。外面良くて、人の好さげな顔で人を食い物にする『悪魔』。飽く事を知らない貪欲な『帝王』。『血』が繋がっているからこそ、余計に憎い。見知らぬ他人で、何の関係もない間柄なら、俺はこれほど憎まない。何よりも……あいつが俺に『似ている』事が──俺が決して認めたくないと思う、その事が、何より一番憎いと思った。……俺の容貌は『母』にとても良く似ている。……だが、それ以上に──俺が、この世で誰より憎むあの男に──そっくりだというその事が、俺はひどく腹立たしかった。どれ程隠そうとも、目を逸らそうにも、拭えない『事実』。目は母親似だ。だけど、鼻筋、唇、顔の輪郭、首から肩、耳の形、髪質。どれもこれも『父親譲り』だ。認めたくないけど、その通りだ。……俺の目を閉じた姿に、『あの男』を感じないと誰が言える?
 『疑惑』。……中原は、途中で俺を裏切るかも知れない。俺を陥れて、『あの男』に売りつける気かも知れない。……それでも、泣いていたあいつを忘れ去る事も出来なくて。怖がって震えていたあいつが、『嘘』だなんて思いたくない。『律』に簡単に騙されておいて、二度と騙されてないなんて言えやしないけど、あれが『嘘』だったらどうして良いか判らない。……だけど、完全に『信用』も出来なくて。俺を求めてきた、あいつの身体の熱い『肉』も、嘘だなんて思いたくない。嘘だなんて思いたくないけど──だからって何故あいつの全てを信じて良いだなんて言える? 『代償行為』じゃないと、誰が自信持って言えるんだ?
 俺は、今日、中原を試そうとしていた。はっきりと自覚している。本当に『中原龍也』が『俺』を『裏切らない』のか。俺は今日、それを確かめようとしてる。じわりと滲む『罪悪感』。俺の心臓の真上をゆっくりと穿つ。脈動と共に、痛む胸。
 俺は最初、この件に対してそういうつもりは毛頭無かった。途中で『意識』が変化した。俺は怒っている。それは本当だ。許せないと思ってる。それも本当。俺に二度と喧嘩売らせない。……それも確かに間違っちゃいない。なのに、今は比重が変わってる。
 『中原龍也』の『忠誠心』が誰の、何処にあるのか。俺はそれが知りたいと思ってる。それを確かめたいと思ってる。……中原が知ったらきっと怒り狂う。俺を絶対に許さないだろう。そうと知っていても。……確かめたい。あいつが一生俺を許さなくても。許さなくても良い。俺を一生恨んでも構わない。刺されたって良い。この世で俺を殺して良い人間がいるとしたら、それはたぶん中原龍也と太田知子だ。それ以外に殺されるのは絶対に御免だけど。

「……今日の、午後の予定なんだが……」
「ああ、伺ってますよ」
 さらりと土橋は言った。きょとんとする俺に、土橋はにっこりと笑った。
「……『他』にはうまく言っておきます。昨夜から今朝のうちにスケジュールを組み直して、午後は明けてあります」
「……えっ……?」
 俺はぽかんとした。土橋は笑う。
「……『中原さん』から」
「…………あ……っ」
「養護施設へ慰問に行かれるんですってね。見られないのは残念ですが」
 ……中原。お前……土橋に何て言ったんだ……。
 表情に困って、取り敢えず笑みは作ってみたが──どうも、不自然な笑い方だった気がする。だが、土橋は気にしない。
「それにしても、中原さんは相変わらず『照れ屋』ですね。もっと堂々と言っても良いのに、隠したがるんですから」
「……あ……まぁ……な」
「それがまた、彼の良いところですが」
 ……本当に、そう思ってるのか? 土橋。俺は思わずマジマジと土橋を見たが、にこにこ顔は変わらなかった。……何を考えてるのか、全く皆目検討つかない。
「成功お祈りしてますよ」
 邪気のない笑顔で笑う。……本当に何の裏も無いのかは不明だが。
 ……それにしても。何度言ったら判る? あのバカ。……事前の打ち合わせくらいちゃんとしろ! 俺に恨みでもあるのか!?
 ……『恨み』。心当たりはあるけど……。俺は小さく溜息をついた。

 十一時四十五分。駅前コンコース。中原が立っていた。スーツ姿で、何処にも寄り掛からずに真っ直ぐ立つ姿は身長一九六cmなだけにひどく目を引く。それに加えてその容貌。俺が自動ドアをくぐると同時に、中原の目線がこちらを見た。ゆっくりと歩み寄って来る。人の視線を感じるような気がして、俺は目を逸らした。真っ直ぐに近付いて来て、俺の目を見ずに耳元で囁いた。
「……車を回しますから」
  そう言って、通り過ぎた。俺はそのままゆっくりと進み、一呼吸置いて、ゆっくりと方向転換する。それから何事も無かったかのように駅を後にする。駅前のロータリーをオフィス街方面へ回り込むと、すぐ横に白いシルビアが停まった。
「……お前……」
「『外車』の方が良かったですか?」
 にやりと中原が笑った。
「……冗談抜かせ。後部座席開けろ」
「助手席には座って下さらないんですか?」
「……あのな」
 中原は笑って、後部座席のロックを解除した。ドアを自分で開いて乗り込む。
「……もしかして、自分でドア開けたの初めてじゃないですか?」
「うるさいな。開け方くらい知ってる。ふざけてる暇無いだろ?」
「シートベルトは締めて下さい」
 判ってるっての。思いつつ締める。車が発進した。
「……勿論、『鷹森本社』前に止めたりしないよな?」
「ご安心下さい。そんなところには止めません。……それに、これは放置してもアシが付かない車です」
「……まさか……盗難車か?」
 思わず眉を顰めた俺に、中原は唇だけで笑った。
「……違うけど……似たようなもんですよ」
 がっくりとした。……詳しく経緯を聞きたくない。
「……言うなよ。出自なんか。俺は知らない。聞かなかった」
「……賢いですね。その通り、知らずにいた方が良いでしょう」
 ……こいつ……『久本』でボディーガードやってなかったら、絶対『犯罪者』だ。……今だって十分似たようなものだが。
「ああ、そう。指紋とか気にしてらっしゃるようなら先に申し上げますが、これは後で『友人』が引き取りに来るので、心配要りません」
 ……『友人』。どういう『友人』なのか、本当に『友人』なのかは知りたいようで知りたくない。どうせ、聞きたくないような事だ。
「じゃあ、ここで降りましょう」
 路肩にエンジン掛けっ放しで止めてハザードランプ点けて言う。
「……判った」
 『鷹森』の『本社』は歩いて数分だった。自動扉をくぐり、受付へ真っ直ぐ向かう。そのすぐ後に、ぴったりと中原がついて来る。
「こんにちは」
 俺は受付嬢に挨拶した。
「……あの……申し訳ございませんが、どちらかとお間違えではございませんでしょうか?」
 受付嬢は仕事の『笑顔』でそう言った。俺は『仕事用』で笑う。
「……鷹森兼継社長はご在社?」
 受付嬢は顔を赤らめ、けれど営業中の口調はそのままに答える。
「……申し訳ございませんが、アポイントメントの無い方は……」
 言い掛ける受付嬢の目の前のカウンターにどん、と腰を下ろした。受付嬢の目が俺に釘付けになる。名札でちらりと相手の名前を確認して、俺は彼女に顔を近付ける。
「……ねぇ、平尾さん? シャンプー、何使ってる?」
 とびきりの笑顔を作って。指を伸ばして受付嬢の髪にそっと手を触れる。受付嬢は目に見えて動揺した。手を振り解かれる前に、更に顔を近付けて、にっこり微笑む。
「……キレイ」
 受付嬢の顔に、血の気が昇った。俺は優しく微笑む。
「……申し訳ないんだけど、『大切』な用件なんだ。『至急』の用事で、『予約』取る暇が無いんだけど……『社長』は何処にいらっしゃるかな?」
「……十七階の、社長執務室です」
 受付嬢はぽうっとした顔でそう言った。
「有り難う、平尾さん」
 そう言ってにっこり笑って、左手取ってキスする。
「場所は何処かな? ちょっと不案内で」
「……エレベーター降りてすぐ右を行った突き当たりの奥です」
 ぼうっとした顔つきのまま、受付嬢は答える。
「本当に有り難う。感謝するよ、平尾さん」
 にっこり笑って、カウンターから降りる。ちらりと目線で中原を促す。中原はひどく複雑な表情を浮かべていた。エレベーターに乗り込むと、中原は言い辛そうに口を開いた。
「……一体、何処でそんな事覚えたんです?」
「何処って別に?」
「……末恐ろしい方ですね」
「お前なんかに言われたくない。暴力的な事だったら、お前に任せる。……ただ、『余計』な事はするなよ」
「……どの辺りからどこら辺まで『余計』なんです?」
「聞くなよ。……必要な時はちゃんと言う。やり過ぎるな。余計な手出しも要らない。……俺が『やる』から」
「……あなたを本気で怒らせるもんじゃないですね」
 中原はにやりと笑った。
「……開き直ると、あなたの方がタチ悪い」
「……うるさい。で、時限爆弾発動は?」
「あと一分切りました」
「と、いう事はエレベータはまずいな?」
「今、十二階です」
「降りよう」
 手袋はめて、ボタンを押した。十三階で降りた。俺達を下ろしたエレベーターは更に上へ上がる。それから階段へ移動して十七階へ向かう。その途中で、突然警報が鳴り響いた。中原を振り返ると、無言で頷いた。十六階の階段際の一室で、上から降りてくる輩をやり過ごす。けたたましい警報が響き渡り、人の駆け抜ける音や怒声が交錯する。階下でも悲鳴が聞こえる。
『何をやったんだ?』
 唇だけで尋ねる。
『警報の誤作動と、セキュリティに偽情報。あと、システムをフリーズして『虫』を。それと同時に内部の情報全てを無差別に外部へ発信し、HPを書き換えて更にそこに履歴のある来客者全員に『鷹森』の不正についての情報をメールで送り付けてます。あと別便で各署に同様の更に詳しいメールを』
『……それ、一度にか?』
 中原は笑った。……今更ながら、凶悪。
『……お前、テロリストになれるよ』
『褒め言葉として受け取っておきますよ』
 俺は苦笑した。
一旦、廊下は静まり返った。部屋から出て、十七階へと急ぐ。そこには護衛と思しき連中がずらりと並んでいた。
『中原』
 中原は、躍り出るように、飛び込んだ。男達が飛び掛かるのを、紙一重で避け、正拳、足刀を打ち込み、一撃で倒して行く。俺が後から、留めを刺す必要が全く無い。しかもちゃんと加減してる。皆伸びてはいるが、致命傷を受けたり死んだりしてる奴はいない。……確かに、中原は変わった。
 キレイに障害物を取り払われた通路を、俺は足を引きずるようにしながら、早足で進む。松葉杖の音がやけにうるさい。社長室の前にいた最後の連中を、中原がねじ伏せてる間に、ドアノブ握り開け放った。
 鷹森兼継がこちらを真っ直ぐに見ていた。
「……どのようなご用件でしょう?」
 にっこりと、笑って。しかし、その目は明らかに俺を見下していた。目の色だけが笑ってない。この目を何処かで見た──そう思って、不意に、それが『中原英和』の目と同じだった事に気付いた。
「……心当たりはあるんじゃねぇの? おっさん」
 俺はぞんざいな口調で言った。
「……君は無神経な上に、乱暴なんじゃないかい? 『久本郁也』クン。お父様が悲しまれるよ?」
 俺はダン、と机の上に腰掛けた。書類が飛んだり、俺の下敷きになって、くしゃりと音を立てたりした。松葉杖を突き付ける。
「……あんたの顔を拝ませて貰いに来た」
 男は俺を睨んだ。
「……こんな事をして、どうなると思ってるんだい?」
 俺は怯まない。
「……俺はただのガキだからな。融通は利かないし、世間は知らない。物の勝手も道理も知らない。どういう事をすれば法に触れるんだか、良く判らないんだ。悪いけど」
 そう言って、ぐっと身を乗り出し、男の襟首を掴んで引き寄せる。うるさそうに振り払おうとする男の手に、ギプスをした腕で鉄槌を食らわせた。やった俺も痛かったけど、奴の手も引っ込められた。男は睨みながら手の甲をさすった。
「痛いな。……なんて事をするんだ。君は一体……」
「……良いか? 二度とは言わない」
 俺は男を睨み付ける。
「……俺に手を出すだけなら良い。まあやられたらやり返すけど、それはさほど問題じゃない。今度、『それ以外』に手を出してみろ。……その時は」
 渾身の力を込めて、殺意と憎悪でもって睨み付ける。
「……その時は、お前の喉笛噛みちぎって殺してやる」
 そう言って、更に男の襟を力任せに引き寄せて、その喉元に歯を当てる。ぷしゅりという肉の感触と共に、流れ込んでくる生暖かい紅い血。それを相手の顔に吐き捨てて。
 男は、呆然と俺を見ていた。硬直して、俺を凝視して。
「『謝罪』しろ。……一回目は殺さずに、警告で済ませてやる。這いつくばって『謝罪』しろ。お前の今後の人生とその身で持って、『社会』全てに『謝罪』しろ。お前がこれまで踏みにじり捨てたもの全てへ。全身全霊で持って、お前の『罪』をお前自身によって購え」
「……なっ……!!」
「安穏とした日常は与えてやらない。這いつくばって汚泥を飲んで、下水の中へ叩き込まれて『謝罪』しろ。……でなければ、もう一度噛む。……手加減無しで」
「……っ……んぁ……っ……!!」
 呆然としたように、俺を見つめている。中原が入室して来る。男は虚ろな顔で、よろめくように足下をふらつかせた。
「『謝罪』しろ」
 ネクタイを引き掴んで、顔面を机に叩き付ける。それから更に自分の身体を机に持ち上げて、靴を履いたままの左足を、男の頭に乗せて机に杖を付いて、立ち上がる。男が呻き声を上げた。それには構わずに、ぐりぐりと靴で踏みにじった。
「取り敢えず目の前の俺に『謝罪』してみろ」
 男は痛みに呻きながら、肩を震わせた。俺は更に踏みにじった。更に杖でこづき回す。
「……ちゃんと言えよ。イイトシしてんだろ? おっさん。日本語知らねぇの? なぁ?」
 男は全身をぶるぶると震わせながら、震える声を絞り出すようにして言う。
「……もうしっ……わけっ……ありまっ……せんっ……!!」
「何? ……聞こえねぇな? 何て言った? 全然聞こえねぇよ。もっとはっきり言ったらどうだ? なぁ。それともあんたマゾ? もっと酷くして欲しい?」
 男の肩がぶるりと大きく震えた。
「……もっ……申し訳っ……ありませんでしたっ……!!」
 泣き叫ぶ、ような声で。俺はようやく足を上げる。松葉杖で男の顎を押し上げる。
「……その気持ちに、嘘偽り無いか?」
 男が、屈辱に堪え震える顔で、俺を睨み上げた。俺は冷笑した。酷薄な笑みで。松葉杖で、とんとんと顎をつつく。
「……嘘偽り無いと言えるようになるまで、お前を追い詰めてやっても良いんだぜ?」
「こんな事をしてっ……!! ただで済むと思ってるのか!? 久本郁也!!」
「……誰? それ」
 俺はにやりと笑った。
「……俺とあんたは今初対面だよな? 違ったっけ?」
「……なっ……!!」
「違うと言うなら証拠見せろよ? 俺が『久本郁也』だって証拠あるなら見せろよ? ……ほら、どうなんだ? え? おっさん」
「……何を言って……おまっ……!!」
「俺の名前知ってんのかよ? 本当にそれだって言うなら証拠見せてみろよ? 納得できる証拠見せてみろよ? 何? ね? ……まともな日本語話してみせろよ? おっさん、頭悪ィの? それとも痴呆症? 何だよ。ちゃんと答えてみろよ? ……なぁ?」
「この状況で白ばっくれる気か!?」
 男は悲鳴のような声でそうヒステリックに叫んだ。俺は嗤った。
「……なあ日本語判らない?」
 松葉杖を、鼻先に突き付けた。男は硬直した。ゆっくりと、杖を鼻の頭に押し付ける。男は逃げようとする。俺は中原に目配せした。中原が、男の背後に回って、両腕を後ろから掴み、ねじり上げる。男は悲鳴を上げて仰け反った。
 ゆっくりと、二回、静かに鼻先を杖で叩いた。
「……自慢の鼻をへし折られたく無かったら、まともに応答しろ。俺はお前の顔がどんなになっても全然構わないんだからな」
 そう言って、唇だけで笑うと、男の顔が真っ青になった。厭な音と匂いがして、男の股あたりから液体が洩れ落ちた。中原が呆れたような顔で俺を見た。俺はそれには何も返さず、男に冷笑を向けた。
「……子供返りかい? おっさん。……それで、『謝罪』する気にはなった?」
「……ぅっ……ぁっ……!!」
 怯えた目で、男は俺を凝視していた。
「……本気で退行? 冗談やめろよ? ……『鷹森コンツェルン』の敏腕若社長? そんな肝の据わってねぇ男な訳? なぁ?」
 中原が、困ったような顔で俺を見ていた。俺はそれを無視する。
「……おい? まともな返答くらいしろよ? お前は小学生か? ガキじゃねぇんだから、さっさと……」
「……『無駄』ですよ」
 中原が言った。
「……もう、この人、聞いてませんよ」
「……何だって?」
 俺は眉を顰めた。
「……だって……こいつが『黒幕』なんだろう?」
「……そう思ってましたけど……自信無くなりましたよ。……ただの甘ったれ坊ちゃんで、臆病で小心で、自尊心だけは高い。そういう感じじゃありません?」
「何だと!?」
「……俺に怒らないで下さいよ。……こいつは……一杯食わされましたかね」
「……『誰』に?」
 中原は笑った。
「……勿論……今、拘留されて事情聴取受けてる筈の男に、ですよ」
「……楠木?」
「……ぅっ……っ……た……すけ……てっ……たすけ……っ!!」
 男は怯えて震えている。焦点の合ってない目。
「……まさか……カモフラージュだって言うのか!?」
「……本人に聞いてみるのが一番確かですけどね」
 中原は嘆息した。
「……呆れるくらい狸だ。そうだとしたら、随分上手ですね」
「……そういう問題か?」
 俺は顔をしかめた。そして鷹森兼継を解放した。中原も腕を離した。その時だった。突然、鷹森は駆け出し、窓へと駆け寄ったかと思うと、窓を開け放った。
「おい!?」
「っ!!」
 鷹森は、窓の外へ飛び出した。俺も、中原も間に合わなかった。そのまま下へと転落していく。舌打ちした。
「……逃げましょう」
 言われるまでも無くそれ以外に無い。中原がスカイダイビング用のパラシュートを手渡す。
「……何これ。まさか……」
「悠長に階段なんか降りてる暇はありませんよ」
「やった事無いぞ!!」
「紐を引くだけです。タイミングは言いますから。それだけは外さないで下さい」
「……失敗したら死ぬんだろ?」
「……そうならないよう気を付けて下さい」
 最低。俺は舌打ちしながら、それでも指示に従って、パラシュートを装着する。十七階の上は屋上だ。鷹森が落ちたのとは反対方向から中原と同時にダイブする。
 ……これで死んだらマジにシャレにならない。
「良いですか!! カウントしますからタイミング合わせて下さい!!」
 俺は大きく頷く。風圧で、身体がぎしぎし言う。中原は声を張り上げてる。
「三、二、一、〇!!」
 紐を勢い良く引いた。ぶわっと物凄い音がして、パラシュートが開く。身体が、引っ張られるような感覚。
「障害物に注意して下さい!!」
 注意って……。びっしょり、汗を掻いてた。初めての降下。しかもオフィス街。人々がこちらを驚いたように見上げ、指差してる。着地の瞬間、一足先に降りた中原が、俺の身体を捕まえる。
「う……あっ……!!」
 結構鈍い衝撃。中原は俺を受け止め、地面に下ろすと素早くナイフでパラシュートの肩紐を切り裂いた。自分のも同じようにして、身軽になると、ひょいと俺を抱え上げた。
「何すんだ!!」
「……この方が早いでしょう?」
「……なっ……」
 呆気に取られる見物人達を後目に、中原は俺を担ぎ上げて駆け出した。カッと血の気が昇った。
 ビルの群を駆け抜けて、飲食店街を通り、大通りへと出た。そこでようやく俺を下ろす。
「……この先に、服を用意してあります」
「…………判った」
「……何、むくれてらっしゃるんですか?」
「……別にむくれてなんかない」
 中原は目を丸くした。俺をじろじろと見る。
「……何だよ?」
「……別に」
 中原はくすりと笑った。
「じゃ、行きましょうか」
 俺は、中原と目を合わせずに頷いた。

To be continued...
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