NOVEL

週末は命懸け6「報復」 -7-

 服を着替えて、外に出た。スクランブル交差点の真向かいの電子掲示板に、鷹森の不正のテロップが流れている。武器に麻薬に人身売買。鷹森兼継の犯した殺人の事も。人々がそれを見ている。
「……現実じゃないみたいだな」
「現実ですよ」
 中原は笑った。
「……あなたの望み通りの」
 俺は笑った。
「……とんでもねぇな」
「……あなたがやれって言ったんでしょう?」
 ……本当、こいつ。溜息つく。
「……責任取れって言うなら、取ってやっても良いけどな」
 つん、と奴の顎をつつく。
「お前がやった事だってことは忘れたりするなよ? それが俺の指図で俺の望み通りだとしても」
「……忘れませんよ」
「なら、良い。……俺とお前は同じ穴のムジナだ」
「……判ってます」
 中原の太い腕が、俺の背中に回される。
「……『共犯者』ですよ、俺達は」
 耳元で、囁いて奴は笑った。俺は頷いた。肩に、手を置かれる。肩をすっぽり包む大きな手の平。ごつごつとした太い指。その感触に、俺は少しだけ目を細めた。
「……郁也様?」
 俺は笑った。
「帰ろう」
 杖をついて、歩き出す。中原は俺に寄り添うように歩きながら、右手を挙げた。タクシーが目の前に止まる。
「明日名二丁目まで」
「はい、明日名二丁目ね」
 俺達が乗り込むと、車は滑り出した。……俺は外の景色をぼんやりと見つめた。やりたい事を、やりたかった事をやり遂げた筈なのに、何故か気持ちがすっきりしない。鷹森兼継の腑抜けぶりと、その最期のせいかも知れないけど。
「……それで、『あいつ』は?」
「……まだ、『同じ場所』にいる筈ですけど?」
 沈黙が、その場を満たした。……楠木成明。『毒』とも『害意』とも無縁そうな穏和な顔立ちの、公家風のおっとりした顔立ち。育ちの良さそうな顔と雰囲気と物腰。隙もそつもない男。……思えば、『他』の連中から比べれば最初から明らかに『異端』だった。あいつくらい有能なら、『ボディーガード』以外の職に就いた方がよっぽど良い。確かに武道に秀でていて、俺の護身術の指導までするような男だったが、そんなもので収まるような男じゃなかった。最初から『異質』だったんだ。
「……あいつってどういう……奴?」
 中原は苦笑した。
「……どうでしょうね? 俺が思っていたのも『実像』とは違うような気がしますしね」
「……そう……か」
「……それに、俺は興味を持って見てなかったんですよね。実は」
 ……それって。
 思わず中原を見上げた。中原は前髪を掻き上げた。
「……あちらは、『素直でカワイイ後輩』を演じてましたが、俺はそんなものにいちいち目を懸けてやる親切心なんて持ち合わせちゃいませんし」
「……お前、酷い奴だな」
「……『他人』の事なんか知ったこっちゃありませんよ」
 中原はにやりと笑った。
「俺は俺自身の事で一杯一杯なんです。……『余裕』なんてありませんよ」
「……つまり、『どうでも良かった』んだな?」
「……判ってるなら言わないで下さい」
 俺は溜息をついた。
「……お前、そのうち刺されても知らないぞ」
「……郁也様もね」
「何で俺が」
「……ご自覚無い? ……ま、無いんでしょうね」
 中原は唇だけで笑った。
「……何が言いたいんだ」
「……別に。……あなたは昔からそういう人ですし」
「何か含む処がある物言いだな? 言ってみろよ。はっきりと」
 中原は笑った。笑うだけで何も言わない。俺は苛々としながら、視線を外した。中原の手が、俺の左手の上に置かれた。
「……大丈夫。あなたが刺されそうになったら、俺が守りますから」
「……そうかよ」
 俺はぶっきらぼうに吐き捨てた。家が近くなって来たので、運転手に道を指示する。家の前で車を停めて、料金を支払った。邸内へと入る。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
 執事の米崎が直立不動で出迎える。それを後目に二階へ向かった。自室前に、目を赤く腫らした『暁穂』がいた。
「……っの……!!」
 俺を、強く睨み付けて。
「……お前のせいよ!! お前のせいで兄様はっ……!!」
 般若の形相で襲い掛かって来る。手には出刃包丁を閃かせて。……何てことは無い相手だ。猪突猛進。考えるまでもなく俺の方が強い。避けようと思えばすぐにでも避けられる単調で何の考えも無い素人の動き。なのに、一瞬その勢いに息を呑まれた。咄嗟に身体が反応しなかった。女が直進してくる。中原が俺の前に飛び出し、女の刃物を振り落とし、手首をねじり上げて、床へ押さえ付けた。
 俺はそれを呆然と見ていた。暁穂は押さえ付けられながらも、俺を必死の形相で睨み付ける。
「お前がっ……お前がっ……お前さえいなかったらっ……!! 兄様もっ……貴明さんもっ……お前がっ……!!」
 ……ちょっと待て。鷹森兼継はともかく、『親父』が一体何だって……!!
「お前達が……っ……何もかもお前達が……っ!!」
 汚らわしいものを見るかのように。おぞましいものを見るかのような目つきで、暁穂は俺と中原を睨み付ける。
「私から大切なものを奪って!! 殺してやる!! お前達なんか死ねば良いのよ!! このウジ虫共が!!」
 頬を激情に染め、痛みに顔を歪めながら、抗い、攻撃の意志をその目に留めたまま、暴れる。中原は、躊躇無く暁穂の鳩尾に拳を叩き込んだ。手加減無しで。
「中原!!」
 キッと中原が俺を睨み付ける。
「あなた、何考えてらっしゃるんですか!!」
「……何を……っ!!」
「あなた死ぬ気ですか!? こんな女にこんな処で殺される気ですか!? あなたはそんなにお人好しなんですか!? どうして避けようとしないんです!!」
「……んなのっ……!!」
「『どうだって良い』だなんて言わないで下さい!! 前にも言いましたが、俺は『自殺志願者』の身を守り切る自信なんてありませんよ!!」
「『自殺志願者』なんかじゃない!!」
「だったらあのくらいの攻撃避けて下さいよ!! 十分避けられたでしょう!? 避けられるだけの距離も時間も十分あった。なのに身動き一つしないなんて『自殺行為』以外の何物でもないでしょう!?」
「……ちょっとぼうっとしてただけだ」
「『ちょっと』どころじゃ無いでしょうが!! やめて下さいよ!! そういうの!! 俺は、あなたのそういう処がひどく腹が立つんですよ!!」
「良いじゃねぇか。何でも無かったんだから」
「良い訳無いでしょう!! あなたは、時折そうやって物凄く無防備に自分の身を晒して……死にたがってるとしか思えないでしょう!!」
「……死にたいだなんて思ってない!!」
「……本当ですか?」
「……当たり前だ。……それより、お前の方が、死に場所を求めてるっぽい気がするぜ? 無茶ばかりしやがって」
「人の事言えますか!!」
「お前だって人の事言えるか!! 怪我でもしたらどうするんだ!!」
「怪我人に言われたくありませんよ!!」
「うっせぇな!! これは今やった怪我じゃないだろうが!!」
「そういう問題じゃないでしょう!!」
「大体、お前、女相手にどうして手加減しないんだよ!! 自分が馬鹿力だって自覚ないんじゃねぇの? ちったぁ加減しろよ!!」
「随分お優しいことで!! あなたに危害を加えようとした相手にね!! 殺されたいんですか!? あなたは!!」
「殴るなとか言ってんじゃねぇよ!! 手加減しろって言ってるんだ!! 相手は喧嘩慣れしてない素人なんだから!! 大体、お前加減出来るだろう!?」
「……ああ、はいはい、フェミニストですね。優しすぎますよ。……俺は加減する気なんてありませんよ。殺さなかっただけマシと思って下さい。本当は八つ裂きにして、この世で最悪の地獄を味合わせてやりたい気分ですが、残念ながらこの女は貴明様のものだから、これ以上の手が出せないんですよ。忌々しい事にね!!」
「……お前……」
 呆れた。中原の手が、俺の顔に触れる。
「……俺は……ずっと……」
 真摯な目で、見つめられて俺はどきりとした。
「……な……か……はら……?」
 中原のごつごつとした指が、手の平が俺の頬を、顎を撫でる。ぞくりとした。耳たぶに触れられた後、指が滑って首を撫で、頭の後ろをゆっくりと包んだ。
 中原は、静かに笑った。何処か、痛そうな、泣きそうな顔で。
「……あなたの為に……いや、俺自身の為に、殺したかったんだ……」
 ぽつん、と言った中原の声は、妙に響いた。
「……それは困るな」
 不意に、声がして、ぎくりと振り返った。奥の廊下から、車椅子に乗った『久本貴明』がゆっくりとやって来る。
「……なっ……!!」
「……たっ……!!」
 顔色は青白い。心なしか頬が少し痩せた気がする。そんな筈は無い。昨日一日顔を見てないだけだ。そんな短時間で変わる筈が無い。……現に、『奴』の顔に浮かぶ表情はいつも通り、余裕たっぷりの『笑顔』だ。
「……『生きて』いてこそ『役に立つ』んだ。……君達のおかげで、思った以上に事が早く『進行』して……おかげで僕もゆっくり休む暇が無くて大変だったよ」
「……な……にを……っ!!」
「……ああ、そう。揉み消しも今やってるから。……本当疲れたよ。こんなに疲れた事ってたぶんこれまで無いね」
 車椅子の背後にいるのは笹原。無表情で付き従ってる。
「……おかげで『鷹森』のノウハウとコネクションを譲って貰えそうだよ」
 その瞬間、頭が真っ白になった。
「……なっ……!!」
「……どうしようかとも思ったんだよ。だけど、僕が欲しいのは『鷹森』というブランドじゃないからね。……『阻止』するのは簡単そうだったんだけど、結局は『利用』させて貰う事にしたんだ。相談しなくて悪かったとは思うけど」
「……そっ……んなっ……!!」
「君達は僕の『予想』を遙かに超えて良く働いたよ。感謝してるよ。……まあ、派手すぎるのだけはちょっと頂けないけど。……でもまあ、良い『デモンストレーション』にはなったよ。『他』への脅しにはなるしね」
「……まさかっ……!!」
 目の前の男を、凝視した。にこにこと穏やかな笑みを湛える、『久本貴明』を。
「安心して良い。……今回の一件は、僕が全て後始末をするよ。君達は以後一切気にしなくて良い」
「……そんなっ……!!」
「……君達の名前は何処にも出ない。表にも裏にも、一切」
「…………っ!!」
「……『鷹森』の『ご老人』は、『暁穂嬢』をお望みなんだ。無傷で引き渡さねばならないのだけど……」
 困ったように、魅力的な笑顔で、『久本貴明』は笑った。
「……名残惜しいからと言ってもう二・三日、我が家にいて貰った方が良さそうだね」
「……全て……知っていたのか……?」
 思わず、睨み付けた。『社長』は両手を上げておどけてみせた。
「コワイ顔しないでよ? 郁也。折角の綺麗な顔が台無しだよ?」
「……最初から知ってたのか……?」
 ふるふると、怒りに、拳が、足下が、震える。
「……何を怒ってるんだい?」
 穏やかな、明るい笑顔で。……悪気なんて毛頭無いって顔で。
「何もかも、最初から知っていて、素知らぬ振りして黙っていたのか!?」
 渾身の力で、睨み付けた。なのに『奴』はあっさりと苦笑する。
「……そんなに怒らないでよ。『敵』を騙すにはまず『味方』からって言うでしょう? 相手の不意を突いたからこそ、『結果』が得られたのであって、僕も何も全てを見通してた訳じゃない。僕が知っているのは、ただ、ありのままの『事実』だけだよ」
「……何もかも知っていて、わざと放置したんだな……?」
 不意に、顔をしかめて、それから「ああ」と頷いた。
「……同学年の『彼女』の事はお気の毒だったね。……僕もあの『事態』に関してはイレギュラーで計算違いだったよ。本当だったら巻き添えになんかなる筈が無かったんだが……。僕もフェミニストなんでね。女性を酷い目に合わす男は許せないと思うよ」
「っ!!」
 殺してやる、と思った。今すぐ殺せるもんならナイフで切り刻んで、ミンチにしてやりたい。痛烈に。激しく。強く。
「……っの……っ!!」
 『理性』なんかじゃ歯止め利かない。『抑制』なんかじゃ抑えきれない。刺して、刻んで、細切れにバラバラに、血みどろに。苦悶の顔を見てやりたい。この、お綺麗な顔を真っ先に切り刻んで、原型なんか留めない肉塊にしてやる。一歩、踏み出そうとしたその瞬間、中原の両腕が俺の腰を掴んだ。
「……っ!?」
「……疲れて、気が動転しているようですね、郁也様」
 冷静な声だった。中原は俺の腰をしっかりと支えて、自分の腰に押し付ける。
「なかは……っ」
「ひどく興奮なさってるようだ」
「……っ!!」
「……郁也様はもうお休みになられた方が宜しいでしょう」
 そう言うと、ずいと前に出て俺と『社長』の間に立つ。
「……貴明様もお疲れではございませんか?」
「……そうだね」
 本性の見えない、穏やかな笑みでこちらを見る。
「……僕は疲れたよ。……君たちもゆっくり休むと良い。じゃあ」
 くるりと『社長』は方向転換した。笹原が、倒れ伏している暁穂を担ぎ上げる。そのまま立ち去ろうとする。俺は肩をぶるりと震わせた。後を追おうとした俺の肩を、中原が強く抱き、止める。
「……中原……っ」
「……あなたは休んだ方が良い」
「だって……!!」
 不意に、唇を塞がれた。中原の舌が、俺の言葉を封じて呑み込ませる。右手が滑り降りて、腰を包み、左手がシャツのボタンを素早く外して隙間へ滑り込んだ。
「……っ……!!」
 胸の突起をつねり上げられて、思わず声を上げそうになって必死で堪えた。その間に中原は俺を抱き上げ、ドアノブを回して扉を開けると、ベッドの上へ放り出した。それから素早く片手で鍵を掛ける。
「……中原っ……!!」
 中原は自分の襟元を緩め、ボタンを素早く外してシャツを脱ぎ捨て、ゆっくりと俺に近付いてくる。
「……お前は……っ!!」
 俺の身体を押し倒して、俺の胸に顔を埋める。
「……判ってるんですよ」
 中原は言った。
「……『ああいう』人だって事は、もう随分前から判ってる」
「……中原……?」
「……あなたは……俺と同じ過ちを犯してはいけない」
 そう言って、口づけて。
「……あの人は……この世の『何もかも』を『支配』したいんだ……そのクセ……」
 俺の胸を開いて、鎖骨に唇を落として、強く吸う。
「中原っ……!!」
 中原の指が、俺の下腹を這い、スラックスのベルトを外し、ジッパーを下ろす。
「……『反逆者』を求め、それを引きずり回しいたぶって……」
 下着ごとスラックスが下ろされ、両足を開いて腹に押し付けられる。中原の指が這い、後孔を人差し指と中指で押し広げ、濡れた舌が入り口をそっと舐め上げる。
「……ぁっ……」
「心を陵辱し、晒し、雁字搦めに拘束して、『自尊心』をことごとく傷付け、『反抗』を促しながら、その度にそれを封じて、真綿で首を絞めるようにじりじりと追い詰めて、追い込んで、それでも留めは刺さずに、何度でも繰り返して……」
 中原の指が、出し入れされる。俺の意志とは無関係に、俺の身体は中原に慣らされ、反応する。びくりと肩を震わせながら、中原を見た。
 静かな瞳。凪の海のような。何も無い表情。
「……中原」
 呻くような声。
「……何です?」
 指で俺の身体をまさぐり、押し広げながら。無表情で。
「……俺を見ろ」
 きょとん、とした顔で俺を見た。
「……俺をちゃんと見ろよ」
 中原は苦笑した。
「ちゃんと見てますよ」
「……そうじゃない」
 俺は中原に指を突っ込まれたまま、ゆっくりと起き上がる。腹の奥が刺激されて、俺の中央部がゆっくりと立ち上がる。俺は眉を顰めた。
「……俺自身をちゃんと見ろ。……お前は今、何処にいる?」
 中原は笑った。
「……そうですね」
 そう言って、口づける。しっかりとした目で、俺を見つめて。半分だけ瞼閉じて、中原の厚い唇を貪った。熱い口腔を、舌を味わって。強く吸い上げた。中原の指が、『奥』まで差し込まれて、俺は軽く呻いた。二本の指が浸食する。俺の内部を執拗に擦り上げ、引き出され、徐々に動きを早くしていく。
「……っ……はっ……ぁっ……」
 指だけでイッてしまいそうで。断続的に落とされる唇が、ひどく熱くて。くらくらと眩暈がする。何もかもどうでも良くなって、このまま流されて何処か行ってしまいそうになる。
「……い……くやさまっ……!!」
 熱を帯びた中原の声。
「……なかは……ら……っ!!」
 不意に、指を引き抜かれた。思わず、声を上げた。中原の両手が、俺の両膝に回される。次に来るモノに、俺は全身をすくめて待ち構えた。
「……綺麗だ……」
「……中原……」
「凄く綺麗ですよ」
「……バカ……」
 不意に、奥まで貫かれる。
「あぁっ……!!」
 油断して、大声を上げてしまう。羞恥に、真っ赤に染まった。ぎりぎりまで引き抜いて、更に強く突き上げる。俺は必死で歯を食いしばる。零れそうな呻きを必死で押し堪える。中原は強く激しく、円を描くようにしながら腰を叩き付ける。肉を打つ音が部屋に響いて、動物のように荒い息が絡み合う。苦痛と快感の区別が付かない。俺の身体は今、中原に『支配』され埋め尽くされていた。俺の『内部』いっぱいを、『中原』が押し開き突き上げ、貫いて。俺の『中身』を『中原』で全て満たして。他の何もかも、全て綺麗に吹っ飛んで。動物のように、今、ここにある『快感』にだけ『支配』されて。何も考えずに、ただひたすら『行為』にだけ集中して。気付いたら自分で腰を動かしていた。正気なんかじゃない。俺は『中原』を自ら求めてる。『欲望』で満たされて、『性欲』の塊になって、ひたすら『中原』を求めてる。もっと、もっと、もっと、もっと、強く……激しく……!!
  『愛情』なんかじゃない。『恋慕』でも無い。ただの『我欲』。他の何も欲してない。『心』なんて要らない。そんな目に見えない不確かなもの、信じない。人の心なんてうつろいやすくて、そんなもの信じたら、裏切られる。壊されてしまう。中原の『感情』なんて知らない。今ここに存在するものだけで良い。それ以上なんて要らない。何かを『期待』したら、裏切られるだけだから。『俺』を貫き今一時『支配』する『これ』が今、確かなもの。求めて、求められて、この一瞬が全て。他の何も、俺は要らない。そんなもの必要ない。先の事なんて知らない。過去だってどうだって良い。今この一瞬。『現在』という瞬間。刹那的と言われようが、短慮とか浅慮だとか言われようが、俺はこの『一瞬』しか信じない。『約束』なんて要らない。『確約』なんて要らない。『契約』なんて要らない。そんなものは何の役にも立たない。壊れる時は壊れる。失われる時はあっと言う間に失われる。そんなもの信じてたら、はっきり言って身が保たない。『今』より後の事なんて誰にも判らない。例えば隕石が落ちてきて、俺も中原も死んでしまうかも知れない。それは大袈裟で極端な例だけど。
 『未来』なんて求めない。『今』さえあればそれで良い。先の事なんて知らない。そんなものは知らない。
 俺は『今』、『中原』を強く求めてる。この『感情』が何かなんて知らない。中原の『心』なんて要らない。それは変わりやすいものだから。言葉なんかで縛ってもそれは何の意味も持たないから。口でなんかどうだって言える。嘘なんて俺も中原もつきなれてて、何処から何処まで嘘かなんて、自分でも判らなくなってる。だからそんなものに期待できない。何も要らない。触れ合わせる『肌』と『肉』と互いの『欲望』だけで、一瞬を過ごせるから。互いの気持ちがすれ違ってたって、そんなのは全然構わない。俺はそんなものは求めない。どうだって良い。
 俺を今、この瞬間『支配』してるもの。この瞬間の為に、俺が今、生きてる気がした。


〜エピローグ〜

「……全く……良い『ハリボテ』だったのに……」
 『彼』は溜息をついた。
「……『ハリボテ』だって、好み通りのモノを作るには、結構労力と時間が要るってのに、全くあっさり盛大に壊してくれて……」
 そう呟いて、口元に笑みを浮かべた。それは口調とは裏腹に、嬉しそうに。
「……おかげで『他』の『ハリボテ』を見つけなきゃいけないじゃないか……」
 そう言って、両手に掴んでいた『物体』から手を離す。それはごとりと重い音を立てて床に落ちた。床には染みが広がっている。じゃらりと鍵束を鳴らして、錠を開き、扉をゆっくり音を立てぬよう開いた。
「……まあ、楽しみは増えたと言えば増えたけど?」
 そうしてその場を後にする。身の軽い動きで。音も立てずに。
「……さあ、何処へ行こうか?」
 楠木成明は笑った。

The End.
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