NOVEL

週末は命懸け6「報復」 -4-

 目覚ましの音で目が覚めた。ゆっくりと起き上がる。カーテンの布越しに、朝日が射し込んでくる。鳥の声が、遠く聞こえた。
 起き上がって、昨夜のうちに用意しておいたシャツに腕を通し、備え付けの洗面台で顔を洗い、口をゆすぎ、髪を整える。スーツを着る。ネクタイを手に取り、部屋を出た。
「おはようございます、郁也様」
 執事の米崎が立っていた。俺はネクタイを突き出した。
「……頼む」
「かしこまりました」
 米崎はネクタイを受け取り、それを丁寧にゆっくりと締めた。
「……きつくありませんか?」
「大丈夫だ」
「……朝食の支度は出来ております」
「……判った」
 米崎が目を伏せたのを合図に、俺は背を向け階下へ降りる。食堂へ行くと、淹れ立ての珈琲が湯気を立てて俺の席に置かれていた。使用人の引いた椅子に座り、珈琲カップを手に取った。
 すぐに朝食が運ばれて来る。焼きたてのクロワッサンに、レタスのスープ。スクランブルエッグとジャーマンポテトサラダ。それと特製野菜ジュース。俺は朝食はいつも軽く済ます。十五分で食事を終えて、部屋に戻って歯磨きをした。それから携帯を手に取り、メールが入って無いか確認した。……着信は無し。中原はあの後、連絡して来なかった。たぶんまだ戻ってない。スーツの内ポケットにねじ込んで、それから部屋を出た。
「あ! おはようございます!! 郁也様!!」
 ボディーガードの一人、野木。……こいつは、『あの現場』を見て以来、人の顔を見る度赤面する。赤面するなと言ってやろうかとも思ったけど、蒸し返すのはかえって藪蛇な気がして、俺はそのまま放置してる。忘れろと言っても……たぶん忘れてはくれないだろう。口止め、は中原が既にしてあるから……大丈夫だと思いたいが。
「……おはよう」
 答えると、野木は赤い顔をますます赤くした。……何考えてるんだ、こいつ。野木泰男[のぎやすお]。確か今年二十五歳。『久本』へ来て五年になる筈だが……落ち着き無いな、こいつ。貫禄って奴がまるで無い。こいつがボディーガードなんて何かの間違いじゃないかって思う。花屋の店員でもしてるのがお似合いだ。
「あの、中原さん、お知り合いの方の奥さんが具合悪いとかで看病しに行ってるという事を聞いたのですが、ほ、本当ですか?」
 ……何!?
 危うく、ぽかんと口を開けそうになって唇を引き締める。
「……詳しい事は聞いてないが、戻れないかも知れないとは聞いている」
「そ……そうですか。あ、す、……すみません! 立ち入った事お聞きして!! あの……俺……」
 何だかこいつ……。思わず、溜息をついた。
「……それで? 用事は何だ? それだけか?」
「えっ!? あっ……あのっ!! それでお、……私、が代わりに郁也様のボディーガードの指揮を執る事になりましたので……その、ご挨拶を……」
「……そうか」
 ……『久本』は人手が足りないのか? 俺はこいつの腕、知らないから良く判らないけど。……確かにこういう時に指揮を執れそうだった男は……今、刑務所にいるが。思わず苦い気持ちになった。……そう、楠木は優秀だった。何より、人当たりが良く敵を作らない質だった。楠木が裏切った、という事はきっとボディーガード連にも多かれ少なかれショックを与えてるだろう。今はたぶん一番難しい時だ。……なのだが。
 目の前でおたおたしてる男を俺はじっと見つめた。……こいつ頼りになるのか、という事が物凄く不安だ。……善良さ、という点では恐らく中原より楠木より上だろう。だが、この職業にそんな物は必要ない。と言うかもしかしたら、かえってそれは害悪にならないだろうか? 不思議に思う。
「……『社長』の指示?」
 俺は確認する。
「はい。その通りです」
 じゃあたぶん裏に何かあるか、でなければちゃんとした実績があるって事だろう。『計算』の方に賭けるけど。……たぶん現状では、俺はまだ奴の『切り札』になると思うから、もしもの時の防護策は取ってあるだろう。それでも油断は禁物だが。
「……今、何時だ?」
「八時半です」
「……早いかも知れないが、もう出る。支度しろ」
「はい!!」
 慌ててばたばたと階下へ駆け下りて行った。
「郁也様、車椅子をご用意しました」
 俺は眉を顰めた。
「そんなもの無くても大丈夫だ」
「間違いが無いとは限りませんので。どうぞご使用下さい」
 俺は舌打ちした。
「……判ったよ。……それも『社長』の指示?」
「十分お気を付け下さいませ」
 米崎はそう言って、目を伏せた。……ムカつく。舌打ちしながら、階下へ降りると野木が相変わらず紅潮した顔で、車椅子用意して待っていた。野木以外は顔見知りだ。幾度もボディーガードされてる連中。
「行って来る」
「行ってらっしゃいませ」
 メイドの開けたドアの向こうに、コンチネンタルが止まっていた。

 『本社』に到着したのは、九時を少し回った頃だった。受付に待っていた女性秘書に案内されて、『執務室』へ連れて行かれた。
「おはようございます、郁也様。暫く宜しくお願いいたします」
 四六時中『社長』に張り付いてるから、こいつの顔は見慣れてる。会話は殆ど交わした事は無いが。いつも穏和そうな真面目そうな笑みを浮かべている。中身がどうかって事に関しちゃ不明だが。
 土橋宏輝[どばしひろき]三十一歳。中原より一個上。来月結婚予定らしい。『社長』に忠実。……それだけで俺とは趣味合いそうにないが。
「珈琲とお茶、どちらになさいますか?」
「……紅茶」
「かしこまりました」
 一礼して土橋は去った。あまり間を置かず、紅茶をティーポットと共に持って来た。まるで前もって用意していたかのような素早さだ。俺の見てる目の前で、紅茶をカップに注ぐ。
「イギリス直輸入の茶葉です。お口に合うと良いのですが」
 ……用意周到すぎ。一口含む。芳香が、口の中で広がり、鼻腔へと抜けていく。ゆっくりと飲み下した。
「……ひょっとして何を言われても良いように準備してたのか?」
 土橋は曖昧に笑った。
「ご要望があればお聞きいたしますが」
「……無い」
「何かございましたら、いつでもおっしゃって下さい」
 そう言って一礼した。……確かに食えない奴。
「それではスケジュールのご説明を致します」
 俺は無言で頷いた。土橋は直立不動で手帳を胸元から取り出し、読み上げる。
「まず、十時半より先月から稼働の新工場の視察に参ります。既に試験運転の際、貴明様がご視察済みですが、実際の稼働状況と運営状況を確認するのが目的です。こちらが、先月末までの生産・出荷・在庫状況のデータです。一応お渡しいたします。こちらの資料は既に貴明様も藤堂副社長も目を通されて決済済みです。データの分析及び今後の予測データについての書類もございますが、ご覧になりますか?」
「……殆ど数字と専門用語ばっかりなんだろ? ……それって高校一年の道理も判らないガキにも判る内容?」
「ご参考になるようならと申し上げました。ご不快に思われたなら、申し訳ありません」
 真面目顔で穏やかに言う。……読めない男。
「それで? その後は?」
「一時から昼食会です。場所は『蔦川』。主な目的は、今月の中間報告についてのちょっとした会議と交流会です。中間報告を簡単にまとめた昼食会用の資料がこちらです」
 パソコンで作成されたA4二十三ページに及ぶ書類の束。
「そして四時より田崎様宅で、誕生祝賀パーティーが行われますので、盛装して出席お願いします。なお、その際のお着替え等は本社執務室隣室です。それが終わり次第ご帰宅となります。……ご質問はございますか?」
 ……つまり、一日中拘束されるって事だ。さっさと逃げた中原は賢い。思わず溜息ついた。
「……俺には夏休みも無いって事か?」
 土橋は苦笑した。
「毎日何かある訳ではございませんよ。郁也様。昼食会は毎週火曜だけですし、視察は本当は予定に無かったものを、貴明様が是非にとおっしゃって急遽変更したスケジュールですし、田崎様の祝賀パーティーは前々から確定していて、こちらの都合で外す訳には行かないのでお願い申し上げるだけですから」
「……急遽変更?」
 俺は眉根を寄せた。
「『最新式の設備だから是非に』と」
 俺は肩をすくめた。
「……それじゃ明日は?」
 土橋は苦笑した。
「……特にはございません。実は、本当はこの三週間はスケジュールを全て空けてありました。『昨日』までは」
 ……何だと!?
「ですから、お望みならばスケジュール調整してご都合に合わせますが……いかがなさいます?」
「……良いのか?」
 土橋は曖昧に笑った。
「郁也様はまだ学生です。学生には学生にしか出来ない事があります。貴明様も、『無理はさせぬように』とおっしゃっていらっしゃいました。今日のスケジュールは変更出来ませんが、明日の午後以降のスケジュールであれば変更は出来ます」
「……暫く考えさせてくれ。別に今すぐってことでも無いから」
「かしこまりました」
 渡された資料にざっと目を通す。不明な専門用語や特殊用語の意味を訊いたりしながら、何とか全てに目を通し、大体の事を頭にインプットする。……どうせ、そんなに役には立たないだろうけど。
 全て読み終わる頃には、どう考えてもこの一件は、妨害で監視だとしか思えなかった。……まあ、俺が本当に『次期社長』になるなら良い勉強にはなるんだろうが。思わず苦笑いが浮かんだ。
 ……『次期社長』だって? 俺はそんなものになりたいか? 思わず笑いが込み上げてくる。……そんなもんはくそくらえだ。排水溝にでも投げ捨てて犬に食わせてやる。いや、犬じゃなくてハイエナか? 何だって良い。欲しい奴にくれてやる。俺は未来なんか欲しくない。俺は権力なんて欲しくない。金も名声も地位も、何もかも無意味だ。価値が無い。……それでも、まだ俺には何の力も無いから。抗う力も、『久本貴明』を倒す力も。
 いつか倒す目標。最大の指標。俺がこの世でもっとも憎む存在。『久本貴明』とその『王国』。俺がいつかそれを倒すまで、奴には生きて存在して貰わないと困る。俺の手に掛かる前に死なれたりしたら、俺は一生浮かばれない。……俺の、存在理由。
 何故だろう? ……復讐を考えてる時ほど、妙に頭がすっきりして、ひどく静かな気持ちになる。怒りを、憎悪を感じているのに。熱いのに、何処か冷えてる感じ。……俺の原動力、だからか? 誰にも言えない、誰にも言わない、俺のたった一つの望み。中原、以外は。
 他の奴だったら『やめろ』と制止するだろう。俺に『協力する』だなんて言うバカ、この世であいつ以外に知らない。たぶんいない。バカな事なのは知ってる。俺は『久本』がどんな組織なのか知ってる。『久本貴明』がどんな男なのかも。それを判っていて敢えて挑もうとする俺はバカ以外の何者でも無い。それでも……俺は俺自身の望みを、想いを止める事が出来ない。やめてしまったら、諦めてしまったら、俺は俺じゃなくなる。俺は『俺』を失くしてしまう。そうなったら俺は生きてられなくなる。存在なんか出来なくなる。『久本貴明』をいつか倒す。そう思う度に、胸が熱くなる。そう考える度に頭の中が冷えて静かになる。俺はその為に存在している。誰が何と言おうと、誰が何と否定しようと。俺はその為に存在している。例え何を犠牲にしようと。……それでも大切にしたいものは、この世にあるけど。『神』などこの世に存在しない。誰も『神』になどなれはしない。『神』などでは無い人間に出来る事なんてたがが知れてる。『神』は人を罰しはしない。『神』は人を助けはしない。だったら俺は、俺の望みを俺自身で叶える。ちょっと前だったら『俺一人の、俺自身の力で』って言ってたところだが、それはかなり無茶で無謀と知っている。だからこそ、俺は『未来』なんて奴を考えて無かった。『失敗』するつもりも無かったが、『成功』するとも思ってなかった。
 たぶん皆が俺をバカだって言うんだろう。誰も俺を認めてくれはしない。それはそれで良い。そんな事は望まない。肯定して貰おうなんて思わない。俺は俺の信じる道を行く。誰も巻き込まないつもりだった。たった一人で済ませる気だった。……でも、今、確実に中原を巻き込んでる。中原を巻き添えにして、茨道を突き進もうとしてる。
『……本当にそれで良いの?』
 律の声で、律の顔で最近語り掛けてくる、内部の『声』。
『それで本当に間違いないって、本当にそれで後悔しないって言える訳?』
 それはたぶん俺の『罪悪感』。律を殺した『後悔』が見せる俺の『迷い』。
『良いんだ』
 俺は言い返す。
『本当に? だって君は、龍也さんを巻き込もうとしてるんだよ? 君一人の問題じゃなくなってるのに、本当にそれで良いの?』
 それは俺の『惑い』。ぐらつきそうになってる俺の『不安』。だからこそ俺は言い返す。
『それが俺の決めた『道』だから』
 理由なんてどうでも良い。意味なんてナンセンスだ。誰の意見もどうだって良い。誰一人、『俺』自身には成り代われないのだから。俺の事は俺が決める。それ以外の価値観なんて知った事じゃない。
『自分の勝手で龍也さんを巻き込むんだ?』
 意地悪く『律』の声が俺に囁く。
『自分の都合に巻き込んで、それでも君は『良い』って言うんだ?』
 それはたぶん、俺が気にしてる事。きっと俺が心に引っ掛かってる唯一つの要因。それでも俺は言い返す。
『それでも俺は、他の道を選べない』
 今更他の『生き方』なんか出来ない。だって俺はその為の『選択』しかして来なかった。それ以外の生き方なんて俺は知らない。知ろうとも思わない。
「そろそろ出発のお時間です」
 後戻りなんてする気も無い。俺は前に進むだけだ。

 結局家に帰ったのは午後九時を回った頃だった。面倒だったから電気も点けずに着衣を脱ぎ捨て、裸でベッドに潜り込む。
「……いつもそんな格好で寝てらっしゃるんですか?」
 一瞬、ぎくりとした。何故か中原が俺のベッドの中にいた。
「……お前……何やってんの?」
「『久本邸』のセキュリティかいくぐって来るのも結構面倒なんですよ」
「……ってお前、まさか……」
 不意に、顎を掴まれて唇塞がれた。
「んっ……ふ……っ……」
 舌をすくい上げ舐め取り、吸い上げて、俺を引きずり込む。胸の突起をまさぐって、俺の内部に火を付ける。
「……ッカ……!!」
 そろりと舌先で腹を舐め上げられて、仰け反った。
「……は……ぁっ……!!」
 ゆっくりと扱き上げられる。
「あっ……ぁあっ……何っ……何やって……!!」
 くすり、と耳元で笑う声。
「……声が、聞きたくて」
 ひどく、甘い声で。囁くように。カッと耳が熱くなった。
「声なら電話で聞けば良いだろう!」
「……厭ですね。『直』だから良いんじゃないですか」
「……バッ……おまっ……大体っ……必要な事何も言わないでっ……こんなっ……余計な事ばっか……っ!!」
 中原は俺を扱きながら、自分の着衣を脱ぎ捨てて行く。俺はそれを感じて、びくりと背中震わせた。身体の奥が熱くなる。恥ずかしくなるくらい、俺は……情けなくなるくらい、中原を求めてる自分に気付いて……腰が浮きそうになるのを必死で堪える。
「……中原っ……まともな返事くらいしろよっ……!!」
「幾らこの辺りに他に寝室が無いって言っても、大きな声出すのはどうかと思いますよ? 聞かれたら困るでしょう?」
 そう言って、俺の両足を強引に開いた。
「何しに来たんだよ、お前っ……!!」
 声を懸命に抑えながら、喘ぎそうになるのを堪えながら。
「あなたを抱きに来たんですよ。……『我慢』できなかったから」
 思わずカッと血の気が昇った。
「……おまっ……最低……っ!!」
「どうでしょうね? ……あなたも嬉しいんじゃありません? 感じてるんでしょう? 我慢しなくて良いですよ?」
 そう言って、耳を舐め上げた。
「……っ……!!」
 必要最低限な事、言わないでこういう事だけすんのか!? 俺は……っ……俺を何だって……!!
「……『理由』……お前……っ……言わなかったろう……俺にっ……!」
 声を出来る限り低く絞って、快感の波に抗いながら、中原を睨み上げる。中原は笑った。
「……『間違いなく』対処出来たでしょう? 俺はその点は信用差し上げてるんですよ? ……あなたは、打ち合わせなんか無くたって十分対応できたでしょう?」
「……そういう問題か!? ……言えただろう。言う為の時間くらいあっただろう? それでもお前は言わなかった。言える事をわざわざ言わなかったんだ、お前は!」
「……ひょっとして俺が直接あなたに言わなかったって怒ってらっしゃる?」
 中原は笑みを含んだ声で。俺の両足の間に、自分の腰を押し付けて。俺の身体の奥が、思わず疼いた。
「言えば良いだろう。俺に言えないのか? 何で俺がお前の……っ」
 その瞬間、言いかけた言葉を思わず呑み込んだ。
「……何です? 郁也様」
 どきり、とした。
「……途中でやめられると気になるんですけど?」
 中原の指が、俺の『入り口』付近をなぞった。思わず呻いた。
「……ねぇ? 郁也様……」
 耳元で、甘く囁かれて。……口付けられて。
「ちゃんと言え。……ちゃんと話せよ」
 呑み込んだ『言葉』。どきりとした。自分が口にしようとした、その言葉の意味を謀りかねて俺は呑み込んだ。
『何で俺がお前の事『他』から聞かなきゃいけないんだよ!!』
 何だか言いたくなかった。中原の耳に入れたくないと不意に思った。理由なんか知らない。理由なんて無い。何だか『それ』がただの我儘でバカみたいな台詞に思えて。
「……急にお前の『事情』とやらを聞かされたら、俺だって動揺する。それくらい……判れよ。それともお前、楽しいのか?」
「……楽しいとしたら、そうやってあなたが噛み付いてくれるからでしょうね」
 くすりと中原は笑った。
「あなた、俺がちょっかい出したり厭がらせしないと、構って下さらないでしょう?」
「……っ!?」
 思わず、絶句した。
「……だから、困らせてみたくなるんですよ」
 かあっとした。
「……何だって!? お前……っ……お前まさかっ……!? ……そんなっ……それじゃ……小学生のガキと発想が変わんないじゃねーか!! そんなの!! 何考えてるんだ!! そんな事しなくたって、俺は……っ!!」
「……あなたが、俺が何もしなくても『会いたい』とか言ってくれる人だったら、俺もこんな事しなくて良いんですがね、あなた、言わないでしょう? 一言だって俺に言わないでしょう? こんなに俺の指に反応しても、一度だってあなた俺を求めたりしないでしょう? 結局俺一人がいつも空回りだ。……そんなのは最初から判ってる。大体、あなた俺が『厭がらせ』しても電話一つくれない冷たい人ですしね?」
 どくん、とした。
「……お前……『電話』されたかったのか……?」
「……今頃、そんな事おっしゃいますし」
 そう言った中原の声は、自嘲めいていた。ようやく、暗闇に目が慣れて、中原の顔が見えてくる。口元を引き歪めて笑っているのに、目がひどく淋しげに見えた。凄く悲しげに見えた。俺は思わず両手でしがみついた。
「なっ……!? 郁也……っ……様っ!?」
 びくり、と中原の肩が震えた。俺は噛み付くようにキスをした。それからぐっと体重を押し掛けた。ぐらり、と中原の上体が揺れて、そのままベッドに倒れ込んだ。俺は中原に馬乗りになった状態で、もう一度今度はゆっくりキスをした。中原の少し厚めの唇を貪って、舌を差し入れて中原の『形』を確かめる。健康で虫歯一つ無い丈夫で綺麗な歯並び。上顎の感触も大体の大きさも、その舌の熱さも、全部自分の舌で確かめて。中原の両腕が俺の背中に回された。ゆっくりと大きなごつごつとした手の平が、愛撫する。左手でしっかりと俺を抱きしめながら。
「……中原」
 唾液が、糸を引いて滴り落ちる。
「お前のやり方、判り難いんだよ」
 中原は顔を歪めて笑った。
「……判り易くしても判って下さらないクセに」
「『厭がらせ』なんかしなくたって、ちゃんと構ってやるから」
 中原は口元だけで笑った。
「あなたにそんな芸当は出来ませんよ」
「お前なっ!!」
「結局、あなたは俺の事なんてどうだって良いんだ。そんなのは知ってる。そんなのは十分判ってる。それでも俺が諦め切れないだけで。あなたにはどうせ迷惑で……っ!!」
「迷惑だなんて言ってない!!」
 俺は思わず大声で叫んだ。
「……そんな言い方するな」
 声が、掠れた。
「……そんな言い方するなよ。……俺は……」
 ぽつん、と涙が一滴、溢れ零れた。
「……どうしたらお前は満足する?」
「……郁也様……」
「……俺はどうしたらお前に報いられるって言うんだ?」
「……待って下さい!! 俺は……俺が言ってるのは!!」
「……どうせ俺はこういう奴だよ。薄情で冷たくて酷い奴だって言うんだろ? その通りだ。だったら何だ。俺はずっと昔からこういう人間だぞ? お前知ってるだろ? 俺は……俺はお前のこと、もう二度と切り捨てられない。お前から逃れる事なんて出来やしない。お前を他人のように見る事はもう二度と出来やしないんだ。ここまで深く俺の中を『浸食』しておいて、今更何を言ってるんだ!! ……お前、俺に何を求めてる? 一体何を期待してる? はっきりと言えよ。ちゃんと言ってくれよ。俺は……俺はお前に振り回されてっ……訳判らねぇよ!! 判り易く言ってくれよ!! 俺には全然判らねぇよ!! もっと判り易い言葉で言ってくれよ!! 俺にお前を理解させてくれ!! お前を理解したいんだよ!!」
「……あなたが、俺に『報いよう』なんて考えてるうちは、俺の事なんて絶対理解できませんよ」
「……なっ……!?」
「……泣きたいのは俺の方だ。いつもいつも、俺ばかりが引きずられて困惑させられて、掻き回されて。いっそのこと、全部諦めてしまえば楽なのに、あなたはそれすら許してくれない。いつまでも俺は先に進めなくて、何処にも行けなくて、あなたを好きになれば好きになる程、満たされなくて癒されなくて……っ!!」
「……俺がいけないのか!?」
「そう考えてるうちは、俺は絶対『報われない』ですよ。報われようとも思ってませんが」
「だったら俺はどうすれば良いんだよ!!」
 中原は苦く笑った。
「……何もしなくて結構ですよ」
 胸に、氷の刃を刺されたかと思った。……ひどく、静かな冷たい声。俺を突き放すような。
「……俺の為に『何か』しようなんて、それこそ良い迷惑です」
 硬直して、声も出ない。身体が、震えて呆然とする。
「……『罪悪感』でなんか、触れられたくない。『哀れみ』なんかで気を使われたくない。……それでも、俺はそれをはね除けられる程、強くも冷静にもなれなくて……判ってるのに……頭では判っているのに……どうしても……俺は……」
「俺がお前を好きだと言っても『駄目』なのか?」
 中原は冷笑した。
「……その『好き』は俺の『好き』と意味が違うんでしょう?」
 くっくっと喉を鳴らした。
「……そんな事言われるの、かえって『迷惑』ですよ」
 胸を、心臓を突き抜かれる。声が一言も出ない。頭が真っ白になって、身体がカッと熱くなった。ぶるぶると震えて、止まらない。
「そ……それでもっ……!!」
 声を振り絞り、叫んだ。
「……それでも俺はお前を!! お前が俺を『必要』としてなくたって、俺が『必要』なんだ!! 『迷惑』とか言うなよ!! 意味とか定義とかそんなの関係無しに、俺がお前を『好き』だと思うそれだけじゃ駄目なのか!? お前に『迷惑』だなんて言われたら、それこそ俺が報われないだろう!!」
「…………」
 中原はじっと俺を見つめた。
「頼むから『迷惑』とか言うなよ。……痛いんだよ、お前の言葉」
 言うと、中原はゆっくりと俺の肩先に唇を押し付けた。濡れた音を立てて顔を上げると、同じくうなじに口づける。
「……判ってるのか? 中原」
「……あなたこそ、俺があなたの言葉にどれだけ振り回され、ヤラレてるか知らないんでしょうね?」
 そう言うと、俺の肩を掴んで押し倒した。
「おい!! 中原っ!!」
 胸に、腹に、繰り返し縦横無尽に口付けられて。俺は引きずられそうになりながら、中原の髪を掴んだ。
「返事くらいしろよ!」
「……あなたから逃れられないのは俺の方だ。あなたが好きだ。報われようと報われまいとあなたが好きだ。あなたが俺を好きじゃなくても良いくらい、あなたが俺を石ころにしか思ってなくても良いくらい、あなたが好きだ。……それでも、俺の心は痛むんですよ。痛くて痛くて苦しくなる。あなたと触れれば触れるほど、俺は満たされたいと思うのに、かえって飢え乾いて渇望するんだ」
「……中原……っ!!」
「……あなたに『同情』で『親切』されるくらいなら、冷たく突き放された方がマシだ。……心の奥ではいつもそう思ってる。だけど、実際の俺はそうじゃない。『同情』でも『哀れみ』でも良いから、あなたが欲しいと思ってる。俺はそんな事は許せない。俺はそんなのは厭だ。そう思ってるのに……あなたに優しくされると引きずられる。あなたに甘い台詞言われれば、飼い犬のように尻尾を振ってあなたにむしゃぶりつきたくなる。……それが後で空しさにしかならないとしても。かえって『後悔』にしかならないとしてもだ」
「……中原……」
「……あなたはこんな『俺』は受け入れられないでしょう?」
 中原は意地悪く笑った。
「中原!!」
「……だからもう、良いんですよ」
「中原!!」
 何て言えば、良いんだ? 俺は中原に何て言えば、気持ちが伝わるんだ? 俺は中原が傷付いた顔するのを見たくない。俺に傷付けられてるなんて顔されるのは見たくない。俺はただ、中原に笑って欲しいだけなんだ。過去はともかく、今、現在は。
「……だったら、そんな顔するなよ」
 泣きたかった。
「そんな顔で笑うなよ。……良く無い癖に、良いと思ってない癖に笑うな。俺は……お前の苦しそうな顔、見たくないんだ。見せるなと言ってる訳じゃない。俺はお前に、幸せになって欲しいんだ。幸せそうに笑って欲しいんだよ」
「……今は無理ですよ」
 中原は笑った。
「……今は絶対に無理だ……」
 胸に、言葉が突き刺さる。
「……俺があなたを好きじゃなくなったら、たぶんそんな風に笑って差し上げますよ」
 全身を、痛みが貫いた。
「……中原!!」
 中原は身体を引き剥がした。俺は中原の肩を、又は腕を掴もうとする。だが、中原は俺の手から逃れた。
「何処へ行くんだ!! 中原!!」
「……タイムリミットです。そろそろ行かないと。俺はここにはいない筈の人間ですから」
「待てよ!! 今、お前何処にいるんだよ!! 何してるんだ!? 言えよ!! 教えてくれ!! お前肝心な事何一つ言わずに……!!」
「……そう思うなら、電話すれば良いんですよ。もう行かないといけませんので」
 そう言うと、冷静な顔で服を着始める。俺は思わず肩を掴んで、キスをした。滅茶苦茶夢中でキスをした。何も考えずに。唇を、舌を絡めて貪って。中原の右腕が、俺の腰に回された。中原の舌が俺の舌を更に強く引きずり込んで、俺の唇を強く吸った。
 中原の指が、肩先から胸へと這う。俺は微かに吐息を洩らした。
「本当にマズイんですよ」
 唇離すと、困ったように中原は笑った。
「……後で、電話します」
 落ち着いた、穏やかな表情で。
「……俺も……何かあったら電話する」
「……お願いします。……郁也様?」
「……何だ?」
「……あんまり俺を誘惑しないで下さい」
「なっ……!?」
 思わず顔に血の気が昇った。
「一瞬、理性が吹っ飛ぶかと思いましたよ。俺の理性、あんまりむやみに吹っ飛ばさないで下さいね?」
「……何言って……」
「……まあ、でも良いお土産にはなりましたけど」
「……土産?」
 中原は笑った。
「後で、電話しますから」
「……ああ。気を付けてな」
「……それでは」
 そう言って、中原は部屋の外へと出て行った。

To be continued...
Web拍手
[RETURN] [BACK] [NEXT] [UP]