NOVEL

週末は命懸け5「抱擁」 -8-

 移動途中で、昭彦に掛けてみた。……けど、繋がらない。コールはするけど、誰も出ない。部活中? ……かも。仕方ない。夜にでも掛けるか。諦める。……怒ってる……だろうな。たぶん、怒ってるよな? ……悪気は無い。本当に掛けるつもりだったんだ。忘れる気なんて毛頭無くて。……あああ、頭痛い。ズキズキする。何てこった。畜生。色々頭痛い事ばっかりで……。全部俺のせい? 俺が悪いのか?……厭になる。目の前にいる男は、一体何考えてるんだか、判りゃしないし。
「……何だよ?」
「……別に」
 含み笑いするし。……何が楽しいんだか。
「……さて、と。そろそろ着きますね」
「……言い訳は考えたか?」
「口添え頂けるんでしょう?」
「俺にあんまり頼るなよ?」
 憮然とする。
「……安心して下さい」
「……その台詞が一番信用ならないだろう」
 中原は笑った。駅がホームに入る。アナウンスが流れる。俺と中原は車両を降りた。二人で改札を出る。……不意に、中原が立ち止まった。どきりとして、俺も立ち止まる。中原が一点を見ていた。俺もそちらを見る。そこにいたのは六十から七十の、頭の禿げ上がった爺さん。中原が、ごくりと息を呑む気配を感じた。中原の顔を見る。中原は……まるでこれから怒られるのを覚悟して待ってる子供みたいな顔して。
「?」
 その爺さんがゆっくりとこちらへ歩いて来る。
「……龍也君」
 重々しい声で、爺さんは厳粛に口を開いた。中原が、ますます固さを増した。直立不動で突っ立って、身動き一つしない。
「……私の言いたい事は判ってるね?」
 中原は何も言わない。
「……こんな物は受け取れない。……判ったね」
 そう言って、何か小包のような袋を差し出す。中原は手を出そうとしない。
「……龍也君」
 咎めるような、口調で。中原はそっぽ向く。
「……それは既に、そちらに渡した物と思ってますから」
「冗談じゃない!! こんな大金受け取れる訳があるかね!! 無理してまで欲しくないんだ!! それくらい判らないのかね!?」
 俺はぎょっとした。ずっしり重そうなそれ……もしそれが全て万札だとしたら……重箱二段分くらいだぞ!? 一体幾らあるんだよ!! おい!!
「……俺は受け取るつもり、ありません」
「私だってこんな物、受け取るつもりは無い!! 君の生活、阻害するような事までされたって『迷惑』なんだよ!!」
「……返されたって困ります」
「私だってこんな物、自宅の郵便受けに入れられたって困るんだよ!! それに何だい!? この手紙は!!」
「……気にするほどの事でも無いでしょう? 久本貴明殿の『ご連絡』ですか? 『お出迎え』は」
 中原は冷笑した。
「全く君という子は……っ!! 人がどれだけ心配したって気にも止めないんだから!!」
「……済んだ事はもう良いじゃないですか。倉敷[くらしき]さん」
 『倉敷』とか呼ばれた爺さんは憮然とした。
「……とにかくこれは君に返す。こんな物は受け取れない。……君から受け取れないと言ってる訳じゃない。こういう必要最低限度以上の事をされると、『迷惑』だって言うんだよ。ただでさえ……普段『生活』出来てるのかどうか不安になるくらいの『額』を……」
「……そういう『下世話』な話はやめて頂けます? 倉敷さん」
「『倉敷さん』でも『ハゲ院長』でも何でも良いが、とにかくこれだけは受け取れない。君が受け取らないと言うなら、久本さんに渡すよ? それでも良いかね?」
 中原は舌打ちした。
「……判りました。受け取りゃ良いんでしょう? この、頑固ジジイ」
 言うと、爺さんは顔を少し綻ばせた。
「……二度と、しないで欲しいね」
 そう言って、包みを中原に渡す。俺はぼうっと見ていた。不意に、爺さんが俺の方を見る。
「……久本さんの息子さんかね?」
 言われて、会釈を返す。
「……『似てる』ね」
 穏やかに、微笑まれた。俺は複雑な顔になる。中原は笑った。俺は憮然として言う。
「……そうですか?」
「……どことなく、目元なんかがね。雰囲気も少し似ているよ」
 俺はちっとも喜べない。中原が俺の肩に腕を回す。
「……在りし日の『四条貴明[しじょうたかあき]』よりも『可愛らしい』でしょう?」
  爺さんは苦笑した。
「……『広香[ひろか]』ちゃんにも似ているね」
 俺は複雑な気分になった。中原を見ると、中原も何だかそうみたいだった。
「……そうですか?」
 不満そうに、中原が言った。爺さんは笑った。
「……そのうち遊びにおいで。……また」
 中原は憮然とする。爺さんは穏やかに笑った。
「……妻は寝たきりだが、元気だよ。時折昔の話をする」
「……俺はもう……」
 中原は何だか痛そうな顔になる。
「……私達が黄泉路へ渡る前で良いよ。いつでもおいで」
 そう言って、会釈して立ち去る。俺達も会釈を返す。中原は深い溜息をついた。
「……あの爺さん、苦手?」
 小声で中原に言うと、中原は苦笑した。
「……『得意』にはなれそうにないですね。厭な事知られてるし」
「……厭な事?」
「教えてあげません」
 ……何だよ、それ。憮然とする。中原は苦笑した。
「……別に構わないでしょう?」
「……お前、な」
 溜息つく。
「……『金の掛かる趣味』?」
 中原は眉をひそめた。
「……なんかそういう感じだったよな?」
 俺が言うと、中原は心底厭そうな顔になった。苦虫噛み潰したみたいな。
「……そんなに厭?」
 聞くと、大仰な溜息つかれた。
「……誰にでも言わないで下さいよ」
「うん?」
「……『恩義』があるんです。別に作りたくもなかった『借り』ですけど」
 本当、気に喰わなさそう。何がそんなに面白くないんだ?
「その『借り』を返してるだけですよ」
「……『借金』でもあるのか?」
 真顔で言うと、中原が変な顔した。
「え!? 何!?」
 途端、大爆笑された。物凄い大笑いされて。腹を抱えて笑い出されて。
「なっ……何だよっ!?」
 動揺する。中原は俺の事なんか構いもせずに笑い転げ、爆笑しまくって、喉をヒィヒィ鳴らして咳き込んだ。
「……ああ、おかしかった」
 やっと立ち直って。俺は憮然とする。
「……そんなに笑う事無いだろうが」
「……やっぱり、郁也様。あなた相当変ですよ」
「お前に言われたくない!!」
 俺はきっぱり言った。中原はにやにやと俺を見る。面白そうに。
「……何だよ?」
「……内緒ですよ? あの人、『施設』の院長やってるんです」
「……『施設』ってまさか……」
 確か、中原が以前、養護施設か何かにいたとかいうようなこと、言ってた気がする。そう言えば『広香』って……。
「お前が妹とかといたって……?」
「後は想像にお任せします」
 そう言って、中原は歩き始める。俺も慌てて松葉杖ついて追い掛ける。
「……そんなに『隠す』事か?」
 俺は訊いた。
「……誰にでも言う事じゃ無いでしょう」
「……お前、もしかして照れ屋?」
「そういう問題ですか? 色々詮索されるのが嫌いなだけです」
 っていうかお前……そんな風には見えなかったぞ?
「……じゃあ、何? お前……もしかして自分『善人』に見られるのが無性に厭とか……そういう訳か?」
 その途端、隣りを歩いてた中原の顔が真っ赤に染まった。俺は思わず凝視した。……何!? そんなに動揺するか!? まさか……図星!?
「……お前……」
 頭、痛くなった。
「……お前、それじゃ勘違いばっかされるだろう」
「……何の話ですか?」
 真っ赤な顔で空惚けられても。
「……判った。もう、追求しない。それで良いか?」
 中原は返事しない。黙々と歩く。駅のコンコース突っ切って出口へ向かうと、見慣れたベンツと運転手が立っていた。
「おかえりなさいませ、郁也様」
 俺は会釈した。
「……ご苦労だった、坂井。家までやってくれないか?」
 そう言って、中原をちらりと見る。もう普通の顔してる。中原は何か言いたげな顔をした。二人で車へ乗り込む。俺達は終始無言で。家の門に辿り着いた時、俺はどきりとした。
「!?」
 家の正門前に、中西聡美が立っていた。思わず、目を疑った。
「止まってくれ」
 そう言って車、停めて。俺は一人、降りる。何でここに!? どうして、よりによって中西が!? 呆然とする俺に、構わず中西聡美が歩み寄って来る。
「お願いだから、連絡してあげて」
 きっぱりとした、口調で。どういう意味か判らずに、俺は中西の顔をマジマジと見た。
「知子と藤岡君、両方に。悔しいけど、私じゃ力になれないの」
「……何で……俺?」
「知らない」
 中西は俺から顔を背けて言った。
「でも、あなたの方が適任なの。……用件はそれだけ。絶対して。……じゃないと絶対、許さない」
 憎悪にも、似た瞳で。
「……判った」
 そう言うと、中西聡美は俺の顔も見ずに、スタスタと歩き去った。俺はもう一度車に乗り込んだ。
「……悪いけど、中原。俺、ちょっと行って来る」
 中原は憮然とする。
「俺に一人で帰れと? どの面下げて?」
 俺は財布からクレジットカード一枚取り出した。
「これで何処かホテルでも泊まれ。……たぶん、今日は昭彦の家で泊まるから」
「……いつもと逆ですね」
「ちゃんと領収書貰えよ? 明細付きで。俺の金じゃないから、うるさいんだ。米崎が」
「……判ってますよ」
 中原を下ろして、ひとまず太田の家へ向かった。太田の家は中西のアパートの通りより大通りから一本手前。一般的な二階建て。庭付きマイホーム。秋田犬を一匹飼っていて。車降りて、チャイム鳴らした。インターホンが入る。
〔……はい〕
「……同じ高校の久本と申しますが、知子さん、いらっしゃいますか?」
 誰か歩いて来て、ガチャリと戸が開く。太田の母親と思しき女性。憔悴してる。……そりゃそうだ。一人娘がつい一昨日、誘拐から帰ってきたばかりだ。顔色がひどく悪い。
「……どうぞ。あの子……気が立ってるようで、失礼な事言うかも知れませんが……どうか……気を悪くせずに……」
「いえ、お気になさらず」
 太田の母が、疲れ切った声で。
「……出来れば、力づけてやって下さいますか?」
「え? ……ええ」
 何だか、変な感じがした。少し。太田の母親が二階に声掛ける。
「知子、お客さんよ」
 返事は無い。太田母は溜息をつく。
「二階の一番手前の部屋です。後でお茶を、お持ちしますから」
「……すみません」
 そう一礼して。二階へ上がる。太田の自室をノックする。
「やめてよ!! もう話す事なんか無いわ!! 帰って!! 聡美!!」
 俺は一瞬、面食らった。何か気まずい感じ。余計な事、知ってしまったような。深呼吸する。
「……ごめん、俺。中西じゃないんだ。突然押し掛けて悪いと思ってるんだけど……久本郁也」
 はっと息を呑む気配。
「……顔も見たくないだろうと思うけど……すまない。入って良いか?」
「……どうしてあなたが!?」
 ここで中西に頼まれた、なんて言ったら怒られるだろうな。
「……心配、だったから」
 部屋はしんと静まり返った。
「……迷惑掛けて、すまなかった。俺の家の事情に太田を巻き込んで、とても申し訳ないと思ってる。顔を……見せてくれないか? 俺にそんな資格無いのは知ってる。けど、会って話したいんだ。駄目かな?」
 ドアが開いた。泣き腫らした顔で、俯いたまま。髪も縛らずに、そのまま垂らして。部屋の窓もカーテンも締め切ったまま。クーラーは掛かってる。
「どうぞ」
 膨れっ面にも見える表情で。無愛想に、ぶっきらぼうにそう言い放ち、部屋の奥の隅っこに太田は座った。部屋ほぼ中央の、勉強机前の小さなテーブル前には、先客が使った物と思われる、座布団がそのままあった。何処に座れとか言われなかったので、躊躇しながらそこへ座った。
「怪我してるから、ちょっとみっともない姿勢するよ」
 左膝立てて、右足放り出すようにして。
「……右頬と……首筋……」
 ぽつん、と太田が言った。
「……大した事無いんだ。首だって一週間くらいで治るような切り傷で。それより、太田は? 怪我なんてしなかった?」
 その途端、太田の両目から、大粒の涙が溢れこぼれた。俺はぎょっとした。思わず、息を詰めた。……物凄く、厭な予感がした。
「……太田!?」
「……ごめん。何でも無いの」
 掠れた、声で。思わず、カッとした。
「『何でも無い』って事無いだろう!!」
 思わず、俺は立ち上がった。太田の肩がびくりと震える。……ギクリとした。
「……ごめん!」
 そう一言告げて、松葉杖ついて歩み寄る。太田はギクリとして逃げようとする。俺は太田の手首を掴み、引き寄せその首筋の『痕』を見て、愕然とした。……一瞬、頭が真っ白になった。
「……太田!?」
 思わず、声が震え上擦った。太田は震えていた。ガクガクと震え、脅えていた。俺は血の気が一気に引いて、それから逆流するのを感じた。
「……あいつらっ……!!」
 服の合間から除く荒々しい『痕跡』。あの『地下室』では気付けなかった。胃がムカムカした。全身の血が、沸々と煮えたぎり始めるのを感じた。我知らず、太田を胸に抱いていた。細かに震える華奢な身体を感じながら、俺は怒りに震えていた。空を仰いで、唇噛み締めて。
「……ぶっ殺してやる……っ!!」
「……ひっ……さもとっ……く……んっ!!」
 俺の胸の中で、太田が脅えたような声を上げる。
「……奴ら全員、一生後悔するような目に遭わせてやる……っ!!」
「……久本っ……君!!」
 泣き叫ぶような声。
「……もういいっ!! ……もう良いから……っ!!」
「『良い』訳無いだろう?」
 我ながら、ひどく冷たい声。
「……『良い』訳が無いだろうが」
「……だってっ……!!」
 泣き顔で、太田が俺を見上げてくる。俺は出来るだけ、優しい笑顔を作った。
「……今更、謝ったって仕様が無いけど……本当、ごめん。俺は本当バカで考え無しで……恨むなら恨んで良い。ただ……辛い事は出来るだけ早く……忘れてくれ。勝手な言い分だけど……じゃないと、苦しいだけなんだ。……太田、医者には診て貰ったか?」
 こくり、と頷かれる。
「……俺……こういう時、何をどう言ったら良いか判らないけど……本当に、すまなかった。今後二度と、こういう事にならないようにするから」
「……って久本君……っ……何を……!?」
「大丈夫。悪いようにはしない」
 太田を落ち着かせようと、出来るだけ優しい笑みを作って。太田はまだ震えながら、それでも俺をしっかり見て。
「……ねえ、今……何を考えてる?」
 少し脅えるみたいな声で。俺は笑った。
「心配しないで、本当。二度と巻き込まないから」
「何考えてるの!? 久本君!!」
 ひどく、冷えた気分になっていた。
「君にはもう関係させない。俺が……何とかする」
「『何とかする』ってどういう事よ!!」
 ヒステリックに叫ぶ太田に、頬を寄せる。
「お願いだから、落ち着いて。中西も君を心配してる。俺なんかの言葉じゃ、どうにもならないかもしれないけど……俺……」
 真っ直ぐに、太田を見る。太田が潤んだ目で、俺を見てる。
「……力になりたいんだ。俺じゃ、太田の心まで救えないのは良く判ってる。けど、絶対何とかするから。……二度と、こんな事させないから」
「……久本君……」
「……酷い言い方だけど、負けたりしないで。俺は……『強い』瞳をする太田に憧れてるから……」
「……私、強くなんかない」
 ぽつりと、太田が言った。
「ごめん」
 俺は素直に謝った。
「……かなり自分勝手な思い込みだから。無視して良いよ。俺の戯言。……また、俺を怒鳴りつけてよ? 今は無理なの判ってる。……辛い事なの、判ってる。……判ってる……つもりだ。相手を許せないだろう事も。俺だって……」
「……久本君」
「……ごめん、帰るよ。ゆっくり……休みたいだろ? ごめん。……急に、抱きしめたりして」
 身を引き離そうとすると、太田にしがみつかれた。目の前が、くらりとする。
「……えっ……!?」
 眩暈。混乱。動揺。動悸。高揚。
「……ちょっ……ちょっと太田……!?」
 どくん、と心臓が跳ね上がる。
「……ごめんなさい……」
 消え入るような声で。
「……しばらく……お願い……こうしていて……」
 目の前がくらくらした。甘い、誘惑。駄目だ、俺……今、とんでもない事考えてる……っ!!
「…………太田……っ」
 心臓が、バクバク音を立てる。血の気が昇ってくるの、感じる。
「……太田っ……そのっ……!!」
 白い、首筋。華奢な、肩。細い腕。小さいけど柔らかな胸の膨らみ。どきん、とした。髪の毛から香ってくる、甘い匂い。フローラル系の。太田の髪が、俺の腕や胸に絡み付いて。太田の細い腕が、俺の背中、回されて。胸が太田の涙で濡れていく。その首筋に、不意に口づけたくなった。その胸元を開いて、顔を埋めたくなった。……何考えてんだ!! 俺!! この状況で!! ……冗談じゃない。そんな事したら、今度こそ太田に、口利いて貰えなくなる。心臓が、爆発しそうに波打ってる。
「……太田っ……!!」
 思わず声が上擦る。男としては、ここで太田を抱きしめてやるのは当然だ。当然だと思うけど……これは拷問じゃないか!? だって、俺と太田は恋人同士じゃないんだぞ!?
 ……けど、二の句がどうしても継げない俺……。暴走しそうな下半身の欲望を、両目瞑って息を呑んで押し堪えて。辛抱強く、太田が顔を上げるのを待って。
「……ごめんなさい、久本君」
 真っ赤な顔で。たぶん、俺の顔も赤い。
「……良いけど、恋人でもない男に、こういう事するのやめとけよ? ……もう少しで危うく、キスするトコだったぜ?」
 太田は更に赤くなった。
「……ごめんなさい……」
 消え入りそうな、声で。
「……変な気起こされたくないだろ? ……俺、今度こそもう、帰るよ。……じゃあな、太田」
 太田は耳まで真っ赤にして、頷く。
「……この次会う時、元気な顔、見せて」
 俺、かなり調子に乗った事言ってる。
「……うん。……有り難う」
「……礼言われる事、してない。元気でな」
「……久本君も」
 部屋を出ると、丁度太田の母親がお茶を持って来たところだった。
「……すみません。わざわざ申し訳ありませんが、これで失礼いたします」
「……こちらこそ、わざわざお越し頂いたのに……」
  俺は会釈して、太田家を後にする。車の運転手に、声を掛ける。
「……悪いけど、もう帰って良い。気が変わった。すまない」
 運転手を、先に帰す。歩きながら、携帯を取り出し、コールする。
〔……はい?〕
「中原? ……俺」
〔……どうしました?〕
「……お前、楠木の『ボス』を知ってるんだったよな?」
〔……郁也様?〕
 不審そうな、声で。
「俺に教えろ」
〔……何を、企んでるんですか?〕
 俺は苦笑した。
「……今、何処にいる? そっちへ行く」
〔……ビジネスホテルです。……一階に喫茶店があります〕
「そこで待ち合わせよう。……何処だ?」
〔……葛名町です。クリスタル・ホテル裏の道路、三本目左に曲がった処〕
「……判った。十七分くらい掛かる。待ってろ」
〔……何考えてるんです?〕
「お前は『嫌い』じゃないだろう? 『適度』な『運動』させてやる」
〔……待って下さい、郁也様……っ!!〕
「大丈夫。『適度』な『運動』だ。『過剰労働』はさせないから『安心』しろ」
〔……一体何があったんです!?〕
 俺は苦く笑った。
「……モバイルか何か端末、あるか?」
〔……何もありませんよ。一通り始末したので〕
「……じゃあ、『用意』しとけ。たぶん要る」
〔……郁也様?〕
「……詳しい話は後だ。遅くなっても良い。喫茶店の名前は?」
〔……『時雨』〕
「……判った。じゃあ、又後で」
 通話を切る。俺は徒歩で葛名町へ向かう。すぐ隣の町名だ。沸々と煮えたぎる、冷たい『怒り』。ひどく、冷えていて、しかも熱い。苦い笑みが浮かぶ。……俺は連中の顔をもう一度、思い返した。……絶対、ただでは眠らせない。楽になんて、させてやらない。『頭』なら、尚更だ。……殺してやるのなんて『簡単』だ。そんなのはバカにだって出来る。『保身』を考えなかったら。そんな事したって無駄だ。首から上がすげ変わるだけで、何の意味も無い。虚しいだけだ。……大事なのは、『二度と』させない事だ。『不可能』にするか、『その気』を無くさせるか……『無効』にするか。
 『復讐』でも『報復』でも無い。これは『自衛』であくまで、太田を『護る』為だ。『過剰』だと言われても良い。要は『犯罪』にならなきゃ……『犯罪』として訴えられなきゃ良い。『死ぬ』より苦しい想いさせてやる。何も『物理的』に苦しめる必要なんて無い。ゲスな連中の為に、わざわざ白い手を汚してやる必要なんて無い。要は『後悔』させてやれば、それで良いんだ。二度と、そんな事考えられないように。

To be continued...
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