NOVEL

週末は命懸け4「慟哭」 -2-

 翌日。朝食を食べて薬飲んだ後で、俺はうっかり眠り込んだらしい。気付くと、日が高く昇っていて、周りに誰もいなかった。珍しい。こういう事もあるもんだ。俺は起き上がり、ふとドアの向こうに人の気配を感じてどきりとした。
「……入れよ」
 俺は言った。……予想通り、というか。躊躇いがちに、ドアを開けて入って来たのは、白神多可子だった。俺は溜息をついた。
「……来いよ」
 入り口付近から、動こうとしない相手にそう言った。多可子嬢は躊躇いながら、それでも言う通り、部屋に入り、俺の方へ歩いてきた。手には白い蘭の花。最初に持ってきた奴だ。
「……昨日、どうして入らずに帰った?」
 すると、多可子嬢は顔を赤らめた。
「……あの状況で、入れと言う訳!?」
 何故か怒ってるようだった。俺には全然訳判らない。憤然として言われる。
「……って言われたって……」
「あなた!! あの子が好きなクセに、私と婚約なんかするつもりな訳!?」
 心臓を、握り潰されるかと思った!!
「……なっ……!!」
「騙されないわよ!! あなたの顔、バレバレだったわよ!! 彼女、あなたの恋人!? ああいう人がいながら、良くもまあそういう事平然と出来るわね!!」
「……なっ……!!」
 何を言ってるんだ、と思った。どうしてこの女に、こんな事言われるのか全く理解できなかった。
「……ただの同学年で顔見知りだ。……恋人なんかじゃない。……それより……そんなにバレバレだったか……?」
「アレで判らない方がどうかしてるわよ!! 頬なんか染めちゃって!! 一体誰かと思うわよ!!」
「っ!?」
 愕然とした。俺はそんなつもり、毛頭なかった。
「……そんなに!?」
 嘘だろ!? 俺……すげぇバカ!! 全然そんなの……自覚無かった……!! 律の事からそんな間がないクセに……俺……全く迂闊……!!
「信じられないわよ!! あなた、良くまあそれで婚約なんかする気になったわよね!! 父はあなたの怪我が治り次第、正式発表するつもりよ!! 一体どうするつもりな訳!?」
 ……そんなっ……俺は……っ!!
「……別に俺はあいつに……関わるつもりなんて毛頭ないよ……」
「だったら何よ!! あの態度は!!」
「……俺はあいつの好きな男を『殺した』奴だ。直接殺した訳じゃないけど……憎まれて当然で……殺されたって仕方ない」
「……!?」
「俺は嫌われてるから、別に良いんだ。けど……そんなに俺、あからさまだったか? そうだとしたら……かなりヤバイんだけど」
「……何を……」
「……君は一体いつ、この病室へ来た?」
「……ついさっきよ。……ついさっき。そんな事聞いて一体……」
「……何だか酷く厭な予感がする……」
「一体何なのよ!! ちょっと!! 人の話は聞きなさいよ!! 傍若無人も良いとこね!! 無視しないで!!」
「うるさいな!! 考え事してんだから……」
「人がいる処でそんな事しないでよ!! そんなのだから嫌われるんでしょうが!!」
「うっせーなっ!! 君にそういう事言われる筋合い無い!!」
「何ですってぇ!?」
「ゴチャゴチャうるさいんだよ!! 大体、何の用事で来たんだよ!!」
「何よ!! 用事がなきゃ来ちゃいけないの!?」
「だったら君が、何の為にここへ来るって言うんだ!! 喧嘩売る為か!? 迷惑なんだよ!!」
「仮にもこれから婚約しようって相手にそういう事言う!?」
「大体、そりゃ『お仕着せ』だろうが!! 自分の意志でもないクセにゴチャゴチャ言うなよ!! 自分で好きでそうする訳でもないのに、良くもまあ言えたもんだな!!」
「何ですって!? あなたっ……何っ……!!」
「親の『意向』に逆らえもしないクセに、俺に文句言うか!? 俺だって『社長』の『意向』でさえなけりゃ……っ!!」
「酷い!! 『父親』の『意向』だから『婚約』するって言うの!?」
「それ以外に何の『理由』があるってんだよ!!」
「最低!! あなたなんか死んじゃえば良いのよっ!!」
 花束投げ付けられる。咄嗟に庇いきれなくて、顔面直撃する。目に当たって、思わず押さえた。涙が滲む。……くそぉ……何て事すんだ……この暴力女……。傍にあったタオルで、目を拭う。うわ……最低……マジ痛い……畜生。
 ようやく顔を上げた時には誰もいなかった。何て女だ。……ひでぇ暴力女。タオル、松葉杖付いて、流しまで行って濡らして目に当てる。部屋はしんと静まり返ってる。楠木も曽我部もいない。どうしたんだろう? 思いながら、ベッドへと戻る。それから気になって、……太田が。俺は携帯を取り上げて昭彦へと回した。
〔……はい?〕
「昭彦? ……俺」
〔……郁也? どうしたの?〕
「悪いけど……頼みたい事、あるんだ」
〔……良いけど……何?〕
「済まないんだけど……太田に、さ。太田が無事かどうか……最悪、中西経由で良いから調べて欲しいんだ」
〔……郁也?〕
「いや、変な事言ってるって自覚ある。俺も……確証はないんだ。ただ……厭な予感がするって……今はそれだけしか言えないんだけど……」
〔……お前、また何か俺に隠し事してないだろうな?〕
「してないよ。本当。……頼まれてくれないか?」
〔……そう言われて、断る訳にいかないけど……本当……隠し事だけはするなよ? 俺……どれだけ今回の件……心配したと思ってる?〕
「……判ってる……」
〔……判ってるって言うけどね……郁也……何もお前……俺に言わないだろ? 今回だけじゃない……前回だって……大事な事は全部自分の胸の内に仕舞ったまま……俺だけ蚊帳の外じゃないか〕
「……別にそんなつもりは毛頭……」
〔……郁也……そんなに俺に心配掛けるの厭? だけど、お前、言わないでいる方が俺、心配なんだぜ? そんなに俺、頼りない? それとも全然信用できない?〕
「……信用できないとか……そういうんじゃない」
〔じゃあ、どうして今回の事……何も話してくれなかったんだよ……過去形じゃない……今もだ〕
  胸が……痛い。
「……悪い、昭彦。お前には本当……悪いと思ってる……。ただ……今は何も話したくないんだ……思い出すのも……痛くて……」
〔……郁也……〕
「……話せるようになったら……いつか……話すよ。……けど……今は……とても……」
〔……そう言われたら……俺は何も言えないけど……けど……絶対だぞ? 俺は本当……心臓潰れるかと思うくらい……心配したんだから……お前が屋上から転落したって聞いて……どれだけ死にそうな想いになった事か……〕
 胸が、痛い。
「……悪かった、昭彦……」
〔それだけ殊勝だと俺もかえってこっちが悪かったかなとか思うけど……けど、忘れるなよ? 俺は本当いつもお前が心配なんだ。お前……危なっかしくて……とても放っとけないよ……〕
「……昭彦……」
〔……頼むから少しは自重してくれ。お前はさ……本当ちょっと恐いトコあんだよ。割と目の前見ないで暴走するような……だから俺は心配で……たまらなくなるんだ〕
「……本当……悪かった……昭彦……」
〔……忘れるなよ。お前は一人じゃないんだ。お前に何かあったら、俺が悲しむって……俺が苦痛感じるって……それだけ……忘れるなよ〕
「……有り難う、昭彦」
〔……又掛けるよ〕
「……そうしてくれるか?」
〔そうさせるつもりだったくせに、何言ってるよ? 大体、お前……昔から人使い荒くて……傍若無人なクセして良く言うよ〕
「……随分だな」
〔……自覚無いようなら、重症だよ。じゃあね〕
「……またな」
 通話は切れた。……何か、厭な予感。不安になる。何か大事な事、忘れてるみたいな。
 目の痛みも大分取れてきた。傍のテーブルにタオルを置いた。窓の外に目を遣る。良い天気。夏の青い空。怪我さえなければ、何処か行きたくなるような。
 携帯の呼び出し音。……昭彦だ。随分早い。
「はい、もしもし?」
〔郁也!?〕
 物凄い切羽詰まった声。俺はぎくりとする。
「どうした!? 昭彦!!」
〔大変だ!! 太田さんがいない!! 昨日の昼過ぎ、家を出てから家に戻ってないって!!〕
「何!?」
〔郁也!! 何か知ってるのか!? 今、太田さんの家、警察来てる!! 俺、何か知ってる事ないかって聞かれたんだ!!〕
「……なっ……!!」
  何だって!? そんなっ……そんなのっ……!! 嘘だろ!? そんなの、『親父』のやり口じゃない!! 一体どうして!?
「……それで!? 脅迫とか、犯人から何か連絡あったのか!?」
〔そんな事まで、俺知らないよ。ただ、誘拐らしいって……家出や自主的な失踪とは考えられないから……でなければ何か事件に……〕
 俺は歯噛みした。そんな事、考えもしなかった。
「……つまり、俺の病室へ見舞いに来た後、行方が知れないって……そういう事なんだな……?」
〔郁也!! 何か知ってる事あるなら俺に……!!〕
「……俺も何もかも知ってる訳じゃない」
〔だってお前、太田さんに何かあったんじゃないかって判ってたんだろ!?〕
「……だから俺は千里眼じゃないって。ただのカンで何の確証もなかったんだ。……俺なりのやり方で少し調べてみる。……じゃないと、まだ何も言えないんだ」
〔……何か判ったら……俺にも教えろよ?〕
「……判ったら、な」
 確証もないクセに、俺はそんな事言ってる。
〔……郁也〕
「何?」
〔……無理するなよ〕
 俺は苦笑した。
「昭彦に心配掛けないよう努力するよ」
〔お前、そう言うけど……いつも口ばっかなんだよな〕
「悪気無いって」
〔……悪気無いのが一番悪い〕
「……隠すつもりはないんだ。結果的にそうなるだけなんだよ」
〔……それが一番悪いって。聞いてるか? 人の話〕
「……判ってる。信頼してる、昭彦」
〔……また心にも無い事を〕
 うわ、すげぇ拗ねてる。
「……悪かったと思ってるよ」
〔それが一番怪しいんだよ。……本当、あんまり嘘つくなよ? これ以上嘘つかれたら、俺だってもう我慢出来なくなるからな?〕
「……すまない、昭彦。又掛けるから」
〔……本当だぞ〕
「うん。判ってる。……じゃあな」
〔……待ってる〕
 俺は切った。それから、別の番号に回す。ここ一週間以上、顔見てない奴。携帯最優先ナンバー。俺がこの世で一番嫌いな男。……中原龍也。
 コール音が長い。……出ないんじゃないか?そう思い掛けた時、ようやく出た。
〔……何考えてるんですか?〕
 俺はがっくりした。久し振りの会話で、第一声がそれか、中原。
「頼みたい事がある」
 前置き無しで、単刀直入に俺は言った。
〔……待って下さい。俺が今、何処にいるか知っててそんな事、おっしゃってます?〕
「知らない。そんな事はどうでも良い。……すぐ調べて欲しいんだ」
〔……何おっしゃってるんですか〕
 呆れたような声。
「太田が行方不明だ。昨日、俺の見舞いに来た後、消息不明になった。……知ってるだろ? あの、ポニーテール。六月の。太田知子だ」
〔……ああ、あの気の強いお嬢さん?〕
「『社長』の『仕業』かもしれない。『他』には頼めない。……調べてくれないか?」
〔……随分信頼して下さってるんですね〕
 皮肉げな声。
「『他』の連中は奴の『腰巾着』だ。逆らおうなんて思わない」
〔……その『他』の連中があなたの周りにびっしり張り付いてるでしょう? どうしてそんな電話俺なんかにしてきてるんです?〕
「今、丁度誰もいない」
〔いない!? そんな訳ないでしょう!! あなたの周りには二十四時間誰か張り付いてる筈ですよ!? 本当に誰もいませんか!?〕
 物凄く、厭な予感がした。
「ちょっと待て……調べてみる」
 肩と首の間携帯挟んで、松葉杖付いて、辺りを調べる。ベッドの下、も勿論誰もいない。応接セットにも台所にも、外にも。俺はゆっくりバス&トイレのドアを開けた。思わず、息を呑んだ。硬直する。……わき上がってくる、嘔吐感。ざわざわと泡立つ肌。背中を滴り落ちる冷たい汗。じいん、とこめかみが痛んで。耳鳴りさえする。思わず息を呑んだ。生唾が湧いてくるのを必死で飲み込む。……ひどく気分が悪かった。
〔……どうしました!?〕
 異変に気付いて、中原が叫ぶ。
「……いた、バスルーム。……たぶん……『死体』だ……」
 不自然な方向に首が折れて、服を着たままバスタブの中に放り込まれるようにして、両手両足投げ出して。目を見開いて瞳孔が……開き切ってる。嘔吐がした。思わず屈み込む。胃液が上がってくるのを、必死で堪える。
〔……それ……『絶対』、貴明様の『意向』じゃありません!!〕
「……判ってる……俺も今……そう気付いた……」
〔良いですか!? すぐ行きます!! 多少時間は掛かるけど、すぐ行きますから何も触らないで下さい!!〕
 中原が真剣な声で、そう言う。
「……警察に……届ければ良いのか?」
〔その判断はこちらでします!! 何もせずに待っていて下さい!! 良いですね!?〕
「……判った」
 必死で嘔吐を堪えながら、俺は答えた。俺はおそるおそる、外へ出た。その瞬間、ぎょっとする。
「……楠木!!」
 楠木はいつもの穏やかな微笑を浮かべて立っていた。
「どうして!!」
 俺は激昂した。楠木は笑って答えない。そのまま、鳩尾を殴られた。まともに入って、息が、出来ない!! 信じられない!! 肋骨と腹やられてる人間にそんな事するか!? ……思う間もなく……俺は暗闇に落ちていった。何もない……『無』の世界。俺は『混沌』の中へ落ちていった。

 気が付いたのは車のトランクの中。全身、軋むように痛い。両手両足縛られて、猿轡噛まされてる。……冗談じゃない。車の振動で、身体が揺らされて、ギシギシ痛い。それ以外の痛みもあるから、どうやら鎮痛剤が切れてるらしいと気付いた。その上、微熱も出てるらしいと判って俺は物凄く厭な気分になった。……殺されたのが、曽我部なら、当然殺したのは楠木だろう。楠木成明。穏和で不穏な事には縁のなさそうな坊ちゃん面。……あの顔でこういう事されるとは……俺も思ってなかったが、曽我部なんかは尚更だろう。俺は苦虫を噛むような思いになった。油断してた。あまりにも迂闊だった。楠木は長い。二十八で七年なら、かなり長い。楠木の事はあまり知らない。唯、俺に『護身術』を教えた『教師』の一人で。だから少し油断してた自覚はあった。『他』の連中には見せない本音も見せてた。……俺も本当バカだ。世の中信頼に足る人間なんていないと知っていて、誰の事も本気で信じたりしたら駄目だと判っていて……昭彦以外の人間に、『信頼』なんて置けるもんじゃないと判っていて……この始末だ。バカも良いところだ。自分だけならともかく、『他人』まで巻き添えにするようなら、バカどころじゃ済まない。大バカ野郎だ。携帯……はやはり病室だろうな。俺、電源切ったっけ? 覚えてない。通話途中だった気もしないではない。……なら、中原は判ってる筈だ。もっとも……これから何処に連れて行かれそうになってるのかは、不明だが。
 最悪。……何て最悪。俺は一人で。何の手がかりも証拠もなく。無防備どころか、自分の身一つままならない怪我人状態で。状況はこれまでにない最悪さだ。ぞっとする。
 車は、どうやら繁華街か何処か……人が多くて雑音多い場所を走行してるらしい。信号も多くて他に走行車両もある。身動き出来て、声も出せれば助けを呼ぶって手もあるんだが……この状況じゃかなり難しい。周りに人がいっぱいいるのに、誰にも気付かれない……気付いて貰えない。『他力本願』的で情けない発想だが、今の俺じゃ『他人』に頼るより他にない……んだろうな、たぶん。自力でロープ解こうとするけど、出来ない。かえって、傷が痛むだけ。……畜生。顔を振ってみるけど、猿轡もなかなか解けない。少しは緩くなったような気もするけど……駄目だ。徒労に終わる。ぐったりして、揺れるがままに身を任せる。
 中原は何処にいるって言ったっけ? 記憶に無い。確か……『時間が掛かる』とか何とか抜かしてなかったっけ? だったら、悠長に助けなんて待ってても仕様が無い。たぶん今着てるパジャマは、楠木が用意した物だから、誘拐対策用の発信装置とかそういうの、付いてないんだろうな。だから、他の連中の助けもあまり期待できない。……『自力』……か。本当これこそ『自力』だよな。溜息つく。……今、乗ってる車はたぶん普通乗用車。この広さから言って、セダンタイプの。中古、かな? エンジンはあまり良くない。十年から十五年物。外の音から『居場所』を判断……ってそれはちょっと難しい。ええと、たぶんあれから数時間しか経って無くて……でも腹は減ってるから──昼飯抜きだしな──昼一時か二時くらいにはなっていて、遅くても四時にはなってない。……今聞いた、歩行者信号の音。これ……駅前?
  どきん、とした。車はゆっくり左に曲がって行く。緩いカーブ。信号の音楽の方向から、行き先がうっすら見えてきた。……奴ら、郊外へ向かうつもりだ。俺は方向感覚良くない方だ。中原と違って、県内の地図丸暗記なんて出来ない。それでも、曖昧ながら行く先が判った。脳裏にぴたりと地図が浮かぶ。……と、すると俺が眠ってたのは──正確には気絶させられたのは──それ程長い時間じゃない。たぶん三十分から四十分。……悪くない。状況は『最悪』だけど。俺は頭脳をフル回転させて現在位置を計算する。身体に伝わる振動と、微かに洩れ聞こえてくる音だけが、俺の頼りだ。連れて行かれる場所に、太田がいるなら、彼女を助ける事に全力を尽くす。……その後なら、どうにだって出来る。『報復』も『脱出』も何もかも。楠木の腕は確かだ。……合気道の体術においては、右に出る者は無い。小柄だが、腕力不足を体力とスピードと技でカバーする。俺にはそのどれもが無い。勿論、腕力だって楠木以上にある訳でも無い。だけど俺は『絶望』なんてして無かった。楠木は『律』じゃない。嫌いじゃないけど、好きでも無かった。だから裏切られたって全然平気だ。どうだって良い。恨みも無ければ、憎悪も無い。執着も無ければ、未練も無いから……俺は平静でいられる。
 ……ひどく静かだ……。周りが、では無く『俺自身』が。こんなに『静か』な気持ちになった事はたぶんこれまで、ただの一度も無い。落ち着いてるとかリラックスしてるとか……そういったものじゃなくて……上手く言えない。俺の知ってる言葉に、こんなの無かった。周りの音が……普段聞き流してる『雑音』がひどく明敏に聞こえてきて……それでいて、鬱陶しくない。煩わしくもない。不思議だった。これまでの俺には経験無い。こんな『静か』なのは、これまで唯の一度も無かった。まるで『別世界』にでもいる気分だ。誰にも何にも『邪魔』される事無い……『別世界』。『俺』が『俺』でいて、『俺』では無い『世界』。いつも『日常的』にあった『苛つき』がここには無い。『持病』の『偏頭痛』も形を潜めてる。……車が地下へと潜って行く。ゆっくりと静かに、感じてる『空気』。……何だろう? 『これ』は。理解不能なもの、未知数のもの、未経験のもの、不可思議なもの。けれど……不安は無く。『焦り』も『不安』も無かった。…………『平穏』。これが、そう呼べたなら。限りなくそれに近かった。車が動きを止めた。振動も止まる。俺は目を閉じた。人の降りる気配がして……四人。トランクが開けられる。俺は目を閉ざしたまま、微動だにしない。緊張もしない。ゆっくりと抱き上げられる。汗臭い、胸板厚い男。中原よりも筋肉質。……どうせなら、美人で華奢な『おネエさん』の方が良かったけど。まあでも……こうやって軽々抱き上げるとしたら……見掛けは『美人』でも生まれた時の『性別』は『女』じゃないんだろうな。……深くは考えないでおこう。余計な事考えると……ろくな事無い。
 俺はあえて『平静』を保つ事にした。男達はエレベーターで更に地下へ降りた。……足音から全員『男』だと判断した。中でも一番軽い、耳を澄ませなきゃ判らない足音は、おそらく楠木のものだ。身が軽い動きをしてる。……隠密行動には一番『適任』だろうな。『気配』を殺す事に関しても。革靴履いてるだろうに、殆ど靴音を立てない。それに関しては中原も『同等』だが。
 ギイィ、と嫌な音を立てて金属製の扉が開かれる。俺を抱いてる大男が一人だけ、コンクリートらしいヤケに靴音の響く階段を降りて、手足を拘束したままの俺を、ひどく冷たいコンクリートの床に転がした。……ぞくりとした。冷気と湿気と埃の臭い。一瞬にして、俺はひどく『厭』な『感覚』に襲われた。思わずカッと両目を開けた。
 暗かった。背中に明かりを感じる。大男は俺が目を開けた事にも気付かず、階段を昇って重い扉を閉める。喉から悲鳴がほとばしりそうになる。猿轡のせいで、くぐもった呻き声しか上げられない。パニック状態に陥った。真っ暗だった。冷たいコンクリート。昇ってくる湿気と冷気。拭いたくても拭えない、『厭』な『記憶』。絶対に思い出したくない『過去』の『記憶』。
 俺は泣き叫んだ。『声』は洩れない。訳の判らない動物のような呻き声だけが、コンクリートの壁や床に反響する。俺は激しく転げ回った。痛みなんて感じなかった。俺は激しく『動揺』していた。『暗い』のは『平気』だった。『狭い』のも『平気』だった。『拘束』されるのも『平気』だった。ただ、『地下室』だけはゴメンだった。それは『俺』の『最大級』に『厭』な『記憶』に『直結』してた。気が狂いそうに悶え苦しみながら、俺は『理性』も『落ち着き』も『思考』も何もかもぶっ飛ばして、この『状況』から逃れようと、もがき暴れた。猿轡が口から外れる。俺は獣のように、『咆吼』した。何に耐えられても、この『状況』だけは耐えられなかった。『地下室』は『恐怖』だった。喩えようも無い『苦痛』で『恐怖』で、全身を貫く『痛み』よりも『強固』なもので。
 俺は激しく泣いていた。二度と思い出したくない、一番『厭』な『記憶』。冷たく固くなっていく『母』の『身体』。冷気立ち上るコンクリートよりも冷たくなって……ついには『腐臭』すら漂う羽目になった『母』の『骸』。骸骨のように痩せ細って、骨と皮だけになって『生前』の『面影』など見る影もなくなった、『母』高木沢佳子の見るも無惨な『姿』。
 俺は『絶叫』した。思い出したくなんて無かった!! 俺がずっと、『封印』してた『過去』の『記憶』。何がどうあろうと、決して思い出したくなんて無い『記憶』。『嘘』でも良い……『彼女』の『記憶』は『美しい』ものだけに留めていたかった!! あんな姿なんて……あんな『おぞましい』姿なんて、俺は思い出したくなんて無かったんだ!!
 『狂気』的な『笑い』の『発作』に襲われる。喉が嗄れるくらい、激しく笑った。血が逆流しそうなくらい、脳の欠陥が破れそうになるくらい。そのうち、喉が詰まって呼吸出来なくなる。俺は喘いだ。無我夢中で転げ回る。息が出来なくて、両目から涙がこぼれ落ちる。口を開閉させるけど、全然まともに呼吸できない。このまま『死ぬ』んだろうか? こんな『間抜け』な『死に方』で? 息を吸おうとするけど、全然『呼吸』出来てる『自覚』無かった。……今までどうやって俺、『呼吸』してた? それすらも判らなくなる程『混乱』してて。激しく息を吸おうと試みる。……ちゃんと空気吸えてるのか、それすらも判らなくなって。酸素不足で頭が朦朧としてくる。気が遠くなって、転げ回る事すら出来なくなって。徐々に身体に震えが走り、緩やかに弛緩始める。全身の力が抜けていって、腕を上げる事さえ困難になり始めたその時、不意に金属製の扉が音を立てて、開かれる。ぼんやりとそちらを見た。……楠木だった。慌てて駆け寄ってくる。楠木は俺の顔を見て、小さく舌打ちする。
「……落ち着いて下さい」
 『誘拐犯』のクセに何言ってるんだ、この男。
「『呼吸』はちゃんと出来る筈です。……『トラウマ』があるのを忘れてました。……良いですか? ゆっくり『呼吸』して下さい。吸ってばかりで吐くのを忘れないで。……焦らないで。そんなに深く吸わないで。ゆっくり、浅くで良いんです。空気はちゃんと吐かなきゃ、『過呼吸』になって『無酸素』状態同然になりますよ?」
 楠木に背中抱きかかえられて、ゆっくり背中さすられ、情けない事に俺はぐったりと脂汗流しながら、楠木に言われるがままにゆっくり浅く、呼吸する。冷たい汗が、少しずつ引いていく。苦しみが少しずつ引いていくけど……俺は全身脱力してて、かなり『無防備』に抱きかかえられてるのに、抵抗一つ出来なかった。俺は楠木の腕に沈み込むように抱きかかえられながら、楠木の目を真っ直ぐに睨んだ。
「……言いたい事は大体想像つきますよ」
「……じゃあ、答えろ。どうして『こんな事』をした? 『人』を『殺して』まで?」
 震えた掠れ声で、それでも精一杯の威厳を込めて、俺は言った。楠木は微笑した。
「……それを答える義務はありません」
 穏やかな、ひどく穏やかで落ち着いた口調だった。まるで『常人』じみた。
「……こんな『危なっかしい』方だとは思っても見ませんでしたよ。……『先』が思いやられますね?中原さんの『苦悩』が判りそうだ」
「……誰の『差し金』だ?こんな事するからには、何か『対策』も『思惑』もあるんだろう?」
 楠木は苦笑する。
「……確かにこんな人の相手してたんじゃ、『頭痛薬』も『睡眠薬』も手放せない訳だ」
 俺はムッとした。
「少しはまともに答えろよ!!」
 楠木は満足そうに笑った。
「……随分『お元気』になったんですね。先程の『死にそうな』お姿からは想像できません」
「っ!!」
 俺は無言で睨み付ける。楠木は無言で笑った。肩だけを震わせて。両手で口元を押さえて。
「……『太田』はお前達の仕業か?」
 楠木は口元だけで笑った。
「……そうだと言ったらどうなさいます?」
「……関係ないだろう?」
 楠木は満足そうに笑った。
「……確かにどうなろうと『関係ない』ですね」
「楠木!!」
 思わず、激昂した。大声出しすぎて、喉が痛い。思わず咳き込む。
「……大丈夫。ちゃんと『別室』にいますよ」
「……すぐに会わせろ」
 楠木はわざとらしく肩をすくめた。
「……どうでしょうね? それは少し面白くないでしょう?」
「お前が欲しいのは『俺』だけだろ!? 関係ない人間を巻き込むな!! 太田に会わせろ!! じゃなきゃ、お前達の『要求』なんて何一つ呑まない!! お前達が俺の『生きてる』状態を望むなら、尚更だ!! 活きの良い『死体』が欲しいんなら『別』だがな!!」
「……『会わせなかったら死ぬ』とか言うんですか?」
「……それとも『別室』にいるというのは『嘘』か? 手足を拘束されてても、『死ぬ』のくらい簡単だぜ? 俺は今、猿轡噛ませられてない。自分の舌噛み切れば、それまでだ。……そんなに苦しまずに『死ねる』と思うぜ?」
 楠木は溜息ついた。
「……随分な御曹司だ。自分の『命』を『取引』に使うんですか? さすがは、『久本貴明』殿のご子息だ。……呆れて物も言えませんよ」
「……どうする? それとも『死体』の方が『扱い』楽で『都合良い』か?」
 楠木はしばし無言で俺を見る。俺は真っ直ぐ見返してやった。『死ぬ』のくらいどって事無い。ただ、太田は無関係だから絶対助ける。俺には結構『勝算』があった。この部屋に駆け込んで来た一瞬の楠木の『表情』で、『俺』が『死んで貰っては困る』事が判った。だったら『それ』を『利用』してやるだけだ。こいつらが、『俺』自身の『生死』がどうでも良いなら、これは使えない手だったけど、後はどうでも今は『殺したくない』なら、使わない手は無い。今なら、『有効』な手段だ。……顎を掴まれたり、何か噛ませられたらアウトだが。
「……どうやら余計な『知恵』付けたようですね」
 諦めたように、楠木は言った。
「お前達が何企んでるかは知らない。けど、おとなしく言いなりになるのは俺の性分じゃない。それくらいなら潔く『死ぬ』方がマシだろう?」
「……暫く待っていて下さい。明かりさえ付けておけば、『平気』ですね? あなたを『動かす』のは『非常に危険』なようなので、『彼女』の方を連れて来ます。……幸い、『彼女』は『従順』なのでね」
「………………」
 俺は無言で相手を見つめ続けた。楠木は苦笑して俺から離れる。
「……あまり長く傍にいると、噛まれそうですね。……私は中原さんのように噛まれた事を『勲章』にするつもり、毛頭ありませんから一時退散します。……お待ちいただきますよ、郁也様」
 そう言って軽い身のこなしで身を翻し、階段昇って部屋を出て行く。明かりは付けたまま行ったので、もう部屋は暗くない。……暗くなければ、『地下室』でも『平気』らしい。俺は思わずごくりと息を呑んだ。天井見上げて、深呼吸する。まだ『鮮明』に『憶えてる』。たぶんもう、一生忘れる事なんて出来ない。『思い出したくない』けどしっかり『憶えてる』……『母』の『記憶』。懸命に打ち消そうとして……忘れ去ろうとして、完全に忘れ切れなかった『過去』の『記憶』。鼓動は『平静』ではいられないけど……パニックには陥らなかった。……大丈夫……『平気』とは言わないけれど……『理性』保つ事は出来る。ゆっくりと、深呼吸する。……落ち着け。これからが『正念場』だ。太田に会わせられても、救えなきゃ意味が無い。……救うだなんておこがましいな。太田は唯の『被害者』だ。俺に巻き込まれただけの『赤の他人』だ。だから、なんとしてでも『元』に戻さないといけない。これ以上、巻き込んだり出来ない。俺に関わらなきゃ、『平凡』な『人生』歩めた筈なんだから。これ以上、巻き込んじゃ駄目だ。……最悪、自分の身を『犠牲』にしてでも何とかする。……ただ、太田を『解放』する前に『自害』又は『殺害』されるって『状況』だけは『遠慮』したい。……半ば、気付いてる。俺は『律』を救えなかった。『律』の代わりに『太田』を守りたいと思ってるだけだ。俺は『太田』に『律』を重ねて見てる。……『太田』は好きだ。けど、それはかなり『自己満足』な『愛情』で。『太田』自身の事なんて何も考えちゃいない。『太田』にとっては『人迷惑』も良いとこだ。俺に中原の事は言えない。もう既に『太田』の『日常』に『支障』きたしてる。俺の『我儘』のせいで。俺の『身勝手』な『恋慕』のせいで。『太田』に対して、俺はもう既に許されざる『罪』を犯してる。これ以上、『罪』を重ねたくない。『太田』の何も『犠牲』にしたくない。……もう既に、遅すぎるのかもしれないけど。これ以上、『俺』の『事情』に巻き込んじゃ駄目だ。……『守れない』なら『想う』資格ゼロだ。……『太田』に好かれようなんて思わない。それは『最初』からだ。『太田』の『表情』に心奪われたその瞬間から、俺は何も望んで無かった。『俺』は激しい恋慕で『他人』を愛する『太田』に目を奪われた。『俺』を愛する事など決して無いと知りながら、『太田』を『好き』になった。……俺は『卑怯』な人間だ。『太田』に嫌われたって仕様が無い。俺は……『自分』を決して『愛さない』女を想う事で……『自分自身』の『束縛』から逃れようとした。『どうせ駄目だ』と思う事で、『救われ』ようとした。本気で好きになって、報われようとして、拒まれるより……ずっと『楽』だったからだ。俺は『言い訳』が欲しくて……報われない『理由』を最初から見つけたくて……『太田』を巻き込んだとしか思えない。だから、『太田』を『解放』しなくちゃ。あいつらから……そして、『俺』自身から。
 涙が……こぼれ落ちた。……これは『俺』の『責任』だ。絶対果たさなくてはならない『責務』。深呼吸する。腕が不自由だから、自分の涙すら拭えない。必死で涙堪えて、深呼吸する。……感情的になるな。理性的になれ。もっと落ち着け。大体、俺が何かとてつもない『失敗』する時は、大抵感情に先走った時だ。……『太田』を巻き添えにする事は許されない。もし……『太田』が俺の所為で何か取り返しの付かない酷い事になったりしたら……俺は一生自分を許せない。昭彦にも顔向け出来ない。しっかりしろよ、久本郁也。大丈夫。……落ち着いて。絶対出来る。取り乱すな。『平常心』だ。深呼吸して、目を閉じる。

To be continued...
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