NOVEL

週末は命懸け4「慟哭」 -1-

〜プロローグ〜

 それは陸の孤島と呼ぶに相応しい場所。一番近くの民家は自家用ヘリで一時間、一番近い繁華街は四時間と来た。『別荘』の周りは森に囲まれていて、唯一の道は徒歩で五分のヘリポートへ通じる道のみだ。獣道すら近辺に有りはしない。勿論こんな場所に電気も水道もガスもない。当然燃料は『天然』だ。
「くそったれ」
 中原龍也[なかはらたつや]は吐き捨てた。手に持った[なた]を足下に下ろす。周囲は屈強な男達八名に取り囲まれている。男達は何も手伝わない。彼らのボス、久本貴明[ひさもとたかあき]に厳命されているからだ。中原は『別荘』の唯一の『燃料』にすべき、薪を作っているところ。斧で切り倒した木を[のこぎり]で細かく切って、鉈で割り、天日に干して乾燥させる。そうでなくば、煙が出て酷い目に遭う。バラバラというプロペラの音がしてもう数分。……そろそろか、と思う丁度その時、主が現れた。
「やあ、龍也君。元気かい?」
「……良くもまあ、そんな事が言えたもんだな」
「おやおや、随分拗ねた口を利くね?」
「……拗ねてるように聞こえるか?」
 中原は憮然とする。
「ここはとても良い処だろう?」
「……そういう事はここに一週間も閉じ込められてから言って欲しいもんだな」
「空気は良いし、静かだし。何よりとても涼しくて心地良いじゃないか」
「……家事能力ゼロのクセに何言ってやがる」
「一週間も来れなかったのは、君が色々残した『残務処理』のおかげだよ。代わりにしてあげたんだから、感謝して欲しいものだね?」
「くそったれ」
「随分、拗ねてるらしいね? 口調がすっかり以前に戻っているよ」
「うるせぇよ!! ……それで、アンタは今、俺をこんな処に閉じ込めて一体何をやってるんだ?」
「君は何かやっていてもいちいち僕に『報告』しなかったでしょう? 僕にそれを求めるのはどうかな?」
「……アンタ、何企んでるんだよ」
「企んでるだなんて人聞きの悪い。どうやら君はまだ『反省』が足りないようだね」
「!?」
「……ところで、頼んであった『アレ』、出来てるかい?」
「……出来てますよ」
「相変わらず、仕事が早いね?」
「……こんな処で他に何をしろと言うんで?」
「厭だね、こんな処だなんて。僕はとても気に入ってるのに」
「……どうせ自分一人じゃ生活もできないクセに」
「…………また、君が『反省』した頃、迎えに来てあげよう。僕も色々忙しくてね」
「……クソ野郎」
 貴明は笑う。
「例の物は?」
「……自分で捜せよ」
 貴明は笑って建物へ入る。それから暫くして手に目的の物を持って、外へ出る。
「じゃあ、又会おう」
 中原は無視した。ヘリポートへ向かう久本貴明に、周りの男達は敬礼する。中原はそちらを完全無視してそっぽ向く。
「……鬼畜野郎」
 そう言って、下ろした鉈をもう一度掴む。薪にする木を台に置いて、鉈を振り上げ、ぱあんと割る。薪は木目に沿って綺麗に割れる。小気味よい音を立てて、幾つも割る。
「……健康的すぎて、反吐が出る」
 思わずぼやいた。


 二〇〇五年、八月十二日金曜日。

 腹の縫合手術の後、俺、久本郁也[ひさもといくや]は三日間眠りに就いていた。俺の知らない間に様々な事が終わり、周囲の状況も一変していた。金山律[かなやまりつ]の事が世間一般に知れ渡り――それも事実とは違う形で――律と久本の関係は揉み消され、律は得体の知れない今時の十代の若者にされ、俺はその『狂気』の『被害者』にされていた。本当は違うのに。全て『久本』と中原の仕業だ。全ての『罪』と『責任』を律に覆い被せて、全てを隠蔽した。俺も事情聴取されたが、俺は全てを黙秘した。『嘘』なんか付ける訳がなかった。律の死は俺の『責任』だ。律を殺したのは俺と中原だ。律は『被害者』であって、決して『加害者』などではない。……だけど、『飼われる』だけの俺が『久本』の『意向』にどうして逆らえる? ……俺は『卑怯者』だ。生き延びる為に、『律』すらも『利用』する。俺に中原や俺の『父』久本貴明を非難する資格など無い。俺も同類で……俺は『寄生生物[パラサイト]』だ。何もかも、厭になる。それでもまだ……俺は生きてる。『母』の『望み』を俺は裏切れない。自分の命を捨ててまで、俺の命を優先させた『母』の『願い』。その『母』を殺す原因になった久本貴明。久本貴明が後生大事にしてる『世界』を粉々に『崩壊』させる事が俺の『望み』で。それは未だ遠い『夢物語』だ。今は……まだ。それは『律』を犠牲にしてまで、達成させる事か? 『律』を踏み台にしてまで、成さねばならない事か? 俺の内部で警鐘が、鳴り響いている。俺の内部で疑問を叫ぶ声がある。俺は俺の信じてきたものが、ぐらつき掛けてるのを感じ始めていた。俺がひたすら縋ってきた信念が、揺らぎ掛けているのに気付いていた。俺は何の為にここにいる? 俺は何の為に生きている? 律の面影は未だ『鮮明』で。律が死んだなんて俺は未だに思えなくて。目の前で律が死んだのに、その死に際を間近で見たのに俺はまだ、信じ切れなくて。ただの悪夢で目を閉じれば、あの笑顔が俺の名を呼んでくれるような気がして。俺は『本当』の律を知らない。俺の知ってる律は唯の『偽物』で。それでも脳裏に蘇るのは、俺を『好き』だと言った律で。繰り返し繰り返し、同じような残像が、同じ『時間』を繰り返す。律と過ごした短い日々。隠れるように会った細切れの時間。繋がらない『時間』の中、律は俺に微笑み掛ける。俺の都合で俺に都合の良い言葉しか言わない律が、壊れたレコードのように何度も何度も同じ言葉を紡ぎ出す。プロモビデオよりも短い映像が幾度も幾度も、擦り切れそうに繰り返す。
『実は僕、ずっとあなたの事、実は僕、ずっとあなたの事……』
 その先の台詞、絶対言わない律……。『偽物』だなんて判ってる。……それでも俺は、そんな物に縋らなくちゃいけないくらい、弱ってた。情けないくらいに……俺は……。
 あの夜以来、俺には常時二人のボディーガードが付き、特に夕方以降は他に三人プラスされる事になった。中原龍也は休暇中という事で──一体何やってんだあの男──代わりの奴がやって来た。その代わりというのが……実際どうにも……。
「失礼します!! 郁也様!! 朝食をお持ちしました!!」
 バタン、と勢い良く扉を開けて、騒々しい声で入ってくる。狐目身長一九一cm、体格の良い男。栗色の髪を一昔前のジャニ系アイドルみたいな髪型にセットした。……俺は思わず頭痛を感じた。そんな俺にはまるで気付かぬ風体で、奴はいそいそ俺の前に、ベッド脇付属のテーブル倒して、食事の乗ったトレイを置く。
「はい、出来ました」
 線のように目を細くして。
「あの……お手伝いしましょうか?」
 慣れない左手でスプーン掴む俺にそんな事言うけど!! ただの迷惑以外の何物でもない!!
「……良い」
 それだけ言って、黙々と食べる。だから!! 人の食ってるトコじろじろ見んな!! 気持ち悪いんだよっ!! ……コイツが来てからというもの、俺に心の『平穏』はない。シリアスな気分にも浸れない……。曽我部恒行[そがべつねゆき]。二十九歳。中原の後任。おべっか見え見えの鬱陶しい男。
「……郁也様。こんな物が届きました」
 曽我部の補佐、こちらは以前から顔見知り、楠木成明[くすのきなりあき]。俺の『護身術』の師匠で、中原の部下の一人。正確な年齢は知らないが、若く見えるのにもう七年もいて、中原の次かその又次くらいの古株だ。身長一七九cmで割と小柄。俺と数センチしか変わらない。ボディーガードだとは言われてみないと判らない。育ちの好さそうなお坊ちゃん面で、ボディーガード連の中では一番インテリ。真面目な好青年で、毛筆硬筆共に字が流麗で、ドイツ語詩集が好きで、原語で読む。ちょっと毛色の変わった奴でいつもおっとり然と微笑んでいる。
 その楠木が手にして来たのは運送屋が持って来たらしい鉢植えの花で、メッセージカードが揃えられている。
『頑張れ! 負けるな!!  サキ』
  誰だ? コイツ。俺の知り合いじゃねーよ。
「大分県からだそうですよ?」
 俺はげんなりした。……最近、こういう訳の判らない連中が多くて困る。それはこういう『奴ら』だけじゃなくて、俺と律の事件が全国的に報道されて――久本の力で持っても押さえきれなかったらしい――ただのクラスメイトや同じ学校ってだけの連中までもが、見舞いに来るようになった。大抵、会話が続かなくて早々に帰っていくが。報道関係は半強制的に追い返してるのだが、こういう物は受け取ってるらしい。
「返事はどうします?」
 楠木に言われて、俺は憮然とする。
「……お前に任せる」
「判りました」
 楠木はオールマイティキャラなので、殆ど雑用係と化している。こういう訳の判らんものの始末は全て任せきりだ。奴はマメにメッセージカードを返送してるらしい。ここまで来ると、ボディーガードと言うより秘書だ。俺がげっそりしながら食べ終えると、曽我部がいそいそとそれを持って、片付けに行く。
「……あれで、彼、悪気無いんですよ」
 フォローのつもりか、楠木は言った。
「……もうすぐ三十ならもっと落ち着けと忠告してやれよ」
「……私が、ですか? 角が立ちますよ」
「……気にするのか?」
「彼が、ね。私の方が年下ですし。年齢差の事は気にしてるようなので」
「……幾つだった? お前」
「二十八です。誕生日を迎えましたので」
 楠木の方が余程落ち着いている。
「……彼、今回張り切ってるんですよ。中原さんにはひどく対抗心燃やしてましたから」
「……中原に?」
「中原さん、貴明様にも郁也様にも信頼厚いですから。それに同い年ですし」
「……はあ?」
 何言ってんだ?
「俺は別にそんな仲良い記憶無いぜ」
「傍からはそう見えますよ」
 俺は思わず舌打ちした。
「……冗談じゃねーよ」
 楠木は目を丸くした。
「……お嫌いなんですか? 郁也様」
「お前には悪いけど、最悪だよ。……あんな奴、顔もろくに見たくない」
「…………そんな風にはとても見えませんが」
「……あれだろ? 四六時中一緒にいるからそう見えるだけだろ? 迷惑だがな」
 吐き捨てるように言うと、楠木は溜息をついた。
「……それは中原さんもお気の毒に……」
「中原だって知ってるだろ?」
「……そうなんですか?」
「俺がアイツの事嫌いだって知ってて、わざわざ構って来るんだ」
「…………」
 その時、コン、コン、と躊躇いがちにノックされた。
「……どうぞ」
 俺は目を見開いた。入って来たのは白神多可子[しらがみたかこ]。手には白い蘭らしき花束を持っている。先の尖った五枚の花びらに見える奴。中央部が黄色くて、唇弁が菫桃色で、花びらの先端が緑がかった。
「私は席を外しますよ」
 気を使ってか、楠木はそう言って席を立つ。慌てて呼び止めようとするけど、気付かずに行ってしまった。俺は多可子嬢と二人取り残されて呆然とする。多可子嬢は空いてる花瓶に蘭を生ける。
「今朝、うちで咲いたビオラセア・アルバ。ファレノプシス系、つまり胡蝶蘭の一種よ」
 ……甘い香りが漂ってくる。
「…………悪いけど」
 俺は控えめに、切り出した。
「……俺は今、君と喧嘩する気力なんて無いんだ」
 多可子嬢は俺を睨むように見た。
「……だから、出来れば日を改めてくれる? 俺、今、そういう余裕無いんだ」
「なんですって!?」
 尖った声を上げられる。耳が痛い。
「……悪いけど、疲れてるんだ」
 すると、多可子嬢はふるふると震えた。
「……あなた……本っ当!! 最低ね!!」
「……は?」
 俺は訳が判らなかった。
「信じられないっ!! 人が折角心配して見舞いに来てあげたのに!!」
 そう叫ぶと同時に、たった今生けたばかりの花瓶から、花束を掴んで、俺に投げ付けた。至近距離で、俺は慌てて両手で顔を庇って直撃は免れた。……けど、頭の先からびしょ濡れになった。
「……なっ……!!」
  何をするんだ、と叫ぼうとしてギクリとする。白神多可子は泣いていた。
「大っ嫌いよ!! あなたなんか!!」
 そう叫んで、走り去った。俺は呆然と見送った。……何それ? 何だよそれ? ……俺が……一体何をしたって言うんだよ……おい……。
「……何事ですか?」
 楠木が入れ替わりに入って来た。
「……酷い有様ですね」
 そう言って、タオルを差し出す。俺は受け取って水の滴る前髪を拭う。
 ……ひでぇ。ろくに動けない怪我人に。俺は憮然とした。……何だよ、あの態度。俺が一体何したって言う? あれじゃまるであっちが被害者と言わんばかりじゃないか。何だって言うんだよ。
「……綺麗な花ですね」
 楠木が拾って花を生け直す。俺はそれに目を遣りながら、頭や濡れたパジャマを拭う。
「……お着替えです」
 黙って俺は受け取り、楠木が背を向けたのを合図にパジャマのボタンを外す。
「只今戻りました!! ……あれ!? どうしたんですか、郁也様!?」
「……良いからドア閉めろ」
 俺は憮然として言った。そう言われてようやく曽我部はドアを閉めた。……畜生。通りすがりの看護婦に見られた。鎖骨辺りまでだけど。
「お着替えですか!? お手伝いいたしましょうか!?」
 俺は無言で睨んだ。さすがに可哀相になったのか、楠木が曽我部に耳打ちする。曽我部は真っ青になった。
「あ、すみません!! 出過ぎた事を申しました!!」
 別に良いけど。お前は存在自体が鬱陶しい。曽我部がようやく俺から視線外したから、やっと俺は着替えの続きに取り掛かった。左手一本だと、かなり辛い。しかも腹や肋骨やられてるから、屈むのが一番辛い。鎮痛剤のおかげで大分助かってはいるけど……全ての痛覚を緩和するところまでいかない。仕方ないけど。何とか腕を引き抜いて、下もかなり苦労しながら代える。
 あの夜からもう、一週間強も経つ。今日は八月十二日金曜日。律が倒れたあの日から……もう八日間も経つのだ。鈍い痛みを胸に感じる。悪夢でしかない。……けれど、紛れも無い現実で。律の葬式にも出られなかった俺は、未だにそれが現実だと感じられない。未練たらしい、俺。律の携帯に掛ければ、まだ繋がる気がして、未練たらしく二回も掛けた。……その番号は何処にも繋がりはしなかったけど。無情なアナウンスを聞きながら、それでも間違いじゃないかともう一度掛けようとする俺はただのバカだ。判っていて……それでも……俺は……。
 溜息をついた。律はいない。今度こそ、もういない。その現実に慣れるのがとても恐かった。出来る事なら、否定し続けたかった。俺は何もかもに目を耳を閉ざしてしまいたかった。ただの『逃げ』だと判っていて。心が、ひどく『弱って』いて。律を想うと胸が痛い。『痛み』はまだ、『鮮明』で。とても『過去』になんて出来ない。一時期に比べると、大分体も動くようになってきて、ここ数日、松葉杖を使い始めてる。運動不足解消に少々病室内を移動したりするけど、まだ身体は本調子ではなくて、すぐ息切れする。それでも、トイレの世話を他人任せにするより大分良くて、だけどちっとも気分は良くならない。かえって陰鬱な気分になるのは……たぶん律の事が七割であとは色々。泣いてそれで終わりなら良かった。生きていて良かったなんて思えない。俺は律が幸せなら良かった。律を殺してまで生きたいなんて思ってなかった。……律が幸せになる為なら、何だって良かったんだ。……俺が死にたくないと思ったのは、今ここで俺が死んだら、律を更に追い詰めるって判ったから。律が死んだ後まで、生きる事など考えもしなかった。……他の誰にどう思われたって良い。俺は律が好きだった。とても好きで……報われなくても良かったんだ。律が、幸せなら。幸せもなってくれるなら。もっと早く気付けば良かった。もっと早く気付いて判り合えれば、もっと違う『未来』があったかもしれない。全てはもう、何もかも遅すぎて。取り返し付かない。俺は本当何も見えてない。何も判っちゃいない。金山律は俺の『凝り』だ。一生溶けて消えない、胸の『凝り』。……忘れる事なんて一生できない。たぶん、一生。永劫に。

 躊躇いがちに、二回ノックがして。俺は読んでいた文庫を枕元に置いた。……以前、律が屋上で読んでた本。かなり少女趣味な純愛小説。
「……どうぞ」
 入って来た人物を見て、俺はぎょっとした。入って来たのは太田知子[おおたともこ]。思わず身を浮かせた。
「……その、藤岡君から様子聞いて、聡美が心配してたから。私は代理」
 嘘だ。中西聡美が俺の事なんか、心配するなど有り得ない。心配したのは太田本人だ。けど、そう言うと俺が勘違いすると困ると思って、変な言い訳してる。俺は苦笑した。
「見舞いに来てくれて有り難う」
 俺が言うと、太田は目を丸くした。
「一体どういう風の吹き回し!?」
「は!?」
 何を言われたのか、全く判らなかった。
「熱でもあるの!?」
 ……失礼な。苦笑した。
「……礼を言っただけだよ。そういう反応されるかな?」
 太田知子はマジマジと俺を見た。不思議な物を見る顔で。……俺は珍獣か?
「……随分……印象変わったわね」
「……そう?」
 太田は思いきり頷いた。
「前はもっと『喧嘩腰』だったわよ。喧嘩買えって言わんばかりの」
「……そうだったか?」
「……自覚無いの?」
 太田は眉根を寄せて、迷惑そうにそう言った。
「……そんなに……酷かった?」
 すると大仰な溜息をつく。
「酷かったわよ。物凄く」
「……そりゃ、太田の態度も違うからだろ?」
「私はあなたと違って誰でも彼でも喧嘩売ったりしないわよ。『失礼』な人にだけでしょ」
「そんなに俺、『失礼』だった?」
「あれを『失礼』と言わずに何を『失礼』と言う訳なの?」
「…………」
 思わず顔が赤くなった。太田は意外なものを見る目で俺を見る。
「……本当……変わったわよ? 何か前より……取っ付きやすいって言うか……印象が……」
「……え?」
「……ね、あなたボケてるって良く言われない?」
「はあっ!?」
 絶句した。太田は大真面目な顔で言った。
「私今まで、藤岡君が『ボケ』で久本君が『ツッコミ』だと思ってたけど、ひょっとして逆なんじゃない? ぼーっとして見えるけど、藤岡君、あれで結構しっかりしたトコあるし」
「……なっ!?」
 何でそんな事、言われなきゃならないんだ!! 俺は昭彦ほどボケじゃないぞ!!
「私、ついこの前まで、何があってもあなただけは『許さない』って思ってたけど……今はとても無理だけど……何だか許せそうな気がしてきたわ」
「えっ!?」
 それって……どういう……意味だ!?
「勘違いしないでよ? 今はまだ私、あなたに怒ってるんだから!!」
「……え……ああ……そりゃ判ってるけど……」
「……全く調子狂うわね……」
 狂わされてるのは俺の方だ。
「……前よりあんまり……何て言うの? ぎすぎすした処が取れて……角が丸くなったみたいね?」
「……そう?」
「前だったら、とてもそういう反応は返ってこなかったと思うわよ」
「……そう……かな……」
「そうよ。……変わったわ」
 変わった……としたら、律のせいだろうか。金山律。まだ……思い出すと……痛くて。
「……気が弱くなってるのかも……」
「……そうみたいね。そんな顔してる」
 どきりとするくらい、優しい声で言われて。俺は思わず太田を見る。太田は静かに曖昧に笑っていた。どきん、とする。
「……悪いけど、私も忙しいの。これで帰るわ」
「……有り難う。義理でも同情でも嬉しかった。……本当に」
 太田は肩をすくめた。
「気持ち悪いくらい素直ね。いつもそうだと有り難いわ。私もいつも怒ってたくないから」
「……最初に喧嘩腰だったのは、そっちだけど?」
「それ以上にあなた、喧嘩腰だったわよ。腹が立つくらいにね」
 そう言うと、太田は笑った。そして立ち上がる。
「じゃあね」
「じゃあ」
 また、と言い掛けて飲み込んだ。それを言って良い立場じゃない。俺は。
 太田は部屋を出掛けて、あら、と声を上げた。
「……久本君。ここにこんな物があったわよ」
 拾い上げて、見せられたのは菫桃色の蘭の花。今朝方、白神多可子が持ってきたのと、同じ花。どきん、とした。
「……え……あっ……有り難う」
「どういたしまして」
 太田はそう言って、今度こそ病室を出て行った。俺はぼんやり花を見る。
「生けましょうか?」
 楠木がそう言って、俺は太田に渡された花を渡す。……白神多可子? たぶん……そうだ。けど、何故? ……理解不能。女の考える事は意味不明だ。どうしてわざわざ? 来たのに顔も見せずに……まあ、朝は俺が追い返したようなもんだが……謝りに来たんなら、中入れば良いのに。そりゃ、俺の態度も多少悪かったかなとか……思わないじゃないし……何よりあいつが泣いたのが気になる。
「白神多可子嬢ですかね?」
「……楠木。一応お礼のメッセージカード送っておいてくれるか?」
「かしこまりました。……今日の夕方にでも届けさせますよ」
「……頼んだ」
 まあ、それくらいはしときゃ良いよな? 何だか後味悪いし。……俺のせいじゃないと思うんだがな……泣かれるのは……特にああいう気の強い女に泣かれると、何だかちょっと厄介だ。白神多可子はヒステリックで感情激しくて……疲れる。俺には絶対理解不能の難解動物だ。
 太田が来てくれた。ちょっと意外だったけど、何だか嬉しい。怒ってる顔の方が好きだけど──我ながら悪趣味──笑ってる顔も良いなとか思ったりする辺り、俺も相当バカ。太田には嫌われまくってるクセに、全然自覚無い。けど、結構良い雰囲気で話せて──凄く気が楽。太田に優しくされたのなんて初めてだから──俺今、怪我人で良かったなんて──うわ、調子に乗ってる。最低。俺って単純過ぎないか?バカみてぇ。太田は俺の事なんてどうとも思っちゃいないのに。バカだよ、俺。こんな事くらいで浮かれたりして。……表情、出てなかったよな? 出てたらあまりにもバカだぞ、俺。絶対呆れられる。すげぇバカ。
 その日の夜は、悪夢見ないでぐっすり休めた。こんなに気持ち良く眠れる夜があったなんて、信じられないくらい。俺もひどく単純だ。こんな事くらいで『幸せ』になってる辺り、ひどくお手軽でバカ。……俺、自分がこんな人間だなんて知らない。知らなかった。全然。ひょっとしたら、昭彦のお膳立てだろうか? それでも良い。俺は何でも良かった。律の事も忘れて、その日は眠れた。鎮痛剤なんか要らないくらい、俺は楽な気分だった。ハイまではいかないけど。

To be continued...
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