NOVEL

週末は命懸け3「観察者」 -4-

 コール音がひどく長く聞こえる。一気に汗が噴き出した。……まだだ。まだ出ない。コール音がひどく冷たく感じる。そろそろ、留守電モードに切り替わるんじゃないだろうか、と焦り始めた頃、ようやく相手が出た。
〔……はい〕
 かあっと頭に血が昇るのを感じた。律だ。番号、変えずにいた。
「……律!?」
 聞き間違えよう無く、そうだと判っているのに、俺は性懲り無くそう聞いた。
〔……っ!?〕
 息を呑むような、気配。
「……律だろ!?」
 判ってるのに、俺はそう叫んだ。
〔……どうして……っ〕
 律の声は震えていた。
〔……どうして……掛けてきたり……するんですか!?〕
「……だって……声……聞きたかったから……っ!!」
 ……情けない、声。判ってる。判ってる、けど。
〔あなた一体何考えてるんですか!?〕
 非難するような、声で。
〔僕があなたに何をしたか判っていて、そんな電話してきてるんですか!?〕
「……会いたいんだ、律」
〔あなた、正気ですか!?〕
 律が悲鳴のような声、上げてる。
「……だって……仕様が無いだろ? 俺は今、動けなくて、律はちっとも来てくれなくて……だったら、連絡取るにはこれしか方法無いだろう!?」
〔……誰がそんな事言ってるんです!! 僕が一体……あなたに何をしたか、承知であなた、こんな電話してきてるんですか!?〕
「……律になら、俺の何をあげても良いんだ。それが、律の望みなら。そんな事はどうだって良い。会いたいんだ、律。俺はこの病室から動けないから、悪いけどそっちから来てくれないか? たぶん、律はそういうの厭だろうけど、仕方無いんだ。会って、話がしたい」
〔……あなた……滅茶苦茶だ……っ!!〕
「滅茶苦茶でも何でも良い。すぐにでも、顔が見たいんだ。会って話がしたい。俺……本当、何がどうなったって構いやしないから、律に会いたいんだ。来てくれないか? ……律」
〔正気の沙汰じゃない!!〕
 泣きそうな、声で。俺だってもう、泣きたくなってる。
「頼むから、来てくれよ、律。会ってお前の口から、はっきり聞きたいんだ。何だって良い。律の口から律の本心を聞けるなら、何だって良いんだ」
〔……あなた、狂ってますよ!!〕
「……良いよ。狂ってたって。それで律に会えるなら、それで良い」
〔……あなた自分で何言ってるか自覚してます!? それ聞いて僕がどう思うか判っていますか!?〕
「……どう思うの?」
〔……信じられない……あなた、本当に信じられない……!! そんな人だなんて、そんなのちっとも知らない!! 責めないんですか!? 罵倒しないんですか!? 僕を憎んだりしないんですか!?〕
「……そうされたいのか?」
〔……だって……それじゃ僕……僕は一体どうしたら良いんですか!? 僕の四年間は、一体何だったんですか!? あなたを憎み恨み続けた僕は、一体何処へ行けば良いんですか!?〕
「……俺を……憎み恨んでたの?」
〔……だって……僕は……そうするしか……そうする事でしか……自分を保てなかったのに!! あなたを憎んで、恨んで、妬み続けて……そうじゃなきゃ、正気なんてとても保ち続けられなかったのに!! どうして今更……どうして!!〕
 血を吐くような、叫び。
〔どうしてあなたは、僕に憎ませ続けさせたままでいてくれなかったんですか!?〕
「……それが……望みだったのか……?」
 呆然と、俺は呟いた。
「……それが、律の『望み』だったのか!?」
 目の前が、真っ暗になりそうだった。血の気が、さあっと引いていく。こめかみがジンジン痛んでくる。耳鳴りさえ、聞こえてきて。
〔……僕に……贖罪させようって言うんですか……?〕
 不意に、冷たい声で。疑惑を、孕んだ声で。俺は、正気に返らされた。俺はごくりと息を呑んだ。……それが……律の『望み』なら。
「……来いよ、律。俺に、会いたいだろ?」
 自分でも厭になるくらい、冷たい声で。相手の息を呑む音が聞こえた。
「……それともバラして欲しいか? 一生台無しになるぜ? それでも良いなら、構わないけど」
 俺は『冷笑』した。
「……望むなら、『取引』してやっても良い。……どうする? 律」
〔……っ!!〕
  俺はせせら笑ってやる。
「何だ? どうした? 俺を卑怯な手段で突き飛ばしておいて、何か文句あるか? 俺の『要求』呑めば、お前の『所業』は無かった事にしてやると言ってるんだ。俺だってそんな冷酷非道じゃない。人道にもとる『要求』なんてしない。軽いモノだぜ? 少々お前が、恥辱に耐えるだけで良い。俺もそんなに極悪じゃないからな。それとも、俺の親切な『要請』を断る気か? どうなるか判ってるんだろうな? お前」
 我ながら、極悪そのもので眩暈がする。
〔……くっ……!!〕
「……お前だって、判っててやったんだろ? 『失敗』した時のリスクくらい、判っててやったんだろ? それともお前、そんな事も気付かないくらいバカで鈍感で間抜けなの? まともな返事位しろよ。それとも、そんな事も出来やしねぇの?」
〔……判った〕
 屈辱に、震えた声。俺は何だかひどく悲しくなった。喉の奥が、痛くなる。
「……病院の消灯は十時だ。それ以降に来い。病室はE棟三階四号室だ。電気は消えてても、ちゃんと待ってるから来い。……良いな?」
〔……判った〕
 押し殺した、声で。俺は胸が苦しくなった。胸が痛くて。ひどく痛くて。
「……忘れるなよ? 今夜だ」
 そう言って、切った。涙がこぼれ落ちる。苦しくて。……とても苦しくて。それから、悲しくて。あとから、あとからこぼれ落ちて、止まらない。……律は……俺に『愛情』なんて求めてない。律は……俺の事……『好き』なんかじゃなくて、俺……『嫌われてる』くせして、好かれてるなんて思ったんだ? ……傲慢。自惚れ。自信過剰。バカ。……俺なんか、人に好きになって貰う価値なんて無いのに、そんな資格ちっとも無いのに、俺はすっかり浮かれ上がってて、ちっとも気付かなかったんだ? 『好かれてる』どころか救いよう無いくらい『嫌われてる』くせに。
 太田知子には、最初から好かれるつもり無かった。嫌われるくらいで丁度良いと思った。下手に望みなんか抱かないで済むから。その方がずっと楽だから。俺は傷付きたくなんか無かった。下手に好意的態度取られて、『期待』して、傷付けられて失望するのが厭で、最初から望みなんて皆無な方が楽だった。
 律は俺に最初から好意的だった。それが演技でも嘘でも何でも。俺はだからてっきり好かれてるとばかり思ってた。俺は律にあらぬ『期待』をした。好かれても無いのに、好かれてると思って勝手に律を誤解した。律の事なんて俺は何一つ知らない癖に、律の『本当』なんて何も知ろうとしなかった癖に、俺は律の優しい面を、甘い言葉を無条件に信じ込んで、俺は律に甘えて自分を省みようとなんかしなかった。俺は自分がどんなに嫌われてるかなんて、思いもしないで、『律が俺に好意を持ってる』前提で、律に接していた。律は俺を苦々しく思っていただろう。俺の自惚れを、俺の傲慢さを、どれだけ疎んじ嘲笑っただろう。俺は『人間』なんか信じるべきじゃないと知りながら、誰だって『自分』以外は可愛くないと知りながら、律を信じた。何の疑いも無く。律のせいなんかじゃない。俺の甘さが原因だ。律がもし、俺を殺そうとするならそれでも良い。律にとって俺が負担になるなら、俺の存在が苦痛になるなら、俺自身なんかどうなったって構わない。それが律の望みなら、俺を憎み続ける事が望みなら、俺はその為の役柄を演じ続けても良い。律にとって唾棄すべき金持ちの厭味で我儘な『御曹司』。涙が止まらない。……俺は……一体何故生きている? こんな想いをする為か? 世の中、信じるべきものなど何一つ無いと知る為か? 誰かの言動にいちいち絶望して、嘆き喚く為に!? 全部俺のせいか!? 律が苦しいのも、俺自身が苦しいのも!!
 泣きすぎて、頭が痛い。空っぽになりそうだ。空っぽになれたら良い。空っぽなら、何も考えずに済む。つまらない事、滅茶苦茶厭な事、何も考えずに済む。……生きていたくなんか無かったと、強く感じた。助かりたくなんか無かったと、俺は思った。律は俺を一息に殺してくれれば良かった。そうすれば、俺は余計な事何一つ考えずに死ぬ事が出来た。こんな『真実』なんて要らなかった。そんなもの、知るくらいなら何も知らない内に殺してくれれば良かった。だから、祈る。たのむから律、これ以上俺が苦しまない内に、ひと思いに殺してくれ。こんな奴、何の情けも容赦も要らない。俺は生きてたって誰の何の役にも立たない。誰かの『負担』にしかならないなら、誰かの『苦痛』や『憎悪』にしかなれないなら、いっそどうか殺してくれ。今度は決して『失敗』しないように。人の弱味につけ込んで、何か良からぬ事を企てるような奴、殺したって罪の意識、感じないだろ? 律の望む通り、精一杯俺は『悪人』演じ切るから、どうか間違いなく俺の息の根を止めてくれ。今の俺なら、容易く殺せる。ひと思いに、殺してくれ。俺はもう……こんな想い、したくない。もう二度と。……絶対に。
 夜が来るのが待ち遠しかった。早く夜にならないかと俺は心から望んだ。……全て終わらせてくれ、律。お前の手で。

 約束通り、律は来た。月明かりの中、俺と律は向かい合った。
「良く来たな、律。……会いたかったよ」
「…………」
 硬い表情で、律は俺を睨んでいる。
「……まあ、座ってくれ」
 傍らの椅子を指し示す。律は硬い表情のまま、それでも素直に従った。
「……かれこれ……そうだな? もう、十六日位経つのかな? ねぇ、律」
「……用件は……」
 律は震える、声で。俺はにやりと笑ってみせる。
「……そうだな……まずは……脱いで貰おうか?」
「なっ……!!」
「……全部なんて言わない。上半身だけで良い」
「……一体何で!!」
 恥辱で律は、顔を真っ赤にする。
「……言う通りにしろよ? 人生棒に振っても良いのか?」
 精一杯厭味な声で。律は身体を震わせながら、シャツのボタンを一つ一つ外していく。俺は傍らのテーブルから果物ナイフを取る。切っ先を握り、握り手部分を律に指し示す。
「……!?」
 俺はにやりと笑ってみせる。
「……これで傷を付けろ」
「!?」
 律は俺を凝視した。
「……何処でも良い。派手な奴だ。別に死ななくて良い。誰にだって傷痕だって判る程度で」
「……なっ……!?」
 律はガタン、と椅子から立ち上がる。
「……別にその顔でも良いんだがな? さすがにそれはちょっと後味悪いからな。俺も親切だろ? 人から見えない場所で良いって言ってんだから」
「……っ!!」
 怒れ、律。こんな奴の言う事、聞く事無い。目の前の相手を殺れる武器も目の前にある。嫌いなんだろ? 律。憎んでるんだろ? 律。俺を恨んでるんだろう? 律。こんな仕打ちに耐えたりしないで、ひと思いにやってくれ。
 律は俺の手から奪い取るように、果物ナイフを掴んだ。勢いで、指の先が切れる。鮮血が溢れ、血が滴り落ちた。
「……危ないじゃないか」
「……あなたは!!」
 律は叫んだ。怒りに震えている。……そうだ。それで良い。俺の言う事なんて聞くな。俺は素手だ。しかも身動きできない。右手一本でも、どうにかなるだろ? この至近距離だ。どんなバカでも近眼でも、外しっこない。もっとも、律は遠視なのだが。
 俺は余裕たっぷりに切れた指を口に含む。
「……何だよ? その目は。俺に刃向かうつもりか? ……ゲス野郎が」
「っ!!」
 カッと律の顔が朱に染まった。
「……どうしてっ……龍也さんはあなたなんかをっ……!!」
 ぎょっとした。
「……えっ……?」
 中原!? 中原龍也!? 何故そこでその名前が出てくる!? どうして!?
「……どうして龍也さんはあなたなんかが良いんだ!! 僕じゃなくて!!」
「…………」
 呆然、とした。……泣き叫ぶように。ふるふると震えながら、俺を睨んで。俺はポーズを作るのも忘れて、律に見入った。
「全然判らない!! 僕には全く理解できない!! どうしてこんな奴が良いんだ!!」
 ……言ってる事が、意味不明だった。全く理解できない。
「……何を……っ」
「……同じ顔なら、同じ体格なら、どうして僕よりこんな奴が良いんだ!! 絶対、僕の方が……っ……僕の方が……っ!!」
「……待てよ……っ!! ……お前何言ってんだよ!?」
「あなたなんか、龍也さんに相応しく無い!!」
「!?」
 咄嗟に、意味を理解するのに数秒要した。理解しても暫く、口を利く気になれなかった。
「……『龍也さん』って……お前……それ……中原龍也の事、言ってるんだよな?」
 それでも、俺は訊いてしまう。
「だったら何だよ!!」
 愕然とした。……悪夢みたいだ、と思った。
「……あいつ……『男』だぞ?」
 今更ながら、俺は訊いた。
「……だから何だよ? それが何だって言うの!?」
「…………何血迷った事、言ってんだ!?」
「っ!?」
 律は、血走った目で、俺を見た。
「あなたにそんな事、言われたくない!! 龍也さんの素晴らしさ、知りもしないクセに、そんな事言われたくない!!」
 眩暈がしそうだった。何を言われてるのか、半分も判りゃしない。俺には全く意味不明の、理解不明の言葉だった。
「……待てよ……じゃあ……律の欲しいものって……!!」
「悪い!? 僕が龍也さんを好きで、そんなに悪い!?」
「……ちょっと……待て……っ!!」
 くらくらする。信じられなかった。そんなもののために? それで俺を屋上から突き落とした? わざわざ科学室から硫酸まで盗んだりして?
「……そのためだけに、俺を殺そうとしたのか!?」
「あなたが僕の邪魔をするから!!」
 律は叫んだ。
「あなたがいる限り、龍也さんは一生僕を見てくれない!! 僕自身の事なんて、一生気付いてくれないんだ!!」
 血を吐くような、悲痛な声。
「……龍也さんはとても『優しい』。けど、そんなの本当の『優しさ』なんかじゃないんだ!! あの人の目は、いつも僕を素通りして、別のものを見てる!! 僕なんて『身代わり』でしかなくて、ただそこに存在するだけの、何の意味もない『偽物』でしかないんだ!!」
 吐き捨てるように。悲痛な声で。
「あなたには判らないでしょう!! 『本物』なあなたには判らない!! 僕がどれだけ苦しんできたか!! どれだけ僕が自分を見て貰おうとして、どれだけ無視され続けてきたか!! 龍也さんはとても『優しい』から『本当の事』なんて何も言わない!! でも、見てたら判るんだ!! 龍也さんは僕なんか見ていない!! いつも見てるのはあなた一人で、他の誰の事もどうだって良いんだ!! 龍也さんにとって、僕は替えの利くスペアで、『本物』なんかじゃない!! 僕は『本物』になりたくて、この世で唯一人の存在になりたくて!! だけど叶わなくて!! 僕があなたを憎むのは、当然の事でしょう!? だってあなたは『本物』なのに、その有難味なんて何一つ判って無くて!! いつだって傲慢で我儘で!! 俺が欲しくて欲しくてどうしようもないもの、最初から手に入れてるクセに、どうだって良い顔しかしないんだ!!」
「……なっ……!!」
 それって俺のせいかよ!? そんな事、知らない。俺の知ったこっちゃない!! 中原にとって俺がどうとか、そんなの……気色悪いだけで、考えただけで怖気がして……っ!! お前の言ってる事、俺には全く理解できないよ!! 律!!
「……そんなに中原が大切か!? 俺の心弄んでまで!? 俺を騙し討ちにして殺したいくらい、中原が好きなのか!? 本気で!?」
「大切なもの……奪われて、挙げ句無視されて、それで僕に我慢しろって言うんですか!?」
「……そんなのっ……知ったこっちゃ無い!!」
 俺は思わず怒鳴った。
「俺はそんなの、迷惑だ!! 中原の好意なんて要らない!! 大体、あいつが望んでるのは、十年前のヤケっぱちになってた過去の『俺』で、現在の俺自身の事なんてどうだって良いんだぞ!? 俺の目の前でそう断言したんだぞ!? なのにそんなっ……八つ当たり以外の何だって言うんだよ!! それ!!」
「八つ当たりは百も承知です!! そんなの最初から判ってる!! 仕方ないでしょう!? あなたは僕の策略にまんまと乗ってくるし、僕には『機会』があった!! 『機会』も『隙』もなけりゃ、僕だってあなたを殺そうとなんてしなかった!! 最初から!!」
「……何だよ……それ……っ!!」
 絶句するしかなかった。
「……それじゃ、俺のせいだって言うのか!?」
「……あなたに『隙』がなくて、『機会』もなけりゃ、好きこのんでわざわざそんな事、しませんよ。僕はそこまで、バカじゃありませんから」
「……訊きたいんだが……どうして……あの時、腕を掴んだ?」
「……何も知らずに死ぬのも可哀相でしょう? あなたにはどうしても死んで欲しかったけど、ちょっとだけ可哀相になったんです。だから、理由くらいは話してあげようと思ったんですよ。余計な事でしたけど」
「…………っ!!」
「……死んでくれれば良かったのに……」
 冷たい、目で。律はナイフの切っ先を、俺に突き付けた。それは、俺の望んでいた事だった。だけど俺は今、それを後悔していた。……真実、俺が律の重荷で苦痛でしかないなら、死ぬのも良いと思っていた。今は……俺が死んでも、律には何の救いにもならないと、気付いた。……から。
「……やめろ……っ……律……っ!!」
 そんな事しても無駄だ!! そんな事しても、お前の望みは叶わない!! お前自身を追い詰めるだけなんだ!! どうしてそんな明白な事が判らない!?
「やめろっ!! 律!! 後悔するぞ!! 絶対!!」
「……さっきの勢いはどうしたんですか? 随分態度が違うじゃないですか」
「律!! お前、目ェ醒ませ!! お前は今、正気じゃない!! 落ち着いて、良く考えろ!! 考え直せ!! 絶対後悔する!! 考えろ!!」
「……卑怯で我儘で身勝手なあなたの言い分なんて聞かない。僕は……僕自身が出した結論だ」
 ナイフの切っ先が月光をきらりと反射した。手首を閃かせて、真っ直ぐに、俺の心臓目掛けて。
「律!!」
 衝撃は、来なかった。一瞬、何が起こったか、判らなかった。どさり、と音がして、律が床へと倒れ込んだ。一言も無く。
「…………!?」
 その背後から、むくりと起き上がった影。見上げるような長身。長い黒髪、後ろ一つに束ねて。
「……中原……」
 呆然と、俺は呟いた。……声が、掠れた。
「……様子がおかしかったので、電話を盗聴させて頂きました」
「!?」
 ……迂闊、だった。全く、気付かなかった。
「……『らしい』と言えば『らしい』ですが、似合いませんね? 郁也様」
「…………お前……っ」
 真っ白に、なった。
「……ずっと……いたのか!?」
 中原は笑った。
「……ずっと隠れてました。ちょっとキツかったですよ? ベッドの下にいるのも」
「…………っ!!」
「……誰かを庇ってるとは思いましたが……意外でしたね? 律と知り合いとは、全く知りませんでした。藤岡君に郁也様が誰かと逢い引きしてたようだと聞いたのですが……まさか、律だとは」
「……中原っ!!」
 突如、怒りが込み上げてきた。
「お前っ……何でっ……!!」
「……電話を聞いて、まさかとは思いましたが……こんな事になってるとは……驚きました」
「一体どういう事か説明しろ!!」
「……説明?」
 中原は意外な事を言われた、とでもいう風にきょとんとした。
「どうして……っ!! どうして律がこんな事したか、お前知ってるんだろう!?」
 激昂すると、中原は目を丸くした。
「……律の『理由』なんて、律しか知りませんよ」
 ようやく、思い出した。律の柑橘系のフレグランスは、中原のBMWだった。あそこで初めて嗅いだんだ。中原が言ってた『男』はおそらく律の事で。
「……お前……律に何したんだ!?」
 中原が眉を顰めた。
「……何って……」
「お前、律に何かしただろう!! 律がこんな風に追い詰められるような……っ!!」
「……俺の……せいですか?」
「お前のせいじゃないかどうかは、内容聞いてから判断してやる!!」
「……それはまた……」
 中原は肩をすくめた。
「……厄介ですね」
 思わずカッとした。
「中原!!」
 中原は溜息ついた。
「……『寝た』んですよ。ただ、それだけです。律が、そう望んだから」
「!?」
 血の気が、一気に昇るのを感じた。
「……お前……っ!! ……変態か!?」
「……それは律に失礼でしょう?」
「一体何考えてるんだ!?」
 目の前が、怒りで真っ赤になりそうだ。
「お前、一体何のつもりなんだよ!!」
 目の前の落ち着いた澄まし顔の男を、殴り倒したくなる。
「……律が、望んだんですよ」
「だったらお前は!?」
 これ以上、こいつがふざけた事言うなら、俺は自制心がきっと吹っ飛ぶ。
「……? ……俺自身ですか?」
「……そうだ」
 声が、震える。
「……俺自身は何も何も望んでません
「どうしてそんな事をした!?」
「律が、望んだから」
「相手が望みさえすりゃ、何でもするってのか!?」
「……仕方ないでしょう? 可哀相じゃないですか」
 淡々とした、声で。相手を『人間』だと思ってない顔で。
「お前って奴は!!」
 怒りで、全身の血が沸騰した。渾身の力で、中原を睨み付けた。怒りで身体が震える。中原には色々腹立たされてきたが、今ほど怒りに震えた事は無い。この男を、絶対に許せないと思った。
「……イイ顔しますね」
 にやりと中原は笑った。ぷつん、と糸が切れた。
「貴様ぁぁっっ!!」
 身体の事も忘れて、飛び掛かった。全身に、激痛が走ったけど、そんなのこの怒りに比べれば気にならなかった。激しい痛みに逆らって飛び掛かり、左腕で中原の首を掴み、思い切り噛み付いた。ぷしゅりという、厭な肉の感触と共に、生暖かい血が喉へ溢れ流れ込んでくる。俺はそれを吐き捨て、飛びすさった。
 中原は笑っていた。俺は愕然とした。……中原は嬉しそうに笑っていた。俺はぞくりとした。
「……なっ……!!」
 こいつ、何考えてるんだ!?ぞっとした。物凄くぞっとした。途端、全身の激痛に、俺は思わず悲鳴を上げて倒れ込んだ。中原が左腕一本伸ばして、俺の身体を支える。……吐き気がした。
「……触るな!!」
 最悪に気分が悪かった。
「俺に触るな!!」
 中原は笑った。首から血を流したままで。
「……やっと『見せて』下さいましたね?」
 ぞっとした。蛇に睨まれた蛙のように、身がすくんだ。強迫観念に駆られて、叫び出したくなった。滅茶苦茶ぞっとして!!
 中原はにっこり笑って俺を引き寄せようとする。俺は体中痛くて、逃れられない。中原は俺を床に座らせて、頬に手を触れる。俺はぞっとした。ぞっとしたけど、身動き一つ出来ない。中原の指が、俺の顔をなぞる。
「……やっ……!!」
 中原は笑う。最悪に、凶悪な笑顔で。
「……やめて欲しいなら、腕を振り払ってご覧なさい?」
「……やめっ……!!」
 泣き叫びたく、なった。
「……もう一度、噛み付いてみれば良いでしょう? そうすれば、戦意喪失してやめるかも知れませんよ?」
「……やっ……!!」
 両目を瞑る。中原の指が、執拗に俺の顔をなぞり、ゆっくりと顔を近付けてくる。吐息が、俺の顔に掛かる。俺は痛みの許す限り、中原から離れようと、身体を捻り避けようとする。中原の指が、唇へと、到達する。
「っ!!」
 思わず開いた目の前に、中原の顔が、あった。悲鳴上げそうになる。中原の指が、顎へと滑る。
「……やっ……やめっ……!!」
 不意に、背中に衝撃を感じた。ごふり、と血が溢れ出してくる。
「!?」
 じわり、と背中に血が染み出すのを感じた。痛みなんか、今更どれが何やら判りゃしない。けど、今新たな痛みが加わったのは、間違いよう無い事実で!!
「律!?」
 中原が、叫んだ。俺は、振り向けなかった。そのままその場へ崩れ込む。カラン、とナイフが落ちる音がした。
「……龍也さん……」
 律の……声。身体が、動かなかった。指一本、動かせない。全身が、重かった。刺されたのは、右脇腹。……笑えない。全然笑えない。背中から、ざっくりと切り裂かれて。せめてもの救いは、ここが病院で、救急車に乗らなくても『治療』して貰えるという事だ。……俺が死ななかったら。
 本当、全く笑えない。冗談でなく、今度こそ本当に俺、死ぬかも。急速に、不安と後悔が押し寄せる。俺は一体、何てバカだったんだろう!! 死にたくないと、痛切に思った。こんな状態でとても死ねないと思った。まだ死にたくなんか無かった。まだ、死んだりしたり、出来る筈無かった!!

To be continued...
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