NOVEL

週末は命懸け3「観察者」 -3-

「悪い!! 待った!?」
 息切らせて到着すると、金山は文庫閉じて、にっこり笑った。
「ううん、全然」
 そう言って眼鏡を外す。
「……えっとさ、その眼鏡。前から訊きたかったんだけど、伊達?」
「違う。僕、実はちょっと遠視なんだ」
「……遠視?」
「そう。2.0と2.5。無くても日常生活にはそう大して支障無いけど、本読む時とか字を書く時はちょっと不便なんだ」
「あ、成程」
「遠くの方は良く見えるから、眼鏡無い方が楽」
「……『観察』する時とか?」
「うん。でも、人目あるから、むやみやたら外せないけど」
「……顔がバレると困るから?」
「……まあね。似てるとか騒がれると困るし」
「だったら違う学校の方が良くないか?」
「入れ替わる時は便利なんだ」
「…………」
 でも、今年の春の時はそういう有難味無かった……悪いけど。でもまあ……そうかな?
「そういう時、連絡来るの?」
「そう。あなたが知らないだけで、そういうの結構あるよ」
「……そんなにある?」
「うん。時々それで早退する事も。ただ、僕病弱そうに見えるらしくて、全然仮病でもバレないけど」
「……そんなんで、出席率とか、平気?」
「大丈夫。それ程休んで無いし、それに学校って結構休んでも大丈夫だよ。出席率割った事無い」
「……そうなんだ?」
「うん。最悪、休み期間に登校すれば出席貰える。そこまではした事無いけど」
「でも、それじゃ授業ついてくの大変じゃない?」
「そうでもないよ。家庭教師とかもして貰えるし」
「……え? 『久本』から?」
「うん。護身術とかも色々。結構勉強させて貰ってるから、得な事もあるよ。射撃とか乗馬とかも無料でさせて貰ってる。これで『仕事』なら結構お得かなとか」
 にこりと笑う。……射撃と乗馬……俺はした事無い。
「……そうなんだ?」
「どうせこういう事してなかったら、僕かなり暇人だから。……楽しいよ?」
「……そっか……」
 俺より華奢な身体して。
「……金山さ、痩せ過ぎじゃない?」
「……そう?」
 きょとんとする。
「僕は郁也さんの体型に合わせて、体重調節してるだけなんだけど? 僕が痩せ過ぎなら、郁也さんもそうだよ?」
「……だって腕、俺より細くないか?」
「そんな事無いよ、ほら」
 そう言って、俺の腕に自分の腕、並べて見せる。肩先がトンとぶつかり、どきりとした。言われてみれば、腕の長さも細さもあまり変わらない。何だか変な感じがした。
「……本当だ……」
「……ね? ちゃんとカロリー計算して調整してるから、滅多にそういう事無いんだって」
「……でも、身長や腕の長さなんてそう簡単に……」
「うん。それはそう。……だから、運の良い偶然って感じだね」
 にっこり子供のように笑う。
「あのね、身長合わなかったらね、シークレット・シューズとか履かされちゃうんだよ?」
「げ!! 何、それ!!」
「僕ね、中二の頃かな? 郁也さんと三cm誤差あって、その時履かされたの!! いや、普段履かないけど、『仕事』の時!!」
「……げーっ」
「あのね、面白いんだよ? 外側とね、内側が違う訳。中だけ厚底になってるんだよ!! 僕もう、笑っちゃった!! 本当にああいうの履いてる人、いるのかな?」
「……やっぱいるから、そういうのあるんじゃねぇの? 普通」
「そうだよねぇ。僕、感心しちゃって。アレ、わざわざ作ったのかなあ? 今でも不思議なんだけど」
「……俺に訊くなよ、そんな事」
「あははっ。それもそうだね。そうなんだけど……僕、訊きそびれちゃって。本当、貴重な体験させていただきました。うん」
 楽しげに。
「へえ? で、幅とかでそういうのあったりした?」
「それは全然無い、無い。その辺完璧。プロと呼んで下さい」
「本当に呼ぶか?」
「……嘘です。すみません」
 笑い転げた。
「金山ってさ、誕生日いつ?」
「え、僕? ……十月七日。天秤座。血液型はAB型。郁也さんは双子のA型だよね?」
「そう。……へえ、お前、秋生まれか。AB型……そうか……ふうん……」
 中原と同じじゃねぇか。いや、中原は十月二十四日だが。
「AB型とかB型って占いとかじゃろくな事書いてないんだよね」
「……そうか?」
「……いや、偏見かも知れないけど」
「俺、そういうの気にした事無いから」
「あっさりしてるね、郁也さん。前からちょっと思ってたんだけど、結構ドライだよね?」
「……俺? そういう事……考えた事無いけど」
「……何か、独特な感じで」
「お前もな、金山」
「……あの、律って呼んで貰えるかな?」
「え?」
「……僕、自分の名前、結構好きなんだ。ちょっと固い感じだけど、何か良くない?」
「……いや、良い名前とは思うけど……」
 何か照れるんだが……何故だ?
「……判ったよ、律」
「わあい♪ 有り難う、郁也さん」
 無邪気にはしゃいだりして。思わずつられ笑いする。
「……あ、そろそろ休み時間終わっちゃう。すみません、郁也さん」
「……ああ、そうだな。じゃあ、また」
「はい! また、今度!!」
 そしてその場で解散した。

 俺はそんな毎日が続くような気がしてた。金山と話すのは楽しかった。人目を忍んで、ってのが余計拍車を掛けてたのかも知れない。ドキドキして、それもまた面白かった。金山は本当、他人のような気がしなかった。ずっと昔からの友人のような、そんな気さえしていた。誰にもこの時間を邪魔されたくなかった。親友の、昭彦にでさえ。俺は金山が好きで、金山も素直に俺を慕ってくれる。こういう、むきだしの純粋な可愛らしい感情に出会ったのは、十六年生きてきて初めてだったから、俺は感動に似たものさえ感じていた。誰にも奪われたくなかった。誰にも邪魔されたくなかった。このままこうして、金山と過ごせる日々を、俺は全く疑わなかった。
 その日、七月十九日火曜。その日は通知簿渡しで情行は午前中のみで、どっかその辺に食べに行こうと、校門を出ようとしたところで、携帯が鳴り響いた。
「……はい?」
〔……郁也さん?〕
 金山の声。珍しい。いつも掛けても夜なのに。
「ああ、何? 俺、今、校門の前にいるんだけど」
〔……丁度良かった。郁也さん、旧校舎、来て貰えます?〕
「……え? 屋上? 今から?」
〔……傍に今、誰もいません?〕
「いない。……判った。今すぐ行くよ」
〔……すみません。急に〕
「良いよ。……どうせ暇だし。すぐ行く」
〔有り難うございます〕
 切って、人の目気にしながら、旧校舎屋上へと向かった。……どうしたんだろう? 珍しい。行くと、金山が手摺りに寄り掛かって、何処か遠くを見つめていた。
「……律?」
 隣に並んで、声を掛ける。金山は遠くを見つめながら、うっすら微笑んだ。
「……来て……下さったんですね」
「……律の頼みだからな」
「……優しい……ですね」
「そんなんじゃない。律だからだろ?」
「……嬉しくなる事、言ってくれますね」
 何か変だと、俺は気付かなかった。
「……ねえ、郁也さん?」
「……え?」
「……僕が……どうしてあなたに声掛けたか……知ってますか?」
 そんな……お前それ一番最初に……。
「……知らないでしょう? あなたは、何も知らないんですよね?」
「……何を……」
 変な、匂いがするのに気付いた。
「……律……?」
「……僕は、あなたがとても羨ましかった。とても。……あなたは僕の欲しいもの……一番欲しいものを最初から持っていたから……」
「……何……?」
 金山はにっこり静かに笑った。
「実は僕、ずっとあなたの事が嫌いでした」
「……なっ……!?」
 絶句した。金山は静かに穏やかな笑みを湛え続けていた。俺は思わず、後ろへ後ずさった。金山はトン、と俺の胸を突いた。その瞬間、背後の手摺りが外れて落下した。声を上げる事も出来なかった。俺は手摺りと共に落下した。……否、落下しようとした。
「……律……?」
 金山が俺の腕を掴んでいる。にっこりと笑いながら。
「ごめんなさい、郁也さん。悪く思わないで下さいね」
「……何を……っ!!」
「……自分がどれ程恵まれてるか、あなたはご存じ無いでしょう? 僕がどれほど苦しかったか、あなたは知らないでしょう? ただの『身代わり』がどれだけ辛い事か、あなたご存じ無いでしょう? 僕はもう、終わらせたいんだ。そうしたら、見てくれるかも知れない。……一瞬でも」
「……律!!」
「……安らかに成仏して下さいね? 郁也さん」
 そう言って、金山は俺の腕を離した。俺は叫び声を上げた。金山はひらりと身を翻した。俺の腕は縁を掴み損ねた。どんどん、落下していく。駄目だ!! 叩き付けられる!! 下はコンクリート。助かりそうに無い。不意に、誰か走り寄って来た。ぶつかる!! 俺は目を瞑った。
 ……鈍い、衝撃。……ジン、と衝撃に身体が痺れる。重い痛み。……生暖かいもの。……血? 胸が軋む。呼吸が……辛い。……呼吸? 生きてる? 俺? 何で? 四階建ての屋上だぞ?
 げほげほと咳き込みながら、目を開ける。くらくらする。
「……良かった。何とか……生きてますね」
 中原の顔。
「……えっ……?」
 俺は混乱した。……どうして? 何でここにコイツが? それより何で俺……生きてる?
「……あ、動かないで。たぶん骨くらいは折れてる筈ですから。じっとして」
「……痛っ!!」
 身体捻ろうとしたら、凄まじい激痛が走った。呼吸……っ……苦しいっ!! ……言葉に……ならないくらい……っ!!
 ぜぇっ、ぜぇっ、と息を吐く。苦しくて、脂汗が滴り落ちる。全身の血が、冷たくなる。口元から、鮮血が泡のように溢れてくる。苦しくて、咳き込む。全身が、鉛のように重い。苦しい。
「……こりゃ、俺の腕も折れてますね」
 呑気な声が降ってくる。ぎょっとして中原を見上げる。俺は中原の身体を下敷きにしていた。
「……やっぱり腕で受け止めるのは無理でした」
「……何……っ!!」
 咳き込みながら、口開こうとすると、押し止められる。
「黙ってなさい。酷い傷なんだから。……今、救急車呼びますから」
「……りっ……!!」
「……遠目で良く判らなかったんですが……誰か傍にいませんでした? あ、喋らなくて良いです。喋らなくて良いから……」
 ……律。金山律。……どうして……? どうして!? どうして俺を突き落とした!? 『嫌い』だって!? 何で!? どうして!? ……笑ってたのに!! ずっと笑ってたのに!! 嘘だったのか!? 全部!? 楽しそうに、嬉しそうに笑って……憧れてたって……好きだって言っただろう!? 律!! どうして!! あの笑顔……全部嘘だったのか!? 嘘だと言ってくれ!! 今なら信じる!! そんなつもりは無かったと弁解してくれ!! 今ならまだ、信じられるから!! どんな嘘だって今なら、まだ……!! ……嘘だろう……!? 律!!
「……じゃあ、お願いします」
 中原が何処かへ電話してる。全てが、遠く感じられて。誰かが大勢、駆け寄って来る足音。気配。
「……郁也っ!?」
 悲鳴のような……昭彦の声。苦痛に呻きながら、ぼんやりとそちらを見る。昭彦が真っ青な顔で駆け寄ってくる。
「郁也!! どうしてっ!!」
「…………くが、よ……ごれる……っ」
「服なんか汚れたって良いよ!! どうして!! 郁也!!」
「……すみませんが、喋らせないで下さい。肺をやられてるようなので」
「……っ!!」
 中原の言葉に、昭彦は絶句する。……苦しい。また、咳き込む。どす黒い血が、鮮血と混じり合って、痰のように喉に絡まりながら、溢れてくる。咳き込みすぎて、喉が痛い。目に涙が滲む。身体が、重くて上手く動かない。……ふと、遠目に金山律の姿が掠めた。どきりとした。相手の表情は見えない。たぶん、眼鏡はしてない。だからきっと、律は俺が見えている。唇だけで『律』と呼んだ。頼むから、弁解してくれ。今なら、どんな嘘でも信じるから。どんな言い訳だって信じるから!! 律はそのまま身を翻した。俺に背を向け、行ってしまう。叫びたかった。大声で叫ぼうとした。大きく息を吸い込んだ途端、胸に激痛が走って咳き込んだ。激しく咳き込んで、ようやく顔を上げた時には、金山律の姿はそこに無かった。俺は絶望的な想いになった。……金山律は弁明しない。謝罪する気も毛頭無い。……律は、俺を裏切ったのだ。俺を裏切るつもりで最初から……近付いた? 信じたくない。そんな事、とても信じたくない。そんなの、絶対信じたくない!! 頼むから、もう一度戻って、その口ではっきり弁明してくれ!! 律!! あの笑顔が全て嘘だったなんて、言わないでくれ!! あの笑顔が嘘なら、俺はこの世で一体何を信じれば良い!? ……頼むから……律!!

 俺は救急病院にかつぎ込まれ、緊急入院した。肋骨が五・六本折れて、肺に何本か刺さって穴を開けたらしい。他に右腕複雑骨折。同じく右足骨折。右足首にひび。それから額に三針縫う怪我。頭は強く打ったが、脳に損傷無し。あと腰の骨を脱臼。まだ細かい怪我や打ち身・擦り傷なんかあったけど大した事無い。いずれにしても数ヶ月入院は決定だ。夏休みは完璧おしゃか。退院は新学期にずれ込むのは必至。
 ……人影を見た、という証言で警察の事情聴取を受けたが、俺は金山の事、一言も言わなかった。
『俺は知りません。何も知りません。見てないんです。……寄り掛かったら、手摺りが落ちたんです。本当です。びっくりして。物凄く』
 ……旧校舎の手摺りは、薬品で溶かされ、一部がちょっと押しただけで壊れるようになっていたという。使われた薬品は科学室の硫酸で、誰が持ち出したかは不明らしい。その時に限って、薬品戸棚も化学実験室のドアも、旧校舎屋上の扉も何故か鍵が掛かって無かったと、後から訊いた。
「……誰か庇ってるんじゃありませんか?」
「……俺がそんな殊勝な事するかよ?」
 俺は中原に言い返した。
「もし、誰かのせいで落ちたんなら、地獄の果てまで追い詰めて追求するさ。……知ってるだろ? 俺の性格」
「……そこまで執念深かったとは、初めて知りました」
「……良く言う」
 俺は鼻で笑った。入院してもう、二週間経つ。昭彦は部活帰りに毎日来る。中原や久本貴明なんて、呼んでも無いのに毎日来る。……金山律は一度も来てない。……ただの一度も。
「……ところで頼んでた新しい携帯は?」
「……本当は病院内は使用禁止なんですがね。特に病室は」
「……ロビーや待合室に限るんだろ? 知ってるって。常識だろ?」
「……どうしても必要ですか? まだ歩けもしないクセに?」
「……暇で仕様が無いんでな。お前の持ってくる本もすぐ、読み終わっちまうし」
「もっと増やしますか?」
「邪魔になる」
「……我儘な事を」
「他に娯楽が無いんだ。少しは言わせろ」
 中原は溜息ついた。そういう中原自身も右腕骨折だ。自分の身体クッション代わりに俺を抱き留めた──とは言え失敗して落としたが──癖に右腕骨折のみで済むという頑丈さだ。当然、入院の必要は無い。念の為、初日に検査入院しただけで、あとは通院だ。
「……それにしても良く壊す人ですね」
「……俺のせいか?」
 憮然とする。校舎屋上から落ちて、携帯を壊さずにいられる人間がいたら、お目に掛かりたいものだ。
「……まあ、今回はそうとも言い難いようですが」
「……まだ二度目だぞ?」
「……二度ある事は三度あると言いますからね」
「だってこの部屋、電話無いだろう」
 俺のいるのはVIPの個室。風呂やトイレ、キッチンまでもが付いているが、俺自身は使えない。歩く事はおろか、立ち上がるのでさえ、他人の助けを借りなきゃならないくらいだ。はっきり言って、他人にベタベタ触られるのは嫌いだが、仕様が無い。我慢するしかない。酷く苦痛だ。何が厭って、トイレ行けなくて『したい』時は、ブザーで看護婦呼んで尿瓶やおまるにしなきゃならないという事だ。泣きたくなる程情けない。知り合いや友人には見せられない姿だ。本当言うと、若いナースが来た時なんか、マジで泣きそうになる。……出来れば便意の時は、オバハンが良い。絶対思う。
「……俺は動けなくて、見舞客と話すくらいしか娯楽が無いんだ。TVなんて見ないし。だからってお前の顔や『親父』の顔なんか見たくないぞ。こんな毎日じゃ退屈と鬱屈で、死にそうになる」
「……仕方ありませんね。本当は渡したく無いんですが……」
 そう言って、ごそごそとセカンドバッグから携帯と取り扱い説明書を取り出す。
「……たぶん……この部屋に誤作動を起こすような代物は無いと思いますが……一応、許可を取ってからですよ?」
「……判った」
「うるさいから先に渡しますけど、駄目だったら没収ですから。覚悟して下さいよ?」
「……判ったって。うるさいのはどっちだ?」
「こんなに親切にして差し上げて、そんな事言われるとは心外です」
「……悪かったな」
「……素直ですね?」
 中原はわざとらしく目を丸くする。
「うるせぇよ!! さっさとくれよ!!」
「……駄々っ子」
 何!? 思わず怒鳴ろう、とすると中原は俺に携帯を差し出した。俺は受け取る。
「……その……悪かった」
「……別に? あなたの我儘は今に始まった事じゃないし」
「……俺そんなに我儘か?」
「自覚無いなら、重症ですね。仕方ありませんけど。とにかく今、主治医に確認取って来ますから、おとなしくしてて下さい」
「……判った」
 中原が確認取って、一応(本当は駄目だけど)病室内で使用して良いと許可を取った。ただ、他の入院者の手前、おおっぴらに使用しない事と、消灯時間以降には必ず電源を切るという約束をさせられた。……それでも良い。俺はずっと待っていた。もしかしたら、番号変更してしまっているかも知れないけど……それでも、まだ俺は諦めたくなかった。
 金山が、金山律が俺を害そうとした事は明白だ。どういう理由かは判らないが、俺に何らかの恨みを抱いており、その為に俺を屋上から突き落として殺そうとしたのだ。科学室から盗んだ硫酸で、手摺りの一部を溶かしてまで。それは明白な殺意だ。間違いようもなく害意だ。……けれど、俺は律が何故、突き落とした俺の腕を掴んで、わざわざ本音の一部を吐露するような事をしたのか、その理由を聞いていない。あれが無ければ、中原がいたとしても、俺は死んでいたに違いないのだ。俺が突き落とされて数十秒程、律が俺の腕を掴んでいなかったら、確実に俺は死んでいた。故意だったのか、それとも計算外だったのか、俺はまだその事について聞いてない。突き落としたけれど、やはり俺を殺すのを躊躇ったのか、それともそんな事は無かったのか。俺は聞きたかった。それで絶望する羽目になっても。律の口から直接聞きたかった。この期に及んで、俺はまだ金山律の事が好きで、律の事を信じたがっていた。律の笑顔は『純粋』だったから。とても『素直』に見えたから。あれが『作り物』だとしたら、俺は何も信じられなくなる。今後、誰の何も、どんな言動も信じられなくなる。だから理由を聞きたかった。『救い』が欲しかった。ただの甘えで良い。勘違いでも何でも。俺は『救われ』たかった。こんな気持ちのままでは到底過ごせなかった。例え、傷付く言葉しか聞けなくても、律の口から律の言葉で話が聞きたかった。バカな事と、思われるだろう。俺だってこれが自分の事じゃなきゃ、そう思う。律が俺を殺そうとしたという事に間違いはないと、俺は確信してるのに、なのにそれでも律を信じたがっている。律の言った甘い言葉を信じたがっている。バカか気が狂ったとしか、思えない。律はあの時、本気だった。あの時の言葉は、たぶん間違いなく本音の一部で。……でも、俺は信じたくなかった。何か、絶対的な理由があって、その為に律は俺にあんな事をしたのだ。そうに決まってる。やむにまれぬ事情があって。
 律は『苦しかった』と言っていた。律は全てを『終わらせたい』と言った。……でも、『何』が? 俺は聞いてない。俺は一体、律の知ってる『何』を知らない? 俺が律の『欲しいもの』を持っていると言った。俺が『何』を持ってるって? ……判らない。判らないから、律の口から、律の言葉で返事が聞きたい。律は執拗なくらい、人目を避けていた。『他人』に俺と律の関係を知られるのを、極端なまでに恐れていた。全て人知れず俺を殺す為? ならば何故、突き飛ばしてすぐ逃げなかった? あの時、俺の腕を掴んだりしなかったら、中原に自分の姿を見られるような事は無かった。中原はそれが学生服だったとしか気付いていない。本当に、誰にも知られず俺を殺すつもりなら、そんな事はしなかった筈だ。腕を掴んだりしなければ、誰にも見られずに済んだ。律はそんなにバカじゃない。俺を殺すだけならもっと用意周到に、自分が疑われる危険性を生じさせずに、万に一つも俺が生き残ったりしないように、殺せた筈だ。律は失敗するつもりでやったんじゃないだろうか? 律は事が露見するよう、謀ったんじゃないだろうか? 本来なら、俺が律の事を口にすれば、すぐ律は容疑者として、あるいは重要参考人として捕まった筈だ。俺が生き残ったなら、そうなるであろう事を律はすぐ悟っただろう。……でも、律は何も行動を起こさない。沈黙を保ち続けている。二週間経った今でも。律は恐らく、このまま接触して来ない。俺が、律に連絡を取らないままでは。……だから、俺は律に最後の望みを賭けて、電話する。結果なんてどうだって良い。律の声が聞きたい。律の顔が見たい。律の言葉が聞きたい。バカな事だなんて良く判っている。まだ律が俺を殺す気なら、今度こそ本当に殺される。そんなの百も承知で、俺は律に会いたい。会って話がしたい。律の『本当』の『言葉』を聞きたい。……だから。
 深呼吸、する。まだ少し、肺が痛むけど、鎮痛剤も効いてるし、シクシクするくらいだ。全然平気。心臓がドクドクいって、止まらない。滲む汗を拭い、震える指で、慣れない左手で、ボタンを押す。もうすっかり丸暗記してしまった番号を。
 コール音が、鳴り始めた。

To be continued...
Web拍手
[RETURN] [BACK] [NEXT] [UP]