NOVEL

週末は命懸け3「観察者」 -5-

「律!! お前、何て事を!!」
 悲鳴のような中原の声。
「……龍也さんがいけないんですよ?」
 淡々とした、律の声。何の感情もない声で。
「僕の事なんて見てないクセに。僕の事なんて本当はどうだって良いクセに。……期待なんかさせなきゃ、こんな事にはならなかった」
「俺のせいだとでも!? 律!!」
「……本当は望みさえ叶えば、後はどうでも良かった。……どうして、僕を殺してくれなかったんですか?」
 愕然、とした。
「僕を殺しさえすれば、郁也は助かったかも知れないのに」
「…………」
「十分、その余地はあったでしょう? 龍也さん。どうして、僕を殺してくれなかったんですか?」
「……俺に……お前を殺せると思うのか……?」
「……郁也様にそっくりだから? 郁也様を殺すように錯覚するから? でもね、龍也さん。あなたの判断ミスのせいで、本物の郁也様が死にそうになってるんだ。早くしないと死んじゃうよ? それでも良いの?」
「律!!」
「僕を殺さない限り、何度だって郁也様を殺そうとするよ? それでも良いの?」
「律!! お前……っ!!」
「……バカだね、龍也さん。郁也様もお気の毒。可哀相にね。本当はもっと楽に殺してあげたかったんだけど、ごめんね。こうなって本当、残念だったよ。でも、仕方ないよね?」
「律!!」
「……思ったより、意気地なしだね? 恐い? 人殺しが? そんな訳ないよね? 龍也さん。あなたはそういうタイプじゃない。それとも、もっと大怪我負わせなきゃならないの? これ以上?」
「律っ!!」
 律が、さっき落としたナイフを拾い上げようとする。中原がそれを阻止しようと飛び掛かる。二人の身体が揉み合い、格闘し、それから取っ組み合いになって中原が律に馬乗りの形になった。
「!?」
 俺は思わず、目を見開いた。律の胸に、ナイフが突き立っていた。
「律!!」
 思わず痛みも忘れて叫んだ。ごぼごぼと、血が息と一緒に吐き出され、俺はむせた。顔を上げると、律はそのままの姿勢で、弱々しげに微笑んでいた。……満足そうに。
「!?」
 律が、掠れ声で小さく笑った。
「……あなたは……きっと僕を……忘れない。忘れ……られない……一生……そうでしょう? ……龍……也……さん……」
 中原の顔がハッと強張るのを見た。
「……忘れないで……下……さいね……龍也……さん……絶対……に……」
 弱々しいながら、艶やかな笑みを浮かべて。
「……律!!」
 律は幸せそうに、笑った。
「……好きです、龍也……さん。……例え……あなたの目……には……『血迷ってる』と……しか……映ら……なくても……」
「律っ!!」
 必死な形相で、叫ぶ中原。ハッと息を呑んだ。
 律の身体に、不意に力が無くなる。胸から染み出した紅い血が、真っ白なシャツと包帯を紅く染めて。月明かりに照らされた律の顔は、真っ青なくらいに白くて。がっくりと首を落とし、ぴくりとも動かなくなる。さっきまで、聞こえていた、荒い息遣いさえ……俺の耳には届かなくなって。
「律っ!!」
 俺は泣き叫んだ。律は反応しなかった。中原が、悄然とした顔で律を見ている。
「律っ!! 返事をしろよっ!! 律っ!!」
 肺が、内蔵が、悲鳴を上げるのも構わずに、俺は叫んだ。律は動かない。身動き一つしない。
「律!! 頼むから!! 下手な冗談やめろよ!!」
「……無駄です」
 冷徹に、中原の声が響いた。
「……律は、死にました」
 俺は悲鳴を上げた。誰かが、通路を走ってくる。
「どうしたんですか!? 久本さん!! 失礼します!!」
 誰かがそう言ってドアを開けた。女性の悲鳴。俺と中原は、暫し呆然と見つめ合った。中原は入ってきた看護婦の方を見る。
「……すみません、暴漢です。揉み合ってる内にナイフが刺さってしまいました。あと、彼に襲われて郁也様が、負傷しました。早く治療を。でないと……命に関わります」
 冷静な、声で。看護婦がハッと正気に返り、滲み掛けた涙を拭い、はいと返事をして走り去る。
「……中原……」
 中原は俺の方を振り向いた。
「……どうしてお前はそういう奴なんだよ!!」
 思わず怒鳴った。涙が、溢れ出してきていた。
「何故そういう事をするんだ!! 他にやり方は無いのかよ!?」
「……何を……言ってるんですか……」
 何処か虚ろな顔で、中原は言った。
「……あなたに危害を加えたんですよ? また更に危害を加えようとしたんです。感謝されても、非難される覚えはない。……不可抗力です」
「……お前はそうやって、人の心を理解しようともせずに、利用し続けるのか!?」
「……人情なんかで人の身を守れたら、奇跡ですよ」
「ふざけるな!! お前なんか、何も判ってない!!」
 怒りが、沸騰していた。とても抑えられそうに無かった。絶対、許せそうに無かった。
「……あなただって、何も判ってませんよ」
 中原は冷たい声で言った。
「……『兄』なら殺して良くて、『同級生』は駄目だって言うんですね?」
 氷点下の、冷徹な声。ぞっとした。全身、総毛立った。……下唇を噛む。……だけど、これだけは。これだけは、絶対に。
「……だって、律は悪い奴じゃなかった!! 寂しかったんだ……あいつは……俺と同い年なのに、疲れて絶望してたんだ!! この世の何もかもに!! お前があいつを苦しめて、追い込んで、その為に俺を憎み、恨んでた!! 俺は……あいつが可哀相で……だからっ……!!」
「……律はあなたを殺そうとした。それでも許すと?」
「……許す。俺は許せる。……だけどお前がっ……律を……っ!!」
「……『殺した』と非難する訳ですね」
 中原は冷静にそう言って、まだ覆い被さったままの、律の身体に目を遣る。悪夢に見そうなくらい、美しい死体。俺そっくりで、でも俺とは全く別人の、とても美しい死体。涙が、溢れて止まらない。律は動かない。じっと見てると、今にも動き出しそうな気さえするのに。微動だにしない。満足げな笑みを浮かべて。眠るような、表情で。ふと気付くと、中原が眉間に皺を寄せ、深刻そうな表情で律を見ていた。
「……中原……」
 思わず、声を掛けた。中原は何処かぼうっとした顔つきで、俺を見る。
「……俺を……抱きしめてくれますか?」
 泣き笑いのような、表情で。俺は、この男が嫌いだった。許せないと、思ってる。怒りすら、感じていた。だけど、その顔は頼りなげな、子供のようにも見えて。俺は躊躇い、それでも……無視は出来なかった。十年間、付き合ってきて、この男がこんな事言ったり、こんな表情を見せた事は、これまで無かった。俺に何かしてくれと、この男が冗談でなく、本気で、心の底から言ったのは、おそらく今が初めてだ。……だから、そうせずにはいられなかった。怒りを感じてる相手なのに、許せないと思ってる相手なのに、大嫌いだと思っている男なのに。俺は身体の痛みが許す限り、強く、中原を抱きしめた。中原は震えていた。この男がそんな風になったのは、全く初めてだった。中原が、震えている。細かに、けれど静かに。その瞳は何処か遠くを見ていて。俺は中原の顔に、胸を押し付けた。
「……人の心音て……ほっとさせるって……」
 俺は言い訳じみた口調で。中原はそっと目を閉じた。深い、溜息をついて。
「……律は……」
 泣きそうに、顔を歪めながら。
「……律は……死にたがっていた……」
 俺は、返事をしなかった。
「……律は……きっと知ってたんだ……こうなる事を……俺は……俺はもう……っ!!」
「……中原……」
「……キスしてくれって言ったら、してくれますか?」
「しない」
 俺はきっぱり言った。突然こんな事を言い出す中原に、腹が立った。
「それはフェアじゃない」
 こういう状況で、何て事抜かすんだ!! この男は!! ……俺が……どんな想いで。
「俺はそういう気持ち、抱けない。人につけ込むな!! 大体俺は今、お前に物凄く腹を立ててるんだ!!」
「……俺は、しましたよ。律に。そうしてくれって言われたから」
 ……この男は。
「……律は望んでいた。望んでいるものを与えるのは、間違っている?」
「間違ってる」
 俺は断言した。そんなの、『神』じゃなきゃ、ただの『傲慢』でしかない。ましてや、この世に『神』などはいないのだから。
「……それはただの『傲慢』だ。ただの『自己陶酔』で『自己満足』なだけだろ? 『親切』でも『優しさ』でも何でもない」
「……その結果がこれだと?」
「……そうだ」
 きっぱりと俺は言い切った。中原は唇だけを歪めて笑った。
「……『身代わり』だったんです。自分でも気付いていました。たぶん律も。だけど、それだけじゃなかった。俺は……律が死ぬまで、それに気付かなかった……」
 そう言って、目を閉じる。俺は身を離した。
「……お前は……俺に『したい』のか?」
 沸き上がったのは、『嫌悪』と『悪寒』。
「……キスだけじゃありませんよ。……でも」
 中原は笑う。
「……あなた自身には望みません、俺は
「…………っ」
 どんな顔をしたら良いか、判らなかった。良かったのか、それとも更に質が悪いのか……。俺にそれを望まないという事は……つまり、俺以外の『誰か』にそれを望むという事で……従ってそれの意味するところは……。
「……安心して下さい」
 穏やかな表情で、中原は言ったりするけど、俺は全然安心なんか出来やしなくて。
「……『身代わり』なんて駄目だ」
 中原が奇妙な顔をする。
「……じゃあ、あなたが責任取ってくれるんですか?」
「……それも出来ない」
 どう自分を誤魔化したって、それは無理だ。
「……生殺しですね」
 皮肉げな、笑みで。それは以前、ラブホで俺の首を絞め押し倒した時、俺がサンドバッグか何かでストレス発散すれば良いと言った時の、表情に似ていた。……不意に、あれは『そういう』意味だと理解した。カッと血の気が昇る。こいつ、最低!! 俺……今までこいつの事、全然判って無かった!!
「……我慢して、どうしても……我慢できなかったら……」
 屈辱と、恥辱に、身が震えた。
「……その時は、仕様が無いから、俺にしろ
 声が、震えた。中原は両目を見開く。
「……本気ですか!?」
 ぎょっとしたような、声で。俺は震えながら、言う。
「……今後、こういうお前絡みの件で危険になんかなりたくない」
「そんな事言ったら、今、しますよ?」
「……今は駄目だ」
 怒りと、恥辱で震えた。
「……どうして?」
「……お前に、どうしようもなく憤ってるからだ」
「……成程」
 中原は頷く。
「……忘れるなよ? 俺は『同情』で言っている」
「そんなに自惚れていませんよ」
 中原は自嘲気味に、笑った。
「……お前のプライベートには干渉したくない。けど、人を利用しようとするな」
「……それは無理ですよ」
「何!?」
 思わず睨む。中原は苦笑した。
「……それは俺に死ねと言う事だ」
「中原!!」
 思わず怒鳴った。中原は目を伏せて笑った。乾いた声で。
「……『努力』はしますよ。これが精一杯の『譲歩』だ」
 くっくっと笑っている。俺は怒りで顔を赤らめながら、それでも言った。
「…………判った」
 その言葉を引き出した、だけでも。自制して、絞り出した声だった。俺は中原に腹を立てていた。律の事でも、それ以外でも。唾棄すべき男だと心底思った。軽蔑した。大嫌いだと思った。許せないと思った。
「……憶えてろよ?」
 中原は微かに笑った。目は、笑わずに。口元だけで。
「……様子を、見て来ます」
 そう言って、中原は立ち上がった。俺は何も言わなかった。その背中を無言で見送る。扉が閉まり、数十秒後、担架を抱えた看護婦や医師が駆け付けた。俺は担架に乗せられ、緊急治療室へ運ばれた。中原は戻って来なかった。手術のために、全身麻酔をかけられる。急速に不自然に、眠りへと突き落とされる。『眠り』へと落下しながら、俺は泣いた。律の為に泣いた。律がそんな事、望んでなくとも。嗤うなら嗤えば良い。俺は律がとても、好きだった。たった二週間から四週間──空白二週間があるから──の付き合いだったけど、そんな事どうだって良いくらい、俺は律が好きだった。例え律に、殺したい程嫌われてても。俺が律の為にしてやれる事なんて、今となってはもう何一つ無くて。だから、泣いてやる事しか出来なかった。泣く事しか、俺には出来なかったから、俺は律を思い、思い切り泣いた。律の短すぎる人生に。律の哀しみ、苦しみに。律の痛みの為に。律に嫌われてたなんて、律にされた事だって、何もかもどうだって良かった。俺は、笑ってる律が好きで、それが嘘で『偽物』で『作り物』だったとしても、俺にはそれが『金山律』だった。他の『律』なんて知らない。明るく無邪気に笑う、『金山律』だけが、俺にとっての『律』だった。俺が唯一、こいつになら殺されても良いと思った存在が律で、だから俺のせいで、中原のせいで死んだ律が可哀相で、俺は泣く事しか出来なかった。どんな理由があろうと、律を殺した中原を、俺はとても許せそうになかった。絶対に。
 俺は律を殺した『俺』と中原に、憎悪の念を抱かずにはいられなかった。……すまなかった、律。もう少し早く、お前の存在に気付いていれば。律が俺に声を掛ける、その何年も前に、俺自身がお前の存在に気付いていれば。『知らなかった』なんて言葉で済まされない。律を殺したのは、俺と中原だ。俺は『無関心』という名の刃で、律を殺した。そうして律は死んで、二度と生き返らない。永遠に、金山律という存在は、戻らない。失われて、もう二度と。未来永劫。俺は泣く事しか出来なかった。『無』へと墜ちていく途中で……俺は一瞬、律の笑顔を垣間見た。鮮やかな、律の笑顔。無邪気な『天使』のような。……『痛み』はまだ、鮮明で……俺はたぶん……この傷痕を見る度に、律を思い出す。きっと一生忘れられない……俺……は……たぶん、一生……!!


〜エピローグ〜

 コール音が静まり返った部屋に響いていた。
(……うるさい……)
 半分微睡みながら、部屋の主はカーペットを敷いた床に転がっていた。身体が重くて、ほんの数歩の処にある、受話器すら取れない。足下に転がる空き瓶と少量の錠剤。倒れたグラスとぶちまけられた水。拭いておかないと染みになる、と思いつつも身体が動かない。
(何で……こんなに重い……んだ……?)
 思い掛けて、不意に思い出す。昨夜の全てを。
(……ああ……そうか……)
 彼は深い息をついた。
(……もうカーペットの染みなんか気にする事無い……だってもう……俺は……)
 微睡む頭でぼんやり思い、そして僅かに微笑む。……長かった。『あの男』に邪魔されて、あれから一体何年経っただろう? 邪魔したクセに、その後彼のする事なす事文句付けて、挙げ句の果てに留置所にまで押し掛けて来て、誰よりも男を憎む彼を雇うと言った。強引な手段でいつも無理矢理押し入って来て、彼の心を蹂躙する、傲岸不遜で自己中心的な男。
 コール音はまだ止まない。いつまで経っても鳴り続ける電話に、彼は苛々した。手が届くものなら、ジャックを抜いて静かに眠りたい。ずっと望んでいた『死』がすぐ目の前に、迫っているのだから。
 ガチャン、と金属的な音がして、玄関の鍵が開けられる。慌ただしく、男が駆け込んで来ると、コール音も止む。……舌打ちしようとして、失敗する。
「……全く、君という人は……」
 人の部屋に、容赦なく押し入って来て、憮然とした顔で人を見下ろし、言い放つ。
「……い……や……がらせ……です……か……?」
 上手く舌が、回らない。嗄れた声。
「……厭がらせ……ね。まあ、そうとも言えるね。……君の邪魔しに来たんだから」
「…………」
 目の前の男を、見上げる。苦笑している。何年も前から、変わらない笑顔で。
「……病院行って、どうせこういう事だろうと思ったよ。全く困った事する子だね、君は」
「…………」
「僕が徹底的に邪魔すると君に宣言した事、十五年でもう忘れたかい?」
「……本当……しつこい……ですね……」
「……大概、君もね」
 そう、久本貴明は溜息ついた。
「……『郁也』だけじゃ駄目だって言うのかい? 何か他の『玩具』が必要?」
「…………」
「……休暇をあげよう。ボディーガードも付けて」
「……監視……役……ですか……?」
「休養が必要だろう? 時々様子を見に行ってあげよう。どうだい?」
「……厭……だと……言っても……駄目……なんで……しょう?」
「……判ってるじゃないか」
「……酷い……人……ですね……」
 いつも、もう少しで、手に入りそうな時、確実に『終わり』だと思う時、現れて。
「僕は君を気に入ってるんだ。僕の与り知らぬ処で、勝手に死んで欲しくないものだね」
「…………」
 言うべき台詞なんて、この男にはない。
「……僕のしつこさも、大概知ってるだろう?」
「……いつ……なったら……許して……くだ……さ……るん……です……か……?」
「少なくとも、今のところその予定はない」
「…………」
 平然とした顔で、傲然と。呆れて、言葉も出ない。
「律君のためにも、もう少し生きてみたらどうだい?」
「……そこで……その名を……出す……んです……か……?」
「……君が気にしてるようなのでね」
「……鬼畜……ですね……」
「……とにかく、君が死ぬのは許可しない。是が非でも邪魔させて貰うよ?」
 そう言って、他人の口の中に、容赦なく指を入れ、喉をこじ開ける。嘔吐が込み上げ、胃液と涙と胃の内容物でぐちゃぐちゃになる。おろして数ヶ月のカーペットがどろどろになる。苦しくて、咳き込む。
(……酷い、他人の部屋だと思って……)
 久本貴明は、吐瀉物で汚れた指を軽く振る。それから反対の手で、胸ポケットからハンカチを取り出し、拭う。そしてそのまま、こちらの口元を拭った。
「……どうして……くれるん……ですか……」
 久本貴明は、悪気なんて毛頭ない、と言わんばかりの人の好さげな笑顔で、穏やかに言う。
「……弁償するよ、今度」
(……鬼畜だ……)
 思わず心の中で吐き捨てた。このカーペットは、確か律が見立ててくれた物で……たぶん律と買い物に行った最後の代物……だった筈だ。
「良い別荘があるんだよ」
 人の気も知らずに。
「きっと気に入るよ。ただ、ちょっと辺鄙で、自家用ヘリでないと行けそうにないんだ」
「…………『隔離』……ですか……?」
「人聞きの悪い。人の少ない処の方が良いだろう? 特に今は。きっと落ち着く。空気が良くて、素晴らしい処だよ。ヘリで一時間飛ばないと、民家が無いのが、少々不便だが」
「…………」
  無言で睨み付けた。
「すぐにでも手配するよ。取り敢えず、今は一度、病院にでも行こうか? たぶん、これで全部だと思うけれど、念のために胃を洗浄してあげるよ」
 昔から……傲岸不遜な男。穏やかな、人を気遣うような口調で、告げるのは『命令』。相手がそれに逆らうのなんて、まるで許してもくれないくせに。年齢不詳の笑顔で、これだから、この男は質が悪い。
「……どうして……こんな事……するんです……? ……俺なんか……もう……役には立たない……用済み……でしょう? ……契約の条項にも……俺は……」
 久本貴明はにっこり笑う。
「『必要』だからだよ。……大体、君は郁也の事をどうするつもりだい? どうせ独断専行で何かやってたんだろう?」
(……全てお見通し、と言う訳か)
「……君の仕掛けた事だ。最後まで責任持ってくれ。……それくらいは……要求する権利、あるだろう? ねえ、龍也君
 ぞっとするくらい、穏やかな笑みで。『肉食獣』のようだ。『肉食獣』が『草食動物』の皮を被っているかのように。
「……でも、『ネタ』は今回の件で、バレちゃったんじゃないかい? 何せ、『少年』と『郁也』の関係が明らかになってしまったんだから」
 そういう物騒な事を穏やかに笑って言ったりするから。
「……まずかった……と……思ってます……よ。律を……巻き込んだ事は……」
 そう、まずい事になっている。たぶん、律と彼、中原龍也との関係にも、気付かれる。
「……だから……!?」
 思わず相手を凝視する。
「今、色々隠蔽工作に走ってはいるけどね? 何処まで抑えられるか。……安心してくれたまえ。郁也にも当然ボディーガードを付けるさ。大事な僕の一人息子だからね」
 この男だけは、『敵』に回してはいけない。一体、何処からそれだけの情報を仕入れてくるのだろう。
「……だから当分、君にはおとなしく『静養』して貰うよ? 勿論、郁也にもね」
「…………」
「……この不始末の落とし前は、後日で結構だから。……親切だろう?」
「…………っ!!」
 弱味を、握られた。この男にだけは、それは避けたかったのに!!
「……さあ、病院へ行こうか?」
 逆らえる訳がなかった。

The End.
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