NOVEL

一滴の水 -2-

 瀬川のことは好きだ。だけど、俺はずっと親友だと思っていたから。他のことなんてとても考えられない。俺が好きなのは、千堂水穂さん。それ以外の誰のことも、今はまるで考えられない。たぶん、俺は酷い人間だ。弱くて情けなくて、どうしようもない。
 俺は、片想いで。だけど、俺はまだ千堂さんのこと、何も知らないから。千堂さんとはまだ、他人のままだから。こんな状態でとても諦めなんてつかない。始まってもいないものを、終わらせることなんて出来ない。俺は千堂さんが好きなんだ。
 電車に揺られていたら、少しずつ気分が落ち着いてきた。取り敢えず、今は千堂さんのことだけ考えよう。明日、瀬川と会った時どうしよう、だなんて考えるのはやめだ。明日瀬川に会うまでに考えておけばいい。だって俺は今、千堂さんに会う為に、電車に揺られているのだから。たぶん、俺はエゴイストで。一度にたくさんのことなんてとても考えられないから。今は千堂さんのことだけ。俺はバカで視界狭くて、目の前のものしか見られないから。
 瀬川には悪いと思う。だけど、どう考えたって、瀬川の気持ちには答えられないから。俺は千堂さんを諦める気にはなれない。もし、千堂さんを諦めたとしても、だからってそれで瀬川の気持ちを受け入れようなんてのは本末転倒だから。それは瀬川に対して失礼だ。例え、千堂さんにとって、俺がどうでもいい人間だったとしても。だからって千堂さんと瀬川を両天秤にかけることなんて出来ない。
 俺は千堂さんが好きだから。
 以前のバイト先「Water/Half[ウォーター・ハーフ]」。略してWH。雇われ店長の水野さんは三十歳。バーテンもウェイターも二十歳以上三十歳未満に限定されている。ウェイトレスは無し。黒服着用が義務。中に着るシャツだけがささやかな自己主張。オーナーの趣味らしい。どういう趣味なんだ?と俺は不思議に思ったけど。ただの一度も見た事無いから、どういうひとだかさっぱりだ。
「いらっしゃいま……野間崎?」
 入り口くぐった辺りで、塩谷が俺に気付いて、目を丸くした。
「ま……マズイよ、野間崎。お前、まだ例の一件、店長冷めてないからさ……」
「待ち合わせがあるんだ」
 言うと、塩谷は溜息をついた。
「……相変わらずマイペースだな、お前」
 そう言うと、ちらっとカウンターを掠め見て、
「お客様こちらのお席はいかがですか?」
 と出来るだけカウンター側からは死角になるような椅子へと案内してくれた。そして低く囁く。
「いいか? 絶対騒ぎ起こすなよ? ここでカウンターに背中向けてろ。後はどうにか誤魔化すから」
 ……どうにか誤魔化す?
「お前のばかデカイ背中は目立つんだよ」
「……ごめん」
「……謝られても殊勝には見えないんだよな、お前。目つき悪くて図体デカイだけなのは知ってるけど」
「褒めてないな」
「当たり前だ。褒めてるつもりないからな。……そういう性格だからトラブルになるんだぜ。反省しろ」
「何を?」
「…………」
 塩谷は溜息をついた。
「……ま、ほどほどに」
 呆れたような声で言うと、塩谷は立ち去った。……塩谷は時折良く判らない。ここを紹介してくれたのは塩谷で、それについてはとても感謝している。悪い事をしたな、とも思うし。
 ドアが開いた。思わず振り返った。入って来たのは千堂さんじゃなかった。がっくりとする。
 仕方なくまた入り口側に背中を向けようとすると途中、カウンターの向こうの人物とばっちり目が合った。
 すかさず塩谷がその間に割って入ったのだが。
「……お客様、少々お話が」
 顔だけは笑っている店長が、つかつかと歩いて来て。低い声で。
「別室へ」
 そっ……!! それだけは困る!!
「すいません、俺……」
「申し訳ありませんが、お客様」
 店長は笑っているのに、額に青筋、眉間に皺が刻まれている。
「あの、待ち合わせなんで」
「別室でお話したい事がありますので」
 更に深い皺が寄った。その時、扉が開いた。……千堂水穂さん!!
「千堂さんっ!!」
 店長を押し退けて千堂さんの元へ駆け寄った。
「えっ……何っ……?」
「出ましょう!」
 千堂さんの手首を掴んでそのまま外へダッシュした。背後で、ガラガシャン、ガッチャーン!とかいう音と、悲鳴や怒号が聞こえて来たけど、必死に聞こえないフリで走った。……すまん、塩谷。
「ちょっ……待って……一体……?」
 千堂さんは困惑した声で、俺に話しかけてくる。千堂さんの足がもつれた。
「すみません!」
 左手を千堂さんの背中に回し、右手を膝裏に入れた。
「えぇっ!? なっ……!?」
  千堂さんを抱え上げる。いわゆるお姫様抱きで。そのまま更にダッシュで駆け抜けた。周囲の会社帰りのサラリーマン&OLが奇異な物を見るような目でこちらを見る。猛ダッシュで駆け抜ける俺に驚いたように、潮が引くように目の前の人の波が分かれて行く。200mほど走った後で、千堂さんを下ろした。
「あの、大丈夫でしたか?」
 言った途端、平手で叩かれた。ジイ……ン、と頬が痺れる。鼓膜の奥がツーンと鳴った。一瞬、辺りの風景が真っ白になって、全ての音が消失した。
 真っ赤な顔で、千堂さんが俺を睨み付けていて。
「……え?」
「何を考えてるんだ!!」
 十三cmほど低い視点から、俺を睨み付けて。
「俺をバカにしてるのか!?」
 ……は?
 俺は大きく目を見開いた。
「……何を……?」
「ふざけるな!!」
 言い捨てると、千堂さんは俺に背を向けた。
 ……何で?
「あの……千堂さん……」
「構うな!!」
 ぴしり、と怒鳴られて。拒絶。不意に、涙が、こぼれ落ちて。
「……なっ……!?」
 振り返った千堂さんはぎょっとしたような顔で俺を見た。
「何泣いてるんだよ!!」
 心底焦った声で。真っ赤な顔で。それを見てカワイイ、とか思ったりして。涙が溢れこぼれた。
「それじゃまるで俺がいじめてるみたいだろ!? お前、一体トシ幾つだよ!!」
 苛立ったように、千堂さんは怒鳴った。
「……二十一歳」
「二十一?」
 千堂さんは呆れたような顔で俺を見た。
「ああ……そう言えば、江南大学の三年って言ってたっけ……」
 そう言うと、しげしげと俺を見た。
「見た目と中身に随分激しいギャップがあるんだな」
 溜息ついて、そう言われた。
「え?」
 きょとんとした。それ……一体どういう意味?
「中身は子供だ」
 きっぱりと、決め付けられて。
「子供じゃないですよ」
 俺は言い返した。
「そういうところが子供だと言うんだ。君の行動の何処ら辺が大人だと言うんだ? 我が儘で生意気な子供以外の何物でもないだろう?」
「どうして怒ってるんですか? 千堂さん」
 キッと睨まれた。
「君は俺に喧嘩を売ってるのか!?」
 どうして、俺が。
「そんな事、絶対ありません」
「じゃあ何だって言うんだ?」
「好きなんです」
 不意に、周囲でおおっ!という歓声が沸き上がった。それで不意に周囲に人が取り囲むようにして、こちらを注視している事に気付いた。……何故見てるんだ?
「しっ……信じられない!!」
 バシン、と先程の数倍くらいの力で叩かれた。真っ赤な、泣きそうな顔で。
「え……?」
 どうして。どうしてそんな。泣きそうな顔で? 恨みがましい目つきで俺を見るんだ?
「俺をからかうのもいいかげんにしろっ!!」
「からかってなんか……」
「だったら何で!! こんなっ……!!」
 キッと睨み上げられた。その顔が、ひどくキレイで。涙に濡れた瞳がキラキラ輝いていて。思わず、理性の糸がぷつんと切れて、抱きすくめていた。周囲が大声で歓声を上げ、はやし立てた。その次の瞬間、頭突きをかまされ、意表を突かれて俺はすっ飛んだ。
「なっ……なっ……!?」
「最っ低だな!!」
 そう怒鳴りつけられて。呆然としゃがみ込む俺を残して、すたすたと歩き去ろうとする。
「まっ……待ってくださ……っ!!」
 慌てて立ち上がって、駆け寄った。千堂さんの身体を後ろから捕まえようとして、不意に足下の石畳につまづいて、一緒に倒れ込んだ。更なる歓声が湧き起こり、「いーぞーにーちゃん! そのまま押し倒せーっ!!」などと言った下品なヤジが飛んだ。
「あ……のっ……そのっ……!!」
 至近距離に、千堂さんの小さな顔がある。白くてほっそりしてて小柄な肩。千堂さんの喉仏が、ごくりと何かを呑み込むように動いた。真っ赤な顔。目元耳元まで赤い。その澄んだ、けれど少し憂いを含んだようなアーモンド型の瞳が、俺を真っ直ぐに見返していて。
 キレイだ。思わず見惚れる。不意に、触れたくなって、その白いうなじに手を伸ばした。
 不意に。
「!?」
 金的蹴り、しかも膝打ち。俺は文字通り痛みに飛び上がった。痛すぎて声も出ない。歩道に投げ出され、痛みに涙を浮かべながら、それでも好きなひとの前で股間を押さえるような情けない真似だけはしたくなくて、石畳の隙間に指を突き立て、懸命に歯を食いしばって悶絶しそうになりながら堪えた。
 背中がひどく冷たくなって、冷や汗がどっと吹き出る。耳鳴りが痛いほどうるさい。目の前の光景が歪む。指先の感覚が無くなってしまう。息が、荒く乱れる。汗が、頬を伝い、滴り落ちた。
「……目を覚ませ」
 行ってしまう。背を向けて、行ってしまう。泣きそうになりながら。
「……っか……ない……で」
 冷や汗を流しながら、俺は這った。
「行……か……ないで」
 すたすたと振り向きもせず、歩き去ってしまう。腕が届かない。
「お願いです!! 千堂水穂さん!!」
 叫んだ途端、彼の足が止まった。うんざりしたような顔で、振り返った彼は、俺の顔を見て、眉間に皺を寄せた。
「……大声で叫ぶな」
 そう言うと、溜息をついて、戻ってくる。
「……どうしてそんな顔するんだ? いじめられてるのはこっちだぞ? 迷惑被ってるのは俺の方なんだぞ?」
 その瞬間。痛みが、胸を貫いた。……迷惑。迷惑だって。
 目の前が真っ白にスパークした。耳鳴りが辺りを支配して。雑踏も、彼の声も聞こえなくなって。心臓が、どくんと跳ねた。ぷつん、と何かが切れて、俺は落下した。

「……本当、信じられない……なんでこんな……」
 呟きが聞こえる。
「それじゃまるで俺が極悪非道人間みたいじゃないか。冗談じゃない。俺は被害者だ。なのに、どうしてこんな……」
 誰かがぶつぶつと呟いてる。夢見心地。暖かい。アルコール一滴も入ってないのに、酩酊してるみたいで。
 気持ちいい。
「どうして俺がこんな事してるんだ」
 ぴちゃっと、額に冷たいものが押し当てられた。どきっとして飛び起きた。
「うわっ!!」
「わああっ!!」
 間近に、千堂さんの顔があった。
「え? 嘘? もしかして夢?」
「寝惚けるな」
 ぱこん、と額にチョップくらった。そのまま後ろに倒れ込む。僅かに空気音とスプリングの軋む音。カウチソファ。
「え……?」
 呆れたような顔で、千堂さんが俺を見下ろしている。
「酒も飲まずに酔っ払いか? 質悪いな。最近の大学生は」
「ここ……何処ですか?」
 赤い顔で千堂さんは俺を睨んだ。
「お前が道端で大仰に倒れたりするからいけないんだぞ! 危うく救急車呼ばれそうになったから、慌てて逃げ出す羽目になったんだ。冗談じゃない。どうして俺がそこまでしてやらなくちゃならないだ。被害者なんだぞ!?」
 どん、と顔の真横に腕をつかれた。息が、酒臭い。
「……千堂さん……ひょっとして……酔ってます?」
「酔ってない!!」
 くらくらしそうなくらい至近距離で、大きな声で。目が少し潤んでいる。視点が、俺より遠くを見ていて、目の前に顔があるのに、視線が合わない。
「飲んでるでしょう」
「こんなもの、飲んだうちに入るか。俺をナメるな。営業マンだぞ」
 そんな事言われても。
「一体どれだけ飲んだんですか?」
 俺はそんなに長く寝てたのか?
 千堂さんはテーブルを顎で示した。缶ビールが五本、封を開けたブランデーボトルが一本。その傍らに汗をかいたタンブラー。俺の見間違いでなければ……たぶん、ストレート。中の氷は半分溶けかけているとは言え。
「飲め」
 千堂さんは、飲みかけと思しきタンブラーを俺の目の前に突き付けた。
「素面でなんかやってられるか。飲めよ。俺だけ飲んで、お前が飲んでないってのは腹立たしい」
「どうしてですか」
「お前のせいで俺はな!」
 ……千堂さん。どう考えても酔ってます。しかも絡み上戸。
「あの、俺のこと迷惑って……」
「ああ! 迷惑だ!! お前の顔なんか見たくない!! とにかく飲め!!」
「それ矛盾してますよ、千堂さん。俺は……」
「飲めよ。人の言ってる事聞こえないのか? お前のせいで俺は、ひどく恥ずかしい目に遭わされたんだぞ?! 少しは俺を可哀相だと思わないのか!?」
「え……俺、そんな酷い事しましたっけ?」
「しましたっけも何も!! しただろう!! お前は!! 一生俺はあの近辺に行けなくなったじゃないか!! どうしてくれるんだ!! 営業妨害だぞ!? 仕事に支障来すだろ!?」
「あの、この場合、営業妨害というは間違ってるのでは……」
「俺の言う事を聞け!!」
 ……酔っぱらいと泣く子供に、かなう者なし。
 俺は、千堂さんから生温いタンブラーを受け取り、半分ほど残ったブランデーをぐいと飲み干した。独特の芳香が、喉を撫でながら、伝い下りた。
「飲んだな」
 くすり、と魅力的に、千堂さんは笑った。
「飲み干したな? 全部」
「え……?」
 途端に、ケラケラと大声で千堂さんは笑い転げた。
「なっ、ななな、何ですか!? 一体!!」
 慌てた。笑い転げながら、千堂さんは俺の胸の上に頭を落とした。
「ちょっ……ちょっと!! 千堂さん!?」
 千堂さんは不意に、糸が切れた人形のように、ぴくりとも動かなくなった。
「じょ、冗談やめてください! 千堂さん!!」
 真っ青になった。静かな寝息が聞こえてくる。
「ちょ……っ」
 気持ちよさそうな寝息。ずしりと重くのし掛かる。途方に暮れかけながら、その茶色い髪を見つめる。柔らかなくせっ毛。そっと腕を伸ばし、指に絡めた。さらりと零れる。なめらかな手触り。
 ゆっくりと、起き上がった。代わりに、千堂さんを横たえる。すやすやと寝ている。睫毛が長い。白い頬が赤く染められていて。
「……は、ぁ」
 と溜息がその唇から洩れた。どきり、とする。
「……んっ……」
 呻いて、千堂さんは寝返りを打った。俺は耳まで熱くなった。千堂さんの顔は、ほんの少し苦しげで、艶めかしく見える。薄く開いた唇から、甘い吐息が洩れ聞こえる。
「……ぁっ……!!」
 ばっと立ち上がった。こ、これ以上聞いてたら、俺は!!部屋を出ようと玄関へ向かおうとした。くん、と背中が引かれる。
「……え?」
 しっかりと、いつの間にか、千堂さんの指が、俺のシャツの端をしっかり握りしめていた。……嘘だろう?
 千堂さんは、ぐっすりと眠り込んでいる。が、握った指を開く気配は無い。途方に暮れて、それを見つめた。暫く見つめて。……それから。
 シャツを脱ぎ捨てた。
「おやすみなさい、千堂さん」
 そう言い置いて、俺は部屋を後にした。602の表示を確認。エレベーターに乗ってから、そう言えば俺はシャツの上にもう一枚ジャケットを羽織っていた筈だよな、と思い出した。
 ところでここは何処だろう? 一階へ降りた。は良いのだけど、やっぱり現在地が判らない。隣がコンビニだったので中に入った。
「すいません」
 レジに立っていた同年代のバイト青年が、ぎょっとしたように俺を見た。
「すみません。ここ、何処ですか?」
 俺をたっぷり二分、凝視した後、震える声で彼は言った。
「……葛町四丁目」
「駅はどちらの方ですか?」
 聞くと、明らかに不審そうな顔になった。
「もう電車なんかありませんよ」
 言われて時計を見た。夜中の三時だ。仕方ない、タクシーでも呼ぶか。歩いて帰るにはちょっとキツイ。
「有り難う」
 俺は背を向けた。出る時、先程のバイト青年と思しき声で「おい! 見ろよ!! アレ!!」という声が聞こえた。
 ドアが閉まるのとほぼ同時くらいに振り返ると、同じ制服を着た、やはり大学生と思われる青年が、こちらを見て目を丸くしていた。
「?」
 何だろう。良く判らない。まあいい。タクシー会社の電話番号を調べ、掛けて呼び出す。……ぶるり、と背中に寒気が走り、身をすくめた。早く帰らないと風邪を引く。幾ら天気が良いとはいえ。
 脳裏に、寝返りを打つ千堂さんの姿が甦り、ぞくり、とした。さっきとは別の意味で。俺は両手で自分の肩を抱きしめた。

To be continued...
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