NOVEL

一滴の水 -1-

 あのひとに逢いたい。

 俺、野間崎和郷[のまざきかずさと]には好きなひとがいる。俺がバイトしていてクビになったバーに、たまたま客として来たひと。名前も知らない。唯一の手掛かりはこの名刺。直接彼に繋がるものじゃない。でも、彼に繋がるかも知れない唯一の手掛かり。

「すみません、野間崎と申しますけど。木暮さんという方は……」
 受付で、尋ねようとした時、すぐ後ろを見覚えのある男が通りすがった。慌てて振り返る。
「木暮さん。彼が、あなたに……」
「お前っ……!!」
 仇敵でも見たような顔で、その男は俺を睨み付けた。
「何しに……っ!!」
「クリーニング代を払いに」
 すると、男は俺をじろじろと見て、溜息一つついた。
「来い。外で話そう」
 人目を気にしたらしかった。俺は辺りを見回した。
「……何してるんだ?」
 男は高圧的に言った。
 あのひとがいないだろうか、と思ったんだが。世の中そう甘くは出来てないらしい。
 ビルを出てすぐ隣の喫茶店に入った。
「会社に来るなよな。非常識な」
 本当はこの男には用は無い。用があるのはあのひとだけだ。
「ここの勘定、お前が払えよ。当然だからな」
 ……あのひとはこの男の何処が良かったんだろう?
「それで、黙りこくってないで、クリーニング代は? 払う気あるのか?」
 やっぱりどう考えても、この男を好きになれない。
「これです」
 銀行の封筒に入れた一万円を差し出す。
「一万円? 慰謝料が入ってないじゃないか」
「それで十分だと思いますけど?」
 俺は目の前の男を見上げた。
「ガ……眼付けやがって。何様のつもりだ!」
 眼付けた覚えなど無い。目つきが悪いのは生まれつきだ。文句を言われる筋合いは無い。
「先日、一緒にいらした方ですけど」
 用件はさっさと済ませるに限る。
「不愉快だ! 帰る!!」
 男はさっさと立ち上がる。
「木暮さん」
 俺は声を掛けた。けれど、足早に立ち去ってしまった。……しまった。こんな事ならバックれれば良かったかも。溜息をついて、椅子に座り掛けたその時、視界の端に誰かが……。
「!?」
 慌てて立ち上がった。
 その方角をもう一度見ると、そこに……あのひとが!!
 慌てて駆け寄った。
「あのっ……先日は……っ!!」
 言いたい事は山ほどあるのに、言葉がすぐに出てこない。気持ちばかりが焦って。
 彼は、困ったように微笑った。
「……出ましょうか」
「はい!」
 浮き足立っていた。

「先日は、失礼しました」
 公園のベンチに腰掛けて。まるで、デートみたいだ。
「……こちらこそ」
「あの、職場、この辺なんですか?」
 彼は苦く笑った。
「……まあ、そうです」
 そう言って、パンのかけらをばらまく。鳩がそれをついばむ。何となくそれを見つめながら。
「ごめんなさい」
 彼は言った。
「え?」
「木暮のこと。短気で」
「ああ……」
 そんなの、まるで。
「あなたのせいじゃありませんし」
 あなたに関わりない事じゃないか。
「……有り難うございます」
 他人行儀で。
「あのっ!」
 大声を上げたら、鳩がばたばたと飛び去って行った。後には噴水の音だけが取り残されて。
「俺と、付き合って貰えますか!?」
 彼は、驚いたように目を見開いた。
 しまった!
 順序を何か間違えてしまった自分に気付いて狼狽する。けれど、こんな事は初めてで。取り繕える言葉を探しても、見つからない。
「あ、あのっ……そのっ……俺っ……!!」
 彼は曖昧に笑った。
「ごめんなさい」
 あ……ぁあ……っ……う……そりゃ……赤の他人も同然の通りすがりの男にそんな事言われたら、気持ち悪いだろう、けど。
「あのっ、俺、あなたのこと、好きでっ……その……」
 一目惚れで。
「仕事があるから、もう」
 彼は言った。血の気が昇って、真っ赤になった。
「あのっ、もし、よろしかったらお名前! 教えていただけませんか!?」
 だって俺は、あなたのこと、何も知らないから。
 厭がられるかもしれないけど。
 断られるかもしれないけど。
 彼は笑って。
千堂水穂[せんどう・みずほ]
 せんどうみずほ、さん。
「あの、俺、野間崎和郷って言います! 江南大学の三年でっ……」
 頭に血の気が昇って、オーバーヒート。
「また、逢ってくれますか?」
 すがる想いで。
「じゃあ、あのバーで」
 ……本当に!?
「何時ですか? 俺、待ってます。あの、本当に、いいんですか?」
「七時半に。アルコール一杯くらいなら、いつでも付き合いますよ」
 ……え?
 呆然と、彼を見つめた。
 千堂さんは、にっこり笑った。
「じゃあ」
 …………ひょっとして。今の。思い切り、はぐらかされたんじゃないだろうか?
 呆然と見送って。
 ……今の、絶対判ってて誤魔化された。溜息ついた。肩から力が抜ける。……でも。
 きっかけは出来た訳だから。それはOKしてくれたんだから。
「チャンスはものにしないと、いけないよな」
 逃した魚は大きいなんて、言わずに済むように。

「野間崎、機嫌良いな」
「瀬川」
 瀬川憲行[せがわのりゆき]。俺の親友だ。水泳選手。ついこの前までは、俺もそうだったのだが。
「うん。デートなんだ」
 本当は違うけれど。このくらいの嘘ついたって罰は当たらないだろう。
「でっ……デートぉ!?」
 瀬川は目を剥いて叫んだ。……幾ら何でもそこまで驚かなくても。まあ、恋愛音痴の俺がデートなんて、青天の霹靂、くらいは言われても仕方無い。
「嘘だろ!? どんな女と!? いつ!! 何処で!! どうやって知り合った!!」
 俺は苦笑した。
「バイト先のバーで知り合った人なんだけど、美人で優しくて素敵なひとなんだ」
 まだ何も知らないけど。名前くらいしか。でも、これからだ。絶対手に入れる。勝負は負けたらおしまいだ。
「お……前、いつのまに……っ!!」
 そんなに驚く事か?
「俺、競技選手としてはもう使えないけど、でも『現役』やめたら終わりだよな? だから、諦めない事にした」
「……野間崎?」
「恋も、水泳も。お前のおかげだ」
「…………」
 どんなに絶望的でも。
「全力投球で行くよ、俺は。努力がみっともないなんて思わないから」
 結果出す為には、努力が必要だから。その努力さえしないなんて、ただのバカだ。
「……そう、か」
「ああ」
 俺は笑った。
「頑張ろうな、お互い」
 言うと、瀬川は唇歪めて笑った。
「……ああ」
「じゃあ」
「……待てよ」
 瀬川が言った。
「プール、見て行かないか? お前、最近来てないだろ?」
「え? ああ」
 確かに時間の余裕はある訳だし。
「行かないか?」
 瀬川は言った。
「判った」
「ついでに、泳いでいけば? 俺の予備の水着、貸してやるし」
「……そんな。悪いだろ?」
「身体なまってるだろ? 俺がフォーム見てやるよ」
 俺は苦笑した。
「昔と逆だな」
「言わせろよ」
 瀬川は笑った。
「判った。でも、良いのか? 練習の邪魔にならないか?」
「大丈夫。今日は練習休みだし。貸し切りだよ」
「迷惑にならないんだったら、心おきなく」
「楽しみだよ」
 俺は苦笑した。
「最近本当まともに泳いで無かったから、たぶん酷いもんだぞ?」
「ビシビシしごいてやるよ」
「お手柔らかに」
 俺の身体はまだ、覚えているだろうか? 昔のように動く事までは期待してない。だけど、今の俺が満足できる程度には動いてくれるんだろうか? 諦める気は無い。もう無い。だけど、少し不安になる。
 いいや。そういうのは卒業だ。為せば成る。逡巡していても仕様が無い。やってから考えろ。結果が出ないうちから悶々と考えたってどうにもならない。
 そう。足は治ってる。元の通りにはならないと宣告されたけれど。それでも足が無くなった訳じゃない。
 更衣室で服を脱いで、瀬川の貸してくれた水着に着替えた。
「よろしく、瀬川」
「こちらこそ」
 瀬川はにっこり笑って、俺の手を握った。
 二人でプールへと向かう。水と、消毒液の香り。懐かしい。キャップが無いのが何だか変な気持ちだけど。準備運動で身体を十分にほぐして温める。シャワーを浴びて全身を水に慣れさせる。
 いきなり飛び込みはまずいだろう。プールサイドから片足ずつ、水に触れる。変な気持ちだ。まるで、初めて水に入るような。童貞を捨てる時のような気恥ずかしさ。
「……野間崎?」
「何か……どきどきする」
 瀬川は笑った。
「大丈夫だよ」
 大丈夫。……そう。何でもない事だ。俺が意識しすぎてるだけ。深呼吸する。
「どうする? クロール? バタフライ? ……それとも平泳ぎ?」
「軽く、クロールで流してみる」
「判った。見てるよ」
 どくん、と心臓が脈打つ。ずっと泳いでない。あれからずっとだ。事故で腱を切ってからずっと。
「お前も泳げば?」
「見たいんだ」
 瀬川は俺の目をじっと見つめて言った。どきん、とした。
「たぶん下手だぞ」
「それでもいい。今の野間崎和郷を見せてくれ」
 そんな事言われたら。
「全力を出し切るしか無いな、今の俺の」
 瀬川は笑った。
「見てるよ」
「……判った」
 軽く流すつもり、だった。けど。……本気で。
「の、前にウォーミングアップ、良いか?」
「いいよ。どうぞ」
 水の中で、軽く腿を上げてみる。縁を片手で掴み、両足を壁際に着けて蹴り付ける練習をする。脳裏にイメージを描いて、水を掻いてみる。スタート位置に着いて前方を見る。頭の中で、泳ぐ自分をイメージする。
 ……行ける、か?
 以前の自分を思い出しちゃ駄目だ。今の自分自身で。今の俺の実力で。
「飛び込みで行くよ」
「タイム計る?」
「勘弁してくれ」
 今のタイム見たら、たぶん挫折しそうだ。
「今はタイムにこだわりたくないんだ」
「OK」
 泳ぐことが、好きだから。雑念は振り払う。泳ぐことだけに専念する。自分の泳ぐ姿だけをイメージして。そして。
 プールサイドに上がり、飛び込み台に立つ。何も考えない。泳ぐことだけ。イメージ中のホイッスルの音と共に、飛び込んだ。指先から、水が身体に浸透してくる。俺の身体を満たすもの。全身が水に包まれる。するりと水の中を滑る快感。水面へと滑り込んで、ブレス一つ。足裏で水を蹴って、右腕から掻き始める。
気持ちいい。イメージに描いた一直線に、指先を沿わせるように。頭と身体が一体になる。水と自分が一体になる。頭でごちゃごちゃ考えていた事が全部吹っ飛んで、水になる。
 50m。水の中に潜り込むようにターンして、両足で壁際を蹴り付ける。水の中を切って、滑って、水を掻く。正面を見る。ラインが思い描いた理想のラインからずれている。それでも、そんな事どうでもいいくらい気持ち良くて。
 100m。プールサイドを叩き付けて、水から上がった。
「……野間崎」
「気持ち良かった」
 どきどきする。すごく気持ちいい。……どうして、俺は。
「もっと早く泳いでみれば良かった」
 泳いでみたら、答えはすぐに出たのに。バカなプライドが邪魔をした。泳げなかったらどうしよう、とか失敗したらどうしよう、とか。
「野間崎」
 瀬川が抱きついてきた。……本当、感情表現がオーバーというか、感激屋で。ぎゅうっとしがみついて、俺の肩先に顔を押し付けて。
「やっぱり、俺」
 瀬川は耳元で囁いた。
「え?」
「野間崎のこと、好きだ」
 思わず、顔が赤くなった。……好きって。
「面と向かって言うなよ。恥ずかしいから」
 言ったら、キッと睨み付けられた。
「好きだから好きって言って何が悪いんだよ!」
 真剣だ。
「いや、気持ちは有り難いけど、そんな風に言われたら」
「俺は野間崎が好きだ。それがいけないとでも言うのか?」
「だから気持ちは嬉しいって」
「意味判って言ってるのか?」
「え?」
 意味って。
「……俺のこと、好きだって言うんだろう?」
 俺も、瀬川のこと、大好きな親友だ、と思ってるけど。
「……………っ」
 瀬川は真っ赤な顔になった。
「……え? 何?」
「野間崎ってニブイ、ニブイって思ってたけど!」
「どうしたんだ? 瀬川」
 どうして、怒ってるんだ?
「本当ニブイな!!」
「……何を……?」
 不意に、唇に何か柔らかいものが押し当てられた。
「……!?」
 瀬川が、唇を押し付けて。俺の身体に、全体重を掛けてきて。そのまま、プールサイドに押し倒された。
「……っ!?」
 俺は、目を見開いた。瀬川がすがるような目で、俺を見下ろしている。唇を吸い上げ、舌先で割ろうとしてくる。背中が、ぞくりとして。思わず瀬川を突き飛ばしていた。
「……何をっ……!!」
 瀬川は背中から、プールへと吹っ飛んだ。ぶくぶくと沈み、だがすぐに浮かび上がってくる。
「野間崎!!」
「何でこんなっ……!!」
 思わず口元を覆った。……理解不能。
「どうしてこんなことっ……!!」
「野間崎がっ!!」
 泣きそうな顔で、瀬川は。
「お前がニブすぎるからだろっ!?」
 ぶるぶると震えて、水の中から俺を見上げる。
「お前はこうでもしないと判らないじゃないか!! 好きだって言ったって!!」
 呆然と、していた。……理解したくなかった。
「俺はお前が好きだ! 好きなんだよ!!」
 ……だって。
「俺達……親友じゃなかったのかよ?」
 認めたくなくて。
「俺は、ずっとお前が好きだったんだ」
 瀬川の真剣な眼差しが。
 痛くて。
「……ごめん」
 俺は。……瀬川のこと、好きだけど、そういう風には見られなくて。
「俺……」
「判ってる」
 泣きそうな顔で、瀬川は俺を見た。
「判ってる。お前が俺をそんな風には好きじゃないこと。ただ、俺が、言いたかっただけなんだ」
「…………」
「俺、お前が好きだ。……誰よりも」
 混乱、してる。
「ごめん。俺……今、びっくりして」
 瀬川が、俺を好きだって。友人としてではなく、好きだって。
「今、まともな返事、出来ない。……から」
 今、返事しようとしたら、瀬川を一生失ってしまう。そんな返事しか、今の俺にはできないから。
「そう、だよな。恋人がいるのに、俺のことなんか考えられないよな」
 ずきり、とした。
「……瀬川」
「……ごめん、忘れてくれ」
 今更忘れろだなんて言われても。
「……無理だよ」
 瀬川は傷付いた顔をした。
「……気持ち悪い?」
 俺はぶるぶると首を振った。
「気持ち悪くないの? 男同士なのに」
「そんなのっ!」
 俺だって。
 俺だって、千堂さん好きだし。一目惚れだし。あのひとに気持ち悪いとか言われたら俺、立ち直れない。
「そんなのは大丈夫。ただ、びっくりして。……何も、考えられない。落ち着いて考えられないから。……ごめん、考えさせて」
 瀬川のことどう、とか思えそうにないけど。千堂さんを好きなように瀬川の事考えられるかって言ったら、たぶん違うけれど。
「ごめん」
「いや、俺の方こそ」
「……野間崎」
 瀬川はそう言って、水から上がってきた。俺の腰に手を回して。
「……せ、瀬川?」
 胸に顔を押し付けられて。
「せが……」
 瀬川は唇を胸に押し付けた。
「瀬川!?」
 瀬川は強く、吸った。
「ちょっ……ちょっと、瀬川!!何っ!!」
「……厭がらせ」
「いや……がらせ?」
 瀬川が指さしたところに目を遣って、ぎくりとした。キスマーク。
「ぁあっ!?」
 動揺した。心臓が胸から飛び出るかと思った。
「なっ……何でっ!!」
「これ見られたくなかったら、H出来ないだろ?」
「えっ……Hって!!」
 瀬川は少し安心したような顔をした。
「まだ、そういう仲じゃないんだ?」
 う……それどころか、付き合ってもいません。
「じゃあ、俺の付け入る隙もあるかな?」
「あ、あるかなって瀬川……っ!!」
 お前!! 何考えて……っ!!
「さっきまで、絶望的かなって思ってたけど、希望持っていても良いよな? 野間崎」
「なっ……!?」
「俺、諦めないから」
「ちょっ……瀬川っ!!」
「今だって、さっきだって、本気で厭なら拒絶出来ただろう? しないって事は、少しは脈あるんだよな?」
「待てよ!! 瀬川!! どうしてそういう事に!?」
 瀬川は笑って、唇を押し付けてきた。
「!?」
「厭だったら、本気で逃げろよ。だったら諦めるから」
 魅力的に、瀬川は笑った。……な、……んで。
「野間崎はどっちがイイ? タチとネコ。又は攻めと受け。俺はどっちでもいいよ。相手が野間崎なら。……野間崎は?」
 そんなのっ……!!
「悪いけど俺っ!! そういう風には!!」
 瀬川がすがるような瞳で真っ直ぐ俺を見上げる。
「……どうしても、駄目?」
 どきん、とした。
「ご、……ごめん。俺、約束があるから、もう……」
 瀬川が俺の指を握った。
「その、ごめん、せが……っ」
 ぱくり、と瀬川が俺の指をくわえた。
「なっ!?」
 右人差し指と中指を、第二関節まで呑み込んで。赤い舌を指に這わせて、そろりと舐めた。ぞくりとした。
「あ……せが……わ……っ」
 ちゅっと音を立てて吸い上げて、濡れた瞳で俺を見上げる。
「ご……ごめんっ!!」
 慌ててダッシュで逃げ出した。途中、つんのめりそうになりながら必死で。どきどきした。物凄いどきどきした。あんな瀬川、見た事なくて。心臓が口から飛び出そう。情けないくらい動揺して。
 更衣室に駆け込んで、濡れた体のまま慌てて服を着た。そのまま急いで部屋を出る。途中、足が何度ももつれそうになりながら。
 駅までダッシュで駆け抜けて、改札を抜けて電車に飛び乗った。……しまった。財布と定期以外の持ち物、全部忘れてきた。でも、今更戻る気力は無かった。かろうじて忘れなかった腕時計を見る。六時四十分。
 あのひとは……来てくれるだろうか……?

To be continued...
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