NOVEL

海の王国1「王の死」 -2-

 その日、セインは父母の言った通り、家から一歩も出ることなく過ごした。冬だから、外への外出は少々億劫だ。この地方は雪が多いため、防寒着をたくさん着込まねばならなかったし、歩くのも大変だ。また、皇太子である王子の行列が通るということで、街道の雪をどけるなどして、通りやすくするため、昨日はへとへとになるまで働いた。セインは筋肉痛で痛む足を、なでさすりながら、機を織る母のために、ミルクを温め、カップに注いだ。
「父さんは?」
「見回りに行ったわ」
「こんな時に?」
「こんな時だからよ」
 母は言った。最近、セインは疑問に思う事がある。それは、セインの父母は、元々この村へ来る前はどこにいたのか、という事だ。昔は、父母の故郷がここだったのだとおもっていた。が、それにしてはおかしなことが多すぎる。また、髪を隠せだの瞳を隠せだの、額の痣を隠せだのといった事も、これまであまり疑問に思わずにいたが、何故か非常に神経質になる父母を見ている内、これはおかしいのではないだろうかと気付き始めた。
(父さんと母さんは、僕に何か、隠してる?)
 理由は不明だ。おかしなこと、不思議なことばかりだと、セインは思う。
(何故?)
 自問自答しても、答えは見つからない。
「……セイン」
「なぁに? 母さん」
「……お前は、ね」
「え?」
 セインはきょとんとした。
「とても素晴らしい、私達の子よ。あなたはとてもよい子に育った。母さん、とても嬉しいわ」
「どうしたの? 急に」
「……もし、父さんと母さんが、お前より先に死んだらね」
「何、縁起でもないこと言ってるんだよ」
「……良いから聞いて、セイン。とにかく、父さんと母さんが死んだら、ウィルナーツェにいる私の伯母を訪ねなさい」
「え? 母さんの伯母さん? そんなひとがいるの?」
「……いるのよ。帽子屋を営んでいるわ。国境にほど近い町よ。とにかく、私の息子のセインだと名乗れば、後は良いようにしれくれるわ。間違っても北へ行っては駄目」
「北の国と言えば、ションウェイアだね」
「ええ、そうよ。本当は、ウィルナーツェもあまり安全とは言い難いのだけど、ウィルナーツェ王国のスンカーウェイという町に住んでいるラミド伯母なら、良くしてくれるわ」
「ウィルナーツェのスンカーウェイのラミド伯母さん」
「そうよ。姪のレネフィカの息子だと名乗れば、通じるわ」
「うん、判った」
「……何事も無ければ良いのだけど」
「うん、そうだね。母さん」
 その時だった。どんどんどん、と外扉が叩かれる。
「大変だぁ!! 雪崩が起きた!! 遭難だべ!! 王子様の行列が遭難したぁ!! 人手がいる!! 頼むべ!! シュトルムの旦那!!」
 ダストンの声だった。セインの母が表に出る。
「すみません、主人は今、山小屋の様子を見に行っていて」
「あんりゃぁ、あの人も仕事好きだな。山小屋は雪崩が起きたのとは違う方向だべな。呼びに行ってる暇ぁねぇな。仕方ねぇだ。 シュトルムの旦那以外の男衆集めて捜索隊出すべ。村長さんが指揮取ってくださるだでだ」
「あの! 僕も参加します!!」
「え!?」
 驚いたように、母は目を見開いた。
「なっ……何を言ってるんです!! セイン!! お前が行っても足手まといです!! それに、雪山の捜索は大変なのよ!! あなたまで遭難したらどうする気なの!?」
「でも、僕、じっとしてられないよ!!」
「……うーん。奥さんの言うことももっともだべ。セインのような坊主はかえって危険かもしんねぇだ。腕力や体力も要るべな。だから、捜索隊の炊き出しの手伝いでもしてくれた方が有り難ぇだ」
「炊き出し?」
「んだ。体力使うし、何より寒いしな。奥さん方皆に頼んで、鍋を作ってもらう手立てになってるだ」
「判りました。では、私も行きます。……セイン、どうしても手伝いたいと言うなら、母さんと一緒に行きましょう。一人で家にはいたくないでしょう?」
「判った。母さんと一緒に炊き出しに行くよ」
 セインは大きく頷いた。


「う……」
 一瞬のことで、何が起きたか判らなかった。突然、騒ぎ声や、低い大音響が響き渡り、あっという間に、輿ごと雪の上に投げ出され、転がりながら、斜面を滑り落ちた。かろうじて、指を伸ばして、傍にあった木を掴もうとしたが、結局そのまま転落した。傍で馬に乗っていたはずのエルミナード他、共の者の姿は無い。傍には色々なものが散乱していたが、ラール以外の人間は見当たらなかった。腰と頭を強く打ったらしく、痛みを覚えた。額からは血が滲み、したたり落ちて、視界を半分以下にしている。血に汚れた雪の上を手探りして、ラールは少しでも現状を探ろうとする。足がまるで動かない。だが、腰から下の感覚はある。どうやら雪に埋まっているらしかった。
(まずい。自力で抜け出せない)
「……誰……か」
 大声を上げようとするが、掠れた囁きのような声しか出ない。
「……大丈夫か?」
 落ち着いた声音が少し離れた場所から聞こえた。その耳慣れぬ声にどきりとしたが、すぐに安堵した。
「……腰から下が雪に埋まって動けない。それよりも、お前も気を付けた方が良い。お前までもが雪に埋もれたら洒落にならない」
「心配しなくとも大丈夫だ。……山は静かだ。たぶん、しばらくは次の雪崩は起きないだろう」
「……そんなことが、判るのか?」
「山に住んでいればな。……お前は身分の高い子供なのか?」
「私は次期王で王の名代だ。……望んだわけでもないがな」
 その言葉に、男は身じろぎ、たじろいだ。
「別に王族だからと言って、お前を取って食いはしない。お前には迷惑は懸けない。それどころか、謝礼をする。頼む、助けてくれ。私は王の名代として隣国へ赴き、その後は都に戻って父を助けねばならない。こんなところでまだ死ぬわけにはいかない」
「……目が、見えないのか?」
「たぶん出血のせいだ。こんな血など拭ってしまえば、見えるようになる。……何だ? お前は緊張しているのか? 王族を間近に見たことがない? ああ、そうだな。普通はそうだ。……お前、この近くの村の者か?」
 ラールの問いに、男は答えなかった。代わりに、手を差し出して、
「……手は動かせるか?」
 と尋ねた。手は動かせる、ということを示すために、ラールは腕を掲げた。
「大丈夫だ。痛みはあるが、きちんと動く」
「……腕に大きな裂傷がある。だが、骨は折れてなさそうだな。動かせるということならば、神経も問題ないだろう」
 男はゆっくり近付いて来て、背中に担いでいた荷から黒い瓶を取り出し、ラールの腕にふりかけた。
「……痛っ……!!」
「酒で消毒する。俺一人では、道具なしにお前を雪の中から掘り出すことはできない。小屋へ行って道具を取ってくるか、村へ戻って応援を呼ぶしかないが、村へ行く方が確実だろう。腹は大丈夫か?」
「……圧迫感があって苦しさはあるが、たいした怪我はなさそうだ」
「そうじゃない。腹は減っていないかと尋ねているんだ」
「空腹かどうかという意味か? それは大丈夫だ。……それよりお前、随分冷静だな。ただの村人とは思えない」
「俺はただの村の木こりだ。……腕力と体力だけが取り柄の」
「お前の腕は昔、斧の代わりに剣を振るっていたのではないか? 私も剣をやる身だ。筋肉の付き方や、立ち居振る舞いで、そういったものが目に留まる。今は引退し、隠棲している元傭兵というところか?」
「……詮索は無用だ。君が未来の国王だろうと何だろうと、俺には関係ない。だが、相手が傷付いている子供であるというなら、見捨ててはおけない。……酒を飲め。瓶を渡す。それだけ喋れるなら自力で飲めるだろう。ここは寒い。応援を待つまでの間、身体を温めるためにも飲んでおいた方が良いだろう」
 ラールは男から黒い瓶を受け取る。
「ありがとう。礼を言う。……お前、私の部下にならないか? お前のようなやつが傍に欲しい。報奨に糸目はつけない。お前の家族にも不自由はさせない。無論、過去の詮索も一切しない」
「結構だ。俺は君に期待されるような人間ではない。斧ならばともかく、剣など持ったこともない」
「……下手な嘘をつくな。お前の目は、剣士の目、血を血で洗う戦場を知っている男の目だ」
 そう言って、ラールは酒を煽った。
「…………」
 男は無言でラールを見下ろす。
「お前があくまでしらを切ると言うならそれでも良い。私は、自分の役に立たない人間には、興味がない」
 ラールが言うと、男は不意に崩れ込み、ラールの方へ倒れ込んだ。
「っ!?」
 ラールが驚いて目を見開くと、男の背中に、一本の矢が突き立っていた。真っ直ぐ心臓を射抜いている。
「……エルミナード!?」
 姿も気配も感じさせない遠方から、これだけの精度で弓矢を放てる者の名を、他には知らない。ラールが悲鳴を上げた直後に、彼の護衛官であるエルミナードが、副官のシャムエイルと共に、木立の中から現れた。
「何故彼を射た!何故彼を殺した!! エルミナード!!」
「あなたに危害を加えようとしていたからです、殿下」
 淀みない玲瓏たる声音で、エルミナードが言う。
「違う! 彼は私を救おうとしたのだ!! 私を気遣い、酒を与えて……っ!」
 ここ半年間では珍しく感情的な様子のラールを見て、エルミナードは僅かに眉をひそめた。
「……しかし、死んでしまった後では、どうしようもありません」
「エルミナード!!」
 ラールが非難するように、叫ぶ。エルミナードは、ざくざくと積雪を踏みしめ、ラールの元へと歩み寄る。
「いずれにせよ、死者は言葉を語りません」
「……まさか」
 ラールがうっすらと潤む瞳で、エルミナードを睨み上げた。
「王も、それに仕える者も、誤りなど犯してはならないのです。少なくとも、辺境の領民に対しては。何故なら、辺境へは王の慈悲や統治が行き渡りにくく、王への敬慕・敬愛・感謝の念が薄いのが辺境の民。彼らを寝返らせたり、王への反感を育てる種を蒔くわけにはいかないのです。ですから……」
「……やめろ、エルミナード……っ!!」
「……この男は、誰が何と言おうと、あなたを害そうとした不届き者です。故に、処罰されねばなりません」
「私はそんなことはしないぞ!! エルミナード!!」
「あなたは手を下す必要などありません、殿下。手を汚すのは私の仕事です。あなたは何もしなくて良い。あなたが良く知っている通り、王への反乱・反逆・暗殺など危害を加える者への処罰は、たった一つ『死』です。本人は勿論、その家族全員の」
「だからそんなことはしない!! 許さない!! 私は彼が無実だという事を知っている!! お前に彼と彼の家族を殺す権限などない!! 誤って彼を殺してしまったのは、既に取り返しがつかないから仕方ないとしても、彼の家族には報奨金や慰霊金などを与えて、手厚く保護するのが、王の義務だ!! 私を非道の王にする気か!? エルミナード!!」
「……あなたは隣国ウィルナーツェで執り行われる皇太子の婚姻式に出席し、ラヌク王国名代として祝辞を述べねばなりません。そのためには、ここで無用なトラブルなどを起こしてはならないのです」
「その原因はお前だろう!!」
「ええ、その通りです。ご不快ならば、私を処分してくださいませ、殿下。私はあなたのためなら、いつでもどこでも、目でも腕でも命でも差し上げる所存です。死ねと言うのならば今すぐにでも」
「…………っ!!」
 ラールはエルミナードを睨みつける。ぎりりと下唇を強く噛み締め、拳を強く握りしめる。その間、エルミナードは雪上に伏したまま、微動だにしない。
「……全てを不問に伏す。不快ではあるが……仕方あるまい。今、ここで問題を起こすわけにはいかない。だから、全てを隠蔽しろ。死体は埋めて、それから……」
「何もなかったことにする、と?」
 エルミナードの問いに、ラールは一瞬、沈痛な表情を浮かべたが、すぐに無表情な真顔になる。
「……そうだ。それしかない。このような時でなければ、きちんと処理したかったが……時間がない。近隣諸国につつかれるような真似もできない。おそらく、数年内に、戦争になるだろう。だが、今は駄目だ。父上の病状が安定していない。私は、父上にこれ以上の負担を、心労をかけさせたくない」
「了解いたしました。承ります。それでは全てを『無』に」
 淡々と言うエルミナードを、ラールは睨んだ。
「……まさか、お前は、最初から私がそう決断する事を予期して行動したのではないだろうな?」
「ご冗談を」
 そう言って、エルミナードは静かに微笑む。
「……こんな事を言うのも今更あれだが……手厚く葬ってやってくれ」
「はい、殿下」
 そして、駆けつけてきたエルミナードの部下達と共に、ラールは雪の中から救出され、そして村の木こりの男は、雪の下の地の中に、埋められた。
 ラールはその様子を、痛ましげに見つめ、見守った。
「……願わくば、彼とその家族に、神の慈悲と恩恵が与えられんことを」
 ラールは一人祈った。


「セイン、これも頼むだ」
 雪崩に遭遇し、遭難した王都の兵士たちや、その捜索に駆り出された村の男達のために、村の女全員と幾人かの子供達が、共に大きな鍋で肉や野菜などを煮込んでいる。捜索からいったん戻ってきた村の男が差し出してきた椀を受け取り、セインはやけどしそうに熱いスープを注ぎ入れる。
「やっと半数近くが見つかったらしいべよ。おっとろしく広範囲の雪崩だべ。村の近くでなくて、本当に助かっただべよ。あんなのがこの辺りで発生したら、村まるごと飲み込まれちまってるだよ」
「そんなにすごい雪崩だったんですか?」
「おうよ。あんなにひどいのは見たことねぇべ。尋常なこったねぇ。初めて見ただべよ。ありゃぁ、死人も出たんじゃねぇかと思うだ。たぶん今見つかってねぇ連中の大半が死人じゃねぇかと思うべよ」
「おおごとですね」
「おうよ、んだで、領主様が応援に来てくださるんだと。そしたらおら達、暫く休めそうだべ。セインも疲れたんでねぇか? 休める時に休んでおいた方がええだよ。でないと、身体がもたねぇべ。たぶん捜索は今日一日で終わらねぇだよ。でも、兵隊連中と領主様達ぁ、王子様を見つけるまでは休めねぇらしいべ。大変なこった。ここだけの話、王子様が亡くなったら、えらい事になんべ。王子様は今となってはたった一人の、次の王になる人だかんな。王女様達ぁみな近隣諸国へ嫁がれてっから、王子様がいなけりゃ、次に王様になるのは、今の王様の弟のオーリエント大公とかいう偉ぇ人か、先の王様の孫だとかいう人になるらしいだ。そうなったら、下手すりゃ戦争だべ、戦争。外の国から攻め込まれるかもしれねぇだが、国の中で起こるかもしんねぇだ。そうならねぇように、祈っとかないと、おら達みんなの首が飛ぶ事になるだよ。くわばら、くわばら」
(それは実に大変だ)
 セインはごくりと息を呑んだ。
「……無事に見つかると良いですね」
 セインにとって王子というのは、雲の上の世界の人で、全くどういう人物なのかは想像もつかない。だが、どんな人でも、不運な事故や災害で亡くなって良い筈がない。この世の中に、死んでも良い人間などいないと、セインは思っていた。だから、自分たちに害があるかどうかは関係ない。心底助かって欲しいと思い、切実に祈った。
「おらたちよりも、きっと領主様の方が大変だべ。お気の毒になぁ」
 その時、誰かが「ラール殿下が見つかった!」と叫んだ。それを聞いた王都の兵士達が一斉に声を上げ、歓声が沸き上がった。
「もうすぐこちらへ殿下がいらっしゃる!! 腕と足に怪我をされているが、命に別状はない!!」
 改めて歓声が沸き上がり、急に賑やかしくなった。
「王子様をお迎えする準備をせねばならない」
 と、村長が言った。
「すぐにシルラーデ伯のところに移られるだろうが、その前に休まれる場所が必要じゃ。手の空いている者は、わしの家に来て手伝ってくれ」
「あ。僕、行きます。給仕は一段落したので」
 セインが言うと、村長は嬉しそうに頷いた。
「うむ、セイン。すまんな。頼む、先に行っていてくれ。わしはまだここでする事がある」
「はい。では、先に行きます。お疲れでしょうが、頑張ってください、村長」
「なぁに、まだまだ。若い者には負けとらんよ。心配いらん。では、頼んだぞ、セイン」
「はい!」
 そう答え、セインは村長の家に行った。既にそこには幾人かの村の女達が集まり、掃除をしたり、テーブルや食器を磨いたり、一番清潔で上等のベッドに新しいシーツを敷いたりして、忙しく立ち働いていた。セインは台所にいた村長夫人に声をかける。
「手伝いに来ました。何をしたら良いですか?」
「ああ、セイン。ちょうど良いところに来てくれたわ。悪いけど、水桶に水を汲んできてもらえないかしら。さっきから大量に水を使ってしまって、とてもじゃないけど足りないのよ」
 傍らにある水瓶を覗くと、三本が空で、一本が半分ほどになっていた。
「この空のものを満杯にしておけば良いですか?」
「できればそうしてもらえると有り難いけど、あと一つあれば十分だわ。頼めるかしら、セイン」
「はい。おやすいご用です」
 そう言って、にっこり微笑み、セインは水桶片手に外に出た。村人達の共有井戸は、村のほぼ中央にある。そこへ水桶を運び、水を汲みかけたところに、村の入り口近くで大きな声と歓声・どよめきが上がった。
「殿下! ラール殿下!! よくご無事で!!」
 ラールがそちらを見ると、大勢の人だかりの中央付近に、馬に乗った騎士の前に横乗りする、身なりの整った少年が、そこにいた。口々に叫ぶ兵士達を静めるように合図し、しんと静まり返ったところで、初めて口を開いた。
「みな、心配をかけた。この通り、私は無事だ。雪崩に巻き込まれ、半分雪に埋まったが、近衛の者達に救われて、なんとか無事戻ってくる事ができた。皆の無事な顔を見られて、私はそれを嬉しいと思う。みな、生きていてくれて有り難う。そして、すまなかった」
 まだ幼さの残る、少し高めの少年の声。親子ほども年の離れた大人の中で、唯一泰然と振る舞っている。落ち着いたその声音と態度に、感激のあまり涙する兵士までいる。
(……すごいな。あれが、王子様なんだ)
 自分より年下とは到底思えない言動だ。とても真似はできない。ふと、自分の手が止まっていることに気付き、慌ててセインは水を汲んだ。早くしないと、間に合わなくなる。この水は、あの王子様を迎える準備をするために必要なのだから。彼が村へやって来たという事は残された時間は僅かしかないという事だ。慌てて重い水桶を抱えて、走る。何度か走ってようやく一つの水瓶を満杯にする。
「ありがとう、セイン。おかげで助かったよ。水を飲むかい?」
 村長夫人に言われて、首を振る。
「いえ、もう少し水を汲んできます」
 しかし、立ち上がろうとするセインを村長夫人は制止する。
「いいえ。しばらくここで休んでいた方が良いわ。ね、セイン。そうしなさい」
 優しい口調だが有無を言わせない空気があった。それにおやと思いながらも、セインは頷いた。
「では、お言葉に甘えます」
 そして、セインは水を一口飲んだ。その時、がやがやと音がして、大勢の人が玄関から入って来た。
「……あ」
 セインが思わず声を漏らすと、村長夫人は頷いた。
「そうよ。王子様ご一行よ。セイン、帰る時は裏口からにしなさい。表は、王都の兵士達でいっぱいだから」
「はい、わかりました。そうします」
 何故だろう、とセインは思う。だが、自分が庇われているのだという事だけは判った。彼女の言葉に従っておそらく間違いはない。でも、原因や理由がよく判らない。
(一体何故?)
 額の痣などと関係があるのだろうか、とセインは思う。だが判らない。
「ごちそうさまでした」
 そう言って、セインはカップをテーブルの上に置き、頭を下げて礼を言う。
「いいえ。今日はありがとう、セイン。ゆっくりお休みなさい」
 そして、セインは裏口の戸を押し開けて、外に出た。と、そこに人がいて、相手の胸に飛び込むような形で、セインはぶつかってしまった。
「わっ!!」
「!?」
 相手の胸は、ずいぶん広くて、それにとても固かった。どん、とぶつかり、跳ね返るような感じがした。ふらり、とよろめくセインの身体を、相手は抱き留め、支えてくれた。
「あっ、すみま……っ!!」
「……君は? この村の人?」
 気付くと、フードが脱げていた。慌ててセインはフードを被り直した。でも、強い視線を感じて見上げると、相手の目線と真っ直ぐかち合った。
(……しまった!)
 セインはどきりとした。痣はバンダナのおかげで見られなかったが、赤い瞳は見られてしまった。相手は、王都の兵士だ。鎧を脱いだ軽装で、剣だけを腰にさげている、長身の亜麻色の髪の青年騎士。緊張して、身をすくめると、青年は軽く頭を下げた。その流麗かつ軽快な動作に、思わず見惚れた。
「私の名前はシャムエイル・イルクラン。王都の騎士だ。驚かせてしまったようで、申し訳ない」
 実直かつ真面目で爽やかで穏やかな風貌の好青年、という印象だ。セインは暫し相手を見つめた。
「……その、怪我はなかっただろうか?」
 少し、困ったような顔で、そう尋ねられ、セインは赤面した。
「あっ、あああのっ、だ、大丈夫です!! こ、この通り!! そ、その、すみませんでしたっ!!」
 大声で叫び、慌てて頭を下げる。
「セイン、どうしたの?」
 村長夫人の心配そうな声。
「ああぁ、だ、大丈夫です!! その、有り難うございましたっ!!」
 セインはぺこりと頭を下げ、脱兎のごとく駆け出した。その様子をシャムエイルは無言で見送り、見送ってから、僅かに首を傾げた。
「どうした? シャムエイル」
 村長の家からシャムエイルの直属の上官であるエルミナードが現れる。
「いえ、何でもありません。ただ、村の少年とぶつかって」
「……相変わらず妙なところで抜けた男だな、シャムエイル。切れ者で、隙のない有能かと思えば、たまにポカする」
「……しかし、役得でしたよ」
「? どういう意味だ?」
「……いえ」
 シャムエイルは苦笑する。
「何でもありません。……この村にはどのくらい滞在するのでしょうか?」
「殿下が怪我と疲れが原因で発熱された。明日の朝になって、下がっていれば村を出る。ここではろくな治療はできないからな」
「……すると、陸路では間に合いませんね」
「ああ。一度王都へ戻って、船で行くことになる」
「殿下は当初から海路を希望されておられましたね」
「……だが、傷の具合によっては、快適な船旅とは行かないだろう」
「お加減が悪いのですか?」
「いや。……少なくとも、表面上は。問題は、精神的なものか……」
「…………」
 シャムエイルは黙り込んだ。エルミナードは苦笑する。
「……俺を、軽蔑するか?」
 ぞんざいな口調で、エルミナードは副官に尋ねる。
「いいえ」
 シャムエイルはきっぱりと答える。
「……そうか。それは有り難い。お前は、有能な副官だ。お前を失ったら、後任を探すのに苦労する」
 そう言って笑う上官に、シャムエイルは真顔で答える。
「あなたのお役に立てるよう日々尽力いたします」
「そうしてもらえると、こちらも助かる。だがな、シャムエイル。上官や職務に嫌気が差したら、いつでも逃げても構わないぞ?」
「ご冗談を」
 シャムエイルはにこりともせずに言う。
「……既に俺も同罪です」
「今ならお前の手は汚れてはいないぞ?」
「……あなたが弓を引くのを止めませんでしたから」
 エルミナードは苦笑する。
「お前が入隊してきてからの事は、全て見聞きして知っているつもりだが、時折お前という男が判らなくなるな、シャムエイル。一体何を考えている?」
「……何も。職務と職責以外のことは、何も考えていません」
「まあいい。お前は役に立つからな。……俺は、殿下のためにならないものは、全て切り捨てていく。これからは、お前に全て、俺の後始末をさせる事になるが、それでも良いのか?」
「……はい」
 シャムエイルは無表情に頷いた。
「試すような事を言わなくても、上官[あなた]の命令は絶対ですから」
「……では、命令だ」
 そう言って、エルミナードは声量を落とし、シャムエイルの耳元へ囁く。
「……先ほどの木こりの家族を全員殺せ。ただし、事故にでも見せて。火事、というのも良いかもしれない」
 それは、悪魔のように冷酷な声音。シャムエイルは無表情で頷いた。
「承知いたしました」
 すると、エルミナードは微笑を浮かべた。
「では、私は、殿下の傍にいる。後は頼む」
「はい」
 シャムエイルは一礼し、それから村を一瞥する。
「……平和そうな村だ」
 そう呟いた後で、少し苦い顔をした。

To be continued.
Web拍手
[RETURN] [BACK] [NEXT] [UP]