NOVEL

海の王国1「王の死」 -3-

 シャムエイル・イルクランは領地を持たない名ばかりの貧乏貴族の七人兄弟の長男だった。彼の父は海難事故で亡くなっており、母と六人の弟達の生活・養育費用は全て彼の両肩にかかっていた。出世するためならば、どんな仕事も厭わない──そういうやり方で、これまでのし上がって来た。上官の吐き気のするような所業の後始末をすることなど朝飯前だと、エルミナードの副官になるまでは、そう思っていた。
 心はとうの昔に殺したはずだ、と思う。彼が彼でいられる場所は、故郷のスヴィアラルクにある掘っ立て小屋のような小さな家の中だけだった。……それでも、見ず知らずの罪のない平凡な村の女子供を手にかけねばならないというのは、正直気が重かった。
(……深く考えるな)
 シャムエイルは自分に言い聞かせる。全て家族を養うためだ。二十二歳になったばかりの彼の下には上は十八歳、下は七歳の食べ盛りの弟達がいる。全員が成人して自分で収入を得るようになるまでには、最短でも十年以上はかかってしまう。考えれば考えるほど憂鬱になる。それでも、故郷へ帰り、母や弟達の顔を見れば、どんな疲れや憂鬱も吹っ飛んだ。
  あの笑顔を守るためならば、自分の身や心を切り売りしても構わない。それで、彼らを守れるのならば。この肉の一片まで売り渡しても良いと、思っていた。
(こんな事はたいしたことじゃない)
 そう言い聞かせて、深呼吸する。真面目で穏和な仮の笑顔で、薪が欲しいから村の木こりの家を教えてくれと村人に尋ねて、 ローアン村の東外れにある、木こりを営むシュトルム家の前に立っていた。
 もう一度深呼吸して、シャムエイルは腰の剣の柄に手をかけ、静かに鞘から抜き放つ。既に日が落ち、暗くなりかけていた。日が地平線に沈む最後の光を浴びて、抜き身の刃がきらりと光った。赤く染まる景色の中で、シャムエイルは一人自嘲の笑みを浮かべ、無造作に剣を下ろし、逆の手でドアをノックした。
「……はい?」
 扉の向こうで、女の声が聞こえる。思ったより若い声だった。
「このような時間にお尋ねして申し訳ありません。私は王国騎士です。薪が足りなくなってしまいましたので、いただきにまいりました。お支払いいたしますから、分けていただけないでしょうか」
 女子供を騙すのは簡単だった。彼らは、シャムエイルの真面目で誠実そうな姿と声に、いとも簡単に信用してしまう。だが、扉の向こうの女は慎重だった。
「あの、まだ主人が戻っておりませんので、明日の朝でもよろしいでしょうか?」
「大変申し訳ありませんが、皇太子殿下が、怪我のため発熱されて、そのために必要なのです。どうか、不躾だとは存じておりますが、分けていただけないでしょうか。明日の朝では間に合いません」
 申し訳なさそうに、困惑と焦りを緻密に計算して表現しながら。女は戸惑い、不安げながらも、扉を開けた。その瞬間、シャムエイルは王都で神速とも呼ばれる剣の腕で、無言で女を切りつけた。女は悲鳴を上げる事無くその場に崩れるように倒れ、絶命した。女の倒れる音だけが、響き渡り、シャムエイルは僅かに眉をひそめた。しん、と静まり返った家屋の中で、鈴のような少年の声が響いた。
「母さん?」
 シャムエイルは血濡れたままの抜き身の剣を無造作に下げて、息を殺し、気配を殺し、足音を立てず無言でその声の主の元へ歩み寄る。
「どうしたの? 母さ……っ!?」
 少年は赤々と火が燃える暖炉の前で、大鍋の中のスープをかき混ぜていた。砂色の髪と、紅い瞳と、透き通るように白い肌の美しい少年──その顔に見覚えがあった。
「っ!?」
 思わずシャムエイルは息を呑んだ。
「あれ? 昼間の……?」
 少年、セインは言いかけ、はっと、今の自分の姿を思い出して、硬直した。シャムエイルは彼の容貌、特にその額に目を奪われた。
「……『神の愛し子』……?」
 その額の刻印は『神の愛し子』と呼ばれる子供に現れるとされる、第三の瞳──だが、セインのそれは、額に刻まれた入れ墨である──それを生まれたばかりの赤子に施すのは、アネン神信仰者が行う宗教儀式の一つだ。だが、そのアネン神信仰者は迫害され、その最後の生き残りは北のションウェイア王国で、公開処刑された筈だというのが、シャムエイルの知る知識だ。
 セインは、不思議そうに、また警戒するようにシャムエイルを見上げ、立ち上がった。ふとその右手に握る赤い雫を垂らす剣に目を留めた。
「……え?」
 自失から返ったシャムエイルは、硬直したセインに気付き、舌打ちする。改めて剣を振るおうとした──なのに、不意に剣が重く感じられて、振り上げる事はおろか、剣を持ち上げる事すらできなくなって、取り落としてしまった。
「!?」
 かつて経験のない出来事に、シャムエイルは狼狽し、驚愕し、焦燥に駆られた。少年を振り返ると、脅えた目でシャムエイルを見つめていた。不意に凶暴な感情に突き動かされて、シャムエイルは少年セインの細い腕を掴み、その場に押し倒していた。
「……っ!?」
 悲鳴を上げようとする口を手で塞ぎ、予備の短剣を抜き放ち、一閃させると、少年の着衣が左右に分かれてはだけられた。身じろぎする少年の肩を押さえつけて、その白いうなじに舌を這わす。微かな悲鳴と呻き声を上げる少年の身体をついばんでは、赤い刻印を押していく。徐々に下方へと這いおり、両足の間に震えるものをそっと口に含むと、少年は小さく悲鳴を上げた。小さな生き物のようなそれを、ゆっくりと味わうように、舌で育て上げていく。少年はびくびくと震え、呻いた。ふと、声が聞きたくなって、シャムエイルは口を押さえていた手を外した。
「……なん……で……っ!!」
 セインは両目から涙を流し、哀願する目と口調で、シャムエイルを見つめる。その事に気付いて、シャムエイルは唇を離して、セインをの身体を転がすように反転させて四つん這いにさせ、尻を掴んで割るようにして、その奥の蕾を舌で撫で上げ、吸い上げた。
「……どうしてこんなことする……の……?」
 言葉を聞きたくなくて、シャムエイルは少年の口を後ろから塞ぎ、無理矢理後ろから貫いた。手で押さえただけでは抑えきれない悲鳴が室内に響き渡り、シャムエイルはいっそう凶暴な気分になった。
(いっそ、このまま殺してしまおうか……)
 短剣を握り、振りかざす。
「……やめ……てっ……殺さ……ない……で……っ!!」
 セインは大きく首を振って、シャムエイルの手をふりほどき、悲鳴を上げた。その瞬間、シャムエイルはぎくりと硬直する。
「……まさ……か……?」
 セインは涙に濡れた目で、シャムエイルを振り返り、見つめて言った。
「……お願い。何でも言う事聞くから……だから、乱暴しないで。恐い……恐いよ……っ!!」
 脅えて泣く姿に、一番末の弟の姿が重なり、シャムエイルは硬直した。すすり泣き、しゃくり上げる姿を呆然と見つめる。
(……俺は……一体何をしてるんだ……?)
 あとは目の前の少年を殺し、家に火をかけるだけで今夜の仕事は済む筈だった。なのに、何故、こんな年端も行かない少年の無理矢理犯した上、泣かれて呆然と座り込んでいるのだ──信じられない思いで、シャムエイルは自分の両手を見つめた。静かな家の中で、少年の泣き声と、暖炉でぱちぱちと火がはじける音が響き渡る。シャムエイルの手の中から、短剣が滑り落ち、金属的な音を立てて、床の上に転がった。その瞬間激しい狼狽と羞恥と困惑に襲われ、シャムエイルは慌ててセインから飛び退き、乱れた自分の衣服を整えた。そうしてから、初めてそれに気付いたように、自分のマントをセインに着せかける。セインは泣き濡れた目で、シャムエイルを不安そうに見上げた。その視線に耐えられなくて、シャムエイルは視線をそらす。
「……死にたくなければ、すぐ逃げろ。俺は今からこの家に火を付けて燃やす。着替えたければ、その時間は与えよう。……だから今すぐ俺の目の前から消えてくれ」
「……なん……で……?」
「お前の母は、俺が殺した」
「っ!?」
 シャムエイルの言葉に、セインは大きく目を見開いた。
「……それから、お前の父も」
 直接手にかけたわけではなかったが、おそらく死ぬと判っていて、止めなかった。大きな瞳でシャムエイルを凝視するセインに、自嘲の笑みを浮かべて言う。
「恨みたければ恨めば良い。逃げたければ逃げれば良い。……だが、ここに残ればお前を斬る。明日の朝までに、お前が村の中にいるのを見つけたならば、容赦しない。一瞬で絶命させてやる」
「……どうして……?」
 セインの声は、驚愕と悲しみと困惑に満ちていた。だが、そこに怒りと憎悪はない。
「どうしてこんなことをするの? 僕はあなたに何かいけない事をした?」
「……お前に罪はない。お前を殺すのは、俺の都合だ。お前が両親の後を追いたいと言うなら、痛みを感じる間もない一瞬で、殺してやる。俺には朝飯前だ。失敗はしない」
「じゃあ、何故、あなたは泣いているの?」
「……何だと?」
 シャムエイルは思わず自分の頬に手をやり拭った。だが、そこに涙はなかった。
「……おい……っ」
「確かに涙は流していないけれど、あなたの心は泣いている。なのに、どうしてそんな顔で、そんな声で、そんな口調で、僕を殺すだなんて言うの……?」
 シャムエイルは一瞬口ごもった。冷酷無比な顔を作ろうとして、失敗した。
「……お前は……一体何者だ……? 何故、そんな事を言って俺を……俺を惑わす……?」
 声が掠れ、僅かに震えた。そして、シャムエイルは何故か嗚咽がこみ上げてくるのを感じて、天井を仰いだ。
「……あなたにそんな無体な命令を下したのは誰? 黒い髪の、冷酷な瞳の、騎士の姿の、その人は一体誰?」
 セインの唇から紡がれた言葉に、シャムエイルはぎくりと肩を震わせ、脅えたような目で見つめた。
「……まさか……心を読むのか……? 本物の……『神の愛し子』のように……っ……!!」
「……『神の愛し子』なんて知らない。僕の名はセイン。ローアン村の木こりの息子、セインラート・シュトルムだ」
 シャムエイルは自分の顔を両手で覆った。
「行けと言うのが判らないのか!? 俺はお前を殺すと言ってるんだ!! 殺されたいのか!? 俺は人殺しだぞ!!」
 シャムエイルの絶叫に、セインは優しい微笑みを浮かべて、彼をそっと背中から抱きしめた。セインにしがみつかれる格好になって、シャムエイルはぎくりと硬直した。
「……なっ……!?」
「……あなたが、本心から僕を殺そうとしているんじゃなくて良かった」
 吐息をつくように、セインが呟いた。
「あなたが本当に僕を殺す気なら、僕はあなたに何を言う暇もなく殺されるところだった」
「…………っ!!」
 シャムエイルは声にならない悲鳴を上げかけ、それを飲み込んだ。セインはシャムエイルを抱きしめる腕に力をこめて、彼の耳元で囁く。
「……あなたは、そんなに無理する必要はないよ。苦しかったら、泣いて良いんだ。哀しかったら、泣いても良いんだよ。だって、そのために、人の心や感情はあるのだから……」
「……お前は悪魔か?」
 シャムエイルは呻くように言った。
「それとも本当に全知の神の力の片鱗を持つ『神の愛し子』なのか……俺は……俺は、お前を殺しに来たのに……っ!!」
 苦しげに呻き、震えるシャムエイルに、セインは言う。
「あなたがどうしても僕を殺したいと言うなら、殺されても構わない」
「……何だと!?」
 驚いて、シャムエイルはセインを振り返った。セインは穏やかな笑みを浮かべて言葉を続ける。
「……でも、僕を殺したくないと思っているあなたに殺されるのは、ごめんだ」
「…………っ!!」
 シャムエイルは絶句する。
「どうして僕を殺さなくてはならないの?」
 真顔で問うセインに、シャムエイルは眉をひそめた。
「……お前……人の心が判るわけじゃないのか……?」
「そんなこと判るわけないよ。ただ、時折、強く意識すると、相手の感情が感じ取れる──それだけのことだよ」
「だが、さっき、お前はあの人の風貌について言及した……」
「それはあなたがその人のことばかり考えていたから。そうでもなければ、そんな事判る筈がないでしょう?」
「……普通の人間は、お前のように判ったりはしないんだ」
「え?」
 セインはきょとんとした。
「それってどういう意味……?」
 本当に判らない、という顔で、セインはシャムエイルに聞き返す。
「……お前は……知らないのだな……」
 シャムエイルは溜息をつくように呟いた。
「何を? 僕が何を知らないって……」
「お前は、物事を知らない、世俗を知らない、穢れをしらない。何もかもを知らなすぎる。……これまではそれでも良かったのかもしれないが、これからはお前を庇ってくれる両親はいない。俺によって殺された。お前を守ってくれる庇護者はいない。そんな中で、どうやって生きていく? いっそ、この場で殺してやった方が慈悲深いかもしれないな。……少なくとも、お前は何者かの庇護を受けねば生きていけまい」
 そう言って、シャムエイルは剣を手に取り、握った。相変わらず剣は重かった。こんなに重く感じた事はなかった。いつもは軽々と扱うそれを、ゆるゆると持ち上げ、上段に構える。
「……楽に死にたければ、下を向いてじっとしていろ。一瞬で終わらせてやる」
「嫌です」
 セインはきっぱりと言う。
「あなたは僕を殺したくないと思っている。僕は、僕を殺したくないと思っている人に、殺されたくない。僕を殺せば、あなたが傷付く」
「お前を殺す者を哀れむのか? 慈悲深いことだな。だが、無駄なことだ。お前がいかに俺を哀れもうと、憎悪しようと、あと僅かな時間に過ぎない。お前はもう、この場で死ぬのだから」
「……いいえ」
 セインは真顔で真っ直ぐに、シャムエイルを見つめて言う。
「あなたは、僕を殺しません」
「……っ!?」
 シャムエイルは絶句する。
「……なっ……!? なんでそんな……俺は……っ!!」
「僕は、死にませんし、殺されませんし、逃げません。……あなたの傍にいます」
「……なっ……」
 シャムエイルは大きく目を見開く。
「……何故だ!?」
「あなたは信頼できる方だ。それにとても、優しい。見ず知らずの僕のことを、そんなにも心配してくださっている。それに、僕も、あなたが心配だ。苦しそうで、辛そうで、哀しそうで。僕があなたにできることはほとんどないかもしれませんが……それでも、僕はあなたを助けてあげたい」
「……お前はバカだ」
 シャムエイルは呻くように言った。
「はい。バカです。……しかし、夜明けまでそれほど時間がありません。だから、僕はひとまず着替えて、山の木材などを備蓄してある小屋に行きます。ですから、あなたはその間に、あなたの用事を済ますと良いでしょう」
「……ほとぼりが冷めた頃に逃げる、ということか?」
「いいえ。あなた達一行は明日か遅くとも明後日にはこの村を出立するでしょうから、その後をこっそりつけます。僕は山育ちですから、あなた達都会の人よりも早く山の中を歩ける」
「……待て。我々は領主の元へ行くのだぞ? お前はそこでどうするつもりだ? 少なくとも殿下の治療のため、一泊はすることになる。この季節に野宿は無理だぞ?」
「ご心配なく。領主様の城下町へは、幾度か足を運んだ事があります。知り合いの家の厩にでも泊めてもらうつもりです」
「……だが、その後はどうする? 王都までの道のりは、長いぞ? 徒歩でついて来られるわけがない」
「山に住む民と、都会に住む上流階級の人々を同列に扱わないでください。僕は陽の光には弱い質ですが、体力は結構自信があるんです。乗馬も得意ですから、平気です。我々辺境の民にとって、馬は生活必需品で、自分の足なんです。じゃないと、生活できませんから」
「……俺なんかについてきて、一体どうする気だ。俺はお前なんかの面倒を見る気はないぞ?」
「ご心配せずとも、僕はあなたのお世話になる気はありません。自分で仕事も住むところも見つけて、自活します。心配無用です」
「……っ……あぁ、もう! この、大バカ者が! そんなことして、お前に何の利益がある!?」
「利益なんて関係ありません。ただ、僕はあなたが心配なだけです」
 シャムエイルはいらいらと自分の頭を掻きむしった。
「……この、お節介のお人好しの大バカの大間抜けの……っ……」
 あとは口の中でさんざん罵って、シャムエイルはセインを睨みつける。
「……お前は疫病神だ」
 シャムエイルの言葉に、セインはきょとんと目を見開いた。
「俺はずっと、金と出世のためなら何だってやれると自分に言い聞かせてきた。……お前のように、自分を殺そうとする人間に同情するような人迷惑なお節介には、ただの一度も遭遇せずに済んだからな」
「……人迷惑、ですか?」
「迷惑だ。俺が……出世できなくなったり、排斥・更迭されるようになったりしたら、絶対お前のせいだからな」
 憎々しげに、恨めしそうに言うシャムエイルの言葉に、セインは首を傾げた。
「……あの、どういう意味でしょうか?」
「お前みたいなバカ一人野放しにしておけるはずがないだろう。放置して、お前のことがバレたら、俺の身も危険だ。だったら、俺がお前を保護して隠してやらないといけないじゃないか」
「え? 僕はそんなことしていただかなくても……」
「……無理だ。絶対お前一人じゃ無理だ。だいたい、金は持っているのか?」
「え? お金は……持っていませんけど、働けばなんとか……」
「なるわけないだろう! お前みたいな子供が!! なれるとしたら、下町裏町花街の男娼だ。血反吐吐いて死ぬまで働かされて乃垂れ死ぬのが関の山だ!!」
「……男娼? それってどういうお仕事ですか?」
 セインの言葉に、シャムエイルは声にならない罵声を上げ、剣と短剣を鞘に収めて仕舞うと、セインに言う。
「今すぐ着替えろ。領主の城下町までは、お前の言った通りで良いだろう。ただし、知り合いの家には近寄るな。領主の城の近くの森があるから、そこにいろ。夕方近くなったら、俺が行く」
「え?」
「……その後の事は俺に任せろ。とにかく誰とも接触・遭遇するな。でなければ、お前を庇ってやれない。それが守れないなら、のたれ死ぬのがお似合いだ。いや、俺がこの手で始末してやる」
「……どうして、ですか?」
 セインは不思議そうに尋ねる。シャムエイルは不機嫌そうに眉をひそめた。
「……俺もそうとうお人好しだよ。理由があるとしたら……末の弟と年頃が似ているからかな。それ以上の意味なんかない」
 あるはずがない、とシャムエイルは心の中で呟く。
「わかりました。では、ご厚意に甘えます」
「これを先に渡しておく」
 そう言って、シャムエイルは懐から重い革袋を取り出して、そのままセインに手渡した。中には、金貨と銀貨がいっぱい詰まっていた。
「えっ……こんなにたくさん……っ!?」
「何があるか判らないからな。勿論、それを持って逃げても構わないぞ」
 ほぼ無表情でシャムエイルは言い捨てる。
「どうしてこんなに良くしてくださるんですか?」
「……早くしろ。時間がなくなる」
 感情を殺した声と顔で、シャムエイルは言った。セインははにかむような笑みを浮かべて、シャムエイルに軽く頭を下げる。
「では、急いで着替えてきます」
 セインが部屋の奥へ姿を消すと、途端にシャムエイルは泣きそうな表情になった。
「……なんてことだ……この俺が……隊随一の鬼副長とまで言われながら……こんな簡単に……」
 愚痴をこぼすように呟いて、はっと表情を硬くする。
(泣き言こぼしてる暇なんてない。早くこの家を焼き払って……)
 窓の外の空を見上げた。月が中空にまで昇っていた。気付くと、首にかけたペンダントを握りしめていた。郷里を出る時、シャムエイルの母が、お守り代わりにと首にかけてくれたものだ。死んだ父がこれを身につけていた時、ただの一度も海難事故に遭遇する事はなかった。だから、縁起物だと言われて。シャムエイルは苦笑しながら受け取った。
 時折、郷里や家族を思い出しては、それに触れる事があった。月の光で淡く光るそれは、乳白色がかった、薄い青色をした石だ。濁ったような、それでいて透明感のあるような、いつ触れても冷たい、不思議な石。遙か南方の国で採掘される貴石なのだと聞かされた。持ち主に災いを退ける幸運を与えるという伝説があるのだと言う。
(……災いを退ける幸運、か。効いたためしは無い、な)
 もしかすると、自業自得という災いには効果が無いのかもしれないが、と一人ごちる。食用油などを撒いたり、布や木など燃えやすいものに染み込ませたりして、シャムエイルはこの家を燃やすための準備をする。
 何故、あの少年は自分を恨んだり憎んだりしないのだろう、と思う。それが、少し不気味でもある。相手の事を全て信用したわけではなかった。だが、少年が自分を裏切るのなら、それでも別に構わないと思う。
(俺はとっくに、地獄へ堕ちているはずの身の上だ)
 家族のためと、既に数え切れないくらいの罪を犯してきている。エルミナードの副官になる以前からだ。全て自分の心ごと切り捨てることで、生きてきた。今更救われようとは、報われたいとは思わない。
(だったら、何故だ?)
 人に好かれたい、感謝されたいという気持ちも失くして久しいと思っていたのに。
(今更、何故……?)
 シャムエイルは自分の心に生まれた波紋と矛盾の正体に、まるで気付かなかった。疑問を抱きながらも、機械的に行動する。
「……知られたら、殺されるかもしれないな……」
 そう呟いて、シャムエイルは、悪魔よりもおそろしい上官の顔を、脳裏に浮かべた。

To be continued.
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