NOVEL

海の王国1「王の死」 -1-

 ラヌク王国。その国は北は山脈、東西は大国に隣接し、南は海に面した小国である。しかし、小国ながら、東西の大国、北方の国々に負けぬ国力と軍備を持つ豊かな国で、特に海軍力が他の周辺国より強く、その領有は起伏に富み、山や河川や湖があり、港に適した海岸があり、どんな海の難所も運航可能な技術を持ち合わせていたため、海を自由自在に渡り、世界各国と貿易を行う、経済力豊かな国であった。
 この国を治める王の名はシャーエ・ラル・ラヌク。その居城があるのは、海に面した港都市・真珠都市[シェヴィラエヴァ]。シャーエ・ラル王には、四人の王子がいた。第一王子が、正妃の子、十七歳のシュレイ・ヴァルフ。第二王子が妾妃の子、十四歳のアルメ・イル。第三王子が正妃の子、十二歳のナーク・シュラン。第四王子が妾妃の子で十歳のラール・ラルクである。その他に王女がおり、レリア・ラルといったが、その王女は十六歳で、二年前に東の隣国ウィルナーツェへ嫁いで、今は国にはいなかった。シャーエ・ラル王は聡明ながら、病弱であったために、その補佐として異母弟であり軍務大臣でもあるオーリエント大公や、母方の叔父であり国務大臣でもあるパロム公爵を重用し、国を統治していた。国は平穏で、憂えるところは何一つ無かった。少なくとも、表面上はそう見えた。シャーエ・ラル王は、内政や、国土や領有地の開拓・開発などに、能力を発揮したが、軍勢を率いることや、狩りなどは不得手だった。王は愛されていたが、次期王は軍を指揮・指導する能力に長けた能力を期待されていた。その風潮を促進していたのは、オーリエント大公である。そのため、四人の王子達の教育は、多岐に渡っていたが、とりわけ重用視されたのは、心身を鍛練し、剣術・槍術・弓術などの腕を磨き、兵法を学ぶことだった。四人の王子に、ひ弱さはなく、いずれも負けず劣らず健やかに成長した。次代の王と噂されるのは、第一王子のシュレイ・ヴァルフとアルメ・イルだったが、シュレイ・ヴァルフはいささか粗暴で粗野であるところが、アルメ・イルは正妃の子ではないことや、少々優しすぎ穏和すぎるところが、次の王としてはどうかと言われていた。
 しかし、第四王子、ラール・ラルクは、次の王は同母兄のアルメ・イルだと信じていた。乱暴でがさつなシュレイ・ヴァルフなどが次の王になどなるはずがない、と。
 ラールは、同母の兄アルメを慕っていた。兄はとても彼に優しく、聡明で武術にも秀でていた。ラールは兄を尊敬し、憧憬し、とても愛していた。母が既に亡くなり、母の実家も没落していたために、ラールにとって頼れる身内は同母の兄だけでもあった。一番末の王子として、王に溺愛された彼は、しかし、その幼さ故に、王位継承権争いの蚊帳の外に置かれていた。だが、ある日、そのラール・ラルクの日常は突然変化することになる。

 それは、晴天の霹靂だった。
「アルメ・イル兄上が落馬して即死!?」
 嘘だ、とラールは悲鳴を上げた。
「落ち着いてくださいませ、ラール殿下」
 と、護衛官であるエルミナード・フェイクレス・ノーランドが、いつもと同じ落ち着いた低い声音で言った。
「落ち着けだと!? ふざけてるのか!? エルミナード!! 兄上が……あの、乗馬も武術も巧みなアルメ・イル兄上が、馬から落ちて死んだだと!? そんなことが有り得るはずがない!!」
「本当です。私がこの目で確認いたしました。落馬されたところは存じませんが、確かにアルメ・イル殿下はお亡くなりに……」
「そんなバカな!! 兄上が死ぬはずがない!! 本当に亡くなったというのならば、陰謀だ!! シュレイ・ヴァルフやその配下の仕業に決まってる!!」
「……ラール・ラルク殿下」
 厳しい表情で、エルミナードは言った。
「憶測で物を言うのはおやめくださいませ。他の者の耳に聞こえれば、咎なく誹謗中傷したとしてあなたのお立場が悪くなります」
「エルミナードは本気で信じているのか!? あの兄上が、馬を、自分の手足のように操るアルメ・イル兄上が、誤って落ちて即死すると!?」
「……声を抑えてくださいませ、殿下。女官達が脅えております」
「私は絶対に認めないぞ。真相を究明してやる。兄上が落馬で死んだりするものか」
 拳を震わせ、蒼白な表情で呟くラールに、エルミナードは声をひそめて言った。
「……実は、私もそう思っておりました」
「エルミナード?」
 問い返すラールに、エルミナードは頷いた。
「ええ。ですから、現在密かに部下に調査させております」
「……そう……か。有り難う、エルミナード」
「いえ。私も不遜ながら、疑惑を感じました故」
「……すまない、エルミナード。しばらく一人にして貰えないか?」
「殿下」
「……誰にも、泣き顔を見られたくない」
「承知いたしました。では、失礼いたします。私は控えの間におります故、何かございましたら、お呼びくださいませ。……このような時ですから」
「……判った。おかしなことがあれば、すぐに呼ぶ。有り難う、エルミナード」
「いえ。これも職務の内でございますから。……それと殿下」
「何だ?」
「……お気を落とさずに」
「バカ。退がれ」
「はい」
 エルミナードは退室した。それを見送り、完全に扉が閉ざされてからようやく、ラールの頬に涙が伝った。それから、ラールは一人、声も無く慟哭した。


 ラヌク王国の北方、隣国との国境近い山奥の村、ローアン。

「いんや〜。良い天気だがね〜」
 同じ村の男に声をかけられて、少年はにっこり微笑んだ。
「そうだね、ダストンさん」
 少年の名はセインラート・シュトルム。皆にはセインと呼ばれている。今年十一歳になったばかりだ。砂色の髪に、赤い瞳をしており、雪のように白い肌を持っている。額には、バンダナを巻いている。帽子を被り直すと、ダストンは言った。
「いんや〜、しかし、セイン。これだけ暑いと、おめぇは大変でねぇか? 日に焼けると、真っ赤に腫れ上がるんだがら、これでも巻いておくといいだよ。暑いが、仕方あんめいべ」
 と、首にかけていたボロ布のような手拭いを差し出した。
「ありがとうございます、ダストンさん」
 そう言って、少年が笑うと、まるで花のようだ。周りがぱっと明るく見える。少年の顔の造作はとても整っていた。こんな田舎の村には、不似合いなほど、上品で清楚で美しい。彼が実は没落貴族の子息だとか、亡国の王族だとか言われれば、信じてしまいそうな高貴な容貌である。だが、セインは村の木こりの息子だった。
「オヤジさんに、昼食届けに行くのかぁ?」
「ええ。そうなんです」
「そぉかぁ。んじゃぁ、おらが後で薪を届けて欲しいって言ってたって伝えてくんねぇかぁ?」
「はい、判りました。いつも本当にすみません。いつもと同じ量で良いですよね?」
「あぁ。悪いねぇ、いつも」
「いえ。これもうちの仕事ですから。ダストンさんはこれから撃ちに行くんですか?」
「そぉよ。大物撃って、干し肉作って、毛皮なめして町に売りに行って、冬に備えにゃぁならねぇだよ。セインとこもそうでねぇか?」
「はい。今、母さんが冬用の炭を、たくさん焼いています」
「炭は火持ちが良いからなぁ。やっぱ冬は炭でねぇといけねぇべ」
「そうですよね。それに、とても暖かいですし」
「んだな。ところで、セイン。先日、王様の使いとかいう兵隊連中が、近くの街道を、国境へ向けて歩いて行ったとかいう話は聞いてるだべか?」
「ああ。お隣の、シェイラに聞きました。なんだか、中にすごく偉い人が混じってたみたいで、立派な輿が見えたとか。僕もちょっと見たかったです。滅多に見られるものじゃないから」
「そうよ。滅多にこんな田舎ぁ来るもんじゃねぇ。それにな、おらぁ、ちっとおかしいと思ってるだべよ」
「え? どういう事ですか?」
「ん? いやな、普段、お偉ぇ人が、この近くを通りかかる時はな、先に、前触れがあって、絶対その周辺に近寄ってはならんという、領主サマのおふれが出るだ。けんどな? 先日の、一昨日のそれには、そういうものが全くなかっただ。こらぁ、何かイヤなことの前触れじゃねぇかと思って、おらぁ、心配でな」
「……イヤなこと?」
「戦争だべよ。……戦争が起こると、おら達みたいな、辺境の村が真っ先に巻き込まれて焼かれるんだべ。おらのじっさまが昔、くどいぐらいに言ってたべ。ローアンは東国のウィルナーツェにも、北国のションウェイアにも近いだで、百年ほど前に戦争になった時は、そらぁもう、えれぇことになったつぅ話だ。後な、セイン達がおら達の村に来た頃にゃあ、ションウェイアの軍勢が、この近くまで押し寄せて来てな。けんど、領主サマが、みな追っ払ってくれて、無事だったんだべ。その代わり、おら達みんなで、領主サマの軍勢を応援するため、食料や木材や、ありとあらゆる物を出したり、世話したりしなきゃなんねかったけどな、まぁ、命あっての物種だべ。おら達死にたかねぇから、必死だったべよ」
「そうなんですか」
「んだ。だから、ここへまた領主サマの軍勢や、王様の兵隊が来たら、世話ぁすんねっといかねぇだべよ。そうなると、普段村にあるものだけじゃ足んねぇ。ちっといつもより多めに稼いでおかねぇと、後々大変なことになるかもしんねぇだ。もし、何もなくたって、余分があれば少しは楽だべ。無駄にはなんねぇはずだ。冬も近いこったしな」
「有り難うございます、ダストンさん。とても良いことを教えていただきました」
「おらの方こそ、いつも世話になってるだでよ。まぁ、セインとこも気ぃつけろ。特にセインはキレイだからなぁ。王様の兵隊さんも、セインには迷っちまうかもしんねぇだ」
「え? 迷う?」
「オヤジさんに言えば判るだよ。以前時ぁ、孕まされた娘も大勢いたって」
「……え?」
「まぁ、そんだけだ。じゃあな、セイン」
「はい。お気を付けて、ダストンさん」
 どういう意味だろう、とセインは首を傾げる。傾げながら、父の元へと向かった。セインの父は、一心不乱に、大木に斧を振るっていた。
「父さん」
 声をかけると、父は振り返った。
「セインか。……昼食か?」
「そうだよ、父さん。できたてほやほやを届けに来たよ。今日の昼食は、キジときのこの鍋だよ」
「……冷めてるじゃないか」
「え? 本当? ごめん、立ち話していたから」
「別に構わないよ。有り難う、セイン。まだ一応暖かい」
「……ごめんね、父さん」
「それより、一緒に食べて行くんだろう?」
「うん。……あのね、さっき、ダストンさんに会ったよ」
「そうか」
「で、またいつものように、薪が欲しいって」
 持ってきた昼食を、器によそいながら、セインは言う。
「判った」
「でね、あと、一昨日、近くの街道を王様の兵隊さん達が通ったって噂だったでしょ? それで、ダストンさんが、もしかしたら、戦争が起こる前触れかもしれないって。それで、備蓄をしておいた方が良いかも知れないって忠告してくれたよ。あと、本当に戦争になったら、兵隊さん達の世話とかしなくちゃならないから大変だとか、以前の時は娘さんが孕ませられたとか、あと、兵隊さんが僕に迷ってしまうかもしれないって言われたんだけど、どういう意味かな?」
「…………」
 セインの父は息を呑んで、黙り込んだ。
「……父さん?」
 セインがきょとんとして声をかけると、父は慌てて口を開いた。
「……ああ、すまない、セイン。少し考え事をしていた。……その、セイン」
「なぁに? 父さん」
「もし、戦争になったり、王国の軍勢がここに逗留・駐留するようになったら、母さんと一緒にすぐ村を抜け出すんだ」
「どういうこと?」
「お前は男だ。父さんがいなくても、母さんを守れるだろう? だが、そうなったら、必ず母さんの言うことを良く聞くんだ。いいね?」
「母さんを守って逃げろっていう意味?」
「そうだ。……あと、外から来た人間には、お前の髪と目の色は珍しい。連中は、珍しいものを見ると、ろくなことを考えないからな。この村に、村人以外の人間が来たら、お前はその目と髪を隠さなくてはならない。肌も隠せるものなら隠した方が良いが、問題はその髪と目だ。髪は染め粉でどうにかなるとしても、目の色はどうしようもない。だから、なるべく俯いて相手の顔を見ないようにするんだ。良いね? セイン」
「……僕の目と髪って珍しいの?」
「ああ。おそらく、お前と同じ目と髪の色を持つ者は、この世に二人といないだろう」
「そんなに!?」
「ああ。それと、頭のバンダナは決して外してはいけない。それを見せても良いのは、私と母さん二人だけだ」
「……前から思ってたんだけど、どうしても誰にも見せちゃいけないの?」
「お前がその額にバンダナを巻くことは、この村に住むための、村長との約束の一つでもあるんだ。だから、それを外してしまったら、お前はこの村に住まわせて貰えなくなってしまう」
「……判ったよ、父さん。気を付ける。誰にも見せない。見せたりしないよ」
「判ってくれて有り難う、セイン。お前は良い子だ」
「僕はちっとも良い子じゃないよ。陽の光をあんまり浴びられないし、体力も筋力も足りないから、父さんの仕事の手伝いもあんまりできない」
「だが、こうやって父さんに食事を届けてくれるだろう?」
「……今日は冷めちゃったけどね」
「それは全く構わない。さて、そろそろ本格的に冷めてしまわない内に、食べるとするか」
「あ。そうか」
「では、森や山の恵みと、神様と母さんに感謝して、いただきます」
「森や山の恵みと、神様と母さんに感謝して」
 父の言葉に続けてセインは言う。
「いただきます」
 そして、親子は共に食事をし始めた。


 ラヌク王国王都、シェヴィラエヴァ南西、ノル・サンシェント離宮。

「シュレイ・ヴァルフじゃない?」
 ラールはエルミナードに問い返した。
「ええ。そのような動きはありませんし、それ以前にもなかったようです。せいぜいで、馬の餌に下剤を仕込んで、当日アルメ・イル殿下が乗るはずだった馬が体調を崩した他には。……しかし、その馬の蹄鉄は外されていました」
「何だと?」
「しかし、シュレイ・ヴァルフ殿下やその配下の手引きではありません。誰も、その現場を目撃していなのです。見回りの者も、全く気付かなかったそうです。そのため、アルメ・イル殿下は『これも神の采配だ』と笑ってらっしゃったとの事です」
「……兄上らしい物言いだ」
 ラールは下唇を噛みしめた。
「それで、予定とは違う馬に乗ったんだな?」
「そうです。先のことがありました故、良く吟味し、細工がされていないか確認した上、良き馬を選定しました。アルメ・イル殿下も納得して乗馬されました」
「……絶対に馬には細工はなかった?」
「ええ、その通りです。が、落馬の原因は、その馬が突然暴れ、その際にアルメ・イル殿下は落馬し、その後、その馬は骨を折るなどして死亡したそうです」
「それはおかしくないか?」
「ええ。しかし、原因は不明です。その馬は良く調教され、原因もなく急に暴れることなど有り得ません。アルメ・イル殿下が、手綱を誤る事と同じくらいです」
「……何か以上は無かったのか?」
「詳しいことは、まだ。ただ、私の副官が言うには、その馬の死には、毒が関係しているかもと。しかし、まだ確認は取れておりません」
「……毒?」
「王都北東地方の一部に、刺された人間が、正気を失い狂ってしまう毒を持った蛇がいるそうです」
「その蛇に噛まれると、死ぬのか?」
「即死はしません。しかし、ほんの少し噛まれただけでも、廃人と化すのだとか。とにかく、恐ろしい、危険な毒です」
「…………」
「周辺を捜索させておりますが、その蛇は見つかっておりません。しかし、近日中に、その蛇の仕業か否かは判明するでしょう」
「北東の領地と言えば、誰が治めている?」
「シルラーデ伯爵ですが、彼では無いでしょう」
「何故そう断言できる?」
「彼は、非常に真面目で善良で誠実な男です。決して、暗殺などという後ろ暗い事に手を染める人間ではありません」
「思い込みではないという保証は?」
「この私が証人であるというのでは、いけませんか?」
「駄目だな。犯人ではないと言うなら、もっと歴とした証拠を持って来い」
「承知いたしました」
「……ところで、エルミナード。お前は、シュレイ・ヴァルフではないとすれば、一体誰が黒幕だと思う?」
「現時点では何と申し上げる事もできません。ただ、これだけは済まないのではないかと危惧しております」
「他にも誰か狙われると? まさか、シュレイ・ヴァルフが?」
「……その通りです。また、ラール・ラルク殿下の身も」
「私が? まさか。私は妾腹の上、第四王子だぞ? こんな私に危害を加えようとする者などいまい。余計な心配だ」
「いえ。そうとは言い切れません。私は……大公または、隣国が関わっているのではと危惧しております」
「……大公、だと?」
 ラールの表情が強張った。大公と呼ばれるのは一人しかいない。現国王の弟、軍務大臣オーリエント大公である。
「本気で言っているのか? エルミナード」
「はい。僭越ながら」
 ラールは無言でエルミナードの顔を見つめた。エルミナードは揺らぎもせずに、その視線を受け止め、真っ直ぐにラールを見つめ返す。
「……いずれにせよ、確固たる証拠がない限り、どのような憶測も、現実にはなりえない。証拠を見せろ、エルミナード。詳細な話はそれからだ。いずれは父上──国王陛下シャーエ・ラル王に報告せねばならない。それから、確証の無いことを口にするのはやめろ、エルミナード」
「はい。……申し訳ございません、殿下」
「判ってくれれば良い。……それと」
「はい」
「他におかしな動きをしている者がいないか、調べてくれ。どうも、厭な予感がする」
「了解いたしました。では、私はこれで」
「ああ。……頼む」
 エルミナードを下がらせ、ラールは物思いに耽る。
(……何故なんだろうな、この、胸騒ぎは。とても、厭な予感がする。兄上が亡くなったと聞いてからだ。とてもものすごく、厭な予感がする)
「……殿下」
 幼い声が、窓の外から聞こえた。テラスへ出てみると、その脇の木の上に、乳母の息子で遊び友達のリクシャがいた。思わずラールは顔をほころばせる。その表情は年相応の子供である。リクシャはにこにこ笑っている。
「殿下。殿下のために、花を摘んでまいりました」
 その泥だらけの顔にラールは苦笑する。
「いつも言っているだろう、リクシャ。私を訪ねる時は、庭から来てはならないと」
「だって、手続きとか面倒臭いんですよ。そんなことしていたら、折角の花がしおれてしまいます」
「相変わらずだな、リクシャは。……まぁ、良い。丁度、難しい話も終わったところだ。一緒にお茶でも飲まないか? お前の好きな菓子を用意させよう」
「よろしいんですか? 殿下」
「勿論良いとも。だが、その姿では、女官達がうるさく騒ぎそうだな。顔を洗い、服を変える必要がある。ちょうど良い。いらなくなった服があるから、それを着ろ」
「……良いんですか? 殿下」
「身体が大きくなって、着られなくなったんだ。お前には着られるサイズだ。問題ない」
「では、お言葉に甘えます」
「花を有り難う、リクシャ。とても綺麗だ」
「それは良かったです。殿下に喜んで貰おうと思って、北の丘で摘んでまいりました」
「しかし、リクシャ。その格好は本当にひどいぞ? セラシアに見られたら、大目玉だ」
「えっ? そんなにひどいですか? 母様に怒られるのは恐いなぁ」
「そう思うのならば、少しは気を付けたらどうだ? リクシャ。まあ、野生児のお前に、言っても詮無きことだが」
「野生児は、言い過ぎですよ、殿下」
「では、お前のような者のことを何と呼ぶ?」
「活発で活動的と言ってください」
 ラールは苦笑した。
「お前がいると、本当に楽しいよ。それに、退屈しない」
「どういう意味です? 殿下」
「言葉通りの意味だよ」
 そう言って、ラールはリクシャに手を伸ばす。リクシャがラールの手を握り、木から下りようとした時だった。
「殿下!! 危ない!!」
 リクシャが叫び、掴んだ手を離して、木からテラスへ飛び降り、ラールを突き飛ばした。
「なっ……!?」
 驚き、目を見開いたラールはその瞬間を見た。見たこともない色鮮やかな蛇が、リクシャの足を噛み、リクシャの身体が崩れ落ちる。
「リッ……リクシャ!?」
 ラールの悲鳴で、控えの間にいたエルミナードが駆けつける。
「殿下、下がってください!!」
「でも、リクシャが!!」
 エルミナードは無言で腰の剣を抜き、リクシャの足に食らいついたままの蛇の胴体を一瞬で切り捨てた。リクシャは小刻みに身体を震わせ、青ざめた顔は、どこか呆然としたように、遠いところを見ている。更にエルミナードはリクシャの足を掴み、ナイフでその肉を切り裂き、蛇を引きはがすと、背後にいた副官にその蛇の頭を突き出した。
「シャムエイル!! 確認しろ!!」
「はい!!」
 エルミナードの副官シャムエイルは、その蛇を、持参していたとっくりのような形の細長い籠に入れ、走り去る。エルミナードはリクシャの足の傷より少し上を押さえながら、リクシャの鼻と口にもう一方の手をやった。
「……医者を」
 その言葉に、騒ぎに現れた女官の一人が、エルミナードの部下などと一緒に駈け出した。
「……エルミナード」
 ラールの視線が揺れた。その蒼白な顔を見つめながら、エルミナードは言った。
「呼吸困難に陥っています。あまり楽観はできません。それに、万一助かっても……元の状態には戻れないかもしれません。あの蛇はおそらく、私が先ほど報告した蛇と、同じ種類のものです」
 エルミナードの言葉に、ラールはぶるりと身を震わせた。
「……何故だ……?」
 ラールは呟いた。
「何故、私が狙われねばならない? 何故、リクシャがそんな目に遭わなくてはならないのだ!?」
「それは私におっしゃられても、お返えできません。ただ、判っていることは──この蛇は重要な『証拠』だということです。また、その毒も」
「……っ!?」
「聡明なあなたならば、お判りですね」
 ラールは人目も憚らずに号泣し、叫び声を上げた。


 ローアン村の東外れ、木こりのシュトルム家。

「……母さん、聞いた?」
 いつものように父に昼食を届け、帰ってきたセインは、母に言った。
「なぁに? セイン」
「なんかさ、領主サマの『お触れ』で、病弱な王様代理の王子さまが、このローアン村に来るんだって。それで、父さんが、僕に、髪を染めて、目を隠すためのフードを母さんに作ってもらえって言うんだ。頼んでも良いかな?」
「勿論よ。……もうちゃんと作ってあるわ」
「え? もう? 言う前に作ったの?」
「こんなこともあろうかと思ってね。いつでも使えるように春にも冬にも全ての季節に合わせて作ってあるわ」
「そうだったんだ。……でもさ、どうして、僕の髪と目は隠さないといけないの?」
「それはね、偉い人というのは、珍しいものとなると、人でも物でも都に持ち帰ろうとしてしまうの。セインはずっと、このローアン村で、父さんと母さんと三人で暮らしていたいでしょう?」
「うん」
「それに、あなたの額のバンダナの下にある『痣』は、とても珍しいものだから、人に見られると、怖がられるか、珍しがられるか、いずれにしても、あなたのためにならないの。だから、決して人に見られないように、バンダナは外さずに、フードは深く被って目立たないように振る舞うのよ。良いわね? セイン」
「判ったよ、母さん。……でも、そんなに珍しいものなの?」
「そうよ。……母さんにも、父さんにも、その痣はないでしょう? 他のローアン村の人々の額にも」
「そうだね。でも、冬で良かったよ。夏だったら、暑くて大変だからね」
「そうね、セイン。髪を黒く染めましょう」
「うん。母さん」
 セインは椅子に座り、母に染め粉で髪を染めて貰う。セインには、父母が一体何を心配しているのかは判らなかったが、彼らが真剣なので、これは大切なことなのだと信じていた。村人達も、セイン達親子に積極的に協力し、様々な情報を教えてくれる。例えば、領主の名前はシルラーデ伯爵。とても穏和で優しく誠実な領主であり、税金の取り立ても厳しくない。貧しい家には免除してくれる。領地は国全体からしてみればそれほど広くはないが、このローアン村はそのほんの一部で、おまけのようなものなので、田畑もほとんどないこの村の税率はとても低いのだということ。また、領主は、戦争などの際に、この村がひどい目に遭ったりした時は、後に食料を無料で配ってくれたり、一時的に税金を全てカットしてくれたりなどといった支援をしてくれたということ。王様の兵隊にろくな連中はいないが、領主の兵隊は、きちんと教育され、村人にひどいことはしないのだということ。村人達は、皆、領主を敬愛し、王の軍勢や隣国を忌み嫌っている。男も女もだ。
 ローアン村の人々は穏和で善良だ。しかし、その村人達でさえ、怒り、憎むような、そういう所業をするのが、王国の軍勢や、他の領地から来た者達なのだと言う。
「なんだか、恐いね」
「……そうね」
 セインの言葉に、母は頷いた。
「でも、父さんがいない時は、僕が母さんを守るからね」
「……ふふふ、ありがとう」
 本気にしていない顔と口調で、母は笑った。セインは唇をとがらせる。
「もう、本気にしてないでしょ、母さん」
「……それで、誰が来るんですって? 領主様の『お触れ』にはそのことが書いてあったの?」
「うん。なんでも、ラール・ラルク殿下といって、次に王様になる予定の王子様とその配下なんだって。僕より一つ年下らしいよ」
「まあ」
 母は一瞬絶句する。
「それにしてもすごいよね。僕より一つ年下なのに、王様の名代として隣国のウィルナーツェの王子様の結婚式に出席して、国の代表としてご挨拶するんだって。なんだかすごいよねぇ。ちっとも想像できないよ」
「……そう。……ラール・ラルク殿下が、次期国王がこの村へ来るの」
「ああ。でも、通過するだけだって。だから、村にはあまり関係ないらしいけど、その一行が通り過ぎるまでは、森や山へ入っちゃいけないんだってさ。まあ、冬だから、あんまり滅多に山や森へ行かなくて良いけど」
「……そうね。でも、気を付けなきゃ」
「うん。判ってるよ。それにしても、王子様ってどんな人だろう?」
「セイン。くれぐれも言っておきますけどね、絶対に行列を覗きに行ったりしちゃ駄目よ」
「え? 駄目なの?」
「駄目に決まっているでしょう? 目立つような真似はしてはいけないと言ったのに。とにかく、その日は一日中、家でじっとしていなさい」
「……どうしても駄目なの?」
「駄目よ。絶対に駄目。お母さんと一緒に、家にいなさい。父さんもそう言うわよ」
「……判ったよ、母さん。でも、どうして駄目なの?」
「王様の軍勢が恐ろしいように、王子様の軍勢も恐ろしいのよ。お前は、自分は勿論、父さんや母さんが恐ろしい目に遭うのは厭だと思うでしょう?」
「……うん」
「だから、気を付けなさい。良いわね?」
「……はい」


 シャーエ・ラル王の四人の王子は、ことごとく事故死や病死などで早逝し、残っているのは、第四王子のラール・ラルクだけとなっていた。そのため、ラールは皇太子として、正式に承認され、告知された。故に、最近ほとんど床から上がれなくなってしまった王の代理・名代としての執務を執り行うようになった。ラールはひどく疲れた顔をしていた。アルメ・イルや幼友達のリクシャの死から、まだ三ヶ月しか経っていなかったが、もう何年も経過してしまったような気がした。
「ラール殿下、暫くお休みを」
 エルミナードの声に、ラールはうるさげに顔を上げた。冷徹な表情で、エルミナードを見つめる。
「うるさい。自分の身体のことは、自分が一番良く判っている。構うな」
「……しかし……」
「出立する前に、決裁しておかねばならない事が山とある。無駄に話し掛けて、邪魔をするな」
 そう言って、書類に目を戻した。
「……申し訳ありません」
 エルミナードは謝った。が、立ち去らない。それに気付いて、ラールはもう一度顔を上げた。
「なんだ? もしや、シルラーデ伯のことで何か判ったのか? 無実である証拠でも、有罪である証拠でも。どうだ? エルミナード」
「……いえ」
「ならば、退がれ。今はお前に用は無い」
 ラールは冷たく言い放った。エルミナードは頭を垂れ、公務室を退出した。
(……ラール・ラルク殿下は変わられた。かつてはあのように冷たい表情をする方ではなかった)
 だが、エルミナードの心は密かに歓喜に震えていた。
(あの方ならば、おそらくこのラヌク王国を見事に素晴らしい手腕で治められるだろう。事実、半分くらいは、彼が治めているようなものだ。幼いけれど聡明な方だ。軍務大臣も国務大臣も、彼には強く出られない。だが、政の半分ほどは、あの者達が握っている。だが、ラール殿下はいずれは全てを掌握するだろう。……とすれば)
 エルミナードは思わず唇に笑みを浮かべた。
(私がリクシャや、シュレイ・ヴァルフ、ナーク・シュラン両殿下を密かに暗殺したのは、無駄ではなかったということだ)
 そのエルミナードにさえ、判らない事がある。それは、一番最初のアルメ・イル殿下の死だ。事故だったとは思えない。
(他にも私以外に、何か画策している者がいるはずだ)
 リクシャの死は、最初から予定したものではなかった。だが、リクシャが現れたことで、事の信憑性をより高めるためには、彼を利用するのが一番だと、エルミナードは考えた。リクシャは間違いなく、殿下を庇うはずだった。万が一に備えて、エルミナードとシャムエイルがいつでも飛び出せるよう身構えていた。
(それに、陛下の病状悪化にしても、何かおかしなところがある)
 だが、それらのことを、ラールに告げる気はなかった。
(私はあの方が王位に就くところを見られれば、本望だからな。他には何も、望まない)
 自身の栄達や栄誉でさえ、どうでも良かった。ラールの寵愛ですら。
(初めて会った時、その瞳に強烈に惹かれた。惹かれ続けている。あの方の太陽のような笑顔が見られなくなったのは非常に残念なことだが)
 彼の企みは副官のシャムエイルでさえ、知らない。いや、もしかすると、知っていても、何も言わないだけなのかも知れない。だが、エルミナードは誰も頼るつもりはなかったし、報われようとすら思っていなかった。
(誰の仕業にせよ、アルメ・イル殿下が亡くなったのは好機だった。彼が亡くならねば、このような事は恐ろしくてとても考えつかなかっただろう)
 誰にも許される必要など無い。敬愛し、この身の全てを捧げて良いと思う、ラールにさえも。
(ラール殿下は、素晴らしく有能で、高名な王になる。このラヌク王国を海の王国として、世界に名高い国家として繁栄させてくれるだろう)
 願わくば、その瞬間までは、傍に仕えたい、と思う。
(それが罪にまみれ穢れた俺にとっての、現在の、たった一つの、望み)
 無論、ラールが知れば、エルミナードを許さないだろう。それすらも知りながら、彼は笑った。

To be continued.
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