NOVEL

堂森食品(株) 営業二課 -8-

 タクシーに乗っている間、ずっと手を握られていた。それだけなのに、ひどく身体が熱くなる。
「……砂原」
「篠田さん……っ」
 エレベーターの中で抱きすくめられて、キスされる。
「んっ……ふっ……うっ……ん……っ!」
 呼吸困難に陥りそうなほど、激しく求められる。唇を吸い上げられ、口内をまさぐられ、執拗に攻められて、開いたままの口の端から、唾液が溢れ、滴り落ちる。目が潤み、生理的な涙がにじみ、溢れかけると、篠田さんは、一度唇を離して、舌の先でその雫を舐め取った。
「あ……んっ……!!」
「……砂原」
「篠田さん」
「……好きだ。お前がいて、お前と出会えて、本当に良かったと思う。俺は……」
「俺も、です。あなたが好き。大好き。……愛してます」
 顔が熱くなる。語尾が、掠れた。俺の言葉に、篠田さんは更に口づけた。
「砂原……砂原……っ!!」
「ぁっ……ふっ……篠田さ……んっ!!」
 チン、と音を立ててエレベーターが止まった。ドアが開く。篠田さんが俺の腰に手を回したまま、俺も篠田さんに寄り添い、手を、指を絡ませたままで、一緒に降りた。それから篠田さんの部屋へと向かう。その途中、通路に人影があるのが、見えた。
「……っ!?」
 篠田さんが、一瞬息を呑んだ。
 強烈に、嫌な予感。
「……根上!?」
 通路にうずくまるようにしゃがみ込んでいた、その人影は、篠田さんの声に呼応するように、立ち上がった。
「……博樹さん」
 カッと頬が熱くなった。……怒りで。
「ごめん、砂原。……先に部屋へ行っててくれないか?」
 そう言って、篠田さんは、俺に部屋の鍵を握らせた。
「そばにいちゃ、駄目ですか?」
 そう言うと、篠田さんは笑った。そして、返事の代わりに、俺の手を強く握った。
「根上、悪いけど、俺は今、彼と付き合ってるんだ。だから、お前とは付き合えない。お前とはもう終わったんだ。……お前は、時枝のことが好きなんだろう? はっきりと、俺に、そう断言したはずじゃないか」
「……本当に、他人の話をちっとも聞いてくれない人ですよね、博樹さんって」
 ぽつり、と根上という男は言った。幽霊みたいなやつだ、と思った。ゆらり、とその無表情な瞳の中で、何かが揺れる。ひょろりと痩せた、手足の長い男。髪は肩先まで伸びていて、櫛を入れている様子は無い。普段着っぽいTシャツに、ジーンズ、素足にスニーカーという出で立ちで、幽鬼のように立っている。何か、空恐ろしいような、薄ら寒いものを感じて、ごくりと息を呑んだ。
時枝一馬[ときえだかずま]が本当に欲しいのは、あなたですよ、博樹さん。あのひとは、そのためならば、何だってする。俺は騙されたんだ!! あのひとに騙された!! 俺が自分に自信がなくて、博樹さんに愛されているという自覚がなかったために、あのひとはそこへつけ込んで、良いように騙したんだ!! 博樹さんと別れなかったら、証拠写真を社内中にバラまくと言われて、俺はあなたに別れを告げる意外に方法が無かった!! 今も昔も、俺の心はあなたにしか無いんだ!! どうして、それを理解してくれないの!?」
「俺がお前と別れなかったら死ぬとか言って、ナイフで自分の首を突いたのは、どこの誰だ?」
 篠田さんは冷たい声で言った。
「神田川がお前を止めなかったら、お前は今、どうしていたと思うんだ?」
 篠田さんの声が、微かに揺れて、掠れた。
「俺が……どういう気持ちだったか、判るか? 根上。……俺は、あの時、絶望した。死にたいと思うほどに、お前に嫌われていたのかと思って──俺の方こそ、死ぬべきなのかと絶望した」
「…………」
 篠田さんが、泣いている。俺は、篠田さんの指をきゅっと握った。篠田さんは、俺の手を握り直し、しっかりと指を絡ませる。
「……あの後、お前を見舞いに、病室へ行った」
「…………」
 表情の読めない瞳で、根上は俺と篠田さんを見つめている。
「お前は、時枝と楽しそうに談笑していたぞ? 俺と一緒にいる時より、幸せそうだった」
「……だから……俺は騙されたんですよ、あのひとに。あのひとは、博樹さんのことが好きなんだ。博樹さんを手に入れるためなら、何だってする。俺のせいじゃない。俺のせいなんかじゃないんだ!! みんな、みんな、あのひとが悪いんだ!! 俺は……っ……俺はただっ……あなたのことがっ……好きだっただけで……っ!! なのにまた、繰り返す気ですか!? あのひとは、またやりますよ!! 同じことを繰り返す!! そこにいる、その男だって、俺と同じような目に遭いますよ!! 俺と同じように、あのひとに籠絡されて騙されて、それからズダボロにされるんだ!!」
「根上!!」
「……俺、あのひとの家で、あなたの写真を見ました」
 え……?
「根上!!」
 篠田さんは悲鳴のような声を上げた。
「あなたが、複数の男に、輪姦されて、喘いでる写真。ネガは見つかりませんでしたけど、ほら」
 根上が、ジーンズのポケットに手を突っ込んで、それを取り出そうとした瞬間、篠田さんは俺の手を振り解いて、根上へと掴みかかった。
「!?」
 ひらり、と舞い落ちた、その写真は。
 今よりも少し若い篠田さんが、半裸で、両手を後ろで縛られ、口に男のものをくわえ、背後から別の男に挿入されているものだった。
「…………っ!?」
 俺は声にならない悲鳴を上げた。それを見て、篠田さんが真っ青な顔になる。
「あはははっ……あっははははははっ……あーっはははははははっ……!!」
 根上の狂ったような笑い声が、響き渡った。

「……あの……篠田……さん」
 篠田さんは真っ青な顔のままだ。
「篠田さん、大丈夫……ですか? 俺、お茶でも入れましょうか?」
「…………」
 泣きそうな顔で、篠田さんが顔を上げた。
「……軽蔑、したか?」
 その言葉に、俺は首を振った。
「いいえ」
 すると、篠田さんは泣き笑いのように、顔を歪めた。
「あの写真は……新入社員研修の時だ。親しげに声をかけてきた時枝に、睡眠薬入りのビールを飲まされて、拘束された」
「…………」
 俺は、黙って篠田さんの手を握った。
「……六人、だった。内一人は、退職して転職したが、後の五人は、まだ社内にいる。時枝はその首謀者だ。たぶん……俺の他にも、そういう風にされたやつはいると思う」
「それって、犯罪ですよ?」
「……知ってる。でも、たぶんきっと……ほとんどのやつは、俺と同じように、泣き寝入りすると思う。実際、あいつが訴えられたことは、現時点では一度も無い」
「そんな……っ!!」
「それに、あいつのバックには、強力なコネと資金力、組織力があるんだ。それが一体何なのか、俺は知らないけど……あいつは、そういうことに慣れている。だから、たぶん根上が言ったことは本当なんだろう」
「……篠田さんは、それを、知っていた?」
「どうだろう……。知っていたけど、理解はしていなかったのかもな。理解したくなかったのかも知れない。そんなことが、俺以外にもあるなんて、信じたくなかったんだ。……時枝は、俺が嫌いなのだと言った。俺が、あいつが嫌いな男に似ているから、暴行するのだと。俺が、あいつにへつらい、服従すればやめてやるとも。……俺は拒否した。神田川が、たまたま都倉と一緒に、俺を探して見つけてくれなかったら、他に何をされていたか判らない。神田川や都倉にも、言われたよ。これは立派な犯罪行為だって。でも、俺は……提訴も被害届も出さなかった。代わりに、神田川と都倉に、口止めしたんだ」
「そんなっ……それじゃ……っ!!」
「でも、それ以来、注意するようになった。時枝が近付く相手に、それとなく忠告したり、二人きりでいるところにわざと声をかけたり。社外のことまではフォローできないが、社内に関しては、出来うる限り妨害したよ。あいつが、そのことで俺を逆恨みしている可能性は高い。たぶん、あいつは、俺だけじゃなくて、神田川や黒崎なんかも狙っていたと思う。でも、今では全く興味がないみたいだけどな」
「それ、神田川さんや黒崎さんは知ってるんですか?」
「黒崎は判らないが……たぶん、神田川は知ってると思うな。あいつ、意外と鋭いところあるから。たぶん、俺のことを知ってからは、あいつも時枝には注意するようになったから、俺がいない時は、代わりにフォローしてくれてたみたいだ。根上は……フォローできなかったみたいだけど」
「…………」
 どうして、警察に届け出ないのか、という質問は、たぶんデリカシーに欠けてるんだろう。篠田さんだって、本当は被害届をきちんと提出して、捜査してもらった方が良いってことは十分承知だろう。結局、問題なのは、『心』なんだ。
「……つらい?」
 俺は、尋ねた。驚いたように、篠田さんは俺を見た。
「……まだ、苦しい?」
 尋ねると、篠田さんは泣きそうな顔で笑った。
「大丈夫、砂原がいてくれるから」
 ……嘘つき。思ったけど、口には出さない。
「俺は、何があっても、篠田さんのこと、好きです。だから、心配しないで」
「……ありがとう、砂原」
 篠田さんは、壊れそうな笑顔で、柔らかく微笑んだ。
「お前を好きになって、良かった」
「……篠田さん」
「本当に、お前で良かった……」
「俺も、好きです」
 そう言って、自分から口づけた。篠田さんもそれに応える。
「手を握って、寝ても良いか? 今晩は、一人で眠りたくない」
「俺の手で良いなら」
 俺は笑って答えた。思うこと、考えることは、色々あるけど──とにかく、篠田さんを慰めたかった。彼の心を癒したかった。それが可能かどうかは、自信があるとは言えなかったけど。出来うる限りの全てを尽くしたいと思った。……好きだから。
「好きです」
 俺がそう言うと、篠田さんは、微笑んだ。

To be continued...
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