NOVEL

堂森食品(株) 営業二課 -9-

 人を、好きになるのは、幸せだけど、苦しい。……今まで、そんなふうに思ったことはなかったけれど。俺の隣りで、篠田さんはぐっすり熟睡している。子供みたいな寝顔だ。でも、俺は眠れない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。根上さんのこと、時枝さんのこと、それから篠田さんの過去・告白。
「……俺には判らないよ……」
 途方に暮れる。重たすぎて、大きすぎて、手に余る。……それでも、篠田さんを好きだという気持ちに、代わりはなくて。でも、正直きついと思う。俺以上にきついのは、たぶん篠田さんなのだけど。
 篠田さんの、根上さんの言った事が本当なのだとしたら、俺は時枝さんが許せない。どんな理由があろうと許されることじゃない。俺は、罪を犯して平気でいる人間がこの世にいるなんて、想像できない。したくもない。ましてやそんな人間が身近にいるだなんて、考えただけで吐き気がする。
「……せめて『好き』だって言うなら、まだ判りそうな気がするけど」
 それでも、好きな人を輪姦しようとする男の気持ちなんて判らない。セックスは嫌いじゃない。気持ちが良いと思う。でも、嫌がる相手に無理強いしてまでやろうとは思わない。俺が小心者だからなのかもしれないけど。レイプもののAVで興奮したことなど一度もないと言ったら嘘になるけど、それを現実にしようと思ったことは一度もない。そんなことは犯罪だし、それ以上に、俺は人を傷付けたいとは思わないからだ。
 愛情によって、それをしようとは思わない。でも、憎悪によって、それをしようとも思わない。俺は時枝さんの考えていることが、ちっとも判らなかった。彼はいったい何がしたいんだろう。
 判らないけど、篠田さんを救いたいという気持ちはある。何をどうしたら良いのかは見当もつかないけど。時枝さんの考えも判らないけど、根上さんの考えも全く判らない。あまり気分の良いことではなさそうだけど、俺は根上さんと話してみたいと思った。俺は彼に聞いてみたいことがある。何故、篠田さんと別れたいと言ったのに、またよりを戻したいなんて言うのか、とか。実際、彼と篠田さんと時枝さんの間に、何があったのか、とか。
  悶々として、眠れない。暗闇の中にうっすらと光る目覚まし時計の文字盤を見つめながら、長い夜になりそうだなと思った。

 今日は土曜日。仕事は一応休みだ。
「悪い、砂原。まだ仕事が残ってて、休日出勤しなきゃならないんだ。たぶん帰りは夕方以降になる」
「……仕事、ですか」
「ああ。本当にすまない。夕食は一緒にしよう」
 本当に仕事なのかとは聞けなかった。
「はい」
「目が赤いな。……大丈夫か?」
「大丈夫です」
 篠田さんこそ、どうなんですか……とは、聞けなかった。俺より寝ているはずの彼は、どこか気怠げな、微かな疲労が見て取れたから。じっと見つめると、篠田さんは微笑した。
「……俺は……身勝手だよな。すまない、砂原」
「平気です。気にしないでください。俺、篠田さんが帰って来るまで留守番して待ってますから」
「俺の家にいても暇だろう? こんなところで待たなくて良い。待ち合わせしよう。砂原が良ければの話だが」
「待ち合わせ、ですか?」
「駅前で五時半に。平気か?」
「はい。判りました」
「じゃあ、一緒に出よう」
 篠田さんはにっこり笑った。くるりと背を向ける篠田さんの腕を、思わず掴んだ。
「え?」
 驚いたように、篠田さんは俺を振り返った。
「……キス、してください。今朝はまだ、してませんから」
「……砂原?」
 探るような目で、篠田さんが俺を見つめ、けれど俺と目が合った途端、視線はそらされた。
「駄目、ですか?」
 そう言うと、篠田さんは屈み込み、俺の顎をすくい上げると、どこかぎこちない、唇を触れ合わせるだけのキスをした。……視線は合わせないままで。
「……どうして?」
 俺は思わず、詰問していた。
「どうして、今朝は俺のこと、ちゃんと見てくれないんですか?」
 キスも。唇を濡らすことなく離れていった柔らかな感触を思いながら、自分の唇をそっと指でなぞる。
「俺のことが嫌いになったんですか?」
 そう言うと、篠田さんは、はっと顔を強張らせた。
「違う! ただ、砂原が……昨夜、俺のせいで泣いたんじゃないかと……」
「泣いてません。泣いたりしません。……そりゃ、寝不足だから目は充血してますけど」
「それは俺のせいだろう? 俺が……」
「篠田さんのせいじゃありません! そんなふうに思わないでください。俺は、ただ、篠田さんが好きなだけなんです。だから、俺から目をそらしたり、隠したり、誤魔化したりしないでください。キスだって……義理や義務なんかでしたりしないでください。気の入ってないおざなりのキスなんかされるくらいなら、拒否された方がマシだ。俺が嫌いになったなら、付き合う気がなくなったのなら、そう言ってくれれば良いんだ。でも、だからと言って俺はそう簡単に引き下がったりしませんよ。納得の行く理由を言ってくれない限りは」
「嫌いになんてなるわけがない。むしろ嫌われるのは俺の方で……」
「俺はあなたを好きだと言ってるんだよ、篠田さん。俺の言葉が信じられないの? 俺が聞いているのはあなたの気持ちで……なのに、あなたは答えてはくれないの? 篠田さん」
「……砂原」
 篠田さんは、どこか小動物めいた、気弱で臆病な目つきで、俺を見た。
「……俺は、お前のことが、好きだ」
 絞り出すような、声音で。
「……でも、正直、恐いんだ。また、失うんじゃないかと思って」
「俺が信じられないんですか? 俺のことを信じてくれないの?」
「そうじゃない! そうじゃなくて……信じられないのは、自分自身の方だ。俺は、本当は、お前に好きになってもらえる資格なんかないんじゃないかと……俺は自分に自信がないから……早くお前を手に入れないと、時枝に奪われてしまうのではないかと恐れて……でも……」
「篠田さん」
 俺は篠田さんの言葉を遮るように言った。
「俺の、目をみてください」
「……砂原……」
 呆然としたような、疲れた表情で、視点の定まらない目で、篠田さんは俺を見る。俺はその両頬を包むように両手で触れ、撫で上げながら、言う。
「時枝さんのことなんて、俺は正直どうだって良いんだ。もちろんあの人があなたにしたことは許せないし、腹が立つ。でも、俺があの人になびくなんてことは絶対にない。だから、あなたはその点においては、俺を信用しなくちゃ駄目だ。あなたが、時枝さんを恐いと思うなら、俺があなたの盾になる。俺は、あなたを守る盾になり、あなたが飛翔するための翼になりたいんだ。そりゃ俺じゃ頼りにならないかもしれないけど、その時は営二の先輩方にも協力してもらって、なんとしてでもあなたを守ってみせるから。俺の心は、あなたのものだよ、篠田さん。だから、安心して俺を見て。俺を好きだと言うなら、俺だけを愛して。俺はあなたが傍にいれば、何も恐くない。あなたさえいてくれたら、恐くないんだ。だから、あなたにもそうあって欲しいと思うんだけど、これって贅沢? 無理なこと言ってるかな、篠田さん」
「……砂原」
 篠田さんは溜息をつくように呟いた。
「頼むから俺から目をそらさないで。嫌われたなら、仕方ないけど、俺が好きなら、絶対に目をそらさないで。俺を見つめてよ、篠田さん」
「……そう、だな。……すまない、砂原」
「謝らないで。俺は、わがまま言ってるだけなんだから」
 篠田さんは微かに笑った。
「お前が、そばにいてくれて、本当に良かった」
 そう言って、抱きしめられる。強く優しい腕に、俺は安堵する。視線が絡み合って、どちらからともなく、唇を合わせた。そうして、互いに互いを貪り合う。何度も、何度も深く口づけ、舌を絡ませ、唇を吸い、撫で上げる。身体の奥が熱を持つ。
「篠田さん……」
 唇を離し、篠田さんは濡れた瞳で、真剣な表情で、真っ直ぐ俺を見て、静かに言った。
「……砂原、俺は、根上と話をしに行って来る。根上はたぶん……時枝と一緒に暮らしている」
「……え……?」
「一人でいくつもりだった」
「篠田さん!?」
「……でも、気が変わった。お前も……来るか?」
 その言葉に、頷いた。
「俺も行きます、篠田さん。頼りにはならないかもしれないけど、ずっと傍にいます。あなたの助けになりたいんです。あなたを、好きだから」
 そう言ったら、篠田さんは、極上の笑顔を浮かべて微笑んだ。
「俺も、お前のことが、好きだ。愛してる」
 そう言って篠田さんは、右手を差し出した。その差し出された手の平の上に、右手を乗せ、下から左手で触れ、ぎゅっと握りしめた。それから、篠田さんの腕に自分の腕を絡め、こつんと肩に頭をすり寄せた。
「……俺、頼りにならないかもしれませんけど、何があろうと、あなたの傍にいます。だから、傍にいさせてください」
 俺の言葉に、篠田さんは頷いた。
「ありがとう、砂原」
 感謝なんかされたいわけじゃない。俺がそうしたいだけ。俺のわがまま。俺は自信がなくて、恐いんだ。でも、逃げる気は毛頭ない。本当は、自信を持って、あなたを救ってみせると宣言したいけど、それは無理。まだ力不足。それでも、俺があなたの救いに、あるいは助けになれるのなら。俺に何ができるのか判らないけど、傍にいたい。たぶん、自己満足。迷惑なのかもしれない。それでも、篠田さんが俺に笑いかけてくれる内は、まだ手遅れじゃない筈だから。そうだと信じていたいから。だから繋いだ手は離さない。振り解かれるまでは、握ったままでいようと決心した。

To be continued...
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