NOVEL

堂森食品(株)営業二課 -5-

 営業二課は気まずい雰囲気に包まれていた。篠田さんはひどく無口で苛々している。神田川が時折ちらちらと俺や篠田さんを見る。他にもそうする連中もいれば、我関せずとばかりに気付かないフリをする連中もいる。何より、篠田さんのぴりぴりした空気が、一番痛くて恐かった。……『根上』って一体誰? どういう人? どういう関係? 聞きたいけど、とても聞けない。俺は神田川を見た。神田川は溜息をつき、席を立った。そのまま外へ出て行く。俺は少し間を置いて立ち上がり、同じく外へ出た。篠田さんが何か言いたげな顔で俺を見ていた。ドアを閉める。
「……言いたい事、聞きたい事は判ってる」
 ぽつり、と神田川は言った。俺は無言で見た。
「……場所を変えよう」
 ビルの屋上へ行った。神田川は手摺りに寄り掛かってぐっと背を反らして空を仰いだ。白い顎が見えた。
「……俺はてっきり終わってるんだと思ってたんだ」
 ぽつりと言った。
「……ま、そりゃ俺は考え無しだけどさ」
 自嘲の笑みのような苦笑い、浮かべて。
「……神田川さん……」
「根上が『ここ』を辞めたのはほぼ一年前だ。俺達の一個下で、営業二課にいた」
「…………」
「……詳しい事良く知ってる訳じゃない。判ってるのは、根上が篠田と時枝の取り合いになって、時枝が篠田から根上を奪った。そういう形になったんだと思ってた。まあ、間に根上の自殺未遂事件とかあったけどな。俺はたまたまその現場に居合わせて、それを知った。……根上は真面目で、一途な質だった。思い詰めたら、何をするか判らないような。寡黙な男で、俺には最後まで理解出来なかった。何考えてるんだか、俺にはとても表情は読めなかった。まあ事故って事で処理をして、暫く根上は入院して、退院する前に退職願を出してきた。その後、時枝と付き合い始めた。……ように俺には見えた。……実際どうなんだかさっぱりだがな」
「…………」
「……篠田は根上に怒っていた。何があったかは知らないが、根上に今は愛情はない、それだけは確かに本当なんだろう。だからその点については信じて良い。……そういう点では篠田は嘘はつかない。……篠田は基本的に嘘はつかない。ただ、黙っていたり人の勘違いをそのまま放置するような処はあるけどな」
「……根上さんって……」
 声が、震えた。
「……恋人、だったんですか?」
 神田川さんは苦笑いした。
「……たぶん、な。俺は詳しく知らない。そうだと思う。だが、過去の事だ。今はどう見てもお前に惚れてる。間違い無い」
「根上さんて人、どうして篠田さんに電話なんか掛けて来るんですか!? もう終わった事なら、必要ないでしょう!?」
「……その辺りの事は、俺にも良く判らない。知ってるのは、根上と篠田と時枝だけだ。……時枝は……研修時代からどういう訳か、篠田を敵視してるんだよな。篠田は最初はどうでも良いと放っておいたみたいだけど、あの辺りから態度は急変したな。二人が廊下ですれ違った時なんか、誰にも声掛けられない感じで」
「…………」
「あんまり役に立てなくて悪いな、砂原」
 苦い笑みを浮かべて神田川さんは、本当に申し訳なさそうに言った。
「……いえ……」
 釈然としないものはあるけど、知りたい事の一部は知った。何も知らないよりは良い。
「……時枝に、気を付けろよ? あいつ、何をするか判らない結構恐いところがあるから。他にはそれ程でも無いけど……こと、篠田周辺の事に関しては」
「……はい」
 俺は頷いた。
「……何かあったら、相談しろよ。篠田は……あいつ、ああいう奴だからさ。出来る事なら力になる。……俺も中途半端に足突っ込んだクチだからさ、気になってんだよ。偽善かも知れないけど……皆に幸せになって欲しいって思ってるし。根上が傷付いてたのも、時枝が不安と焦燥に駆られてたのも、篠田が滅茶苦茶ヤケになって絶望してたのも全部知ってるから。丸く収まって欲しいんだよ。それに砂原、お前って良い奴だろ?」
 その瞬間、自分が物凄く恥ずかしい人間のように思った。思わずカッと血の気が昇る。神田川さんは優しく笑った。
「俺、応援してるから。あの頑固な殿様、しっかり面倒みてやってくれ。愚痴は幾らでも聞くから。あ、でもノロケはパスな。都倉にでもしてやってくれ」
「え? 都倉さんにですか?」
 きょとん、として聞くと、神田川さんはバツの悪そうな顔になった。
「あ、まあそれはまあ話半分で良いから」
「……はい?」
「……砂原、お前って人疑うって事知らないだろ?」
「えっ!? 何言ってるんですか!?」
「……天然? うわ、ちょっとヤバイかな。……俺も気を付けといてやるけど、最低限の自己防衛くらいはちゃんとしろよ? その気になれば、時枝ってとんでもなく非人道的な手段取るから」
「あ、はい。有り難うございます」
「……お前、可愛い奴だな……」
「ええっ!?」
 驚いた。て言うかどうしてそんな!!
 よしよし、と頭撫でられた。
「あの……神田川さん……」
「ま、困った事あったら言え。金貸すのと借金の保証人は断るけど、大抵の事は力になってやるから」
「……は……あ……」
 俺は返答に困った。……『可愛い』って……あまり嬉しくないような……。て言うか俺、子供扱いされてる?
「……何だろうな……すげぇ俺、厭な予感するんだよな。……何かあったら相談乗るから。篠田はさ、物凄く融通利かなくて頑固だから。思い込んだら梃子でも動かないし。……色々面倒な奴だよ。俺からしちゃ、そこまで頑なになる事無いだろって気もするし。あいつは要は真面目で真摯過ぎるんだよな。考えすぎるんだ。見ていてハラハラする。……正直、お前に同情してるよ。あいつ、悪気は無いんだけどな……」
 俺の知らない篠田さん。それを知ってる神田川さんに嫉妬みたいなもの感じるのって、きっと俺が狭量なだけなんだろう。判ってる。俺は本当了見が狭い。
「……有り難うございます」
 俺と篠田さんを本気で心配してくれてるってのは、たぶん間違いないから。神田川さんは苦笑した。
「……本当、お前、良い奴だよな。篠田やめて俺に乗り換えない?」
「冗談やめて下さいよ」
「……ワリっ。ま、社交辞令って事で」
「……質悪いですよ?」
「一応均等に全員に言って置かないとね」
 俺は眉根を寄せた。
「……本命いないんですか?」
 すると苦笑した。
「……まあソレは言いっこ無し。俺にも辛い事があるんだよ」
 ……もしや片想いでもしてるんだろうか?不意にそう思った。神田川さんはにやりと唇を歪めた。
「さ、篠田がいらん嫉妬や詮索抱く前に、さっさと戻ろうぜ」
 俺達は別々に二課へ戻った。篠田さんの目が、俺を見ていた。
「……砂原」
「……はい」
 篠田さんの目を、真っ直ぐに見上げた。篠田さんは眩しそうに目をそっと伏せた。
「……神田川が何を言ったか知らないが、あんまり深く考えるな。砂原」
 篠田さんは、先程よりは大分和らいだ表情で、そう言った。
「……大丈夫です。俺、篠田さんを信じてますから。……それに、神田川さんは篠田さんの悪口言ったんじゃありませんから」
「……砂原」
「……そうだぞ、篠田。俺がお前の悪口しか言わないと思ったら大きな間違いだ」
「お前が言うな、神田川。口を開けばろくな事言わない癖に」
「ヤだなぁ、考え過ぎって奴だろ? どうしてそう、被害者妄想激しいかね」
「……具体的に例を挙げてみせようか? 俺がそう言うだけの論拠を」
「いや、いい。いいです。遠慮しときます」
「……十二分に心当たりある癖に」
 苦笑いをする篠田さんに、神田川さんは無言でにやりと笑った。
「俺、大丈夫です」
 きっぱりと言った。
「……大丈夫ですから」
 そうして、机の影で、そっと篠田さんの両手を握り締めた。篠田さんは柔らかく微笑んだ。
「……すまない」
「……どうして謝るんですか? 俺、何もされてませんよ」
 言うと、篠田さんは苦笑した。
「……悪い。……謝りたかったのは、俺の勝手」
 困ったように笑って。
「……砂原、お茶を入れてくれないか?」
「はい!」
 そう言って、俺は席を立った。篠田さんの為に何かするのは、それが例えばお茶を入れるとか珈琲を入れるって、単純な事でも何だか嬉しかった。……だけど、もう少し俺の事信用して、頼ったりしてくれないかな? ──なんて思うのは、俺の身勝手だろうか?
 給湯室のドアを開けた。
「……ああ、砂原君」
 どきり、とした。
 そこに穏やかな笑顔で立っていたのは時枝さん。
「こ……こんにちは」
 気を付けろ、と脅されたばかりだ。何をどう気を付ければ良いのか判らないけど、とにかく気を付けよう。……でも、動揺が外に出たかも知れない。……表面上は時枝さんは何も変わらない。
「……調子はどう?」
 普通の口調で親しげに明るく爽やかに声掛けてくる。
「……あ、はい……順調です」
「……あ、お茶?」
 お茶の缶に手を伸ばした俺に、そう言う。
「……はぁ……まあ……」
「そう。丁度良かった。さっき足しておいたところなんだ。本当は庶務課の仕事なんだけど、今急に入院したり、親戚が亡くなったとかで忌引きの人間が出てね。人事課もヘルプに回ってるんだ」
「……大変なんですね」
 そう言いながら、缶の蓋を開けた。
「ねぇ?」
 不意に、背後から時枝さんの指が俺の髪に触れた。息が凍るかと思った。思わず手元が止まる。時枝さんは全く気に留めずに俺の髪を弄ぶ。
「……あの……っ!!」
 俺は、お茶の缶を両手に持ったまま、硬直して動けない。時枝さんは右手で俺の髪を指に絡めてくいと後ろへ引いた。とん、と時枝さんの胸に背中が触れた。
「なっ……何を……っ!!」
 動揺した。お茶の缶が転がり落ち、床に零れた。
「何するんですかっ!!」
 先輩だ、という事も忘れて、その手を振り払い、飛びすさった。背後は流し台だ。入り口は時枝さんが塞いでる。
「……どうしてこんなっ……!!」
「……何を脅えてるんだい?」
 穏やかに、時枝さんは笑った。その笑みに、俺は思わず寒気がした。口は、笑ってるのに目が笑ってない。
「……篠田に何か言われた?」
「篠田さんは関係無い!! どうしてこんなっ……何考えてるんですかっ!!」
「……そんなに脅えられると、嗜虐心が煽られるなぁ」
 時枝さんはにっこり笑った。俺は全身の毛が総毛立った。
「なっ……何ですって!?」
 思わず反射的に後ろへ下がろうとして、踵が流し台の下の扉にぶつかった。……そう。逃げ場は無い。……唯一のドアは時枝さんの背後で……。
 時枝さんが一歩、前に進んだ。
 慌てて俺は、手に触れる物が無いか、背後を探す。目線は離せない。一瞬でも目を離したら、何か物凄い事されるような気がして、俺は完璧に脅えていた。必死に背後を探す。手探りで。恐怖感だけが膨らんで、足は硬直し、心臓は跳ね上がるように脈打つ。頭の血の気が引いて、くらくらする。……恐い。……この人、何だかひどく恐い。殺されそうなくらい恐い。
 やっと何か掴んだ。鉄の、塊。
「……そんなに脅える事無いだろう? ……ねぇ、砂原君」
 両手で掴み、思い切り振り上げた。
 時枝さんの表情が変わる。俺は思いきりそれを叩き付けた。酷い音がして、時枝さんの顔が、床へと打ち付けられる。俺は慌てて給湯室を飛び出した。
「大丈夫か!? 砂原!! 今、凄い音が……っ!!」
 二課から飛び出してきたのは、篠田さんで。俺はそのまま篠田さんの胸に飛び込んだ。
「篠田さんっ!!」
「なっ……砂原……っ!?」
 恐かった。物凄く恐かった。殺されそうなくらい恐かった。ぶるぶると震えて、必死に篠田さんにしがみついた。恐くて恐くて、足が上手く立たない。篠田さんはそんな俺をしっかりと抱きしめてくれた。
「……大丈夫。……もう、大丈夫だから……砂原……」
 子供を宥めるみたいな甘い声で、耳元で囁かれて。俺は涙流しながら、子供のようにしがみついて泣いた。本当恐かった。どうにかされるかと思った。……何をするつもりだったかなんて、考えたくもない。篠田さんの暖かさに、その胸の広さに、確かさに、俺はひどく安心して、ぎゅっとしがみついたまま、離れられなかった。
 給湯室のドアが開く音がした。俺はびくりとした。中から出てきた時枝さんの姿を見て、篠田さんが俺を背中に庇うように前に出た。
「……何をした」
 時枝さんの額には血が流れていた。
「……別に? 少し、からかっただけさ。……随分乱暴なんだな、今年の新入社員」
「お前が何かしたんだろう!!」
「……随分だな? ……されたのは俺の方だ」
「嘘つけ!! 砂原は何もされないのにそんな事しない!!」
「……被害者はこっちの方だってのにね」
「ふざけるな!! お前はどうしてそう……っ!!」
 時枝さんは冷笑した。
「……そっちこそ何故そんなに俺を目の敵にする?」
「してるのはそっちだろうが!! 自分の所業棚に上げて、良くもまあそんな事言えるな!! 時枝!!」
 時枝さんは止まらない額の血に、顔をしかめた。
「……まあ、今は病院にでも行くさ。……ただで済むとは思わないよな? ……立派な傷害だ。これは」
「砂原はこんなに脅えてるんだぞ!! お前が何かやったに決まってるだろうが!!」
「……そうやって目の前にあるものを、盲信する癖は直ってないみたいだな? ……またいつぞやみたいに裏切られて、絶望する羽目になるかも知れないのに?」
「……貴様っ……!!」
 時枝さんは面倒臭そうに、額の血を手の平で拭った。
「……今はお前とお喋りしてる暇は無い」
 そう言い捨てると、くるりと背を向け歩き去った。俺はその背中が見えなくなるまで、脅えながら見送った。
 篠田さんが優しい笑顔で俺を見た。
「……砂原……悪かったな」
 俺は首を横に振った。篠田さんは俺の目線にまで降りて、そっと抱きしめる。頬に右手で触れ、柔らかく笑った。
「……ごめんな?」
「……し……篠田さんのせいじゃ……」
「……いや、俺が悪かったんだ。すまん。砂原……」
 そう言って、ゆっくりと顔が近付いて来た。俺は目を閉じた。唇に、篠田さんの唇が重なった。チュッと音を立てて、すぐに離れた。篠田さんの背中越しに『マズイものを見た』という顔の神田川さんがいた。彼は音を立てぬようにそっと、二課のドアを閉めようとした。
「……神田川」
「うわっ!! 何で判るんだよ!! 化けモンか!? 篠田!!」
 篠田さんは大きく溜息をついて、振り返った。
「……お前の足音はな、二課で一番大きいんだ」
 神田川さんは目を丸くした。
「……あ……足音?」
「そのどたどたいうのな、絶対今の靴がサイズに合ってない所為だと思うんだが、どうだ?」
「……え……いやでも俺、二十六しか履いた事ないし……」
「違うメーカーなら違うサイズが履ける事もある。……今度、試してみろ」
「……ん、ああ……悪ぃ」
 バツの悪そうな顔で、それでも笑って神田川さんが言った。
「……それとな、神田川」
「へ?」
「……今度『出刃亀』したら、殺す」
 にっこり笑って言った篠田さんに、神田川さんは一瞬硬直した。俺もちょっと硬直した。
 ……篠田さん、俺……あなたの事、凄く好きですけど……あの……いつもそんなんですか……ねぇ?
 篠田さんは硬直している神田川さんを無視して、にっこり笑ってこちらを向いた。
「さ、戻ろうか。砂原」
 ……俺は今更ながら思った。……もしかして、二課にはまともな人がいないんじゃないだろうか?
 冷や汗が背筋を滴り落ちた。

To be continued...
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